阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第33号
海部町の民家

建築班

  森兼三郎・四宮照義・鎌田好康・

  林茂樹・稲塚充弘

はじめに
 私達建築班は、日本建築学会徳島支部の学会員を中心とし、フランスの建築家ベルナール氏、フレデリック氏、ドミニク(女)氏と京都の建築家木下氏の4名を客員とする合計9名で、「蔀帳のある民家」をテーマに7月29日から8月1日までの4日間現地調査を行った。この調査にあたり町役場、町民の皆様、県立図書館、ホテル浜鶴の皆様方には色々と御協力を賜わり深く感謝申し上げます。

 

目次
1.蔀帳の町並(ミセ造り)
2.海部町の民家
 1)庄屋屋敷―横山家
 2)難目付屋敷―岡沢家
 3)蔀帳のある家―花野・西宮家
 4)士族の家―田中家
 5)石塀に囲まれた家―中西・小浜家
 6)中山路の家―馬場家
3.その他
 1)穴太衆積
 2)いらか建
 3)網納屋
 4)水切の家
 5)持送り
4.外国建築家(フランス人)の観た海部町の民家(ベルナール・ジャネル・フレデリック・ボリット・ドミニック(女)3人)


 1.蔀帳の町並(みせ造り)


 県内には保存すべき街並みが多い。商家の街並みでは、卯建(うだつ)のある美馬郡脇町、三好郡池田町、職人の街並みでは、美馬郡貞光町の十軒長屋。塩業の街並みとしては鳴門市桑島の浜屋があり、海部郡海部町の鞆浦、奥浦には商店建築のルーツ・みせ造りの家が続く。みせ造りは、家の玄関横に取りつけた二枚の板戸を上と下から上げ下げする仕組み。上をうわせみ、下をしたみせと呼ぶ。したみせを下ろすと店(みせ)になり、物品を並べて売ったり、夕涼みの場所として利用されてきた。したみせを上げ、うわみせを下ろすと中央で合い、雨戸となる。玄関横の小部屋は、みせのまとか表の間と呼ばれ、家の中で最も明るく、仕事場として使われていたのがこの部屋だった。みせ造りのルーツは京都と言われ、現在でも京の町の裏通りに入ると、このみせ造りの家が時折見られる。室町時代以降に中、四国、近畿一円に広がったらしい。海部郡南部でも昔は多くの家にあったそうだが、いまではその数がめっきり減っている。宍喰町に12軒、お隣の高知県安芸郡東洋町に20軒残っているのが多い方。阿南市以北では全く見られない。ところが、海部町鞆浦、奥浦には約109軒も残っていることがわかった。この数は四国で最も多く、全国的にも例がない。脇町では卯建の街並み保存に力を入れているが、このみせ造りの街並みもそれに勝るとも劣らないもので、観光面でも大いに有望だし、町おこしの一資源として考えてほしい。


 2.民家
 1)庄屋屋敷の家 横山家(鞆浦字中町)
 昔の主屋はすでに現存せず、昔時の庄屋屋敷構えが残されている。現在建っている家は大正時代の木造平家建である。庄屋屋敷(高橋)を医者(旧町長)が、戦後に譲り受けて生活していた。屋敷の東、北側には、昔のままの穴太衆(あのうしゅう)積の石塀と門が残されており、屋敷内には伝説の井戸がある。


 2)難目付屋敷 岡沢家(鞆浦字立浦)
 この屋敷は代官手代屋敷とも呼ばれ、前の道路幅は4mでその前は船溜りの入江になっており、その北側には高さ50.3メートルのこんもりした小山がある。これが海部城(鞆城跡・阿波九城の一つ)である。主屋は120年位前の建築と言われ、玄関欄間には家紋の笹りんどうの彫刻があり、巴瓦には蜂須賀家に仕えることを証明する卍の紋が見られる。昔の侍屋敷が残されているのは、ここ岡沢家だけとなり、入江川を狭んで海部城跡のふもとには、当時御陣屋屋敷(赤松代官)があり、今は赤松の地名だけが残っている。家主が留守のため、建物調査ができず残念であった。


