阿波学会研究紀要


このページでは、阿波学会研究紀要論文をご覧いただけます。
 なお、電子化にともない、原文の表記の一部を変更しています。

郷土研究発表会紀要第34号
板野町の葬送について

民俗班 前川富子

 今年も土地の有知識の方々に、お忙しいところを無理を言い言い、調査にご協力をお願いした。どなたも真面目な生活態度と家族への愛情、地域への深い思いと働き等、人柄に心をうたれることの多い面接であった。
 今回は、久米荘太郎氏、賀川清氏、日下弘氏に主にお目にかかった。ご協力頂いたこれらの方々と教育委員会の諸先生に心よりお礼申し上げる。
 戦後私達の暮らしの変化に伴い、葬送についても古来からの習慣はどんどんかわってきている。紙面の都合もあり、今回は昔から続いている民俗を野辺送りまでについて聞き取りをまとめた。

 

 ダイシコウグミ
 大坂地区は13戸くらいのダイシコウグミが2組あり、この講組で葬式をとり行う。寄りあって先達が役割を割り振りし、諸届け、祭壇の準備、用具の準備、棺の準備、お返しの準備、まきの準備(昔 焼き場に行ったころ)、知らせ等を平行して行う。何でも2人で行くのがならわしである。
 千遍まいり
 死にそうな人があった場合、隣の人が千遍まいりを申し出て祈願をしてくれる。千遍まいりには、なおるなら早くなおしてくれ、なおらないなら早く死なしてくれという意味があるので、家族の了解をとってから行う。那東の場合は、氏神の青木神社に近所の人が集まり、神殿に向かって順に拝んだのち、一人づつ百度石を回る。沢山の人の力をかって神に頼むわけである。(那東)
 お百度まいり
 病人の病気が重いとき、家族が神社に参って百度石を回る。(那東)
 死
 ヨトギが終わってから、死人になる。(那東)
 息をひきとった時には、まわりのものは自然に名を呼ぶ。(那東)
 息が切れた時は名を呼んであげる。手を胸で組ませる。(大坂)
 末期の水
 息を引きとった時、綿で唇を拭く。翌日はシキミの葉を1枚とって湯呑に入れて、湯呑の水をその葉で飲ませる。シキミの葉で水をあげると生きかえらないと言われる。(那東)
 白布
 息を引き取ると、みの濃い人が顔に白布をかける。(那東大坂)
 忌みよけ
 家中の神様に隣の手伝いの人が白紙でおおいをする。(那東)
 神棚へ忌中と書いた白紙を講組の人がはる。(大坂)
 魂
 死亡した人の魂は49日間家の棟に居ると言われている。(那東)
 ヒキャク
 死亡の知らせにはヒキャクが出た。ヒキャクにはこのほか火事の時にも出た。昭和50年頃まで出ていて、自転車を利用して知らせに出ていた。遠方は電報、その後電話を利用したが、県内の近い郡部の親戚、香川県相生、引田あたりまで自転車で行っていた。ヒキャクを迎えた家では白米の飯とそうめんの汁(ソーメンズイモン)を急いで用意してもてなした。白米は高く盛り、そうめんの汁には卵と高野豆腐が入っていた。このヒキャクの賄いは終戦後しなくなった。(那東)
 その日に行って帰られる所まではヒキャクが出た。ヒキャクをうけた家では急いで白米を炊いて、酒を供する家もあった。大体はそうめん位のものであった。ヒキャクには講組の若い人が2人で出た。今は自宅から電話で家人や講組の人が知らせる。(大坂)
 ヨトギ
 ヨトギの間は病人の扱いである。死亡の日の翌日まで病人として病室に寝かされる。隣の人は集まっておくやみを言い、家族の気をひきたてるように話をする。又、翌日の葬式の相談をする。ヨトギと葬式には普通は夫婦で手伝いに出ている。ヨトギ見舞いとしてぼたもち(戦前)、うどん、まきずし、飲み物等を隣、親戚が持参する。(那東)
 マクラナオシ
 オクの部屋で北枕にして死人の扱いになる。一本線香、蝋燭、末期の水、マクラメシを供える。顔へは白いツギをかける。一本線香は消してはいけない。(那東)
 マクラメシ
 ギョウギチャワンに山盛りに盛って箸を添える。「火がまじる」と言って昔は嫌ったと言われるが、手伝いの人の食事の飯も一緒に炊いている。(那東)
 ユカワ
 今は息子、娘等身内の濃い者がアルコールで拭いている。汚れた手は、手伝いの人に水をかけてもらって、縁のハナで洗う。終戦前後までユカンで済ました死人の着替えたもの等はシブトと言い、むしろで包んで河原で流していた。(那東)
 奥座敷にタケザがあって、ここでユカワをした。湯はタケザの下へ流してしまう。頭にかみそりを入れる。(大坂)
 死装束
 戦前は木綿を買って、サンヤブクロ、ジバン、手甲、脚半、腰巻、白装束を手伝いの女の人が縫っていた。その上に故人の好んだ着物を掛け、お四国参りの印の捺したジバンを着せれば極楽へ行けると言われていた。死ぬ前に自分の好きな着物、帯を指定する人もあった。今は故人の好んだ着物を着せ、その上に、棺についている白装束をのせる。(那東)
 サンヤブクロ
 死者にはサンヤブクロを首にかける。中には握り飯と六文銭、生前好きであった小物を入れる。(那東)
 カンオケ
 桶屋があって、棺桶やソーレンもつくっていた。寝棺になったのは昭和40年頃より。火葬場の設備にもよる。今は葬儀屋で準備する。(那東)
 昔は高さ4尺の荒削りの丸桶であった。(大坂)
 納 棺
 棺には茶の葉を紙でひねってさしこんだ。たばこ、こばん等も入れたが今は火葬場で嫌うのであまり入れられない。(那東)
 丸桶の時には、膝を組ませて死人を桶に落とし込んだ。(大坂)
 カドイレノゼン
 火葬に出る前に、手伝いの人がつくって支度をする。精進料理。今はナヌカを当日に済ますため、かきまぜのごもくずしや味噌汁が多い。(那東)
 出 棺
 昔から友引きには出棺しない。夜中の12時を過ぎて翌日に出す。出棺は昔は夕方と決まっていたが、今は正午から13時頃が一番多い。火葬場の都合による場合が多い。(那東)
 ソウレン
 棺桶が出る時に棺桶の上に上げるものをソウレンと言った。ソウレンは息子甥等が担ぎ、土地の焼き場(羅漢)まで行った。天蓋、ハタ、タツノクチ等が従った。(那東)
 野辺送り
 大正時代には竹竿の先にのぼりや、ぼんぼりをつけて棺に従った。(大坂)
 花かご
 ソウレンの後ろに竹竿の先端につけた花かごがあって、竿を突くと、籠のなかの花びらが散るようになっていた。中に1銭〜5銭の銭のひねりが混じっていて、花と一緒に落ちるのを子供が拾っていた。子供が死んだ時の葬式に多かった。戦後はしなくなった。(那東)


徳島県立図書館