阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第33号
鞆浦における漁場利用慣行

民俗班 條半吾

 戦後漁船の装備が良くなり、漁具も化学繊維などの使用によって漁獲能率は非常によくなっている。その反面狭い漁場で多勢の漁師が色々な漁具と漁法で交互に入りまじって操業している。本来無主物を獲る漁業では力のある者が有利になることは避けられない。漁場での紛争を防止し円滑な操業を行うために法を超えた共同体規制が今も尚実行されている。その程度は遠洋漁業や沖合漁業に依存する地域と、沿岸漁業特に漁業権漁業に依存するかどうかで相違がある。
 鞆浦には20数年前まで赤道近海で操業する鰹鮪漁船があったが今は無い。58年の漁業センサスでは沖合沿岸で鰹等を釣る漁業が262経営体、もじやこなどの旋網が25で他は漁業権漁場内で操業する大敷網1、小型定置網44、船曳網5が主な漁業で、その他はえ縄漁業と採貝採藻漁業があるが従業者は少ない。
1.休漁日などの申合せは漁業組合が中心になって行うが漁場利用の申合せは同業者間でする場合が多い。それは部分的に変更があっても基本的なものは明治や大正時代から続いている。


 休漁日
 村全体の休漁日は漁業組合の総会できめられる。昭和37年の総会で、それまで旧正と新正月の2回休んでいたのを新正に統一し3日間休むことになった。その他の漁休みは次の通りである。八幡さんの祭6月26日、愛宕神社の祭7月24日、住吉神社の祭7月30日、お盆2日間、八幡さん秋祭り3日間、港柱さん祭1日、この他臨時に1月、5月、9月の蛭子神社の祭を漁休みとすることがある。特に正月の蛭子祭りには神主を呼んで大漁祈祷をする。だがこうした臨時休みは総会できめられた漁休みでないから出漁してもかまわない。しかし正月など総会できめた休みの日に出漁すると、その日の水揚は組合に没収される。こうした漁業全体の休みの他天候が悪い時など漁業種類毎に話合をして当日を漁休みにすることがある、特に罰則はないがそれが守られるのは、万一遭難した場合他人に迷惑をかけるという配慮があることは否定できない。大敷網に不漁が続いた時は浜に4本の竹を立てて祭壇を作り神主さんを呼んで潮直しの祈祷を行うが、一本釣漁業でも他の船に漁があるのに自分の船だけはどうしても魚が釣れないような時は神主さんにきてもらい祝詞をあげてもらう、こうした行事は個人的な漁休みであるが、総会できめた休漁日にも出漁しても良いことがある。それは押上げの時である。
 押上げとは其の日の水揚げを差し上げるという意味で、阿南の漁村では引あげと言っている。他県でもその例があるが、本県の阿南市以南の各村では一般的行事であった。押上げとは当日の水揚を地区の経費や祭り雑用、青年団の事業費などに充当するもので、主催者は青年団や地区の団体であって漁民ではない。そのため当日は陸人(おかびと)も船に乗って網を曳いたり魚を釣ることが必要である。それは素人でも参加できる漁業でなければならない。又出漁すれば確実に漁獲があることが予想されなければならない。それにはバッチ網が一番適している。鞆浦の昭和26年の総会では祭日を利用し、各戸1人は必ず出ること、当日天候の状況によっては日延べなど臨機の処置をとる、漁具はバッチ網とし、青年団活動の経費と祭礼の当屋の雑用に充当する。というもので青年団からは網元に対し酒2本宛を謝礼に持参して3つの地区で実施している。

 

