阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第33号
石造文化財・文書類調査

郷土班

  河野幸夫・藤丸昭・多田健三郎・

  石川重平・森本嘉訓・武田寛一

はじめに
 郷土史班は、海部町に所在する古文書・古記録類を調査する文書調査班と、石造文化財を調査(実測)する石造文化財調査班の二班を編成し、相互に連繋をとりながら、調査活動を実施した。
 特に文書調査では、町内のいわゆる旧家所蔵の周知の古文書類は時間の関係で割愛し、つとめて新史料の掘り起しに重点をおいた。幸い、木内・野尻両家ともに、襖(ふすま)の張り替えの時に出た下張りに使われた古文書類を保管されていたので、その解読と整理につとめた。
 さらに文書館設置決定の誘因の一つとなった県市町村の公文書や私文書、保存期間を経過した現行の公文書など、海部町役場に所蔵されている、いわゆる行政資料の調査に初めて手をつけることができたのは、大きい収穫の一つであった。石造文化財についても、すでに町指定になっているものは、できる限り避けて、これも新資料の発見につとめると共に、周知のものについては、その疑問点などについて卆直に所見を述べて今後の研究課題を提示した次第である。

 

 1 石造文化財の調査報告
(1)城満寺の線刻伝地蔵菩薩立像


 ・造立時期 建武2年(1335) (笠井藍水説)
 ・石質 砂岩
 ・石像の大きさ 全高33.3cm 像高23.5cm(写真参照)
 ・標識 正面向き 腹部で両手を合掌。衣文はなく、裾(すそ)の方がスカート状に開いた六本線で示す。頭は円型、眉間に白毫(びゃくごう)をつける。目鼻はやや直線的で、耳は比較的小さい。頭が肩部に突きこんだ、いわゆる猪首形である。
 ・標識に関する疑問点
 海部町教育委員会編集の『海部町文化財年表』に「門前谷出土石仏 地蔵菩薩線刻」とあるが、画像より判断してやや疑問点がある。一般に地蔵菩薩の画像は、右手に錫杖、左手に宝珠を持つものが多い。(若干の例外もある)。この像にはそれがない。また光背(こうはい)も欠ぐ。
 わが国では人物信仰が中世から始まり、特に南北朝時代に盛行した板碑の標識に、本尊仏の下に帰依する人物像が刻まれている例が多い。
 この事から考えて、この線刻の立像は、城満寺に帰依した僧侶ではないかも知れない。後考を期したい。
 ・城満寺について
 城満寺は永仁4年(1295)、四国最初の曹洞宗寺院として建立された事は、余りにも有名である。
  ただ、『常済大師伝』―孤峰智■著―に、
  大師御齢二十八歳の秋、細川刑部大輔頼春の属将に、阿波国海部郡司某として、加州富樫家縁族ありて……その釆地なる阿波の城満寺を建立して、遙かに大師を迎えて開山第一祖に講じた…。
とあるが、この年は細川頼春はまだ五歳の頃で、海部郡司某が頼春の属将と考えがたい。もちろん頼春が阿波守(守護)となったのは、1339〜51年の間のことである。この『大師伝』が多くの文献にそのまま引用されているので、あえて記した次第である。
(2)地蔵寺の地蔵菩薩画像板碑


 ・造立時期 明徳元年(1390−南北朝時代の北朝最後の年号)
 ・石質 砂岩
 ・大きさ 165cm(上部折損) 幅35cm 厚さ7cm
 ・標識 地蔵菩薩立像 月輪光背、右手に錫杖、左手に宝珠、台座 五弁(単弁)の蓮華台座。納衣も簡略した線で示す。
 ・銘文 右志者為逆修 結衆
   明徳元年十月 日
  奉 造立 供養 各々敬白
 この銘文によって、この板碑が芝村の人々の結衆によって、逆修(ぎゃくしゅう)つまり生前に死後の菩提を弔う供養のために造立されたことが知られる。
 この板碑はすでに周知されたものであるが、城満寺の石仏の標識との対比のため、とりあげたものである。
(3)鞆浦洞窟内の宝篋印塔


