阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第34号
板野町地域経済の変容と住民生活

産業構造班

   中嶋信・小田利勝・中谷武雄

(1)地域社会の変遷
 板野町は古くから経済的・社会的交流が密接であった板西・松坂・栄の3ケ町村が1955(昭和30)年に合併して誕生した。地域経済の基盤は農業によってささえられていて、讃岐山地と吉野川河岸とに挟まれた有利な土地条件を生かして安定的な純農村としての展開を見せてきた。また旧板西地区は撫養街道と讃岐街道とが交差する交通上の要地に当たり、古くから商業的集積を形成してきた。地域人口は図1に認められるように、「高度経済成長期」の初期に減少を見せた後はほぼ停滞的に推移しており、土地利用及び集落形態の性格も外見的には大きな変化を示していない。激しい変動を余儀なくされた農村地帯としては安定的な推移を示す例であるが、前述の立地条件がそれをもたらしたといえよう。


 ただし少し立ち入って検討すると、住民構成上の変化も確認することができ、近年、地域社会が構造的変化の途上にあることが窺われる。住民人口は1970年以降緩やかな増加基調を描いてきたが、表1の人口動態に見るように、80年代に入って明らかに停滞傾向に転じた。

その主要因は転入・転出関係(社会増域)のあり方に基づいており、「産業の地方分散」から撤退へと局面が変化したことを受けて、転入人口の減少テンポが相対的に高く現れてきているためである。また出生率が傾向的に低下し、更に若年層の流出が進む中で、15才未満の若年層比率が減少(1965→85年の間に25.8%→20.7%)し、逆に65才以上の老齢者比率が増加(同、8.8%→13.2%)している。このことは人口の自然増加率が今後低下することを意味しており、近年の傾向が不変とすれば、地域人口全体が停滞ないし減少することが予測される。
 次に、徳島市を中心とする「新産業都市」建設の進展は、板野町経済をその従属的位置に押しやる結果をもたらしている。表2は板野町在住者の通勤通学先および板野町への通勤通学者の常住地の推移を示す。

板野町民で町内に通勤通学するものの割合は1960年80%から80年62%へと傾向的に低下しており、徳島市などに通勤通学する住民の比率が一貫して増加している。また同様に周辺市町に通勤通学先を得る比率および町外から通勤通学してくる者の比率が高まっているが、昼間人口の流出入の差は次第に拡大しており、〈板野町からの通勤通学者〉に対する〈板野町への通勤通学者〉の割合は60年の96%から80年85%へと低下し、昼間人口の徳島市・藍住町への流出傾向が強まっていることを確認することができる。
 また表2では香川県白鳥町への通勤者数の変化を確認できる。この数値から讃岐街道を通じての人と物の交流が1960年代までは盛んであったことを読み取ることができるが、近年はその比重は著しく縮減している。同様に交通の発達に伴う生活圏域の拡大と交通手段の再編成が進むなかで板野町の位置は大きく変化している。商業活動に即するならば、旧街道(撫養・讃岐)の切り替えや旧鍛冶屋原線の廃止などによって旧板西地区商店街は立地上の優位を損なうこととなり、さらに周辺地区における大型店の相次ぐ開店と集客戦略の展開とによって、かつての商業上の核は、いわば「地盤沈下」に直面している。
 このように外見的には安定的様相を示す地域社会ではあるが、近年、その内部では構造的な変動が急速に進行しつつあるといえよう。地域経済の動揺を反映した地域社会の変動への対処が検討されるべきであろう。
(2)地域産業と人口構成の変遷
 1960年代以降、板野町の産業構成の編成替えが進行してきた。それは農業生産の位置の相対的低下と、製造業や商業・サービス業の拡大と表現できる。表3に示されるように、かつて6割の就業人口を擁した農業は次第に分解して2割台となり、2・3次産業と比重を交替させてきた。ただしそのテンポは概して緩やかであり、しかも産業部門間の増減があい半ばしていたため、地域人口は70年以降安定的な伸び基調で推移してきた。


 平均的な純農村がこの時期にたどったドラスティックな編成替えと比して、板野町は安定的な姿を取った。これはひとつには、農業生産力構造の相対的安定性に基づいている。表4に認められるように、近年の畜産業の動揺などいくつかの変動をはらみつつも、野菜など集約的作物の拡大が図られており、地域農業は収益性を高める努力を重ねることで生産力の後退を阻んできたのである。また基盤整備や近代化投資などの事業が継続的に推進されていることも地域農業振興に物的基礎を提供しているのである。


