1.地域の概要 櫛川は母川の上流。元70戸余りであったが、戦後60戸余りになった。岡折王谷、中張、北、外谷、西敷、丸山、二本松、宮の前、馬場の字がある。堀川家のある字岡は戸数12〜13戸。純農村地帯で、昔は稲と裏作に麦、或は養蚕。今は稲作とハウス園芸が主な生業である。 奥浦は木頭、上那賀及び海部川上流から出た林産物を大阪、堺へ送った港で川上の林業労務者、港(那佐港)へ入った船の乗組員が出入りし、商業地として栄え、飲食店も多かった。現在は戸数340〜350戸、町内、堤外、西分がある。 そのうち■田家のある町内は戸数200戸。 鞆は古代からひらけてい、近辺の山岳地帯に住んで田畑を耕していたと言い、古くから海と港によって海部下灘の経済の中心地であり、古くからの漁村。阿波水軍の中心でもあった。今は漁業を生業とするものが約50%。鞆浦は約270戸。東町、南町、北町、中町、高倉、立岩がある。うち、南町は昔55戸、今50戸。南町は、谷地区、中地区、浜地区に分かれる。谷地区は昔東光寺があり、東光寺谷と呼ばれている。
2.宗旨 櫛川はほとんどが浄土宗。九品寺(櫛川外谷口)の壇家である。創価学会が10戸位。 奥浦は真言宗(薬師寺 奥浦。万照寺 鞆)。門徒(千唱寺 鞆)。浄土宗(多善寺 鞆)。日蓮宗(法華寺 鞆)。創価学会。禅宗(千光寺 海南町浅川 もとは東光寺 鞆)。 鞆は浄土真宗(善称寺)200戸位。浄土宗(多善寺)150戸位。真言宗(万照寺)95戸位。法華宗(法華寺)40戸位。禅宗(東光寺があったが明治4年に浅川の千光寺に合併された)5戸位。
3.組織 ☆ 櫛 川 葬式の手伝いはクミ(組)と親戚がする。葬式には部落中が集まり、3斗の酒を飲んでいたが大正のころに酒は1斗になった。組は昭和30年頃より、有線放送の回線の人で手伝い合いの組になった。回線は櫛川に5回線あった。昭和50年頃から公社の電話が入って有線放送はなくなったが、今も前の回線毎に組になっている。組は、割合近所同士になっている。 ☆ 奥 浦 朋輩組或は友達組という友達のグループがあり、学校を出るとよく似た年齢で組をつくる。これは一生続く親戚以上の付き合いをし、きずなが強い。大昔からあり、葬式もこの組が中心になって行う。組員は各種の出役を仕事を休んでこなす。■田氏の所属している組は一心会。19名。未年(■田氏)より3歳下から4歳上まで7歳の幅がある。 ☆ 鞆 町毎に手伝うが、よそ町(ちょう)の人も手伝うので部落の総がかりのようなもの。家から手の空いた者が1人出たらよい。強制ではないが、大概のことなら出てくる。昔は土葬であったため若い人が出て来たが、今は老人でも足りる。
4.共同祈願 ☆ 櫛 川 神頼み 病人にどうしても治ってもらいたい時、お百度参りをしてくださいと近所へ頼む。頼まれると、皆で部落の鎮守様でお百度参りをする。小豆を100個持参。さいせん箱に1個づついれてくる。何人もが手分けするので各自のお参りの回数は少なくてすむ。ご互いなのでお礼は口だけですませる。 百万遍のご祈祷 子供のころ(明治、大正)は村で百万遍のご祈祷があった。鐘を叩いて、数珠をまいてご祈祷した。 ☆ 奥 浦 ご祈祷 朋輩組、親戚、近所等で妙見さん(氏神)にご祈祷に行く。皆で行って神主に拝んでもらう。 ☆ 鞆 ムラご祈祷 町で、難しい人の為に祈祷をする。日蓮さんや脇のお寺でお願をかける。寺は法華寺が多かった。各家から1人が出て、拝んでもらう。船が遭難した時、重病人の場合等。お供えは身内がする。
5.祈願 ☆ 奥 浦 お百度 子や孫が、病人を助けたいと必死の時にお百度を踏む。寺や神社に百度石があって、木の札が備えつけてある。木の札をくって数を取りながら石を百回まわる。 ☆ 鞆 祈祷 子供の頃(大正)は祈祷師が来ていた。 津の峰さん 身内のもので津の峰さんにご祈祷に行く。