 ・造立時期 桃山時代と推定
 ・石質 花崗岩
 ・大きさ 洞内のため暗くて実測不能
 ・構造 最下部に他より移して来たと思われる宝篋印塔の基礎石を三個積み重ね、その上の基礎・塔身・笠・相輪・宝珠は、造立当初の姿をとどめている。
 基礎に反花(そりばな)を刻し、笠の隅飾(すみかざり)は二重孤に造り、少し外に反っている。相輪には伏鉢、請花を造り出して五輪を刻し、更に請花を造り出して宝珠を受けている。
 益田(ましだ)豊後の供養塔という俗説に関する所感
 海部城代の益田豊後が処罰されたのが寛永10年(1633)とされ、その供養のため建立したとすると、少し時代的に無理がある。供養のため、そのあたりにあった宝篋印塔を移して、供養塔としたという事であれば、その説は成立するであろう。
(4)鞆城山麓木内家墓地の角柱塔婆

 ・所在地 木内家ほか判形人墓地の入口右側
 ・石質 花崗岩
 ・形状大きさ
 高さ58cm、幅14.5cm四方の四角柱、頭部を方錐形に尖らし、その頂点は塔身の中心に位置している。頂部から約6cm下がった所に幅1.5cmある二条の横線を四方に回らし、その二条線から更に約4cm下がった所から地蔵菩薩の立像を薄肉彫りに彫り出している。
 ・画像
 右手に錫杖、左手を胸のあたりに上げ宝珠を捧げ持っている。
 ・銘文
 画像の右側に地蔵尊をあらわす種子(しゅじ)の梵字らしい彫り跡と、その下に銘文らしい文字がかすかに見えるが、磨耗がひどくて判読はできない。
 ・造立時期
 主尊の形容が由岐町にある貞治6年(1367)記年銘のあるものと極似していることから推察して、南北朝期の造立と考えたい。
 ・角柱塔婆の意義
 そもそもこの角柱塔婆ということば自体、聞きなれないもので、本県では鶴林寺や太竜寺の丁石がある位で、他には見つかっていない。この角柱塔婆の出現は鎌倉末期あたりといわれ、永仁6年(1298)記年銘のある山口県萩市大井浦の墓地にあるものが、現在確認されている最古といわれる。
 石田博士によると、近世墓石の源流として、その先行遺品が鎌倉時代の角柱塔であるとされている。県下にまれにみる貴重な石造物である。
○その他の五輪塔・宝篋印塔
 この墓地の一角に、五輪塔や宝篋印塔が数多く集積されている。造立年代はいずれも室町後期から桃山時代初期の形態を備えているものである。このうち宝篋印塔の台石の側面に彫刻されている格狭間(こうざま)の蓮華文はみごとな出来ばえである。再調して復原し保存されることを切望するものである。(この項 石川・河野)
(5)鞆浦の家型墓
 鞆浦地区で二基確認、一基は愛宕山の登山道脇にあり(計測図1・写真1)放置状態で、この家型墓の呼び方も確認できなかった。扉(扉のためのホゾ穴が屋根の下面に確認できる)は不明であるが、それ以外は完全に近い。


