阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第34号
板野町の小祠

民族班 関真由子

はじめに
 この板野町でも数多くの山神社・野神社が人々の信仰の対象になっていたものと思われるが、現在はその殆どが氏神さんに合祀されているというのが実情である。板野町史にも「明治42年7月訓令第14号により各村の野神社山神社を合併した」とあり、例えば岡上神社では大正4年に楠本の山神社を合併、大宮神社では大正3年に野神社の他、各小字毎に祠(まつ)っていた七社の山神社を合祀した、と記されている。このように明治・大正にかけて小祠の合祀が大掛かりになされていった。
 以下に記述するのは、そのような中で祠(ほこら)が現存しているものや比較的伝承が残っている小祠について、板野町の方々から聞き取り調査を行ったものである。当初は山神社・野神社を中心に話を聞く予定であったものの現在は殆ど合祀され、祭日なども氏神さんと同じになっており、伝承なども希薄に成っているため、小祠として人々の信仰の対象になっているものも加えることにした。


1.山の神さん
 昭和初期頃迄は、薪を採りに山に入ることが多かった。冬ともなると必ずと云ってもよい程、柴を刈りに出掛けて行った。山仕事をする人々は、道すがら、山の神の祠に手を合わせ、山仕事の無事と安全を祈っていた。
 板野町でも山麓周辺、或いは大坂峠に至る山の入口、尾根の上などに、かなりの数の山の神の祠があったようである。
(1)川端地区
 集落単位で祀っていたようで、現在二ケ所に祠が残っている。
a 猿ケ谷の山の神さん
 川端駅から北に向って細い山道を登ること約2km、猿ケ谷に入る。この道もかつては多くの人々が柴を刈りに往復した道である。
 この道の右側に祠がある。台座高さ1.5mコンクリート製の祠約0.7m。(写真1)戦前迄は木造であったとのこと。祠は南向き。この奥の山の持ち主によって祀られている。

 写真1 板野町川端猿ヶ谷山の神さん
b トガワ谷の山の神さん
 猿ケ谷よりやや西、更に約2km程山深く入る。砂防ダムの近く、山道よりやや下方に、祠跡がある。現在は林に囲まれ、見つけ出すのが一苦労である。かつては大きな木造の祠があったそうだが、今はない。しかし、一間四方の石積みが残っており、既往が偲(しの)ばれる。
 以上の祠に案内をして頂いた、川端の園藤計雄氏(大正7年生)の話によると、大正末期頃迄は1月4日のヤマノクチアケの日、鏡餅、お神酒、山の幸、海の幸を供え、浪花節語りを呼んだりして楽しんでいたようだったとのこと。その頃は数十人の人々が集まっていたようだとのことであるが、今はもう行われなくなって久しい。
(2)吹田地区
 やはり、昭和初期頃迄は薪を採りに山に入ることが多く、馬を曳(ひ)いて20〜30kmもの山奥まで入って行ったとのこと。当時は、下草にいたるまで全部刈り取っていた。奥郷では、奥宮神社北東の裏に祠(南向きの木造)があり、40〜50年前頃迄は、山の神講が行われていた。この地で生まれ育った、藤井勝三郎氏(大正4年3月10日生)の話によると、旧の1月4日のヤマノクチアケの日、20〜30戸の人々が寄り、鏡餅・海の幸・山の幸を供え、軽く薪を刈ったあと、お参りをした。
 この日は当番が自宅で夕食の準備をし、ばらずしとお酒をいただきながら、皆で歓談をしていたとのこと。当番は毎年かわり、餅を準備したり、食事の世話、古くなった祠の新調の世話などをする。
 これらの行事も途絶えて久しい為、記憶している人も少なくなってきているようだ。この祠は現在奥宮神社に合祀されている。また奥郷の西山の頂上(高さ約50m)にも、かなりの広さをもった山の神のお社があったとのことであるが、現在は道路が出来るなどして山が削られ、奥宮神社に合祀されている。
(3)東大寺地区
 亀山神社下原宮司さんの話によると、東大寺では、昭和15年頃迄は、テシマ石の祠があり、山の神講が行われていたとのこと。1月7日頃に山持ちの人ばかりが数人寄り、神職さんに御祓をしてもらった後、当番の家で、お神酒、煮しめ、などで会食をしていた。
(4)大坂地区
 大宮神社(西谷)の明治38年の神社明細帳によると、旧大坂村に4ケ所の山神社があったことが記されている。


 下原宮司さんの話によると、伝承として、ハツのハツカ(1月20日)ハテのハツカ(12月20日)は山に入るとケガをするので、山に行かれんと言われていた、とのこと。勿論今はその話を知る人も少なくなっている。
(5)那東地区
 那東に住む近藤滋樹氏所有、文化十年(1815年)作成という地図によると、山の入口に一ケ所、山の神の祠があったことが記されている。(この地図は、那東、松谷地区のものしか残されていない。)恐らく、現在青木神社に合祀されているのがそれと思われる。(写真2)