 3)蔀帳のある家
  a)花野家(鞆浦東上町)
 鞆浦漁協の南、愛宕山裾にある天理教分教会があり、その途中に花野家がある。間口2間、奥行5.5間のこじんまりとした民家で、私達はこの家を充分に調査した。棟札によって文化10年(1806年)、大工鞆浦兵吉、施主大和屋幸助の作である。


  b)西宮家(鞆浦南町)
 みせ造りの家で、上みせ、下みせが共にあり、特に持ち送りの彫刻は南町随一である。100年以上前の建築ということで、確認のため、屋根裏に上ったが、棟札は残念ながら見つからなかった。


 4)士族の家 田中家(鞆浦高倉14)
 五人衆の家とも呼ばれ、当時、役所の重役の一人。慶長年間(1596〜1615)に海部城より現在地に移住。棟札により文化9年(1813)の建築である。以後明治時代に増築し、現在に至っている。


 5)石塀で囲まれた家
  a)中西家(高園字小林104)
 棟札によって99年前に、2代目の当主が建てたものである。主家の東側にソーコ、カマヤの一部があり、増築改築しているが、主家は一般に見られる四間取型式をとっている。玄関入口に物入が左右にあるが、右のものはショーベンヤ(小便所)であったと思われる。


  b)小浜家(高園字小林103)
 中西家と同じ大工の作である。棟札により慶応2年(1866)の建築で、間取りも中西家と同じ構えとなっている。この家には明治年間に作られたと思われる立派な絵図面がある。


 6)中山路の家(馬場家)
海部川をさかのぼると、やがて中山路に着く。車を降りて、谷合いをひぐらしの声を聞きながら徒歩で約10分で馬場家につく。酷暑にもかかわらず、ここ中山路はもう初秋の気配がする。馬場家は、四間取りの構えで、一般農家の間取りである。


 3.その他
 1)穴太衆積(あのうしゅうずみ)
 滋賀県琵琶湖のほとり坂本のまちの景観を形成している要素の一つに石垣がある。ここでは民家、社、庭園、道をはじめ、どこでも素朴で美しい石垣を見ることができる。これらの石垣を積んだのは、石工穴太衆であった。石工集団の穴太衆は、かつて比叡山麓坂本の南に位置する穴太に居をもっていた。時代が下って戦国の世となると、穴太衆は築城の石積の技術が買われて、全国にとび、穴太積の名を残していった。
 2)いらか建
 海部町の海岸地帯は風が強い。特に颱風時は、その風力は大変なものである。この風雨から家屋を守るため、特に風当りの強い建物の妻側の軒裏に、登り板を打ちつけて、破風の下側を守るように工夫されている。これをこの地ではいらか建と呼ぶ。
 3)網納屋
 「鞆の浦の網元制度について」と題して佐藤正志先生の発表によると、網元7戸あり、大正末頃まで舟方の家計は、網元の家計の一部に組込まれていた。と述べている。その魚網、魚具を収納した当時の網納屋が今も残っている。
 4)水切り
 海部町は、隣県の高知に近い。高知は颱風、風雨が多い。そこで考えられたのが土佐の水切りという外壁仕上げ方法である。これは、漆喰壁に当った雨を水切りによって、雨水を切って落とすように工夫されたものである。もし水切りがないと、雨水は壁に添って流れ落ちるので、壁が雨水をふくんで弱くなるし、汚れもひどくなるからである。
 5)持送り
 ブチョウの雨側の柱にとりつけられた彫刻付きの腕木板のことである。各家々の持送りの彫刻は其々舟大工の腕の見せどころと思われ、非常に凝ったのもある。


