阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第33号
鞆奥と八幡神社の関係について

史学班  岡島隆夫

1.はじめに
 海南町大里の八幡神社の秋祭りは、華やかな関船やダンジリが繰り出して、県下一の勇壮な祭りとして知られている。
 その祭りを支えてきたのが、海部川流域の旧海部郷21か村(現海南町・海部町のほぼ全域)の氏子たちで、社殿の修築費や祭礼費を分担し、祭祀に参加してきたが、中でもとくに本町鞆浦及び奥浦地区の人々とのつながりは深い。秋祭りの「お浜出で」の神輿舁きは鞆浦の東町の人たちに限られている。また鞆浦や奥浦から繰り出す5台の関船やダンジリが、神輿のすぐあとにつづいて、いかにも、この祭りの主役は鞆奥だといった感がある。
 古くから伝承されてきたこうした祭礼のしきたりには、それなりの歴史が秘められているわけで、何か深い神縁があるとみてよかろう。以下大里の秋祭りを中心に、本町と八幡神社の関わりについて、その歴史的由縁をたずね、今もなおこの地に根強く残っている氏神信仰の一端をのぞいてみたい。


2.大里八幡神社の由緒
 徳島県神社庁が昭和55年に発行した『徳島県神社誌』には、県下の宗教法人格をもつ神社本庁所属神社の1305社がすべて登載されている。その由緒などは、各神社から提出された資料や神社庁に保管する神社明細帳を参考に記述されたものである。これには八幡神社のことが次のように記されている。
  「八幡神社 旧郷社
   海部郡海南町大里字松原1
 主祭神 誉田別(ほんだわけ)神 天照大神 天児屋根(あめのこやね)神
 例祭 10月15日
 境内地 510坪
 主要建物 本殿 拝殿 社務所
 氏子 2,100戸
 由緒 鎮座年月日不詳。初め鞆浦大宮(那佐浦とも云う)に鎮座。慶長9年(1604)5月、大里松原に移す。第二代徳島藩主蜂須賀至鎮、しばしば修復の料を献ず。宵宮、例祭には関船2台、壇後5台が神賑として、白砂青松の大里松原をねる。又流鏑馬神事があり、豊年豊漁を祈願する。1月15日未明、筒粥神事があり、その年の早稲、中稲、晩稲の吉凶を占う。1月15日、旧6月15日、10月15日には鞆浦当家祭がある。」


 この社名の次の「旧郷社」とあるのは、戦前の社格で郷社であったという意味だ。社格については、明治4年(1871)太政官布告で、全国の神社を官社(官国幣社)と諸社にわけ、更に明治5年の布告で、諸社のうち府県崇敬の神社を府県社、郷邑の産土神を郷社とすると定め、同年7月郷社定則によって郷社の下に村社をおき、その規準にあてはまらない社を無格社とする定めがあった。明治6年教部省が、県の報告に基いて当社を郷社に定めたのである。祭神や由緒などは『明治神社誌料』(明治45年、明治神社誌編纂所)とほぼ同じ内容のものだ。この書は全国の府県社郷社の誌料集で、明治12年6月内務省達に基いて調製された明細帳によったものとされ、明治時代における貴重な史料である。ただ例祭日や氏子数などは、その後に変遷がみられる。
 この由緒書にある「鞆浦大宮に鎮座の社を慶長9年大里松原に移した」というのは、『阿波志』(文化12年=1815、佐野之憲編)の巻十二、海部郡、祠廟、和奈佐意富曽神社の記事によるものと思われる。笠井藍水が同書を書き下した『阿波誌』により、その全文を示すと次のようである。
  和奈佐意富曽祠 延喜式小祀と為す今八幡と称す古鏡及金口各一枚を納む旧鞆奥大宮山に在り慶長九年之を大里松林中に移す興源公屡々米若干を賜ひ以て重葺の料と為す 鞆、浅川等二十一村共に祀る 土人曰く日本武尊を祀る也と 景行、成務、仲哀、神功、応神五帝及び息長田別皇子を配食す
 すなわち、八幡神社の前身は、もと鞆浦の大宮山に鎮座の式内社和奈佐意富曽神社だというのだ。このことは『阿府志』(安永天明の頃=18世紀末、赤堀良亮編、『徳島県史料第二巻』所収)にも次のようにみえる。
  和奈佐意富曽神社
   大里浦ニ在八幡宮ト号ス
   神宝 鏡一面 鰐口一口 別当 神宮寺
  右二種ノ神宝ハ神木ニ乗テ海上鞆ノ浦ニ流着其地大宮ト云上古ノ社地ナラン 今大里ト云
   祭神一座 日本武尊
   客神一座 景行帝 成務帝 仲哀帝 神功皇后 応神帝 長田別皇子相殿ニ祭
  (以下略)
 上記の客神一座は六座の誤写と思われるが、前述の阿波志の記事とほぼ同じ内容である。
 また、これより50年ほど前の『寛保御改神社帳』(寛保3年=1743、阿波藩調査の神社台帳、『続徴古雑抄一』所収)の海部郡分に
   一、大里村 八幡宮 別当大里村神宮寺
とあり、これには「式ノ和奈佐意富曽神社カトイヘリ」と傍注がある。この傍注は、明治2年に樋口峯麿が諸書を校合して付したと末尾に記されており、また先にあげた阿波志の記事を頭注に記してあるので、たぶん阿波志によったものだろう。こうみてくると、大里八幡神社を和奈佐意富曽神社の後身社だとする文献は、管見ながら『阿府志』、『阿波志』以前には見当たらない。度会延経の『神名帳考証』(享保18年=1733完)にもふれていない。