 総高80.5cm、身部高52.5cm、前幅52cm、屋根高28cm、身部奥行(内側)23cmである。
 材質は凝灰岩(二基共粒が荒く黒っぽい。通称豊島(てしま)石と呼ばれる凝灰岩の一種)で、加工は全体的に細かいタタキ(見えない部分は荒く、銘文の周辺等見える部分はややていねい)で仕上げられている。
 奥壁には「寛文六年 ア(梵字)清月妙□信女□月十□日」(拓本1)と陰刻されている。側面には蓮の花と思しき模様が浮彫りされている。
(拓本2)屋根の軒は、垂木を模した加工がなされている。
 もう一基(計測図2・写真2)は、ザントウさんと呼ばれている墓域にあり、風化が進んでいるためか、上部にコンクリートの屋根が作られている。残高約56cm、前幅55cm、身部奥行(内側)は26cmである。全体に風化が進み、加工状態は不明である。
 奥壁には五輪塔の浮彫り(1.1cm壁より出る)がなされているが、これも風化が進み一部はくずれかかっている。身部中央には一石五輪塔(と思われる)の破損品が置かれている。こうした家型墓の内に石仏・石塔類を置く例が香川県等に見られる(注1)ことから、後から置かれたことも勿論考えられるが、一つのセットと見ることも可能である。
 以上二基の家型墓は同一形態のもので、時期的には山形塔(写真1の右側にその一部が見える)とほぼよく似てくるのであるが、数量的には少ないので、海部町では特殊な墓の部類に入るであろう。
 この家型墓は、由岐町の西由岐(七基)、田井(三基)に見られるものとほぼ同一の様式で、時期も西由岐の場合、寛永14年のものであるので、やはり同じ流れの中にあるものと思われる。
 この家型墓で注目したいのは、まずこれが豊島(てしま)石(香川県小豆郡土庄(とのしょう)町豊島)で作られていることで、この種のものは岡山県、香川県に極めて多く、例えば豊島石の切り出し口(大丁場(ちょうば)と呼ばれる。写真3は、現在使われている大丁場の入口風景)の麓にある甲生(こう)地区薬師堂裏の墓地は、全てこの家型墓であると言ってよいほどである。
 したがって海部町の家型墓は、瀬戸内海から(地図参照)何らかの、おそらく海上ルートで持ち運ばれて来たものと思われる。
 もう一点は、この家型墓がザントウと呼ばれていることである。残党の墓(ここには一石五輪塔、山形塔、角柱形の墓塔また洞窟の奥には室町時代の作かと思われる宝篋印塔(ほうきょういんとう)等があるので、どれが残党の墓と言われるものかよく分からないが)とされているが、伝承のみで具体的な史料は、今のところ見当らない。
 西由岐ではこれがダントウと呼ばれ、笠井藍水先生はその著書のなかで、「寺では有力な檀(ダン)家を檀度(ダンド)と云うから此意味であろう」(注2)としている。岡山県や香川県ではこの家型墓をラントウと呼ぶ。近畿地方では両墓制の詣り墓をラントウバとか、ラントバとか呼んでいるが、この豊島石製の家型墓はないそうである(注3)。
 以上のことからこの言葉の問題は、物としての家型墓についてきたラントウが、由岐ではダントウに、海部町ではザントウとなり、漢字が当てられたり、伝承が付け足されたりして、変化し定着したものと推測される。
注1.土井卓治『石塔の民俗』 民俗民芸双書73 岩崎美術社 昭和47年
 2.笠井藍水『三岐田町郷土読本』 昭和25年
 3.岡山民俗学会『岡山民俗事典』 日本文教出版 昭和50年
   (この項 森本)

 

