阿波学会研究紀要


このページでは、阿波学会研究紀要論文をご覧いただけます。
 なお、電子化にともない、原文の表記の一部を変更しています。

郷土研究発表会紀要第33号
鞆浦の網元制度について −解体期を中心として−

地方史班 佐藤正志

1.はじめに
 本稿は、海部郡海部町鞆浦に昭和30年代まで残存していた網元制度について、解体期に焦点をあてて、その構造と解体・再編の過程がどのようなものであったか、という点を先行研究の成果に学びつつ、漁協史料・統計等をつうじて考察したものである。
 ところで、海部川河口に位置する鞆浦は典型的な漁村集落を形成してきた。鞆浦は、明治22年に奥浦村との合併で鞆奥村となり、大正12年に町制へ移行した。鞆奥町の人口は、大正14年に2,238人、昭和25年には2,679人をかぞえていた。昭和25年には、〔表1〕のような産業別の世帯数・就業人口をもち、とくに漁業への就業者は300名余りをしめ、全就業者の半数ちかくと高く、しかも漁業世帯では、一世帯当り平均2名の男子が漁業に就業していたことが読みとれよう。なお、商業・サービスの就業者も多いが、これは奥浦地区の商業・サービス業の集積によるものである。(1)


 昭和30年代までの鞆浦漁業の主要な漁法と漁獲物は、〔表2〕のごとく、ブリ大敷網(定置網)を中心に、カツオ・マグロの一本釣、マグロ延縄、イワシ・シラスの船曳網(バッチ網)、サンマ棒受網、イワシ・アジ・エビの角網・建網などであり、とくに大敷網とバッチ網が鞆浦漁業の主軸であった。


 2.網元制度の構造
 ところで、「網元制度」とはどういう定義がなされているのだろうか。まず、鞆浦の網元制度を調査した水産事情調査所『漁場管理方式基礎調査』によると「漁業権所有を基礎として舟方(漁夫)に対する身分的制縛をその主内容とする」と定義づけられている。(2)また、『日本民俗事典』によれば、「網主は網の所有者でふつうアミモト・トウモト・ツモトなどと呼ばれ、漁撈の経営者である。網子は網漁の経営者に労力を提供し、漁撈の実務に携わるもので、アンゴ・アゴ・カコ・フナカタなど」と呼ばれ、両者の関係には、「きわめて隷属的なものと比較的自由なもの」とがあるが、農村における親方・子方関係に比較して「一般にはかなり自由」な雇用関係であったと説明されている。(3)
 こうした説明だけでは網元・網子の雇用関係の本質は、「隷属的」なものか、また「比較的自由」なものであるのか、あるいは二面性を持っていたのか、ということは明確ではない。さしあたり、ここでは前者の報告書(「隷属的」側面が随所で強調され、その視点が貫かれている)の調査にそって、網元制度の構造をみておこう。さて、鞆浦の網子の場合多くが網元と血縁関係を有し、常に同一網元との雇用関係の下にあった「常行(じょうゆき)」と、比較的自由な雇用関係にあった「トビノリ」に分れていた。その「常行」の網子の家計はほぼ完全に網元の家計の一部に組込まれていた。例えば、明治期に川東の浜を独占していたM. S 家では、「舟方は、全部網元が面倒をみて、じいは毎日扶持米をくばっていた。分家が何軒もあって、これが一諸の世帯」となっていたという。
 もちろん網子は直接的な強制力でもって網元に隷属していたわけではないが、「義理を欠くとか、この土地の風習でない」といった慣習や村落共同体的な規制でもって多かれ少なかれ束縛を受けていたのである。さらに、網元・網子(舟方)の周辺に存在した自営者の多くも、時期によって網元の雇用の下に入った。大正初年以降、鞆浦では100戸前後の舟方層を中心に漁民の大部分が〔表3〕の7網元の系列下に組込れ、支配を受けていたのである。


 ところで、この7人の網元の支配力の物質的基盤は漁業手段の所有と集中にあった。またそれをテコにして、網元層は大敷やバッチ網の漁業権を実質的に掌握したのである。漁業手段についてみると、大正15年に M S 家一族は、サバ巾着網1、イワシ揚繰網1、ブリ建網5、目白建網2、サバ建網3などの漁具を所有しており、他の網元もほぼ同様に多種にわたる漁具を所有していた。(4)こうした漁業手段の網元への集中は、敗戦後10年を経た昭和30年代初頭になってもそれほど変化はなかった。〔表4〕では、7網元が動力船トン数の88.7%をおさえ、それにともない漁獲金高の66.5%を集中していることを示しているが、そこからは網元が戦後のこの段階でも依然として支配的地位を保持していたことが読みとれよう。