 

3.式内社 和奈佐意富曽神社
 さて、八幡神社の前身社だとされる和奈佐意富曽神社については、『延喜式』(延長5年=927)の記載が初出である。延喜式は、平安初期の国家の法制書で、律令政治の施行細則集だ。全50巻のうち巻九巻十が「神名帳」で、それに登載されている当時の官社3,132座(2,861社)を式内社という。阿波の式内社50座(46社)のなかに、那賀郡の小社として和奈佐意富曽神社がでてくる。海部郡は平安末期に那賀郡から分離独立したとされているので矛盾はない。


 和奈佐意富曽の神名を、ワナサイフソとかワナサオフソとか訓んでいるが、ワナサオホソがどうやら正しいと思えるのは、式内社の神名にとりくんでいる出口大士氏のご教示によるところが大きい。
 折口信夫が「水の女」(『折口信夫全集第二巻』)で、「阿波のわなさおほそ」と水神信仰のかかわりを説く一章や、笠井藍水の出雲系海部族の研究にヒントを得て考えてみると、古代海人族が豊漁の神として崇めたこの神は、どうやら水神さんらしい。オフソと訓んで大麻神=天富命だとした延経の『神名帳考証』の説や、居父祖にあてて、景行朝に阿波に下ってきた阿波の君・息長田別命の子孫が海部(高園)に移り住み、その祖・日本武尊をまつったと考える『阿府志』の説、鳥獣をワナで覆う意で狩猟の神だとする『阿波国式社略考』の説、さらに、日本武尊の兄・大碓(おうす)命だとしたり、那佐湾の大磯の景と結びつけて考える説など、藩政時代から種々考証されてきたがいずれも決め手を欠いている。
 ともかく、式内社和奈佐意富曽神社は、今は大里松原に奉祀されている八幡神社だとされている。『海部郡誌』はその間の事情をふまえて、「神功皇后三韓征伐の後、又熊襲を平定し南進して途中那佐の水門に入座せられた、此時皇子誉田別命(応神天皇)の御影を遷し神に祀った。是即ち和奈佐意富曽神社である」とし、「延喜式神社で社地を大宮と称し地方の崇敬が厚かったが、天正年間大里村浜崎の地へ遷座し、更に慶長9年5月大里松原の現地に遷した」と記している。そして、今の中宮(なかみや)(八幡神社の南方200メートルにある和奈佐意富曽神社)は旧時の延喜式の神名を伝えるために八幡神社より分祀し、神功皇后(息長足姫(おきながたらしひめ)命)を祭るとしている。その境内地は240坪、社殿は本殿のみで、境内入口に石鳥居がある。中宮として分祀した時期は、おそらく明治初期のことと思われる。