6.呼び戻し ☆ 櫛 川 息を引き取った時、又帰ってくるかも知れないので呼ぶ。大きな声で何回も耳もとで呼ぶ。名、呼称などを呼ぶ。昔の人は「一度は名前をいうて呼んでやれ」と言った。奇麗な花の道を行っていたから、舟があって、乗ろうとしたら呼び声がして、振り向いたら生き返ったという話をきいた。呼んであげると通じるという。 ☆ 鞆 息を引き取った直後に名を呼ぶ。
7.死の前後 ☆ 櫛 川 ビョウニン 病人(死人)事はオモテで寝させる。 ヒキャク トナリ(近所)へ知らせる。トナリが、2人1組でヒキャクになり、部落全体に知らせてまわる。 ササ 他人がすぐに来て、おへぎ盆に笹をいれて各神様へ置く。49日間。(玄関の神棚、オモテの床の間、茶の間の三宝大荒神さん、愛宕さん、火の神さん、オクのおいべっさん、大黒さん) ☆ 奥 浦 死 家から濃い親戚へ知らせる。当屋(朋輩組〜友達組)へ知らせる。 白紙 親戚が神棚全部を白紙を貼って覆う。 ☆ 鞆 息を引き取るとすぐに身内の者が北枕にし、タオルをかける。枕元へ線香と水を供える。 着物を逆さにかける。 枕元へ庖丁とほうきを逆さにたてる。 神さん棚をうちわでかこう。
8.キタマクラと死者の供物 ☆ 櫛 川 病人に皆が会ってから、床前で北向きにする。 枕ははずし、顔に白布をかける。布団に寝させて、上に着物を逆さにかける(仏さんの着替えと聞いている) ほうきとほうちょうを空へむけて床へ置く。(魔よけと聞く) ご飯を炊いて、4個の握りをつくり膳の四隅に置く。膳の真ん中にダンゴを積んでおく(ダンゴの数は不定)。この膳を枕元へ置く。茶わんに水を入れてシキビのハナで水をまつってあげる。 一本線香をつけ、きらさないようにする。 ☆ 奥 浦 死亡するとすぐに、そのままの座敷で、家の者が北向きに寝かせる。顔に白布をかける。 着物を逆さに掛ける。 魔よけとして枕元へほうきを逆さに立て、刃物(庖丁など)も逆さにして置く。 死亡するとすぐに、近所の人が外で、ユキヒラ等で米を少しだけ炊いて、丸い4個の握り飯をこしらえる。盆か膳の四隅に置いて供える。マクラゴハンという。 しきび(しきみ)の葉をそえて、水を供える。 線香を供える まっこうはもろぶたに砂をいれて、まっこうを長くつないで供えた。 ハナを供える。 ☆ 鞆 息を引き取ってから直ぐに北枕にし、白布をかけ、着物を逆さにかける。枕元に庖丁とほうきを逆さに立てる。 マクラメシとして、一椀盛りの飯を供え箸を一本立てる。 ダンゴを供える 水にしきびのハナ(葉)を入れて、身内の者がこれで水をまつる。 線香(まっこうの場合もある)、ロウソクを供える。 棺桶に入れる時にダンゴは入れる。(飯は握り飯を入れる) 同年の者の忌み ☆ 鞆 同じ年の人が死んだら、杓の柄で水を飲む。戦前まで。 別火 ☆ 櫛 川 マクラメシ、マクラダンゴをたいた鍋、釜は7日間は使用できない。使ったら別の所へ置く。 ヨトギ お通夜 ☆ 櫛 川 死亡した晩に、近親の者が集まってする。 お住持さんが拝みにくる。 ☆ 奥 浦 通夜見舞いといって、親戚がヨトギに食べるものを持参する。 ヨトギを一晩中した人は、着た着物を(羽織り、帯でもよい)7日目にまつる。 ☆ 鞆 線香とロウソクの火を絶やさない。 家からつまむものを供する。
