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海部川は、徳島県と高知県の県境になる貧田丸1018.9mと、海部郡川上村湯桶の丸に源を発し、植小屋谷となって東南に2里流れ、大比の西で右岸の支流を入れて、東北方向へ2里半流下して皆(かい)の瀬(せ)に達する。これより南に流路を変えて左岸の小川谷を合せ、12町程で桑原谷と合流し、更に12町流れて玉笠谷を合せ、約1里下って川上村神野附近で柿谷を加え、更に約1里流れて相川と合流している。往昔は下若松で東南に山裾に沿って流れ、西に曲って相川と合流していた。 相川から南流して15町程で笹無谷と合流し、10町余を西流して南に流路をとり、約20町流下して川東村吉野附近で東南に向きを変えている。古くは、吉野附近で東の山裾に沿い、南に曲り、川西村高園附近を流れて母川に合流する流路と、現在の流路とに分れていた。300年程前に現在の流路が安定したものである。 この流れは吉野附近で東南に曲り、約28町流れて、川西村高園で櫛川谷川とその他の谷川や、西敷川中山の槇山川が合流して母川となり、脇の宮附近で海部川に合流し、約25町で奥浦に至る。ここから城山の南を迂回し、鞆浦北で海に向って開口していたが、幕末に現在の流路に人為的に作り変えた。 流程9里20町、約36.31km、舟航の見込める水路は7里16町、約29.17km、流筏可能の航路8里15町、ほぼ32.27km、主として10〜30石舟が就航し、川筋の高瀬舟は300隻で、1集落当りでは3〜5隻所有していた。舟付場としては、皆ノ瀬・小川口・桑原・樫ノ瀬・神野・相川口・大井・吉野・奥浦などが、それぞれあげられる。 舟付場には宿屋や商店が並び、下りの積荷としては木炭・薪炭・木材・草木灰などがあり、上りには日常雑貨・塩・酒・殻類などがあった。渡し場は、舟付場に設けられていたものである。 筏流しは、「一番はな」は木材の直径5〜6寸を、10本並列し、スズメ■を打ち、二番やりは径7〜8寸で、8本を筏の一番と二番との間を縄でつなぎ、3寸離して結ぶ。三番やり径8寸を、6〜7本、4番やりは径1尺を5〜6本、5番やりになると、径1尺1寸を4〜5本で一つの筏に組んで、2〜3名乗る。1番やりと2番やりの時は1人で乗って川を下る。 筏元が6名程いて、水量など時期を見て流し、一たん吉野で木を留め、更に脇之宮・奥浦へ流していた。脇の宮には木材の検査所があって、大和という人が検査にあたっていたが、後に森林太郎にかわった。 阿波藩の藩政時代には、奥浦に舟代官所があって、高瀬舟の積荷の木材や木灰に、それぞれ賦一金を徴収していた。 海部川の堤防としては、藩政時代に構築されたものが川東村吉野に残って、今は国道193号線の一部に利用され、芝・高園から下流は、現在の堤防の両側に昔のものが残っている。他の堤防は大正年代に芯(しん)に石積みし、その上に土盛りして築かれ、逐次補修されて現在の形になっている。 高瀬舟の航行は、道路ができて昭和初期にはなくなり、筏流しも昭和25年頃に見られなくなった。海部川の舟運は、昭和初年まで引き舟人夫30名が、下高園や脇の宮に居住していた。筏流しは昭和10年頃まで、大井が揚場で貯蔵し、奥浦城山へ逐次流していたという。 海部川の洪水の記録としては、正保4年8月(1647)、海部城北麓屋敷流失各地に被害ありというのを始め、寛文2年8月13日洪水、寛文4年9月1日洪水、延宝4年9月2日洪水、姫・能山・吉野・高園村で1畝12歩の田畑流失、21名死亡、牛馬30頭、家屋流失多数とある。 元禄4年8月7日洪水、高園村田畑藍作地地等7畝24歩流失、享保11年11月13日洪水、高園村柱の北中下田1畝6歩、下田1畝、下三田2畝24歩、中田6畝12歩、下三田7畝12歩、中下田9畝、下田3畝9歩の農作物流失とある。