4.鞆浦の大宮山
 以上のことから、慶長9年以前には式内社和奈佐意富曽神社が鞆浦の大宮山にあったとされている。おそらくは中世以降その神名が忘れられ、単に「大宮」とよばれていたであろう。大宮があったので、その山を大宮山とよんだに違いない。鞆浦の南町の家並みが山際で尽きるところに八幡神社の社家の滝川家があり、そこから万照寺の西を流れる小川にそった畦道をたどって大宮山の旧社地をたずねた。途中、自然石を敷きつめた山路にさしかかるあたりは、いかにも由緒ありげな旧参道かと思えたが、この敷石は最近土砂の流出防止のために敷きつめたのだと聞いた。やがて、東の愛宕山と西の東光寺山に挾まれた段丘(海抜30メートル位)に出ると、わずかばかりの水田があり、南端の小高い丘からは那佐湾が一望できる。このあたりが旧社地だという。今、大宮とよばれるにふさわしい、それらしい跡は何も見付けることはできなかった。この地に和奈佐意富曽神社が奉祀されていたという伝承と、大宮という地名を残すのみである。


 この社が、延喜式以前の昔からこの地にあったとする説は、『海部郡誌』に述べられている。また、「宍喰浦北那佐湊に在り」と記す『大日本史』の説も、那佐の範囲を鞆浦付近まで拡大解釈すると矛盾しない。海部族の本拠として古くから開けた鞆浦の港町を外洋から守り、那佐湾を見おろすこの山は、豊漁の守護神を祀る格好の舞台であったと思われる。さらに、『播磨風土記』の「志深里」の由来伝承で、履中天皇が「朕於阿波国和那散所食之貝哉」と仰せられたという話の和那散が、この那佐の地だとすると、早くから中央にも知られていたわけで、那佐湾の地名もこの神名に因むとする説もある。
 一方、この地に奉祀される以前に、もっと海部川の上流にあったとする説も有力である。その一つは『阿府志』で、前述のように、息長田別(阿波の君)の子孫が海部(高園あたり)に移り住んだのち、戦乱起こり更に鞆の城に移ったとし、奉祀してきた日本武尊を八幡神社に合祀したのが大宮山の社だとする。もう一つは、『海部郡取調廻在録』(天保11年=1840、野口長年)に「神野村 小名 神屋敷 此処に往古大社有、其昔大洪水に鞆浦まで流行しと伝ふまし上は、式社の有し処ならんか。村名といひ、地名といひよしありけなれと、これそとまふするしるしはべらず。なお鞆浦へ流しとまふすによりては、前にあげし大里の八幡宮にてはあらんか。いつれにても心にそんしはべる。」(『徳島県神社誌』所収)とある海南町神野(こうの)(御崎神社)鎮座説。石毛賢之助の『阿波名勝案内』(大正5年版)にも「伝へ云ふ、本社神野村に鎮座ししが、洪水の際社殿を押流し鞆浦に着したれば、浦人大宮に社殿を建立奉祀したるも、其の地狭隘なるを以て大里に移すに至れるなりと、蔵する所の金口に〈介部郡三筒社殿応永二十二年六月吉日願主〉とあり、今は白魚山高西堂に是を掲ぐ、これぞ神野村意富曽神社にありし鍔口ならむと。」と記されている。八幡神社の神宝とされている鰐口(所在不明)の銘から、元は神野村に祀られていた意富曽神社が洪水により流出し、川口の鞆に漂着したのを祀ったのが大宮山であるというのだ。神野は旧川上村のほぼ中央の盆地で、神野とか神祗という地名も残り、洪水で社殿が流出したという伝説もある。この説に従えば、大宮山に鎮座以前、古くは神野にあったことになるが、その時期等は不明で、確証はない。
 また、鞆浦の大宮山から大里の現社地への遷座についても次の二説がある。一つは、大宮山の社地が狭いので、当時の城代益田長政が大里浦に奉遷したとする説。その時期は棟札により慶長9年(1604)5月だとする。ただし、この棟札の存在については宮司も未確認とのことであった。
 もう一つは、大宮山にあった社が慶長9年の津波で流され大里松原に着いたのを奉祀したという説。『海南町史』には慶長9年の大津波を12月16日と記し、そのとき大里松原に遷ったとしている。鞆浦の北町には、この津波の記念碑があり、高さ十丈(30メートル)の波が七度も押し寄せたとあるが、大宮山の地形からして流されたとする説は無理がある。
 『海部郡誌』は、さきにみたように、天正年間に大里の浜崎に先ず移り、更に大里松原に遷ったのが慶長9年5月だとしている。
 ともあれ、鞆の大宮から大里松原に遷座した和奈佐意富曽神社は、当時の多くの神社がそうであったように八幡神社として祀られるようになったものと思われる。