 地域人口の安定基調の他の要因は適度の工業立地、および産業振興の中心拠点に位置しなかったことである。板野町は新産業都市計画の指定地域であり、県の計画では工業化促進地域として位置づけられていた。しかし国の「定住圏構想」の失敗などにより、工業立地ははかばかしくなく、徳島市・藍住町などと比して明らかに遅れを取った。町外企業の大量進出が果たされなかったことが、地域の工業化のテンポを緩やかなものとしたのである。
 板野町の経済と社会が劇的な変動を経験してこなかったということは、今日の地域経済が安定しているということを必ずしも意味しない。むしろ事態は逆である。70年をピークとする製造業就業人口の後退傾向や、交通網の再編による商業・サービス業の経営因難が既に表面化している。これらはこの間の産業基盤形成に対する取り組みが消極的であったことと関わっている。70年代後半に工場の地方分散が部分的に進んだが、80年代に入って、その農村工業のスクラップ化が進行している。また大手資本による商業・サービス業の系列化が地方市場においても進行しており、地域経済・社会の変動が今後強まることが予想される。
 農村部において地域経済振興を図る場合、多くは企業誘致を基本戦略とするが、それは多くの因難を伴わざるを得ない。板野町においても誘致企業のご都合主義に振り回されて、地域経済と住民生活が混乱させられる事態が発生している。
 徳島船井電機(親会社:大阪)は県及び町の誘致条例の適用を受けて、1966年に旧板野中学校跡地に設立された。以降、周辺の低賃金労働力を吸引して、70年頃にはパート雇用者を含め職員数約500人の規模に生産を拡大した。しかし労働者が組合を結成して労働条件改善の交渉を強める72年には会社解散・全員解雇(240人)[第1次解雇]を強行した。徳島地裁はこれに対し「労働組合つぶしの偽装解散であり解雇は無効」との判断を75年に示し、船井電機本社は76年に徳島船井を再開させた。だが79年、船井電機本社は徳島船井の再整理にかかり、工場を地元業者に売却し、社名を池田電器に変更する。そして87年、池田電器は徳島地裁に会社整理の和議申し立てをし(後に和議不成立・破産認定)、従業員全員解雇[第2次解雇]を行うに至る。徳島船井労組はこれに対して工場再開と解雇撤回を要求しており、船井電機本社と池田電器を相手とする従業員地位保全を求める申請を徳島地裁に提出、目下係争中である。
 徳島船井電機の争議経過は、地方進出企業の行動様式の一つの典型を示している。安価な賃金と生産調整の手段として地方工場が位置づけられて、企業の進出・撤退が専ら親会社の都合で選択されるのであり、企業を受け入れた地域はそのしわ寄せを強いられるのである。この様な事態は地域経済と住民生活を現に混乱させているが、同時に将来的不安も増幅させている。行政と住民が、地域に対する社会的責任を企業に対して求めることを欠くなら、企業誘致戦略は地域振興計画の混乱要因とすらなるのである。
 次に地域商業の動向を見よう。80年代に入って徳島市への本州大手資本の大型店の進出が相次ぎ、また地元大型スーパーの多店舗展開がなされ、商業活動の再編成が進行している。板野町商店街は交通事情の変化にともなう集客力の落込みに加え、徳島市や藍住町への購買力の流出によって、経営環境の悪化に直面している。表5は86年10月時点での住民意向調査の結果によるが、生鮮食料品についても藍住町に2割以上依存しており、洋服・洋品のような買い回り品は徳島市への依存割合が高いことが理解される。

このため板野町小売商業の県内シェアは図2のように後退(76年:1.19%→85年:0.99%)している。

板野町商工会は「板野町商店街近代化意識調査」を85年2月に実施し、商店経営主の意向を確認しているが、表6に示すように、今後の売上見通しについては「増加」とするものは少数で、悲観的な見通しが多く含まれている。また、今後の経営方針についても現状維持が多数であり、積極的な経営展開の気運は薄いと判断されよう。板野町商業は多くの難問を抱えながらその活路を見出し得ていないのである。