 3.7網元支配の形成と変化
 次に、鞆浦において、7網元による集団支配がいかに形成され、いかなる変化を遂げてきたのかについて、その推移を先行研究等によって一瞥してみよう。
(年表参照)
 まず、網漁業がはじまり網元が出現したのが藩政期末頃であった。当時の網元には、とよもん船、さかいや、せいさん、山口屋等があった。(5)その後、明治期には川東地先の浜は、M. S 家に独占されるようになり、大正初年に至り、その独占が崩れた。原因は、明治末から大正にかけて牟岐・浅川をはじめとする海部郡一帯でのカツオ釣漁業の本格的発展を背景としていた。同漁業の発展に伴い餌イワシ・シラス対象のバッチ網に、他の有力網元が参入したことと、カツオ動力船建造に乗りだした M. S 家がその経営に失敗したことを契機に川東浜の独占が崩れたのである。こうして、M. S 家も含む7網元による集団支配の下で鞆浦の漁業が展開していくのである。
 大正13年には、高知県野根村の岡初夫等より鞆浦漁業組合に対して、ブリ大敷網敷設の申し入れがあり、翌14年よりバッチ網元組7家も加入して高知資本との合同による轟水産大敷組合の発足をみた。同組合は、昭和9年に漁業組合の自営=村張り経営へと移行した後も水揚げはよく、かなりの成績をあげた。初年度の配当1株80円、3年目は大漁で400円であった。(6)しかし、この組合は漁民1人当り1株に対して、網元は2株の持株比率(7)となっていたため、網元の支配力は、県外資本を排した大規模な大敷経営にまで拡大することになったのである。
 昭和4〜5年から徳島県のカツオ・マグロ漁業は全盛期を迎え、海部郡内でも100トン級の漁船が40〜50隻あまり建造され、また日和佐以北では以西底曳網漁業への進出など活発化したのであるが、鞆浦では沿岸のカツオ・マグロ漁を中心に、小型漁船での出漁にとどまっていた。しかしながら、カツオ漁業の発展を契機に、各網元は競ってイワシ角網へと進出した。この角網の漁業権は、バッチ網とともに形式的には漁業組合にあったが、実質的には7網元が握り、7統の輪番で行使された。餌料を独占することとともに、網元支配の重要な経済的基盤がこれによって形成されることになったのである。
 しかし、昭和16年になって、従来から角網操業をおこなっていた網元7統と、新興のM.H氏との間で、操業の日割をめぐる激しい対立がもちあがった。これは、M.H氏側が7統に対し、同等の権利を要求したことに端を発していたが、7網元による集団支配を突き崩す動きがでてきたのである。(8)また、敗戦を契機に漁業の民主化が急速に進展するなかで、昭和20年には大敷組合の持株が1人1株と均等化し、網元の大敷への支配権が後退しはじめた。さらに、昭和24年に施行された水産業協同組合法により、漁業会(昭和19年鞆浦漁業会と改称していた)の解散と鞆浦漁業協同組合の発足をみた。制度面からの民主化は、網元制度が内包する「隷属的」な雇用関係に大きな改革を迫ることとなったのである。


 4.網元制度の解体と再編成
 以上のように、敗戦後の漁業制度の民主化という外的条件によって網元制度は解体の方向へ動きはじめた。しかし、既にみたように、昭和30年代初頭においても、大正初期に形成された7網元の支配力は強固に残存しており、ドラスチックな解体はほとんど進捗していなかった。
 その理由のひとつには、漁業なかんずく沿岸の網漁業が本来的に有する協業的・共同的な労働形態・労働過程の存在をあげることができよう。そうした面においては、どうしても旧来の慣行・規制が残存し、機能しつづけざるを得なかったからである。ブリ大敷・バッチ網等の経営には労働力の結集と編成をはかる統轄者としての働きを担った網元の存在は不可欠であり、そのためその支配力と権威の喪失は、一挙には進まなかったのである。さらに、狭小な空間的・地理的諸条件や交通・流通面での諸条件が規定する漁村村落内部では、地縁・血縁関係の網の目が労働力市場をおおっており、網子がそこから自由に離脱すること(離脱しえたとしても戻ること)は容易でなかったことも大きな要因であった。
 しかし、こうした網元制度を残存せしめる強い諸要因の存在にもかかわらず、解体・再編成の動きは、30年代に入ると急速に高まってきた。その原因は、上述の民主化の過程で形式的に網元と網子の権利が平等となり、網元の指導権喪失が余儀なくされたことを背景にしていたのであるが、まず第一に、30年代に入り、バッチ・角網の経営効率が低下し、網元支配の基盤が動揺しはじめたことを指摘できる。これら網漁からの収入が網元収入全体の20%以下まで落ち込むに至ったのである。それは沿岸漁業自体の荒廃・不振の深化が一因と考えられるが、その傾向は40年代に入ると〔表5〕でわかるように、漁獲量が漸減しはじめ、決定的となってきた。そのため、Y・I氏などの「発展しつつある網元」は、沿岸漁業を離脱し、マグロ延縄・サンマ棒受等へと経営の重点を移動させつつあったのである。