続いて享保14年洪水、享保16年8月17日洪水、元文3年8月11日洪水、高園村村道善寺川沿い藍畑2畝24歩。けい前8畝19歩流失。元文4年9月7日洪水、元文5年7月24日洪水、寛保元年8月31日洪水などとある。 延享3年10月8日洪水、沿岸各地の被害多数。寛延2年7月2日洪水、薪用材4,000石流失。宝暦4年10月14日洪水、吉野村3名、大井村1名、芝1名、高園2名の死者。牛馬30頭と田畑流失し、10か村で被害ありと記録されている。 明和6年9月8日洪水、明和8年8月15日洪水、安永3年10月5日洪水、寛政10年5月16日洪水、文化10年8月芝用水完成。天保2年9月10日洪水、弘化4年8月20日洪水、川東村に被害あり。嘉永2年8月27日洪水、嘉永3年8月2日洪水、安政2年9月30日洪水、万延元年8月27日と11月16日に洪水、慶応2年9月1日洪水などとある。詳細な被害状況の記録は残っていない。 明治期に入ると、明治5年7月15日洪水、明治10年9月2日洪水、明治11年9月3日洪水、明治25年7月23日洪水、平井村保勢山崩壊、いわゆる保勢切れで死者45名、家畜多数家屋流失、下流の被害夥(おびただ)しと記録されている。引続いて、明治26年8月10日にも洪水があった。 大正期には、大正元年9月22日洪水、大正4年9月9日洪水、大正7年11月12日洪水、大正9年8月30日洪水などとある。何れも、洪水は熱帯低気圧の襲来の時期に集中しており、風による被害も多かったことと思われる。昭和期には、昭和9年9月21日洪水、昭和13年9月5日洪水、昭和23年9月3〜5日洪水、昭和25年8月6日洪水、田畑流失71町歩、家屋全半壊15戸。昭和29年4月大雨で海部川増水し、川西村の被害多数とある。集中豪雨によるものだろう。 昭和32年8月24日洪水、昭和33年10月18日洪水、農作物の被害甚大。昭和36年9月16日洪水、台風で被害多数、家屋も痛み、被害者負傷者が出た。昭和43年8月29日洪水、昭和45年8月21日洪水などとなっている。煩瑣に書き並べたので読みづらいと思うが、お許し頂きたい。 被害の詳細について記録のない年月日が多いが、被害がない筈はなく、洪水の度に何らかの災害をこうむったことは間違いない。県内の他の大河川の洪水記録は多いが、海部川については、以上の記録しか残っていない。 海部川筋の用水は、大井の堰から水を引いて、富田・大井の灌漑用水に使ったものである。元禄時代には大井堰は300間であって、大正7年の旱魃で更に拓いたものである。藩政時代のものとしては、野江の庄屋国沢勘兵衛が寺山にいて、文化10年に芝用水を完成させたのが残っている。海部川用水は、昭和61年4月になって完成した。これは、富田潔氏の祖先が京都から来て、その基礎をつくっていたものである。
洪水以外の海部町の災害 天武12年(684年)11月19日、南海道沖地震で津浪による被害多数、天平6年5月18日、地震による災害あり、この間、文武元年・大宝2年・慶雲元年、2年3年と飢饉があった。天平宝字・天平神護・天応・延暦・弘仁・承和・貞観の年代にも飢饉があった。 仁和3年8月26日、津波により死者多数。仁平・養和・寿永・寛喜・正嘉・正元の年代にも、それぞれ飢饉があった。正平16年8月3日、大津浪で鞆浦の家屋多数流失し、またこの年にも飢饉があった。 応永年間に飢饉、永正9年9月13日津浪による被害。慶長10年1月31日(旧9年12月16日)、大津浪で鞆浦死者100余名、津浪10余丈7度来襲。寛永3年8月、川西村と近郷に旱魃による飢饉。寛永9年8月千害の飢饉、川西村の被害多数とある。寛永19年、長雨による飢饉。承応元年津浪来襲、寛文2年8月13日、鞆浦大火で万照寺焼失。