 

5.八幡神社の氏子
 当社の氏子は、『阿波志』に「二十一村共祀」とあるように、現在の海部町、海南町のほぼ全域をしめる。海部町は、昭和30年3月に旧鞆奥町と川西村が合併してできた。同時に旧浅川村と川東村、川上村が合併して海南町ができた。その前の明治22年町村制施行時には、鞆浦村と奥浦村が一緒になって鞆奥村(大正12年町制施行)となり、高園、野江、芝、中山、櫛川、吉田、富田、大井の八か村が合併して川西村となった。また、大里、四方原、多良、吉野、熟田が合併して川東村となり、平井、小川、神野、若松、相川の各村が合併して川上村となった。現在、神社で公称する氏子数3,000世帯は、海部町と海南町(浅川を除く)の世帯数にほぼ当たるが、実際に神社費を負担する氏子はその7割くらいだという。なかでも重要な役割を担っているのが海部町鞆浦の住民で、秋祭りの神輿は必ず東町組が舁き、関船は東町組と南町組が曳き、仲町組や北町組のダンジリも出て、その先頭は南町の関船と定っている。また、八幡神社の三大祭(正月15日の筒粥神事、6月15日の後祭(ごさい)、10月15日の秋祭り)には、「鞆浦の当家祭」といって、東町組、南町組、仲町組、高北組(高倉町と北町)の各当家が、代々それぞれの当家組に伝わる神号額(黒塗りの四面額で、正面に八幡神社、他面には鞆浦鎮座の愛宕神社、住吉神社の神号と当家組の名がそれぞれ記されており、その箱額を棒の先に固定したもの)を捧持して昇殿し、祈願をこめる神事も、鞆浦の氏子だけの特権のようだ。これらは、鞆浦の人々がこの神社と深い神縁で結ばれてきたことを今に伝えるものであり、現在の八幡神社(和奈佐意富曽神社)が、もとは鞆浦の大宮山に祀られいたことを物語る何よりの証拠と思われる。

 

6.八幡神社の秋祭り
 八幡神社の秋祭りは10月14日が宵宮で、15日が本祭りである。藩政期は旧暦8月15日に行われていたという。それが明治の改暦で9月25日となり戦後に至った。ところがこの時期は台風に見舞われることが多く、それをさけて今の10月15日に変更したのは20年ぐらい前からだという。
(1)ダンジリのおも当家
 秋祭りの1か月位前から、各地区の当家が忙しくなる。奥浦では、新町、上丁(かみんちょう)、下丁(しもんちょう)、西横、大西の5地区に分け、各町輪番で5軒の当家がえらばれダンジリの世話をする。奥浦の登井茂昭氏に見せてもらった上丁の「ダンジリのおも当家」の記録によると、その内容は次のようである。
 9月に入って、おも当家5軒が集り、雑用(ぞうよう)(祭りの費用)を割り出し集金の準備にかかる。傷害保険の準備もしなければならない。10月はじめに、鞆浦の漁業組合で鞆浦、奥浦、大里の各おも当家が集り、牟岐署を交えて事故防止等を協議する。道路使用許可申請書も当家の仕事だ。
 祭りの1週間位前に、ダンジリの輪を川へつける。この頃、各戸へ回覧板をまわし、ダンジリの組み立てや曳き出しの日程を周知し、雑用集金などの協力を求める。若衆代表に事故防止を依頼したり、色手拭を準備したりする。
 10月13日は、ダンジリの輪を川より上げる。各戸をまわり雑用を集金する。打子の名簿を持って小学校に届け2日間の早退を依頼する。
 10月14日は、8時よりダンジリを組み立て始め、1時頃終り福島の横へ据える。夕方4時半曳き出して町内一巡。5時40分海部川橋の西へとめ、花火が終ってから福島の横へとめる。
 10月15日朝、八幡さんへお餅(お供え)を祭る。酒、ジュース、氷など準備。8時よりダンジリを飾り付け、9時40分頃八幡さんヘ出発する。夕方8時すぎ終り、下丁へ引渡す。
 日を改めて、次番(下丁)当家を招いて「当家渡し」と慰労会をする。
 鞆浦の東町、南町、仲町、北町(高倉町と合併)の4台の関船やダンジリにも同様の当家があって、組み立て、分解、費用の集金、巡行時の保安の責任者となる。
 9月末頃から打子(囃子)の練習が当家や公民館などではじまる。打子は鉦6人、小太鼓4人(または2人)、大太鼓1人で、小学生を中心とした男の子の役だ。この打子の指導や、関船やダンジリの組み立て、分解などは主として青年があたる。鞆浦や奥浦の各町には、この地方独特の傍輩組とか傍輩仲という同年令層の仲間グループがある。藩政末期ごろからはじまったといい、古くは○○舎、近年は○○会と名乗って種々の奉仕活動を行ってきた。祭礼の奉仕もその一つで、以前はこの傍輩仲が40才から42才までの3年間当家をつとめるしきたりであった。最近は人口減で当家の年令幅が広がり、この組織もおとろえているようだ。
(2)宵宮のダンジリ
 14日宵宮の早朝より、各町で当家を中心に仲間が広場に集って、関船やダンジリの組み立てがはじまる。
 ここのダンジリは藩政時代に起源をもつといわれ古い伝統がある。車台に優雅な屋台を取りつけたダンジリと、藩主の御座船を模したという船ダンジリ(関船)があり、いずれも漁師町の気風を反映して大きく、飾りつけも豪華だ。
 東町の関船を「神通丸」、南町のを「八幡丸」といい、ともに直径1メートル位の車輪が4つ。車台に船形を取りつけ、屋形をそれに載せ、丸提燈(東とか南のマークあり)40個余りを数珠つなぎにつるす。船首と船尾に笹のついた太い長い青竹を斜めにさし、金銀のモールや五色の紙テープ、風船などで飾る。さらに屋形の前後を国旗や造花で飾り、前方には船名を書いた番傘と高張り提燈をつけた竹竿が2本突き出し、後方には弓矢を飾り、船名を書いた大きな幟と吹き流しがはためく。左右の船べりには赤い緞子の豪華な幕を張り、車輪を覆うように青い波模様の幕を垂らす。船首に見事な房をつりさげ、屋形の上には万国旗が張り渡され、まさに満艦飾のいでたちとなる。そして車台に引き綱を結びつけて完成する。