 写真2 那東 青木神社にある境内にある山の神さん
 また、加須谷村(現松谷)里谷村(現黒谷)には山の入口に五ケ所、山のかなり奥に一ケ所、合計六ケ所の山の神の祠が記されている。
 現在は合祀された形で、松谷には旧村社としての山神社がある。例祭は10月22日、黒谷にも旧無格社としての山神社があり、松谷と同じく祭神は大山祇命でである。特に山の神さんとしての特徴はみられない。
 かつてのお祭りの仕方や、講・伝承については詳らかではない。ただ近藤氏の記憶の中では、昔は正月の餅を搗く時に、山の神さんの餅をとっていたものだった、という。
 山仕事が減り、山との関わりが希薄になるにつれ、山の神さんに対する信仰もまた、希薄になっていたようである。
 何れにしても、数多くの山の神さんが氏神さんに合祀され、祭日もお供えするものも氏神さんと同じになり、他の地方に残されているような、山の神としての厳しい一面も聞かれなくなってしまっている。


2.野神さん
 文化十年の地図によると、旧那東村では三ケ所の埜神社が記録されている。近藤滋樹氏の話によると、西・中・東・北・南の筋(一筋が50戸前後)ごとにお祭りをしていたようであったとのこと。現在は全て青木神社に合祀されている。
 昭和初期頃迄は野神さんの祭りがあり、当番制で祭りごとをしていたと云う。祭日(不明)にはオゴクといって、御飯を円錐状に尖らせた高さ10cm程のおむすびのようなものを二つ、祠の両脇に供えていた(木造の祠であったとのこと)。これは野神さんに限って供えていたようである。他に、お神酒、煮干しなどを供えた。また在所の人がヘギ(約10cm四方の白木の角いお盆)にご饌(せん)米を入れて供え、一年の豊作を祈っていたという。但し講のようなものは特になかったらしい。
 また、吹田の藤井氏によると、現在の板野東小学校から約150m北に向かう道筋に、野神さんがあり、昔のヤマシタ郷の人々が“おつや”をしていた。これは、若者組が中心になって行うもので、旧の正・五・九の年に三回(日は特にきまっていない)、神職さんにお祓いをしてもらい、夜お灯明をあげて、氏子の人々がお参りをする。その際ボタ餅といって、キナコと砂糖をまぶした楕円形の糯米(もちごめ)で作った縦10cm横5cm程のおむすびを作って供え、参拝者にも配っていた。皆でボタ餅をいただいて、12時頃まで歓談する。40〜50年前までに行われていたとのこと。但し、各郷で行われていたので、特に野神さんの場合のみに限られていなかったようだ。(例えば、中郷は庚申(こうこう)さん、奥郷は天神さんで行っていた)。
 現在は奥宮神社に合祀され、跡地は田圃になっている。


3.地神さん
 天照大神・倉稲魂命・大己貴命・少彦名命・埴安姫命の五柱の神が五角柱の各面に彫られている。石造。
 那東地区、川端地区、あるいは他の地区でも、五穀豊饒(じょう)を祈るのは野神さんよりも地神さんに祈ることの方が多かったようだ。
 地神さんへの信仰は、昔とそれ程の変化はない。3月と9月の社日が祭日にあたる。
 川端はほぼ郷毎にあり、祭日には本当(一人)相当(二人)の三人が担当し(氏神さんと同じ)、鏡餅・御神酒・海の幸・山の幸を供え、神職さんに御祓をしてもらう。その後供えたものを下げて、皆で頂きながら四方山話をする。この日は一日仕事を休む。各家でも、ばらずしなど作って楽しむ。現在は直会をする時間も短くなり、必ずしも仕事を休むとは限らない。
 吹田地区では、奥宮神社の境内にある地神さんに150戸程の氏子があり、社日には、御神酒・魚・菓子などを供えた後、社前に筵を敷いて皆で頂いたとのこと。この日は仕事を休む。これを守らずに牛を使ったりしていると、日照りになった時、「お前のせいだ」と皆に責められるので休んでいたと云う。
 那東地区では地神講があった。中筋では今も継続しているとのこと(担し参加は5〜6軒)。祭日は、当番の負担で、鏡餅・煮しめ・御神酒を供え、神職さんに御祓をしてもらった後、供えものを下げ、皆で頂く。この後籤引で次の年の当番、正・副合わせて二名をきめる。この時「チョウ」(講帳のことで、講則、掛金、供え物、神職さんへの謝礼金等を記したもの)を廻す。なお中筋でも、あと二軒で一巡するので、それで講をやめるという話も出ているそうである。
 この地区でもやはり、此(こ)の日は“田に入られん”と言っていたそうだが、今は守らない人も多いとのこと。昔は、社日にあわせて仕事を休めるように、一週間くらい前から仕事を仕合わせていた。供え物を下げて皆で頂くのも、たのしみの一つであった。(魚などは、出世魚ということで、ボラが多かったようだが、焼いてから供え、皆で頂いた。)
 各家でも餡入りの餅やばらずしを作り、神棚に御神酒を供えたものである。