2 古文書・行政資料調査報告
(1)はじめに
 海部町の史料調査の内、古文書等については、従来調査報告のなされている史料がどのように保存され、活用されているか、そのことについての調査とあわせて新しい史料の発見が出来ればと期待して実施した。
 また行政資料については、明治当初から、特には明治22年市制町村制施行以降の行政文書ならびに行政資料の保存状況についての調査と、あわせて将来にわたっての保存活用計画について、行政担当者の意識について面接調査を実施した。
(2)古文書
 昭和20年以降の海部町内での主たる史料調査の報告は次のとおり、県立図書館の実施による徳島県史料所在目録所収のものと、海部町史に所収のものの二点である。
 その報告の要約を示すと次のとおりである。
(イ)徳島県史料所在目録所収史料
 徳島県立図書館は、徳島県内各市町村、また各在家に所在の史料調査を実施し、その結果を「徳島県史料所在目録」として刊行し、海部郡分は、昭和44年12月に発行した。
 この海部郡分に収録の内、海部町に関するものは、
1  町役場所蔵
2  鞆浦 岡沢弓蔵氏所蔵
3  鞆 善称寺所蔵
4  高園 野尻実次氏所蔵
5  鞆 三浦豊一郎氏所蔵
6  鞆 森下長一氏所蔵
 以上の六カ所に所蔵の史料の内、町役場所蔵分は、総点数235点、内容は、海部町の旧村、鞆浦・奥浦・高園・野江・中山・櫛川・吉田・富田・大井の各村を含むものであり、(現海部町の旧村の内、芝村のみ欠ける)加えて、海部郡牟岐町に関係する内容の史料を多く含むものである。
 岡沢弓蔵氏所蔵分9点、善称寺所蔵分1点、野尻実次氏所蔵分103点、三浦豊一郎氏所蔵分1点、森下長一氏所蔵分4点、以上合計353点が収録なっている。
(ロ)海部町史所収史料
 海部町史は昭和46年12月1日発行、この町史に収録の史料は、第六章に559ぺージから603ぺージにわたっている。この内559ページから578ページにわたる間には、1 延喜式・2 倭各類聚鈔・3 大日本史・4 阿府志・5 田上郷戸籍断簡・6 粟の落穂・7 阿波の住民・8 郷名の比定・9 螢山、城満寺関係・10 阿波志・11 益田豊後事件・12 阿波国徴古雑抄・13 蜂須賀家記・14 阿談年表秘録・15 海部郡取調廻在録、と以上15点の文献から、海部町に関係する部分を抄録している。これらの抄録は、県内では流布ずみの文献からのもので、ここで改めて紹介の要はないはずである。次に16 以下は、16 四方原村野村家文書抄・17 木内家記録抄・18 日和佐御陣屋御用日記抄・19 土州表へ異国船漂着聞合書抄・20 棟附帳抄・■検地帳抄・■覚書、証文、願書の類の7項であり、これらは町内に存在する史科を抄出している。16 の四方原村野村家文書は、寛永13年天庸様、御巡国にまつわる四方原村田畠開き立ての計画の端緒1件、その他母川の由来等。17 木内家記抄は、(1)木内弥次右衛門重勝系図、(2)享保14年大守南方御巡国の記録、(3)天文5年蜂須賀宗鎮南方巡見、(4)宝暦4年大洪水の事、(5)上下灘歴代代官、18 日和佐御陣屋御用日記(抄)は、文政10年紀の、別家長谷禎氏所蔵史料中のもの。19 土州表へ異国船漂着聞合書(抄)は長谷文俊氏所蔵中のもの。
 20 棟附帳抄は、
1  明暦4年中山村棟附人改帳
2  延宝2年高埆村棟附改帳
3  文化3年富田吉田両村棟附帳
4  文化9年大井村棟附帳
5  延宝2年鞆浦棟附人改帳
6  嘉永元年鞆浦棟附御改ニ付見懸人名面取調指上帳控
7  文化10年海部郡鞆浦棟附御清帳ニ付大坂廻船漁船持之者共相調指上帳
8  明暦4年鞆浦棟附人改帳
 ■検地帳抄は
1  寛永11年戌6月高埆村検地帳
2  嘉永5子年11月野江村仮検地相附帳
3  寛文8年海部郡奥浦検地帳
4  検地帳による川西村旧地名
5  宝暦九己卯年11月野江村新開検地帳
 ■覚書・証文・願書の類
 以上の22類に分類収録なっていて、史料はすべて抄録であるが、これらの史料の所蔵については明確である。
(ハ)保存状況
 はじめに書いたように、今回の調査では、従来特に昭和20年以降に実施の史料所在調査とその後の保存の実態については、日数の関係で、ごく限られた件数にとどめざるを得なかった。調査に積極的に応じて下さった木内茂氏は、先祖は判形人であり、この木内家の史料は、海部町史に、わずかに系図の抄録が出ているのみであるが、調査の結果は、まとまったものとしては、「成立書並系図」は、初代木内弥次兵衛正次から八代木内虎五郎忠由にいたる10数枚のもので、内容は判形人成立の様子を伝えて重要なものである。このほか一紙文書として海防に関するもの海上運送に関するもの等近世中期からの経済史究明のためにも貴重である。
 このように、調査を詳細に実施するときには、従来の調査結果をうわまわる点数の史料の所在が確認なるものと推定せられ、改めての調査の必要を感じた。
(3)行政資料
 行政文書の保存と行政情報の公開の重要さについては、ここ数年来全国的な理論と実践によって、再認識せられつつあり、徳島県、徳島市等においては行政情報の公開について順次実績があがりつつある。今回の調査では、主として明治初年以降の行政文書の保存の状態がどうであるかを把握したかった。町助役の島田幸雄氏の案内で調査したが、保存状況については、役場庁舎近くの倉庫に未整理ながら大切に保存され、その保存状態、とくに乾燥状態は良好であり、将来保存のための特別の施設の完成について研究を進めたいということであった。
 なお、海部町は昭和30年3月31日鞆奥町と川西村が合併発足した。鞆奥町には旧2村、川西村には旧8村が明治22年合併して、鞆奥村と川西村を発足させたものであり、現在町役場保管の行政文書が、時代的にどこまでさかのぼり得るのか、といったことについては今回の調査では未追求に終わった。
 以上古文書数ならびに行政資料についての調査の概略である。


徳島県立図書館