 他の各町のダンジリも、関船に負けじと飾りたて、昼すぎには組み立てをおえる。組み立てが終ると酒食の宴があったりして、夕方町内を巡行し、旧海部川橋近くの堤防道路に列をなして集合する(大里、四方原のダンジリは参加しない)。満艦飾の関船やダンジリの提燈に灯が入り、黒の手甲や股引き、青鉢巻の青年や、法被姿の当家たちが車座になって路上に座り、酒を飲んだり歌ったりして祭りの雰囲気を盛りあげる。海部川下流の川原より花火が続々と打ち上げられ、両岸には大勢の見物人が集まり歓声をあげる。
 花火が終ると、鞆浦の関船やダンジリは、青年たちに曳かれて鞆浦漁協の水揚場の仮屋に据え置かれて一夜をあかす。奥浦のダンジリは奥浦の町の広場で泊る。


 昔は、この宵宮に「川渡し」があった。高瀬舟を4艘連結した上に関船やダンジリを乗せて、伊勢音頭を歌いながら対岸の三本松へ渡り一夜をあかした。海部川橋ができて、今のような「陸わたし」となったのは昭和30年ごろからだという。
(3)本祭りのダンジリ
 15日はいよいよ八幡神社に関船やダンジリを曳いて行く。早朝からその準備にかかる。
 鞆浦地区では9時に打子が漁業組合前に集合し、ダンジリに乗り込む。派手な女物の振袖を着て、青や赤の襷、黒の手甲をつける。それぞれ顔を白く塗り紅をさして女の子のように可愛らしく見える。
 10時までに、青年たちが各家々を回り用意された御花の竹笹(半紙を三角形に二つ折りし、御花と墨書し家名を書いたのを付けてある)を集め、関船やダンジリの前後に結ぶ。この竹笹には花代が添えられ、祈祷料とご祝儀を兼ねている。
 10時、揃いの法被を着た当家や、黒い手甲股引き姿の青年たちが勢揃いをすると、いよいよ八幡神社をめざして巡行がはじまる。
 巡行の順番は、南町の関船、北町のダンジリ、仲町のダンジリ、東町の関船の順で、鞆浦の漁業組合から港に沿って海部川の堤防道路に出る。港にひしめくどの漁船にも大漁旗がかかげられ、主人たちの晴れ姿を声援するかのように見える。海部川橋のたもとで待機していた奥浦のダンジリが合流し、一団となって橋を渡り、一路大里松原へと進む。大里の松原に入ると、待機していた大里のダンジリ、四方原のダンジリが次々と加わってあとに続き、鉦や太鼓の囃子も一段と調子をあげる。行進のスピードがあがると囃子のテンポもそれにつれて速くなる。中宮のあたりから八幡神社前までの参道を超スピードで疾走するときは、まことに勇壮で、囃子も乱調子だ。そして一台ずつ順に砂煙をあげて駆け込んできた関船やダンジリは、境内の所定の位置に据えられ、神職のお祓いを受ける。