寛文4年12月1日、鞆浦大火259戸焼失。延宝4年2月冷害の飢饉。宝永4年10月28日、大津波で丈余の波浪押寄せ死者多数。宝永7年旱魃の飢饉、正徳2年7月飢饉、享保18年8月5日、虫害と旱魃で飢饉。寛保2年鞆浦民家298戸・寺2、神社1焼失。寛延元年6月旱魃で農作物に被害があった。 宝暦13年10月20日、鞆浦233戸焼失。明和3年旱魃の飢饉と鞆浦の大火、天明2年6〜8月、同3年9月、同4年9月、同5年2月、同6年11月と、旱魃による飢饉があった。同8年11月には、長雨による飢饉。寛政元年5月10日、大津浪で被害多数とあり、寛政4年9月12日大雨による被害。文化8年6〜10月、旱魃と長雨の被害が農作物多数に出た。文政5年7〜8月、旱魃で農作物に被害。天保3年5月旱害、天保7年9月冷害、天保8年4月24日冷害、8月旱魃の飢饉、天保9年8月1日旱害など。 嘉永元年2月、地震と大津浪で被害多数。嘉永3年8月2日、大津浪で被害甚大。嘉永7年12月23日、大津浪と地震で被害。安政元年2月16日・大地震と大津浪で被害甚大。安政2年8月19日、旱魃の被害。安政5年8月15日は、コレラの疫病大流行し、死者が出た。文久2年6〜8月、コレラ・はしかが大流行している。また、慶応2年の7月には、旱魃による飢饉に見舞われた。 明治10年8月30日には、風水害と冷害で農作物は凶作だった。明治19年7月29日旱害、明治20年7月23日旱害、明治35年7〜8月、低温多雨による農作物の被害、明治38年6月2日には、地震による被害が出ており、明治42年6月10日にも地震を経験している。 大正期に入って、大正6年9月1日には、川西村大井の大火で、39戸53棟が焼失している。大正13年6〜8月に旱魃による被害が出ている。 昭和4年7〜8月、旱害で農作物に被害、昭和9年6〜8月旱魃の被害、昭和14年7月5日、旱魃で農作物に被害。昭和17年7〜8月、旱魃で被害、昭和21年6月15日、旱魃で農作物に被害、同年12月21日、南海道沖地震で被害甚大、死者多数を出している。昭和31年7〜8月は旱害、昭和35年2月21日には旱魃の被害、同年6月30日には集中豪雨の被害があった。昭和37年9月に旱害があった。これらには、記録に洩れがあることも考えられ、海部町に関係ある記録によったといっても、疎漏をまぬがれ難いかとも思っている。 なお、これらの記録については、「徳島県災害史年表」(上田利夫著)と参照を乞う次第である。
人口動態について 海部地方の村別人口動態は、大体次のようになる。記録がモザイク状に飛び飛びになっているので、表には組まなかった。 慶安元年8月、中山村24戸。明暦3年、鞆浦387戸。明暦4年高埆(園)48戸、野江41戸、芝34戸、中山49戸、櫛川42戸、大井10戸。 寛文12年、鞆浦391戸。延宝2年、高埆(園)41戸、野江39戸、芝37戸、中山38戸。享保9年、中山43戸、高園61戸、鞆浦375戸。享保12年、富田(吉田を含む)35戸、大井58戸。寛政元年には鞆浦291戸となっている。 明治5年には、高園120戸、野江45戸、芝35戸、中山37戸、櫛川61戸、吉田17戸、富田23戸、大井52戸となっている。明治20年となると、高園130戸、野江48戸、芝39戸、中山39戸、櫛川65戸、吉田15戸、富田24戸、大井64戸と出ている。 大正時代に入ると、高園50戸、野江65戸、芝38戸、中山50戸、櫛川63戸、吉田19戸、富田25戸、大井60戸、脇ノ宮40戸、奥浦200戸、鞆浦300戸。大正4年には、川西村460戸。大正14年、鞆奥町502戸、川西村489戸。昭和25年には、川西村540戸。昭和29年には、川西村526戸。