 表3の就業者構成では農業の一貫した減少、70年をピークとする製造業の後退、80年以降の建設業の後退などを確認し、地域の産業構造の近年の動揺を見たが、増加を見せる商業も分解局面に位置しているといえよう。地域産業の再建の作業が急がれるべきである。
(3)行財政対応と住民の課題
 板野町議会は1986年3月に「板野町振興計画書」を決定して、「親和と躍動の町づくり」の基本構想と基本計画を明らかにした。計画では85年を目標年次とする「第1次振興計画」(72年)を見直し、95年の目標年次に向けて計画的な諸施策の展開が図られており、町民の創意を結集することが期せられている。上述の地域の直面する課題に照らすなら当を得たものといえよう。次にこれまでの行財政対応のあり方を簡単に検討しよう。
 板野町は徳島市を中心とする新産業都市建設計画の地域指定(1964年)を当初から受けており、また農村地域工業導入促進法適用の地域指定も受けている。徳島県の第1次東部地区広域市町村計画(1972年)でも農業・工業・レクリェーション地域として位置ずけられており、内陸型工業団地の形成が基本方針とされていた。しかし国の地方振興方針の失敗などにより、工業立地ははかばかしい進展を見なかった。そしてこの間の実情を踏まえて、県の第2次東部地区広域市町村計画(1980年)では板野町は農業・レクリェーション地域と位置ずけられ、内陸工業地の形成が抜け落ちるに至っている。また板野町自体も、地域の特性を踏まえて「農業立町」を掲げ、この間の産業政策の基本を農業に据えてきた。この様な行財政対応があって、地域の経済・社会の急激な変動が押しとどめられたとみることができよう。だがこのことは外部経済の変動への対処がやや消極的なものとなる結果を招いたともいえる。
 また財政レベルからもいくつかの課題が指摘されよう。地方財政の比較に使用される類似団体類型でみると、板野町は人口13,907人、第1次産業就業人口比率は22.79%で、IV−3になる。県内には同類型が存在しないので、全国のIV−3型の町村の平均値と対比する。板野町人口一人当りの地方税額は47,123円で、歳入構成比は19.7%にすぎない。全国標準のそれは64,666円で28.8%であることからするなら板野町の財政力の弱さの一端が窺われる。一般財源でみると、板野町は一人当り117,083円で構成比は49.0%であるが、全国標準は135,076円、59.8%である。この数値は県内町村との対比では遜色がないとはいえ、全国的水準からは低いものであり、財政力培養の手だてが求められるといえよう。
 次に表7をもとに板野町財政の特徴を見よう。

板野町は県下50市町村の内、人口規模では12位(4市を除くと8位)の比較的規模の大きい行財政単位である。県下の町村平均と対比してみると、地方税収入は19.7%で町村平均の18.4%よりもやや余裕をみせる。また町村平均よりは国庫支出金の比重が高く、県支出金の比重は小さいものとなっている。地方税の比重が高いにもかかわらず、地方債の比重もまた高い(板野町12.7%、町村平均10.8%、県平均8.9%)ことも板野町財政の一つの特徴である。またこれを反映して支出面では公債費の比重が18.1%と押し上げられており、板野町の財政ストレスの水準は高いといえる。
 では、この財政ストレスを招いた要因は何か。支出面でまず目にはいるのは民生費比重の高さである。1985年度では23.3%で、町村平均11.3%、全県平均16.6%を上回る県内第1位の水準である。民生分野の中で財政的に重要な意味を持つものは町営住宅と地域改善事業である。板野町の地方債現在残高は約47億円であるが、公営住宅建設事業残高が約19億円、地域改善対策事業残高が約14.6億円で、両者で7割以上に当たる。板野町の財政運営は民生費を重点としており、そのことが財政の他の選択肢を抑える結果を招いているといえよう。
 民生関連施設建設がほぼ一巡したことから、今後は産業基盤整備に向けての支出の比重が増大すると思われ、財政構造のあり方を巡っての論議が図られることになろう。その際、地域振興目標の町内における合意形成と、その目標に照らした財政資金配分というシステムを作り上げることが重視されるべきであろう。前述したような地域経済の抱える困難が表面化しており、地域の将来に対する住民の関心も高まりつつある。徳島船井電機の問題を巡っては87年12月に「早期・全面的な操業再開」を求める「住民の会」の発足を見ているが、地域の産業振興のあり方に対する住民の模索の現れとして注目すべきであろう。これらの住民の気運に町行政が働きかけて、先に決定された「板野町振興計画」による計画的な地域づくりに住民を文字どおり結集することが求められているのである。
 この調査では板野町の関係部局、商工会などの協力を得た。ご多忙の中、我々の勝手な注文に好意的に対処していただけたことに深く感謝したい。報告書の不備を含め、関係者との論議を今後継続できることを望んでいる。
 なおこの報告書は三者の素稿と討論をもとに中嶋が編集した。また調査および討論の過程には漆原綏が参加した。


徳島県立図書館