 関船やダンジリの巡行の順番や境内に据える位置は、古くからのきまりがあって厳然と守られている。


 先頭は必ず南町の関船にきまっている。南町は、この社の旧社のあった大宮山のお膝元だし、歴史も古く、他の地区にさきがけてダンジリが出きたのでこの地位を得ているのだという。この町の開発の歴史と深くかかわっているようで、戦前は関船2台ダンジリ7台があり、その順番は1 南町(関船)2 高倉(ダンジリ)3 奥浦西(ダンジリ)4 北町(ダンジリ)5 仲町(ダンジリ)6 東町(関船)7 奥浦本町(ダンジリ)8 大里(ダンジリ)9 四方原(ダンジリ)の順であったという。その後、高倉が北町と合併して今の北町のダンジリ1台となり、奥浦西と奥浦本町が合併して奥浦のダンジリ1台となった。
 鞆浦の漁師町の中心の東町は、神輿を舁いていたのでダンジリを作るのが後になったという説明も理にかなっているようだ。その東町の関船が昭和9年の火災で焼失したとき、かろうじて持ち出して助かったのが今も使っている金糸を縫いつけた緞子の幕だという。焼けて関船を出せなかった年は不漁で、まもなく新調したが予算が足らず、白木のままで曳いたという話も古老から聞いた。
 大里や四方原は、八幡神社の氏子としては新しく、それで鞆浦や奥浦の後につづくのだという。
 境内では、図のように、社頭の鳥居の両脇に到着順に南町、北町、仲町、奥浦が並び、東町は別格扱いの感じである。そして、境内の東の方に少し離れて大里、四方原の順で据えられる。
 昼すぎ、関船やダンジリが7台全部そろうと、松林の中で打子や曳き手の若衆も加わって、氏子たちの大宴会がはじまる。この日、神社に参拝する氏子たちは、祭りのご馳走を重箱などに詰めて持参し、境内周辺の松原にゴザなどを敷いて親戚、知人、友人などが車座になって酒を酌み交わして祝宴を張る。こうした風習は、日和佐などにもみられる県南特有のものだが、数千人が松原を埋めつくして祭りを楽しむ光景は県下一であろう。参道筋には露店が数十軒並び、祭り気分をもりあげていたが、戦前は鳥居の前から町民グラウンドの近くまで1キロ余も露店が続き、浜の広場に見せ物や曲芸の小屋が立って、もっともっと賑やかであったと古老が話してくれた。
(4)神輿のお浜出で
 神社では、午前11時から総代、当家等参列して秋の例大祭が執り行われ、その間ひきもきらず参拝者がっづく。そして午後2時すぎ、いよいよ神輿の「お浜出で」となる。
 神輿舁きは鞆浦東町在住の男衆に限られている。その定員は16人(実際はもっといる)、年令順に2〜3年つとめて順送りとなる。若衆が関船を曳くので、神輿舁きは壮年層が当たり、背中に東の紋のある白衣を着て白い鼻緒のわら草履を素足にはき、白い鉢巻姿で、東町の氏子が寄進した神輿をかつぐ。
 神輿の行列に供奉する金幣は、総代57名(氏子の代表で、鞆奥や川東地区からとくに多く選ばれている)が捧持し、かって網元や山林持ちなどの有力者が寄進した神具類は、その子孫たちが道具持ちをつとめる。
 先ず神前で、「お浜出で」にあたって神幸祭が執り行われる。禰宜が神輿や奉仕者をお祓いしたあと、宮司が祝詞を奏上し、「オー」という警蹕(けいひつ)とともに御神体が宮司によって神輿に納められ、御旅所に向かって出発する。


