阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第34号
板野町の獅子舞

民俗班 喜多弘・岡島隆夫

1.はじめに
 10月は秋祭りのシーズンである。春の祈年祭では五穀豊穣を祈願し、秋の例祭には豊作を感謝して、例祭式の後、御輿渡御があり、古式に従って神賑(にぎ)わいの行事が行われる。
 明治42年の訓令によって、板野町の旧町村では神社合併が行われ、戦後は新生活運動の一環として、秋祭りの統一と簡素化を計り、昭和35年旧町村の祭礼は同じ日に統一した。その後通勤通学者のことを考慮して、日曜日を充てる所が多くなった。その経過は次の表の通りである。


 今回の調査に参加して、町内の各神社の祭礼を見たり、地域の人々から祭の行事、特に獅子舞について、教わったことをまとめた。


2.獅子舞について
 秋祭りに豊作を感謝し、悪魔退散を願って、獅子舞を奉納する習わしは全国各地にある。獅子舞のルーツは中国の西域地方である。百獣の王ライオンは悪魔・悪霊を払う霊獣として尊ばれ、それを象った獅子舞が村内を廻って踊る風習は、アジアの各地で見られる。我が国へは奈良時代の初めに、唐から伝わって宮中や神社で舞楽として踊られた。また貴族のへやの几帳(きちょう)の重りに使われたものが、社前の狛犬(こまいぬ)となり、神人が冠って神や貴人の行列の先駆をして災難を払った。後に民間でも行われるようになり、東北地方では山伏が獅子面を冠って、踊りながら村々を廻り熊野神社のお札を売り歩いた。また芸能として舞台や大道でも、獅子踊りが行われるようになった。


 むかし日本では鹿のことをシシ、カジシといい、岩手県のしし踊りや、宇和島の八ツ鹿踊りは、鹿の頭を冠って踊った。これに対して中国伝来の獅子を唐獅子、高麗犬(こまいぬ)というのは、伝来の経路を示すものであろう。
 板野町では古城・那東・大寺・吹田・大坂と、川端では伊田・諏訪の計七か所に獅子舞があり、古城のものが他地区のルーツのようである。そして各地の獅子舞はそれぞれの伝統を守り、村内団結のシンボルとなり、公民教育の場として、また娯楽として地域の人々の後援の下に、若連によって伝承されて来た。


3.各地の獅子舞
(1)古城の獅子舞
 古城はその名のように今から凡そ800年前、近藤六親家がこの地に板西城を築いた。親家は治承元年(1177)鹿が谷事件で平清盛に斬られた藤原西光の子で、義経の屋島攻めの道案内をした。親家には子がなく赤沢兵庫頭宗定を子にしたが宗定にも子がなく、その跡は絶えた。天正5年(1577)伊沢越前守は城を修築しようと、1,500の兵を連れて、城下に入ったが、勝瑞方の矢野駿河守らに謀殺され、その後赤沢信濃守宗伝が板西城主とし
て入り、付近16か村で3,000貫を領し、城の内外に赤沢12人衆を配置して、勝瑞の重臣となったが、天正10年中富川の戦で宗伝は、敵将を組み伏せたがわらじの紐が切れて、そのため敵に打ち取られ、12人衆以下の家臣も戦死し、板西城も落城した。
 古城の北方那東の愛染院には、12人衆の五輪の墓に守られて、信濃守の祠があり、そこには大小のわらじやぞうりが祀られている。履物を供えて祈ると足の病が治り、旅中も安全であると、参拝する者が多い。
 10月10日例祭の当日、古城の山内彦次郎氏(90才)山本照一氏(77才)から色々話を聞かせてもらうことができた。