4.花折さん(ハナオリサン)(写真3)

   写真3 東谷の花折りさん
 板野町東谷。60年前は鳴門と板野町の境界線上に当たる道端にあった。祠が鳴門市・手水鉢と燈籠が板野町にかかっていた。昭和26年に道路工事をするため、約20m移動し、現在に至っている。
 吹田の神の木に住む桑内性吉氏(昭和7年生)の話によると、今から25〜6年くらい前までは、お賽銭を供える人などはいなくて、木の枝や道端に咲いている花を折って供えていたという。“今から○○へまいります無事に着きますように”と祈っていたそうだ。通行人の安全を守ってくれる神様とのこと。
 なお、その当時は木造の祠で、周囲を青石で囲っていた。祭日は、旧の9月9日であったが、現在では10月9日で、日頃信仰している人数名が集まり、「花折大明神」の幟を立て、海・山のものを供えてお参りする。
 鳥居は南西向き、祠は北西向き。


5.お船戸さん(オフナタハン)
 大寺地区で、何軒かの家で祀っている。
 東大寺の堤高数家では(写真4)、東大寺の氏神さんの祭りの宵に、神職さんに来てもらい、饌米・甘酒をお供えして御祓をしてもらう。この時幟を立てる。幟には「尾幸神社 明治十七年 九月九日堤出来蔵」と記されている。伝承としては、此の神様には子供神が12神いるので、供えものをする時は無言でする。さもないと、12の子供神がやって来て奪い合いをするのだそうだ。昭和20年代になって、段々祭りも行われなくなったとのこと。

   写真4 東大寺 堤家 お船戸さん
 大寺地区にも一ケ所あったとのことで、下原宮司さんの話では、板東家(現在は引っ越した為空き家になっている)で、昭和25年〜6年頃迄お祭りをしていた。11月15日がその日で、御幣に綿を巻いて祠に納める(子供達が暖かく過ごせるようにとの意味があったようだとのこと)。神職さんが御祓をした後、ばらずし・甘酒などを頂く。ごく個人的にお祀りしていたようであった。
 また、大寺露の口18の岡芳郎家(写真5)では、今でも大切にお祀りをしている。かつては岡家の畑の東南に西向きにあった。畑を田にしようとしたが、お船戸さんの周囲を田にすると、子供神が遊べなくなるので、田にしてはいけない、もし田にすると腹痛を起こすということであった。現在は屋敷内に移転している。祭日は旧11月15日(今は新暦)・和紙で人形をつくり、それに同じ和紙で着物や帽子をつけて、祠の中に入れる。(これから綿入れを着ますとの意味があるとのこと)。但しこれを始めたのは、さほど古くはない。

 写真5 大寺露 岡家 お船戸さん
 御神酒一対・榊一対・お饌米、塩をヘギにいれ、神職さんに祓ってもらう。昔はおこわを炊いたりしていた。また、月に二回、1日・15日には、榊・御神酒をかえて新しくし、蝋燭を立てる。祀りはじめて100年以上はたっているだろうとのこと。
 この近所では、他にも二軒、オフナタハンを祀る家があったということである。
 総じて、子供の健康を祈る神様であったようだ。また近藤氏の話によると、多産系の奥さんのいる家では、12人以上産まないように、家の戸口の上に祠の絵を描いて、朝、戸を開けると落ちるようにすることもあったそうだ。何れにしても当時の人々の、安全で平穏な生活を守りたいという願いが、こめられているようである。


6.おかめさん(写真6)

   写真6  おかめさん 那東 高原家
 那東、高原秀夫家の所有地、約30坪の敷地の中に、高さ54cm直径50cmの石がある。大正末期頃までは、青木神社の宵の日を祭日とし、神職さんに祓ってもらっていた。この際「大甕大明神」の幟(天保年間のものが残っている)を立て、御神酒などを供えていた。しかし少しづつ信仰が薄れて行き、現在は正月に鏡餅・御神酒・御飯等を供える程度になっているとのこと。
 大正末期頃に、青木神社に合祀する話が出て動かそうとしたところ、日本刀が出土し、それ以上掘ろうとすると皆が腹痛を訴えたため、そのままにしてしまったとのこと。以来高原家では“お腹の神さん”ではないかと言い伝えられている。
 なお上板町の椎の本にも、七かめさんと呼ばれる同様の石があったと云う。現存しているのは二つで、椎本神社に合祀されている。