 バッチ網漁業の慣行
 バッチ網は主として鰛を獲る漁業である。網の構造は地曳網とほとんど同じであるが、地曳網は網を陸地に引き揚げるのに対しバッチ網は網を船の中に取込む点が違っている。網元経営で全国的に行われていた漁法で、明治35年に施行された漁業法でも特別漁業権の漁業として優遇されていたうえ多勢の船子を使用するため漁場利用の面では有利な立場にあった。
 鞆浦のバッチ網は戦後7統にまで増加していたが、網元の中には鰹漁業や鮪延縄漁業に重点を移す者が出たため、昭和30年には漁業生産組合を作って共同経営にした。しかし32年には早くも解散し、解散後は5統に減少した。其の後鰛の不漁が続いた上高度経済成長による人口流出のため実際の操業隻数は更に減少している。バッチ網の規模は荒手(袖網)が100間(1間は5尺)の長さで、袋網は18間60反廻り、袋網と荒手の継ぎ目にソーカイという目の細い網が15間程ついている。船は木造2.5トンの網船2隻に8人が分れて乗り、木造1.5トンの手船に1人、テナオリと呼ぶ陸上の砂浜にいて碇を移動する者2人の大体11〜12人が1統当りの従業員である。漁場は共同漁業権漁場内で大里海岸のうちその二分の一位の巾がその漁場である。
 このような狭い漁場では7統のバッチ網が同時に網を入れて操業する事はできず、陸地に向って並んで網を曳くことができるのは大体3統宛である。沖合は1500メートル程まであるが漁場を利用する順序方法をきめる必要がある。それは法律以前の慣行であるが、漁村生活の基底をなしている。鞆浦のバッチ網は大正11年に次のように申合せをしている。
1.網入時間は1番を午前8時と定む、但し順番は天候の如何を問ず毎日1番のくじは流れとする。祭日で休業の時は順番はおく。
2.2番の網入は1番の岡網が動くと同時に網入すること。
3.3番の網入は1番網がロクロを取次第に網入すること、但し2網代を置き廻すことを禁ず。
4.4番より後網は3番に準じて使用のこと。
5.網入の順番は沖へ船丈以上出抜けた船を先網とする。
6.第2、4の網は2帖先網のロクロを取る迄に網入の箇所を定めること、但し先網の差支えなき範囲において、合図をして網入するも差支なし。
7.バッチ網尻の小鰹は他の網漁法で取ることを禁ず、但し網尻の小鰹を置き廻したときは、その網の白子は後網に渡すこと、但し後網のミゾ(袖網が船に付くこと)がついた時は網入はできない。
8.天候不良の場合は1番の権利は午后3時迄とし、午后3時を過ぎると勝手次第。
9.1番網が出漁しない時は臨時のくじをひいて網代を定む、但し1番は流れとし其日の2番を翌日の1番とする。(以下略)
 このような申合は大正12年にも行い、大体毎年漁期前に確認する事になっている。昭和2年には浜に標柱を建ててその区画内で1、3、5、7番のくじに当った者が先に網入を行い、2、4、6番の者は目打番(後網のこと)となり先網が操業を終り沖へ漕き出すまでに網入をしなければ、先網が再びその網代で操業する権利ができる。先網は2回目の操業からでなければ番に当っている網代以外で操業することはできない。1番網の権利は正午迄とする。1番が休漁したときは2番がその番を拾い、3番が欠けたときは4番が、5番が欠けたときは6番が、2番が欠けたときは4番、4番が欠けた時は6番がこれを拾うという様に若干の変更があっても基本的な申合せは変っていない。しかし昭和44年になると転業者や廃業者が出たため漁場にゆとりができ従来のように厳しい規制の必要はなくなっている。この時の変更は『午前8時迄に漁場に来ていない場合は漁場の番の権利は失う。くじ番を間違って網入した時はその漁獲は没収する。時期により局部的に漁がある場合は話合をして操業の円滑化を図る。網の長さは現在使用している中で一番大きい網に統一する。』という様な変化をみせている。
 こうした申合せは漁業操業上の秩序を守り円滑化のためのものであることは言うまでもない、しかしそれ以上に漁撈の機会の公平化均等化をすることによって各人の水揚高を平均化している役割を忘れてはならない。この事は次に述べる定置網漁業に最も良く現れている。又こうした申合せによって同業者間の結束を強め他の漁業に対する漁村内における発言力を高めている事も見逃す訳にはいかない。揚操網はバッチ網が出漁している時はその網代で操業する事は許されないし、小鰹網もバッチ網が操業している漁場で網を入れることは出来ないことになっている。

 