 天満神社 板野町古城字城の内
祭神 菅原道真公。氏子90戸、約400人。
由緒 赤沢信濃守が太宰府天満宮の分霊を勧請して、天神原の現位置に城の鎮守として祀ったという。
 古城の獅子舞の歴史は古く、近在の獅子舞のルーツであるが、その由来は神社の西方専勝寺の住職が始めたといい、慶応元年(1865)銘の古い面がある以外は、記録も伝承もない。しかし昭和60年石井町大万で聞いた話では、「大万の獅子は300年ほど前古城で習って来た。」とのことであった。古城の獅子舞は現在は休んでいるが、昭和20年代は鳴門市の大麻比古神社、石井町の神宮本宮両神社、上板町の滝宮神社、町内の下庄神社など8、9か所へ招待されて行ったという。獅子舞の招待には、大ぜいの人数や、道具の輸送、接待など大変な物入りであるという。昭和の御大典の時徳島市で催された県下の演芸大会には、船を借り切り村民も大ぜい繰り出して、観衆のかっさいを博したという。
練習 祭の一か月前の八朔から始まる。出演する男子は、学校を昼じまいし、若連も昼夜2回に分かれて練習する。芝居も行われ、そのせりふや太鼓の打ち方など、すべて口移しで、教える方も習う方も大変だったという。毎年演劇の芸題や演出が変わるので、地区や個人の出費も多く、子どもや若連の都合もあって、戦後は中止のやむなきに至っている。現在地区には獅子頭2、明治2年天狗久作の酒呑童子面、慶応元年金城諦念作の狐面の外に、天狗久、大江巳之助など名人作の面六面が保存されている。獅子舞は「古城獅子講連中」という若連が中心で、15才−25才の男子が獅子舞その他のせわをする義務があり、引退すると羽織を着ることが許され、後輩を指導監督する。
 獅子舞の構成
大太鼓2 若連が打つ。
小太鼓2   〃
拍子木、陰板、若連5、6名が打つ。
獅子頭2 若連が使う。
演出 芸題にもよるが、子ども若連8、9名が出演する。陰板というのは、武者が歩く時床をたたいて音を出す道具である。
 獅子舞の演出
1 のつけ 新入りの若連が獅子を使い乱舞する。子どもは衣裳をつけて踊る。
2 新曲 熟練者が獅子を使う。
3 古玉 のつけの子どもや太鼓打ちが踊る。
4 獅子芸 「かり出せ」の声で、ざいを持った立ち役が獅子を追い出す。獅子「この獅子は唐獅子となって、片っ端から喰い裂かん。」立役「たとえ唐獅子に変じても何ほどのことやあらん。」と戦う。
5 古 玉の獅子をだれでもが使って踊る。
6 大太鼓打ち 4通りの打ち方があり、太鼓に合わせて獅子が乱舞し、ついに獅子を退治する。以上1通りの演出に1時間かかる。演芸は時局や浄瑠璃などに取材し、せりふは浄瑠璃口調で、口移しで教える。
(2)大坂の獅子舞
 大坂は上古以来阿波と讃岐を結ぶ交通の要衝で、律令時代南海道は郡頭(こうず)で分れて、大坂越えをして、讃岐の国府に向った。平家物語には「近藤六親家に案内された義経は、阿波と讃岐の境なる大坂越という山を夜すがら越え、あくる18日寅の刻引田という所にうち下り。」とある。藩制時代には今のJR大坂トンネル入口の近くに大坂御番所を置いて、人や物の往来を厳しく改めた。
 大宮神社 板野町大坂字宮の本
祭神 応神天皇や雨の神青竜神社外を合祀。氏子102戸、450人。
由緒 天正年間板西城主赤沢信濃守の弟、長山次郎太夫が創建、明治5年八幡神社と号し、大正3年地域の神社を合祀して大宮神社と称する。10月10日の例祭には地域の中村から獅子舞、関柱から奴道中、西谷・東谷は合同で屋台を出してにぎわい、素人芝居も行われた。
 獅子舞について中村地区の小笠原宗市氏から聞いた話では、大坂の獅子舞は古くから行われていたが、最近子どもや青年が少なく、昭和38年以後休んでいたが、地区で相談して、来年から復活することになっている。