 ところで、こうしたバッチ・角網の経営危機を打開するため、網元を含む若い漁協のリーダー達が先頭に立ち、7統に分立したバッチ・角網の統合をはかり、資金・設備等の集約・合理化をおこない、生産性の向上をはかろうという計画がもちあがった。(9)昭和31年7月に成立した鞆浦漁業生産組合がそれである。この組合定款には、「組合員の協同により漁業の生産力を増強して組合員の生活向上を図る」との目標が掲げられた。(10)さらに、翌32年9月のバッチ・角網の統合経営への移行についての協定書では、網元層のなかから鞆浦の網元制度が露呈しつつある矛盾への批判と、網元制度そのものの解体への意思表示が明確になされており、注目に値する。
 「バッチ網角網の統合経営は最早緊急に実施を計る時期に到達しおり之以上遷延を許さぬ状勢にあり大局的見地より網元古来の一切の因縁を放棄し七人共同経営に集約して早急に合理化を計ることに就いては何人も異議なし」(11)
 しかし、この生産組合=協同組織は、期待された程の集約・合理化による利益は生みださず、これまで7網元体制の下で数系統に分れて相互に競争することによりあげてきた生産性を、かえって低下させる結果となったのである。また、統合により各網元がかかえていた有能な「船頭」層の離反を招いてもいる。(12)このように、バッチ・角網の統合集約化の挫折により、網元の沿岸漁業における経営基盤の後退をおしとどめることは、ほとんど不可能となってしまったのである。
 さらに、第二点目には、昭和30年代の高度経済成長の過程で、若年労働力を中心に都市への労働力の流出がはじまり、また、漁村に残った者も、例えば漁業近代化資金等の利用によって独立自営経営へと上昇することが可能となり、若年労働者層を中心とする層が網元支配下の雇用労働から離脱しはじめたことをあげることができよう。〔表6〕にみられるように、30年代の半ば以降、3トン未満を中心に10〜20トンクラスまでの有動力船所有の経営体の増加ぶりがそれを物語っている。


 これに対応して、漁法も釣漁(土佐沖のメジカ等)が急増しているのである〔表7〕。


 このように、昭和30年代のなかばに入り、鞆浦の網元制度はその支配力の物質的基盤の動揺とともに、「隷属的」な雇用関係を変化させていった。また、この過程で網元は、網漁における経営主体として、旧来の「慣行」を一部変質して残存させながらも、労働力編成・統轄の機能者へと純化していった。かくして、網元制度は、「制度」としては解体をとげるに至ったのである。

〈注〉
(1)海部町教育委員会『海部町史』(昭和46年)
(2)水産事情調査所『漁場管理方式基礎調査(III)徳島県海部郡鞆奥町』(昭和31年)、「網元制度の再編過程とその崩壊」(同上)、『水産事情調査月報48』(昭和31年)
(3)大塚民俗学会編『日本民俗事典』(弘文堂・昭和47年)「網主・網子」の頃。
 なお、最近の漁業史研究の成果のなかで網元制度については、さしあたり、高桑守史『漁村民俗論の課題』(未来社・昭和58年)を参照のこと。
(4)「漁具所有者氏名種類及び具数表(大正15年10月現在)」(鞆海漁業協同組合所蔵)
(5)(6)前掲『海部町史』
(7)同上。しかし、前掲『水産事情調査月報』では、持株比率が、漁民1人1株に対し、網元1人1.5株となっている。
(8)「臨時総代会決議録(昭和16年11月27日)」鞆浦漁協所蔵
(9)三浦清見氏からの聞き取りによる。
(10)「鞆浦漁業生産組合定款(昭和31年7月)」鞆浦漁協所蔵
(11)「協定書(昭和32年9月16日)」鞆浦漁協所蔵
(12)三浦氏からの聞き取りによる。
付記
 本調査にあたり、徳島民俗学会の条伴吾氏、鞆浦漁協組合長の三浦清見氏より、史料の紹介や聞き取り調査等で御協力・御教示をいただきました。


徳島県立図書館