 角網漁業の慣行
 角網は海岸近くから沖へ100〜150メートル程垣網が延び、その先に魚取網がついている小型の定置網である。魚が■游する経路に垣網を置き魚が網に当ると沖へ出る性質を利用するため、隣接する角網とは間隔が必要である。又他の漁業との調整があって地区内の網代は、荒目角網の場合(1)長谷の神、(2)大宮、(3)三本松、(4)州脇、(5)小敷場、(6)八幡、(7)下手、(8)狸碆、(9)丸場、(10)製材の下の10ケ所に限られている。時期によっては網目の小さい鰛を獲る角網に変るが、細目角網はバッチ網との関係があって漁場は更に少なくなる。
 角網は比較的小資本でできる上、従事者も2人で足り、1日の作業時間も漁によって相違があるが大体3時間迄に終る楽な仕事である。そのため角網をやりたいという希望者は多い。昭和16年従来7人の者が1順番によって漁場を交代しながら操業していたのに対し、新しく1人が参入してきた。当時新参者は従来の業者が12日操業するのに対し8日の割合で操業が認められていたが、2年目になってもその割合が変更されなかったため紛争になった。しかし組合の総代会等の判定は従来通りという事になり、新規参の者もしぶしぶ承諾せざるを得ない結果になっている。限られた漁場で安定した漁業経営を行うためには、網の統数を制限することは古くから行われている漁村の慣行である。戦前にはそれが守られていた。戦後民主化の浸透は漁場利用の面にも進み、新規参入を制限する事が難しくなり、少なく狭い漁場を少し宛分け合って利用する方向に変っている。
 昭和58年10月に行った荒目角網の漁場抽選結果をみると、さきの10網代に対し34人の者が申込をしている。34人は抽選で1番から34番まで番号をきめ、1、4、8、12、16、19、22、26、30、の番号に当った者が角網敷込の権利を得、残り24人は網の準備をしていても操業することができないという結果になっている。そういう状況の下で行った同業者間の申合せは次の様なものである。この申合せは各網代は一週間すると入れていた網を揚げて次に当っている漁場に移動するか、又は休業するということが前提になっている。
(1)6ケ月以上漁業に従事していない者は翌年の角網は操業する権利がない。
(2)細目は1月の抽選までに網を仕立て申込むこと、それ以後網を作っても番に入れない。
(3)荒目は10月の祭りの抽選までに申込むこと、それ以後は番に入れない。網があること。
(4)細目の自分の番網代に荒目網を入れる場合は9月1日から入れてもよい。
(5)拾い番は水曜日の昼までに本番がやらないときは無條件で網入れができる。
 それ以前は話合によること。但し水曜日までに漁ができた場合は本番の意志に従うこと。
というものであったが年によっては『拾い番は順番で即日から拾える。権利は拾い番に移る、但し悪天候の時はこの限りでない。』と変ったり、『他に漁があり角網の漁場が遊んでいるときは特別に拾い番ができるようにする。』『2人以上の希望者があるときは番の順とする。』『名儀人本人が町外へ1週間以上出漁中の場合は網入することができない、但し同一家族はこの限りでない。資格の有無は組合できめる。』というように時により変更しているが、拾い番の事を細かくきめているのをみれば解るように、網を準備しながら操業できずにいる者が、操業している者の倍以上もいることは問題である。それは細目角網の場合も同じで、次の54年5月の番取表を見ても解るように、1番Aは5月5日から9日まで折つき網代へ網を入れると24日まで休み、25日から29日まで水取場網代に網入れすることができる。次は6月14日から18日まで赤灯台の網代で操業できるが他の日は休業しなければならない。勿論角網が休漁中でも他の一本釣漁業や磯建網など兼業できる漁業はある。しかしこの操業できる日数の中にも荒天で休まなければならない日もあり、短い期間に網を入れたりあげたりする労働の負担も多い。又同じ規模同じ構造の網を潮の流れや地形の違った網代に移動することは、漁獲効率の点からも再考を要すると思われる。


 終りに
 鞆浦に限らず何処の漁村でも漁場利用上の慣行があり時代の変化に対応して新しく追加されたり、又は廃止されたりしている。天草の例をとると戦前多勢の組合員が採取していた時は、口開けの日も総会で規定し大切にされていた。採る人も無くなった今は県の規則に従えばあとは自由である。それは鮑やサザエの採取も同じで従事者が4〜5人と少ないため、それ等の人の話合に委されて漁協は関与していない。それはそれで良い事であるが我々はもっと漁村の慣行について関心を持ち、それが漁村社会にどの様な役割を果しているか勉強する必要があると思う。

  細目(小型)角網番取表
   昭和54年5月5日
氏名 順番 折つき網代 赤灯台網代 水取場網代
    月 日 月 日 月 日 月 日 月 日 月 日 
A 1 5.5〜5.9 6.14〜6.18 5.25〜5.29
B 2 5.10〜5.14 6.19〜6.23 5.30〜6.3
C 3 5.15〜5.19 6.24〜6.28 6.4〜6.8
D 4 5.20〜5.24 6.29〜7.3 6.9〜6.13
E 5 5.25〜5.29 5.5〜5.9 6.14〜6.18
F 6 5.30〜6.3 5.10〜5.14 6.19〜6.23
G 7 6.4〜6.8 5.15〜5.19 6.24〜6.28
H 8 6.9〜6.13 5.20〜5.24 6.29〜7.3
I 9 6.14〜6.18 5.25〜5.29 5.5〜5.9
J 10 6.19〜6.23 5.30〜6.3 5.10〜5.14
K 11 6.24〜6.28 6.4〜6.8 5.15〜5.19
L 12 6.29〜7.3 6.9〜6.13 5.20〜5.24
 漁期 モジャコ小割の枠を揚げ終るまで


徳島県立図書館