 獅子舞の構成
大太鼓2 小学校4、5年生。
かん鼓2 小学校6年生―中学1年生。
拍子木4 若連がうつ。
獅子2 若連が使う。
蝶子  小学1、2年生が日傘をもって踊る。
その他子ども6人がはやしに合わせて、芸をしながら踊る。
 大坂の素人芝居 大坂では大正の半ばごろまで、祭礼の日に若連によって素人芝居が上演されて、娯楽の少ない農村の人々によろこばれた。祭の2か月ほど前から、青年たちは仕事を早じまいして、地区毎に集まり、芸題をきめて練習や準備をし、当日境内の農村舞台で上演した。出し物のうち阿波鳴は特に人気があり、広い境内は村人や大寺・川端・吹田方面からの観客で埋まった。そして大寺や川端の祭にも度々招待されて、上演したという。
(3)大寺の獅子舞
 大寺は交通の要衝なので、早くから人々が住み、亀山天皇・長慶天皇の御陵という古墳群があり、延喜式内社岡上神社や、白鳳創建の金泉寺(こんせんじ)、韓崇寺(かんそうじ)など大きな社寺が並んでいたので、この地名が生れたという。
 亀山神社 板野町大寺字亀山下
祭神 須佐之男命、日本武尊外。氏子1,440戸、4,650人。
由緒 もと金泉寺の近くにあって天王社といい、須佐之男命を祀ったが、明治5年八坂神社と改称し、同40年地域の神社を合祀して現在地に社殿を建て、その地名を取って亀山神社と称するようになった。境内は3.6haもあり、亀山という古墳の多い山を背負い、社殿は高い石段を登った見晴らしのよい所にある。
 大寺の獅子舞について、宮司の下原宗■氏や三橋秀雄氏(92才)堤峰夫氏(73才)から色々教えてもらった。亀山神社の例祭の当日大寺辻と高木はそれぞれ屋台、大寺東は奴、大寺南は獅子舞を出してにぎわう。
 大寺の獅子舞の光栄、亀山神社の例祭は前は8月8日であった。獅子舞はずっとむかし古城で教わったと聞いている。大正11年秋天皇陛下が皇太子殿下の時、県下に行啓された。県では郷土芸能をご覧に入れることにし、大寺の獅子舞もその選に入った。11月30日鳴門観潮を終えられた殿下は、千鳥が浜で芸能をご覧になったが、特にこの獅子舞がお気に召されたご様子で、予定の時間を超過されるほどであった。大寺の人々はこの光栄を後世に残そうと、昭和39年10月、「台覧獅子保存会」を結成し、当時の獅子頭をケースに納めて、亀山神社で大切に保存している。太平洋戦争中一時獅子舞も中止したが、戦後7、8年して復活し、今日まで続いている。


練習 祭の1か月前から若連が中心になって練習する。若連は15才から25才までの青年で組織する。学生や勤め人は経費を負担し、出席は免除される。
 獅子舞の構成
大太鼓2 小学校1、2年生。
かん鼓2 中学生が向う側で打つ。
拍子木2 若連が打つ。
獅子2 雌雄一対、各青年2人が使う。
傘の舞 幼児が日傘をもって踊り、大太鼓打ちもその中に入って踊る。その間太鼓は若連が打つ。
 獅子舞の演出
1 地
2 見合 獅子の青春で雌雄互にもつれ合う。
3 傘踊り 子どもと大太鼓打ちが踊る。
4 新玉 大太鼓を打ちながら芸をし、獅子が舞う。
5 古玉 上の通りだが、太鼓の打ち方がちがう。
 衣裳はかすりの着物に白たび下駄ばき、絹物は下着以外は着けない。大太鼓打ちの化粧前垂以外は在所持ちである。獅子舞はお旅に出る前石段の下で踊り、ついで、金泉寺前と、天理教会横の旧社地で踊り、一場所で3回くり返し踊る。むかしは吹田・川端(2)も来て合計4組もの獅子が交互に踊ってにぎわったという。以前は祭りの前日氏子の家から「悪魔払いに来てくれ」と頼まれたら出かけたが、今はたいていの家々を廻って踊る。
(4)川端の獅子舞
 川端地区はもと大寺と同村で臼井といったが、いつのころからか分村し、旧吉野川本流沿いなので、川端と名付けたのであろうという。JR川端駅北方の丘を愛宕山といい、頂上に4世紀半ばに築かれた前方後円墳は、四国でも有数の規模を持つ。また富の谷川上流には、帰化人が建てたという大唐国寺があった。阿讃山脈から流れ出る富の谷川や、唐土谷川の下流は、土地も開けて人家も多く、撫養街道や主要道鳴門池田線、JR高徳線が平行して走っている。地域は戸数435戸、人口1,570人を数え、米作・畜産・蔬菜園芸・果樹栽培などが盛んである。

 八幡神社 板野町川端字宮の西
祭神 応神天皇・菅原道真公外4柱。氏子100戸。
由緒 もと宮所という山上にあったが、天文年間(1532〜54)現在地に移り伊田の宮と称した。山地の多いこの地の住民が、五穀豊穣を願って飯田に通じる伊田と、名付けたともいう。
境内 唐土(からと)谷川と富の谷川に挾まれた平地にあり、4.7haの広い境内は、うっそうと茂る樹木におおわれている。