7.青龍神社(写真7)

   写真7 青龍神社

 大坂峠の展望台の下方、板野町と引田町の境にある。明治38年の大宮神社の神社明細帳によると、摂社として記録が残っている。「大坂村宮ノ本 例祭七月一日 祭神豊玉姫命 社殿小祠アルノミ 境内坪数五百十坪 山林民有地 氏子戸数二 大坂村金平」と記されている。
 板野町は水もちが悪い土質で、昔は水不足で難儀したとのこと。下原宮司さんの話によると、日照りが続くと、当家がお酒とお米を持って、ご祈祷を依頼しに来ていたという。
 現在は大宮神社に合祀されて、祠のみ残っている。
 また日照りが続くと、讃岐の金毘羅さんで灯明の火を貰って来ることもした。ヒナワと呼ばれる布で作ったヒモに火を点けてもらって持ち帰る。当時は車などなかったので、約十里の道のりを、五人くらいが交替で、消してしまわぬよう、燃え尽きてしまわぬよう、ヒナワをぐるぐる廻しながら駆けたそうである。これを大宮神社の灯明に移して、ご祈祷するとよいといわれていた。
 その他にも、水不足に関する悩みは多かったようで、和田宮司さんの話によると、雨乞いの神様と言われている御所神社(土成町)に水を貰いに行くこともしたという。
 また、明確ではないが、十八山(鳴門市大麻比古神社)にある弥山さんにもお参りするとよい、といわれていたとのこと。
 吹田の藤井氏の話によると、旱魃の年は、奥宮神社の裏の山で、薪とか麦藁を焚いて、雨乞いをしたこともあったと云う。当時の宮司さんは行者さんでもあったので、とのことで、40〜50年くらい前、藤井氏自身も1〜2回経験した記憶があるとのことであった。
 なお、水不足の際、水神さんに祈ったという話は聞かない。水神社については、文化十年の地図に、那東村に一ケ所記されている。また吹田にも一ケ所あり、現在も秋分の日の祭礼で、神職さんに御祓をしてもらっているが、特に水との関係についての伝承は聞くことが出来なかった。


8.屋敷神さん
 ヤシキガミサン、イヌイガミサン(那東など)、オイヌイサン(川端など)、などと呼ぶ。室内の守り神、一般に家屋敷の乾の隅に祀る(稀鬼門にも祀る場合がある)。
 戦前までは、屋敷神さんを祀る家は多かったとのことであるが、最近は祠が壊れてもそのままにしておかれることが多く、その数は減ってきている。
 お祭りは、サンジツといって、毎月1日、15日、28日に、きれいに掃除をして、御神酒・御飯などを供えていた。また、正月には注連縄を張り、御神酒・鏡餅を供え、氏神さんの祭日にもやはり同じように供えて、拝む。
 昭和20年代頃までは、きちんと祀る家が多かった。下原宮司さんの話によると、亀山神社のショウジリ(10月17日)に、鎮守祓いといってお祓いをしていたとのことである。
 現在は、正月と氏神さんの祭日に、御神酒・饌米をお供えすることが多いようである。
 那東の近藤氏の話では、新宅などをする際に、乾神さんの祠を購入して、神職さんに勧請をしてもらう。この日が乾神さんの祭日になる。毎年この日には、御神酒・御饌米・魚(尾頭つきがよいので、煮干しなど)・若布などを供え、神職さんに御祓をしてもらう。(写真8那東字白髪屋敷西 田中五平氏宅)

  写真8 那東 田中家 イヌイガミサン
 また川端の圓藤氏宅でもオイヌイサンが大切に祀られている。ここでも毎月1日、15日に御神酒・御飯を供え、正月に幟を立てていた。幟には「若宮鎮守大明神」とあり、天保十二の年号の入っているものから、明治・大正に至るまでのものが、大切に保存されている。個人で祀っているので、家によって若干の相違があるようだ。
おわりに
 他の多くの地方でも見られるように、やはり板野地区でも、こうした小祠に対する信仰は極めて希薄になりつつある。
 それぞれに持っていたであろう神々の特色も、殆ど消えつつあると言ってよいだろう。しかしかつては前述したように、数多の小祠が散在し、人々の信仰の対象となっていた。それは山の仕事の安全を守る神であったり、五穀豊饒を約束する神であったり、雨を降らせる神であったり、子供達の健やかな成長を守る神であったりしたわけだが、その一つ一つの祠に、安らかで、より豊かで、幸せな日々を願って手を合わせていた人々がいたという、証しでもあるのだろう。
 最後になりましたが、文章中にも度々お名前の出てまいりました板野町の皆様方に、一方ならぬご指導を頂きましたことを、深く感謝申し上げます。有り難うございました。


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