昭和40年、奥浦326戸(1,223名)、鞆浦312戸(1,246名)、松木谷67戸(174名)、高園55戸(270名)、野江69戸(315名)、芝44戸(196名)、中山55戸(266名)、櫛川66戸(292名)、吉田18戸(83名)、富田24戸(98名)、大井47戸(184名)、姫野山10戸(57名)。と記録されている。 昭和44年には、奥浦335戸(1,244名)、鞆浦291戸(1,120名)、松木谷64戸(154名)、高園55戸(230名)、野江72戸(310名)、芝40戸(172名)、中山55戸(252名)、櫛川67戸(274名)、吉田18戸(84名)、富田23戸(93名)、大井47戸(167名)、姫野山11戸(54名)。 昭和47年になると、鞆浦288戸(1,087名)、奥浦330戸(1,235名)、川西440戸(1,690名)となる。 更に昭和50年には、鞆浦307戸(1,056名)、奥浦322戸(1,042名)、川西438戸(1,516名)になる。 昭和55年には、鞆浦283戸(969名)、奥浦342戸(1,154名)、川西447戸(1,546名)となり、昭和61年7月1日現在では、鞆浦283戸(887名)、奥浦348戸(1,063名)、川西445戸(1,450名)という変遷が記録されているのである。 戸数が余り減じていないのに、人口がへっているのは、それまでの大家族から、若い夫婦が別に家を構え、核家族化が進んだためと考えられるが、昭和61年7月の人口集計で見る限りでは、この町も人口減少地域と考えられる。
紺屋について 奥浦には坪井又四郎の紺屋があり、寛永年間に海部城主と共に大和国より来て、■大和屋、坪井の名で昭和25年頃まで、大幟・内幟に武者絵の描染、祭礼用の幟や鯉幟を主に染め、糸染・紋付の型染や風呂敷・幕を、藍がめ12本を据えて染めていた。藍の買入れ先は、藩政時代に姥ケ島の江尻万五郎、川原田の富永宇之吉、国実の岩佐屋兵右衛門、岩倉のセ■北巳屋ほか源左衛門等があり、明治になって、西覚村の板東利三郎、永■巽永五郎、西中富の犬伏、北新居の大寺藤三郎、高橋弥太郎、上六條の鳥取角太等であった。 藍の値段は、嘉永5年藍玉2本430目(匁)。文久3年藍玉2俵520目と1俵350目と、7俵で2貫100目。文久4年藍玉1本600目。安政3年藍玉飛切4本1貫280刃。明治13年には、藍玉2本22円。明治18年■7本(俵)70円。明治22年藍玉1本8円また5本45円で購入され、川東村の縁故先へも分譲していた。 染料や染材となる酷酸アルミナは、酷酸と明ばんで製造し、鉄奨は硫酸鉄と硝酸食塩で製造する。マチンエキス・モモ皮エキス・柳蓼・茜・刈安・紅花・コブナ草・車輪梅・カキツバタ・クチナシ・山桃桜等の植物と草木灰、消石灰で絹布・綿布の黒紋付等を染めていた。坪井紺屋は、明治になって宇平となり、保郎・折蔵と替って代々続いてきた。 高園の富田正次郎が明治から大正まで。折戸の谷田尉次郎は、昭和初期まで糸染・織紺・幟を1反分50〜80銭で藍染した。脇の宮の三間藤吉は、奥浦の坪井で修業し、昭和10年頃まで糸染をしていた。奥浦の新紺屋福島春吉は、口径2尺深さ5尺の藍がめで、昭和10年頃まで糸染。大井の富田国三郎は、明治28年頃まで糸染。櫛川では農家が自家用に桃皮等の草木染をしていた。 川東村の坪井紺屋は、奥浦の坪井正利氏の祖父の弟で、大里・四方原にそれぞれ1戸づつの紺屋があった。染賃は、浴衣地1枚50銭で、股引きやシャツは1枚30銭、着物1反1円50銭で染めていた。これらは昭和初期頃の値段である。紋付は坪井紺屋独特の染め方で、海部染色圏の中心になっていた奥浦には、他地方から技術習得のために修業に来る人もいた。 使用された藍がめは、1石8斗入りのものが多かったが、なかには1石3斗入りのものもあった。 藍の買入れ先は、何処の紺屋も殆んど北方からで、なかには、日和佐や富岡の藍商から購入していたのもあった模様である。坪井紺屋と協同で購入していた家もあった。