   川端の八幡神社の獅子舞
例祭 10月の第4日曜日、官庁・学校・工場が休みなので、伊田・諏訪ともこの日を例祭日とした。両社の獅子舞は若連が運営し、その長を「帳元」という。伊田の吉本満氏と諏訪の河野圭吾氏の両帳元から、獅子舞についての話を聞くことができた。
 両社は毎年交代で午後1時と3時に例祭式が始まる。今年は伊田八幡神社が先であった。諏訪の獅子舞はお客なので先に踊る。諏訪神社へ行けば、伊田八幡の獅子が先に踊る。伊田の獅子舞はずっとむかし古城から伝わったという。一時休んでいたが、5年ほど前高松市瓦町で獅子頭を新調して復活した。古城の獅子に似せて頭は黒と赤のフェルトでおおっている。
練習 帳元が若連を指揮して、祭りの1か月前の八朔から始め、出場する子どもの家を廻って練習したが、現在神社の拝殿で行う。
 獅子舞の構成
大太鼓2 小学校3年生
かん鼓2 中学校1年生
拍子木  若連全員が交代で打つ。
獅子2  雌雄に各2人の若連が入って使う。
 獅子舞の演出
1 地  ねている獅子を起こす。
2 二つ 獅子の青春で雌雄互いにもつれあう。
3 新玉 獅子が前後からもつれあい、くるいあう。
4 玉  獅子が互いが理解しあう。
5 のた 雌雄が合一する。
 ここの獅子は前後だけでなく、左右にも大きく動く。お旅の前に諏訪の獅子の後から踊り、お旅所でも踊り、次に諏訪神社でも踊る。お入りの時は太鼓だけ打つ。祭の前日門付けといって、氏子の家を廻り、土足で上りこんで踊るが、家内繁昌、夫婦和合といって喜ばれ、どんなことをしても神の思し召しであるとして許される。ご祝儀で獅子頭や衣裳を整えた。
 諏訪神社 板野町川端字諏訪
祭神 建御名方命、日本武尊外。氏子80戸。
由緒 むかし信濃の国から、木内丹後守がこの地に来て川端城を築き、城の鎮守として、故郷の諏訪神社の分霊を勧請してここに祀ったという。
境内 撫養街道沿いにあり、高い石段を登った所にある。広さ約3.5haと広い。

   川端の諏訪神社の獅子舞
 獅子舞の構成・演出は伊田八幡神社の獅子舞と同じ。ただ演出の初めに「蝶子(ちょうこ)つり」といって2、3才の幼児が父兄に抱かれて進み、竹の先につけた造花で、寝ている獅子の鼻をくすぐって起こし、獅子が踊り出す。こわい獅子の顔を見て、子どもが泣き出す姿が可愛かったが、これは荘子が夢に胡蝶となり、さめて後自分が蝶になったのか、蝶が今の自分なのかと、疑ったという故事の表現だという。
(5)那東の獅子舞
 那東は板野町の北西に位置する。阿讃山脈から流れ出る黒谷川・松谷川に挾まれた地域で、南部の鳴池線沿いには低湿地がある。大むかしはこの付近まで入り江で、東方愛染院付近には小山が突き出て、船の出入りする港であったので、「なとう」と呼ばれるようになったともいわれる。慶長2年(1604)の検地帳には那東、三水(みみぢ)二村の名があるが、寛永3年(1625)には三水の名が消えている。

   那東の青木神社
 青木神社 板野町那東字青木の元
祭神 天御中主神・草野姫命・木花開耶姫命外。
由緒 不詳であるが古くから住民に尊崇されていた。「文政13年庚寅8月朔日」の棟札があり、大正6年地域の5社を合祀した。氏子206戸、807人。
 那東の獅子舞
 青木神社の例祭に出る獅子舞について、久米荘太郎氏(81才)と賀川清氏(72才)から色々話してもらった。それによると、ここの獅子舞は古城から伝わったと聞いている。「那東の気ちがい獅子」といわれるほど、よくはね、よく動き、獅子使いも息をはずませ、ひんぱんに交代していた。
 獅子舞の構成
大太鼓2 小学校6年生。
かん鼓2 獅子使いの青年が交代でたたく。
拍子木  若連が前後左右で交代して打つ。
獅子2  雌雄に各2人が入って使う。
傘踊り  12人の保育所や幼稚園児が2列になり、日傘をもって踊る。
 獅子舞の演出
 お旅に先立ち神社東側の老人憩いの家の庭で踊る。次で那東地区の東端と西端で踊り、最後に旧郷社で氏神であった矢武八幡神社でも踊る。踊り方は、新(あら)・中・終りの3通りで一回に20分ほどかかる。練習は秋祭り前1か月から、地域の若連の「那東獅子舞保存会」が主になって行い、経費は神社総代や部落会からの寄付でまかなう。祭が終ってから若連や出演した子どもや両親などで、反省会をする。
 那東の人形芝居
 那東では明治の末まで淡路の九太夫座を招いて、人形芝居をした。祭りの当日村の若連たちは早朝から大八車をひいて、撫養の岡崎まで行って、太夫や道具を迎えて来て、青木神社の境内に設けた桟敷で、人形浄瑠璃を上演した。平素娯楽の少ない農村の人々は、この日を楽しみにして、大ぜいの観客が集った。
(6)吹田の獅子舞
 吹田は大寺の北方、大坂谷川の左右に開けた地域で、古くから祀られていた風の神を祀る風折社から、地名が生れたという。もともと水利の便が悪く荒れ地であった。慶長年間(1596−1614)土佐国長岡郡吉田の城主吉田備中守周孝の子孫が移住して、蜂須賀家政・至鎮2代の特別な計らいを受け、寛永4年(1627)には2代藩主忠英から免税の許しもあって、人家も増加した。現在は吉野川北岸用水も大坂谷まで通じて水田も多く、果樹や蔬菜の栽培も盛んで、豊かな家が多い。また南部地区は大寺に読く市街地で、町役場や板野東小学校・農協などがあり町の中心になっている。戸数凡そ330戸、人口1,120人。