 先触れが拍子木を打ち鳴らして進む後から、塩水所役が道中を清め、獅子や天狗が続く。そして、神輿が通夜堂を通って出てくると、待ち構えていた大勢の氏子や信者が神輿に群がる。神輿が差し上げられると、その下を前後左右からくぐり抜けてご利益を受けようとする風習はほほえましい。何度も差し上げ、大勢の氏子をくぐらせながら人並みをかきわけて浜へ進む。そのあとから、金幣を捧持した総代や、神号額をかかげた鞆浦各町の当家、鉾や長刀、鉄砲、軍扇などの道具持ち、神酒や鏡餅を盛ったお供えの三方がつづく。その中に「お宝」と称する宮司も中を見てはならぬという神秘な箱が錦に包まれて進む。30センチ四方の箱で、中味はひょっとすると阿波志などが伝える神宝の金口(鰐口)かもしれない。
 神輿は浜から戻り、更に松原の浜道を大勢のお供を従えて中宮(和奈佐意富曽神社)へ向う。この神輿行列のあとから、関船やダンジリが順を守ってお囃子を奏でながら威勢よく続く。
 数トンもある関船を百人近い曳き手がロープを引っぱって走るので危険が伴う。警官たちが笛を鳴らし必死で事故防止を呼びかける中を猛スピードでかけ抜け、大勢の見物人がそれに酔う。
 神輿が中宮に到着すると、神前に据えて神具を並べ神饌を供えて「お旅所祭」が執り行われる。関船やダンジリが中宮の鳥居周辺に集結し、この神事を見ようと見物人が押しかけ、華やかな絵巻きを見る思いである。

 お旅の神事をおえると、神輿は再び行列を従え、浜道を引きかえして「お入り」となる。お供してきた関船やダンジリは、ここで神輿を見送ったあと、朝通った参道を神社めざして再び一台ずつ順に駆け込んで行く。
(5)流鏑馬神事
 神輿がお入りし、関船やダンジリが再び社頭に勢揃いする頃、大里地区の本当家によって流鏑馬(やぶさめ)神事が行われる。


 馬場は社頭から南へ約200メートル、中宮近くの参道ぞいの老松を3本選んで、それぞれの幹(高さ3.5メートル)に的を作ってある。的は30センチと5センチ幅の杉板を6枚田の字型に組み合わせたもので、木に結びつけてある。
 ここの流鏑馬の起源はよくわからないが、「お浜出で」のしめくくりとしてかなり古くから行われてきたようだ。戦後馬がいなくなり消滅しかけたが、昭和57年に特志家が競争馬の払い下げをうけて復活した。しかし、それも3年きりで、今は歩射によっている。射手の服装も古式のものでなく、祭りの法被を着て頭に花笠を冠り、矢持ちの介添えが従う。先ず一の的(神社に近い的)を射て、順次二、三の的を射る。的を射るたびに若者達が群がり、その矢や的を奪い合う。この的を得ると、その年は大漁豊作に恵まれるとの信仰がある。
 流鏑馬神事が終るころから、境内に詰めかけていた氏子や見物人たちが帰りはじめる。関船やダンジリも到着順にそれぞれ帰路につく。ところどころで休憩しながらゆっくり帰る。日が暮れると提燈に灯をともし、海部川橋の中ほどにさしかかると、御花の竹笹に次々と火がっけられ、火の粉が川へ舞い落ちる。しばらく橋の上で気勢をあげ、やがてそれぞれの地区に帰って行く。帰着するとすぐダンジリを解体し倉庫に格納する。この夜、当家や集会所などで料理を囲んで夜おそくまで酒宴がはずむ。


7.おわりに
 毎年県下各地で数多くの祭礼が行われているが、この八幡神社の秋祭りが、その人出の多いこと、華やかで勇壮で盛大なことにおいて、おそらく県下一であろう。鞆浦や奥浦の人たちが、遠い昔の神縁を大切にして、豪華な関船やダンジリを仕立て3.5キロの道のりをはるばる海部川を渡って神賑いを奉仕する姿に強い感動を覚えた。忘れかけた故郷(ふるさと)の心や、地域社会の絆の大切さを教えてくれる貴重な祭りでもある。この感動を機会あるごとに多くの人々に伝えたい、最後にそんな気持を申し述べて、種々お教えいただいた滝川正治氏、滝川勇氏、登井茂昭氏はじめ海部町の方々に深甚の謝意を表します。


徳島県立図書館