 4.外国建築家の観た海部町の民家
 ここに紹介する文は、今回の調査に客員として参加した京都市在住の建築家木下龍一氏が、その友人として一緒に連れてこられたフランス建築家の観た海部町の民家の報告書である。原文はフランス語で書かれているのを木下氏が訳して届けてくれたものである。尚、参加されたフランス人3名の内の紅一点のボリット・ドミニク女史は、とても美人で、巻末に彼女自筆の自己紹介を載せることにした。
 ペルナール・ジャネルの報告……今年も又私は二名のフランス人研究者と共に、四宮先生の御指導の下、阿波学会の調査に参加した。今夏の調査は古くからの漁師町、海部町で行われた。その漁港は美しく、一回の調査が終って、港の堤防に皆んなと夕涼みに出掛けたときの思い出は、私の心の中に焼きついている。次から次へと漁を終えて港に帰ってくる漁船は、沈みゆく夏の太陽に赤く染った入道雲の影に映えた水面を、一条のトレースを引いて、それぞれの舟溜りに吸い込まれてゆく。何時の間にか、この光景を描かれた色紙を、四宮先生から記念にと戴き、大切にしている。さて、この漁港の町並みには、ブチョウと呼ばれる折り畳み床几に特徴のある伝統的住居が沢山残っている。これらの住居に統合された伝統的建築の様々な要素は、数多くの観点から非常に多くの利点が発見される。
 例えば、ブチョウは閉じていれば、家屋を風雨から守るし、開いていれば、それは腰掛けであり、テラスであり、テーブルにもなる。又、家の内と外の道路との境界の役目をするブチョウは、まさに漁師街特有の社会的空間を形成している。テラスによって、それぞれの側を縁どられたところには、子供達が老人を囲んで遊び、家族が集い、家から家へと人々が話し合うことができる。


 日常生活におけるこのブチョウの柔軟性、多目的性、そして重要性は、製作時に払われた特別な配慮によって、更に強調されている。装飾の少ないこの質素な家の中で、うず型持ち送りと、引掛けは、とても繊細に彫刻が施されている。これらの建築的細部は、伝統的住居への社会的価値を明確にしている。近所同志の気持の良い付き会いの中で、ブチョウの美しさは、住人の連帯感を強化し、社会生活に若々しさを感じさせている。我々はブチョウのある町並みのにぎわいや熱気に比べて、常に入口の扉や窓の閉じられた新しい住宅が並んでいる町並みの通りとのコントラストが、あまりにも著しいことに驚いている。
 建築が、社会的機能からとらえられている伝統的日本家屋についての今回の調査、及びその方法は、非常に新しいものであり、興味深い。調査結果は、建築或は社会科学を学んでいるフランスの研究者や学生達に報告されるべきだと思っている。このような、いまだ知られざる空間構成についての調査は、日本の伝統的民衆建築の社会的、文化的かつ、芸術的価値を提示し得ることだろう。そして更に、そこに住む人の要望に沿った住まいの形を保存し、或は再創造するといった利点をも示されることであろう。
 ボリット・ドミニク女史の報告……伝統的建築の利点はといえば、そこにはらまれた空間に関連する住み方や、作法の知恵等、過去に結ばれた欲望を明らかにしてくれることである。これは家が表わしている満足感をめざして、住民の心にある共謀を目ざめさせる。古い民家は、以下の二つのケースが考えられる。
 A.集落社会のダイナミックな一要素として
 ブチョウは、海部町の伝統的民家の建築的特徴であるが、これは又、コミュニケイションの空間として外部への可能な一つの開口部を表現している。このブチョウがはたしているところの内部と外部との媒介空間は、家々からは繊細に守り隔てられ、且つ何の緊張感もなく、日常人々の出会いの場所となっている。
 B.親子関係の可能な登録の場として
 古い民家は仏壇のおかげで、家の中に先祖達を現在に迎え戻している。住民達との会話において、彼等の家の過去が、誇りをもって開陳される。棟札(その家の先祖の発見には重要な品である)や、古着(さむらいの衣装)、さむらいのかたな等の品々を通じて、だんだんとヴェールを脱いでくる。家屋は同様に青春時代をおもいおこさせる。古びたポスターによって、そこに不在の子孫達の痕跡を保存している。
 これらの家々は、全部が一体となうて、あるひとつの生き生きとした過去へ我々を送り返しつつ、かつ又、それが不可能な未来を思いおこさせる。
 我々は今後家々が、社会的、経済的、空間的条件に直面して、もはや家族的絆が、力を持たなくなったとき、死んでしまうであろうことを見てしまう。家は社会のある変化を証言している。そこでは、家も家族も、もう一度定義しなおさなくてはならないだろう。
 住民すなわち住まいの記憶を持っている人達の家をたてるために、或いは、西洋化という意味だけに限るものだけではないにしても、住居を近代化してゆくために、多面記述式接近法を用いての伝統的建築の研究を押しすすめてゆくことは、絶対に必要不可決ではないでしょうか。


徳島県立図書館