9.朋輩組の仕事 ☆ 奥 浦 跡取りの朋輩組が主力になってする。 ヒキャク 2人一組で死亡した人の名、葬式の日取りを知らせる。今も隣の町村ぐらいまでは、電話等で知らせてあっても一応全部出向く。 マエヤマ(穴堀) ヒキャクに出た人以外は全部で行く。家の人がついて行って場所を決める。穴を堀り、鍬は堀った穴においてその上に笹をかぶせてくる。鍬は柄の短い(一尺ぐらい)の鍬で寺の葬具入れに保管してあるので借りる。昭和30年ごろから火葬になり、穴堀りは必要なくなった。 アトヤマ ガンを担いで行って埋める。北向きにいれ、一度叩く。上へ砂をきせる。 その他準備するもの ☆ 奥 浦 ハナ シカ 三方に突き刺す。 ツエ(一本杖) 竹でつくるか、使用していた杖に金銀をまく。死人につける。 線香 送ってもらう人に持ってもらうため、5〜6本づつくくっておく。 一本バナ シキビを1本立てる。 六地蔵のロウソク立て 竹を6本こしらえてロウソクを立てる。 シホンバタ マクラバタ 行灯 (すべて使用する竹は笹を残してあるが先を切って止めてある。) ヒキャク ☆ 鞆 近所の者が2人一組で出る。親戚があればかなり遠い所まで知らせる。(日帰りのできるところまで)今も自転車で行ける所までは知らせてまわる。ヒキャクをうけた家は「オ世話サン」と挨拶だけでよい。
10.葬式を出さない日 ☆ 櫛 川 友引は避ける。友引は、7人の友を引くというので、昔は7人の人形をこしらえて、棺の中へ入れて、友引に葬式を出した。 ☆ 奥 浦 友引きは避ける。 ☆ 鞆 友引は避ける。どうしても野辺送りがしたい場合は、梅の木の枝を刀の大小にしつらえて、死人の腰へ差すと何時送ってもよいと言われていた。 ユカン ユカ ユカワ ☆ 櫛 川 納棺までに湯かんをする。死後硬直は時間がたつと動くようになるので、近親の者がたらいの中へ死者をすえて、3〜4人の者がつかまえて湯で洗う。畳を上げて、オモテの間で洗う。洗った湯はとっておいて、外の蔭の所へ流した。死人の頭は剃る。洗う人はたすきがけ、ユカをした人は塩やまっこうを入れた湯で洗って着替える。たらいへ湯を入れるのは、左手で逆手に入れる(子供の頃は左立ちに水を汲んだら叱られた)。石けんとタオルできれいに洗ってあげる。昔の人は足を持って、座れるようにしておいた。 ☆ 奥 浦 ユカンの道具は別にあって、桶、手桶等が準備してあった。裸にして、たらいの中に座らせて洗う。後で髪を剃る。 ☆ 鞆 死亡するとすぐ、固くなる前にユカワをする。昔はたらいに湯を汲んで身内の者が藁だすきをかけてきれいに洗った。湯は逆手でかけ、塩払いをして捨てた。 終わると頭を剃った。今も少しハサミを入れる。
11.死装束 旅立ちの着物 ☆ 櫛 川 今は仏具屋で皆揃う。 昔は白晒しを2反買って、針をつるくって、他人が寄って縫った。肌着、長着、帯、おこし、手ほい、きゃはん、さんやぶくろ等。今は本人が縫って用意してある場合が多い。 下へ好きであった着物を着せ、上の着物を着せて、一番上に紙の経かたびらをあてる。着物は左前、足袋はへっちにはく。しかし長い旅だというので、まともに着せてあげたという場合もある。 ☆ 奥 浦 近所の年寄りが経かたびら、足袋、きゃはん等を縫う。 ☆ 鞆 白木綿の着物と経カタビラ。年寄りは縫って準備している。昔は近所の女の人が縫った。着物は左前、足袋は反対にはかせる。 入棺 ☆ 奥 浦 屈葬。桶の時は死んだ時に脚を折っておいた。今は寝棺なので手を組ませるだけ。 一文銭を六文、マクラゴハン、ダンゴ、煙草、眼鏡、数珠、その他好きだったものをサンヤ袋に入れる。(ダンゴは門徒は平たく、その他は丸く作る)。 棺の蓋をする前にシキミで唇をしめらす。(水をまつる) 棺の蓋は石で叩く。土葬の時も釘を石でうちつけた。 棺は死骸のあった座敷に置く。床には宗旨によって軸を掛ける。禅宗〜釈迦如来、真言宗〜弘法大師。線香、団子、枕ご飯を供える。 ☆ 鞆 棺、桶の蓋は石で釘を打つ。 棺 ☆ 奥 浦 棺と身体につける一切のものは、今は葬儀屋で用意する。 土葬時は、桶使用。ガン、カンオケと呼ぶ。ネカンになったのは、火葬になってから。 出棺 ☆ 奥 浦 出棺の前に、当屋が3回、町中をカネを叩いてまわる。2人でカネを下げて1回目は1つ、2回目は2つ、3回目は3つ叩く。