 奥宮神社  板野町吹田字奥宮
祭神 級長津彦命、級長津姫命、相殿に大山祗命、金山彦命を祀る。
由緒 この社はもと風折社、奥宮大明神といい、寛永15年(1638)再建の棟札がある。境内社に国瑞彦(くにたまひこ)神社を祀るのは、開拓当初の藩主の恩顧を忘れぬためであろう。
境内 広い境内にはシイ、ヤマモモなどの照葉樹林におおわれ、新しく落成したみかげ石の高い石段を登ると、参道両側に多くの灯籠が並んでいる。


 吹田の獅子舞
 10月第2日曜日の例祭に行う獅子舞について、地域の中川紀男氏(68才)清水治平氏(63才)から、色々教えてもらった。それによると、ここの獅子舞は、明治初年古城から習って来たという。太平洋戦争中一時中断したが、戦後復活し5、6年続いて中止、昭和53年復活して、以後毎年続いている。
練習 「奥宮獅子舞保存会」の若連を中心に、秋祭りの1か月前から練習を始め、中間で中祝いといって、踊り子の親たちが若連を慰労する。若連は18才から24.5才までの男子で、むかしは若連も踊り子も長男に限られていたという。25才を過ぎた若連は羽織を着て、若連を指導、獅子舞を教える。
 獅子舞の構成
大太鼓2 小学校1、2年生。
かん鼓2 中学校1年生。
拍子木  獅子使いの外の若連全員。
獅子頭2 雌雄に各2人、拍子木と交代。
傘踊り、扇子踊り 4才―6才の男子12人。
 獅子舞の演出
1 寄せ太鼓 始まりを知らせる。太鼓だけ。
2 お神楽  お宮に入って、太鼓だけを打つ。
3 新曲  獅子が舞う。
4 新曲帰り 獅子が舞う。
5 傘の舞  富貴社の印入りの日傘で子どもが舞う。
6 入古(いれこ)  獅子が舞う。
7 扇子の舞 京都へ特別注文した小形の金扇を持ち、子どもが舞う。
8 本曲  獅子だけが舞う。
9 早手  獅子が長時間勇壮に舞う。
 1通り終るのに約50分かかる。初め神前で踊り、次に神社南西下の地神さんで、さらにお旅所で踊る。前はお旅の途中方々で踊ったが、今はお旅が終わってから神社総代・当屋・踊り子・若連の家や氏子の家々で踊る。
 服装は小学生や幼稚園児は水色の鉢巻、赤い上着に紅白重ねのたすきをかけ、化粧前垂れをつけ、水色のズボン、白たびにわらじばき。中学生は水色の鉢巻、白いシャツに高下駄。若連は同じ水色の鉢巻をし、えりに「奥宮神社獅子舞保存会」、背中に祭と染め出した水色の法被を着る。
 前は祭の前夜若連による素人芝居が行われ、後に徳島市から浪曲師を招いて、地域の人たちによろこばれた。


4.おわりに
 今回の調査に参加して、各地の風土や歴史、そこで生活した人たちの信仰、特に秋祭りの行事のうち獅子舞について、実際に見たり、地域の宮司様や神社総代、若連、その他の方々から、何かと忙しい中を懇切に教えてもらったことに感謝します。混雑にまぎれて、じゅうぶんな調査をすることができなかったことについて反省し、今後の調査研究を考えています。


徳島県立図書館