織物について この地方の織機としては、高織機・箱織機・座織機が使われ、自家用衣料として、縞・紋織・木綿・絹の縞地・絹・白木綿・太布などを織っていた。野江で50戸が昭和15年頃まで木綿縞。芝では、30戸が木綿縞を、3戸が絹縞を、昭和10年頃まで。中山では、野良着用に木綿織を40戸。櫛川で木綿縞・絹縞・地絹・厚司・タッツケ袴用に太布を、それぞれ昭和初期まで織っていた。約50戸である。 吉田では、木綿縞を昭和初期まで2戸。富田で木綿縞を20戸、地絹を5戸が織り、柄染に絣織を昭和初期頃まで20戸が織っていた。大井では木綿縞を、昭和初期まで40戸が織り、脇ノ宮で木綿縞を昭和初期まで30戸。奥浦で木綿縞を昭和初期まで10戸。鞆浦では、昭和初期まで木綿縞を15戸。奥浦の広田では、織機14台で昭和初期まで絹織物を織っていた。 明治以前の織物の中心地は大井であったが、その殆んどが自家用に過ぎない。衣料としては、長袖・筒袖・襦袢・袴下・股引・タッツケ袴など。女の人は腰巻(3尺2寸の紐付)、昭和に入って作業ズボン、女性のズロース用に白木綿を、男女共に外出着の絹の着物や、儀式用の袴・紋付地なども織って実用に供していた。
棉と麻の栽培 吉田・中山・櫛川で、藩政時代から、明治・大正期にかけて、自家用のふとん綿を、織物用として農家が栽培していた。富田では棉や三椏、カヂキ.マサカヂなどを織物用として栽培していたが、戸数は不明である。
焔硝の採取 芝や野江の農家では、堆肥造りの副産物として、火薬の原料や火打石の火口用に採取していた。これらは、徳島藩の火薬の原料として買い上げられた時代があった。
藍の栽培 寛政12年4月12日付、藍方代官から海部高園の組頭庄屋野尻本蔵宛ての書状から、野江・高園・芝・中山・櫛川で藍作が、100余名によって10数町歩ほど栽培されたことを知る事ができる。 明治年代まで栽培され、地元の紺屋や、日和佐の谷兵吉、富岡の吹田栄蔵・板東次平、椿の武田次三郎、木岐の浜名万喜太郎等に買取られ、大正年代になると藍作も減り、富岡の藍商に売り渡すのみとなった。大正の始めから藍作は養蚕にとって変り、藍作地は次第に桑園となった。中山地区だけは薬用として最近までつくっていた。
養蚕 養蚕は歴史が古く、海部の都か高園にあった時代からで、高園で40戸が行い、昭和10年頃まで谷本や野村荘次郎が続けていた。野尻・河田では、明治から昭和19年までダルマ式で絹糸の採取を、野江では20戸が昭和15年頃まで養蚕を行ったが、ダルマ式の絹糸採りは1戸だった。芝で30戸が昭和15年頃まで、中山で23戸が昭和3年頃まで、櫛川では30戸、ダルマ式絹糸繰りは10戸が操業していた。 吉田では3戸が養蚕、ダルマ式糸採りは3戸が、何れも昭和15年頃まで。富田では113戸が養蚕、ダルマ式絹糸採りは10戸が行っていた。脇ノ宮では30戸、奥浦では100戸がそれぞれ昭和5年頃まで。鞆浦では11戸がダルマ式絹糸採りを、高橋柱が明治始めから昭和19年頃まで行っていた。 奥浦の広田才智郎は、昭和13年頃まで、川西村や那賀郡・高知県から繭を買入れて製糸業を行っていた。このほか、川上・名村・山本・大津・山名・里の6戸は、女工を使ってダルマ式で絹糸採りを、大正8年から昭和33年頃まで操業していた。宍戸キクや、那村相昭治も操業していた。以上のように古く各地で養蚕や絹糸の製屋が行われていたが、今は樫小屋で行っているだけである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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