これで会葬者が家の前に集まる。 出棺の前に水をまつる。 出る前に役割の発表がある。役割は軽いもの、遠い親戚から読みあげる。朋輩組の者が読みあげる。 棺は逆さに出す。普通玄関からは出さない。 入り口で、棺が出たとたんに、手伝いの人が故人の使っていた茶わんを割るまつりものを持って、皆が従って行く。 棺は2人で、故人の甥が担ぐ。カルメと言う。 身内、親戚の女の人は喪服を着て、白いかつぎの片袖をかついで、藁をなった綱を引っ張って行く(今はしない)。 女性及び参列者はハナと線香を持って従う。 ☆ 鞆 かご(棺)を担ぐ人をカルメと言う。ぞうりで出て、帰るとたらいで足を洗う。
12.葬 列 ☆ 奥 浦 マクラバタ 1本 四本バタ 行灯 2つ 導師 生花 シカ 香 3 鶴亀 盛り物 巻き物 ハナ 位牌持ち 相続人 杖 孫 棺 カルメ(甥) 天がい 娘の婿 綱(カツギの女性) 一般参列者 ☆ 鞆 ハタ 4人 イハイ(子、孫) シカ 香炉 かご イッポンバナ ハタ 一般参列者 身内。女の人は白木綿のかつぎを担いで後ろへ続く(昔)。
13.葬 式 ☆ 奥 浦 葬式の道具は部落で保有している。薬師寺に保管している。 家では葬式をしない。家では告別式で焼香のみ。 昭和40年頃から告別式をする家が多くなった。自宅や寺で行う。告別式の時は祭壇を飾る。 ☆ 鞆 今は焼いてお骨にしてから祭壇にまつって葬式をする。祭壇はところの人が寄って飾る。祭壇は大抵寺に備え付けの物を借りていたが、昭和45年頃から部落で所有するようになっている。
14.そうれん場 ☆ 奥 浦 葬式は墓地の入り口の広い所、六地蔵の前で行った。そうれん場という。六地蔵にロウソクを着くまでにまつっておく。 そうれん場に棺が着いたらガンを六地蔵の前にすえ、役割の人だけ、逆に3回まわる。僧が回向し、血の濃い者から焼香をする。焼香が終わると親戚の者が生前のお礼を述べる。 ☆ 鞆 棺桶をかごで担いて、寺のつぼで3回まわってすえる。焼香、回向をしてかごから出して野辺へ行く。
15.野辺送り ☆ 奥 浦 野辺へ行く前に食事をする。今はさわちを食べる。 朋輩組と葬式の代表者が野辺へ行く。 野辺は夜に出た。3時か4時頃。今の告別式は1時〜2時に行う。 ☆ 櫛 川 同い年の人は送られんと言って、野辺送りに同じ年の人は行かない。 子が死んだら親は野辺送りをしない。 若くて再婚する場合は妻の野辺送りに夫は行かない。
16.精進落ち ☆ 奥 浦 棺を納めると、その場で、行った人が皆で酒と肴(にしめ等)で精進落ちをした。
17.帰りの作法 ☆ 奥 浦 昔はぞうりを履いて行って、帰るとたらいで足を洗った。今は塩払いをする。 ブク ☆ 奥 浦 7日間は毎朝墓参りに行く。あとは7日毎に49日まで参りに行く。 火葬の遺骨は家によってはすぐ墓へ入れている。49日間家に置く場合もある。 ☆ 鞆 海で死者が出ると、3日あるいは7日の仕上げがすむまで、沖へは行かない。
18.終わりに 見ずしらずの土地で、快くご協力下さる方々には、いつも頭の下がる思いがする。この度は櫛川の堀川キミエ氏、奥浦の■田晴久氏、鞆の浅川初夫氏に一方ならぬお世話になり、お礼の申し延べようもない。 お忙しい時間を割いて、お教えいただいたのに、不勉強なため、たいしたまとめもできず、申し訳ないと思うが、今後とも引き続き内容を深めていきたいと思うので、ご協力をお願いしたい。 海部町教育委員会。その他海部町の方々にも何かとご面倒になり、有形、無形のご恩恵を賜った。おおらかで、親切な人々だといつも感謝している。 尚、本報告とは直接関係がないが、■田家における文書類、用具、その他の美術品など、旧家の生活全体を伝える総合資料として大変価値のあるものであり、今後の調査の結果を期待している。 |