阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第33号
旧鞆奥町の年齢階梯制と祭礼行事について

民俗班  岡田一郎

はじめに
 昭和30年3月31日に旧鞆奥町と旧川西村が合併して海部町が成立した。旧鞆奥町は、いわゆる海部城下で、古くから開けた町であり、海部の人でも鞆奥へ行くことを海部へ行くといっていたほどである。
 この町は、漁業中心の鞆浦と商業中心の奥浦の二つの町から成立している。
 県下いずれの町村においても、年齢集団と祭礼行事のかかわりはみられるが、この地においてはそれが今なお顕著である。そこで、旧鞆奥町の年齢階梯制と祭礼行事等について調査してみた。特に、県南随一といわれる八幡神社の祭礼行事の中で、現在は実施されていないが、他の町村では例をみない関船や山車の川渡御(かわとぎょ)について調査し、記録に留めることにした。


一.年齢階梯制
1.鞆奥地区の若衆組について
 この地区は俗にいう漁師(りょうし)ばらで、漁家が密集しており、団結心が強く、年齢階梯と祭礼行事とのかかわりが大きい。
 当屋(とうや) 40才〜50才前後の者が選ばれ、町内の年中行事一切の責任者となり、2年〜3年で交替する。
 若者頭(わかものかしら) 25才〜30才前後の者が成り、当屋の補佐役をつとめる。若者を指揮する実行責任者である。
 手板(ていた) 20才〜25才前後の者がなり、若者頭の補佐役をつとめる。
 若者(わかもの) 19才〜20才
  先輩の指示に従って働く。
 小若者(こわかもの) 15才〜18才
  先輩の指示に従って働く。昔は、高等小学校を卒業するとすべて仲間に入っていた。
2.奥浦地区の朋輩組(ほうばいぐみ)について
 奥浦地区は俗にいう町(まち)ばらで、商家が立ち並んでいる。この地区の朋輩組というのは、生れた年の前後4年ぐらいを単位とした仲間集団で、集団の人数は14人〜15人である。仲間に入る入らないは当人の自由で他から強制されることはなかった。
 地区ごとに気の合う者同志が相互扶助と社会奉仕をする目的で小集団を結成した。仲間の家族の幸、不幸の諸行事においては、親類以上のつきあいをした。
 この組識は、現在も一部残つているが、江戸時代から明治、大正年代が最も活発であった。このことは、町内の寺社の奉納物や記念碑などの記銘から伺うことができる。(江戸時代末期から明治、大正、昭和初期)
 朋輩組は、それぞれ舎名、会名をつけていた。
  1 松栄舎(明現神社石段、本社修築)
  2 勇進舎(明現神社百度石の寄進)
  3 開進舎(明現神社神灯2基寄進)
  4 進楽舎(明現神社神灯永代寄進)
  5 盛進舎(明現神社小鳥居、拝殿修築、薬師寺鐘桜修築)
  6 繁栄舎(明現神社大灯篭2基寄進)
  7 文明舎(楠神社社殿改築、治水記念碑建立)
  8 誠進舎(不明)
  9 愛親舎(明現神社本社修理)
  10 赤心舎(不明)
  11 博陽舎(明現神社境内電灯7灯寄進、西山墓地参道修理)
  12 賢明舎(公民館前国旗掲揚台寄贈)
 その他、一心会、共進会、共明会、円修会、共和会、親栄会、共栄会等があった。
 このように、会の名称からも推察できるように、常に親(したしみ)をもち、協力し合って、互に扶助し、社会奉仕をするなど、部落共同体の中で一つの役割を果していた。特に昔は、病人の輸送、(古老の話によると、明治の頃、朋輩組の女房が病気になり、徳島市の病院で手術の必要に迫られ、戸板の上に病人をのせて組の者が四隅をかついで約25里(約100キロメートル)の道を運搬したという。)死者の埋葬時の穴掘りなど、手間のかかる仕事を朋輩組の者が率先して行った。
3.若 中(わかじゅう)
 若衆仲間のことである。愛宕(あたご)山の手水鉢に「南町若中」と記銘されたものがある。これは、鞆浦南町の若衆連中が天保4年に奉納したものである。
 祭礼行事のとき、関船や山車などに「○○町若中」と記した燈灯を付け、若衆はしるしはんてんを着た。
 明治から昭和の初期までは、鞆浦に若衆宿があった。宿は、町の気安い家を借りることが多かった。この若衆宿が若連中の社交の場であり、後輩を育てる社会教育の場であった。
 特に、祭礼の打ち上げは、酒宿(さかやど)(気安い広い間のある家を借りた)に、芸者や仲居を呼んで夜を徹して酒宴をあげたという。
 明治、大正の頃までは、ヨバイの風習があった。屋根伝いに、ほうかむりをしてヨバイに行ったという古老の話がある。
 江戸末期の頃には、嫁さんかつぎ、といって嫁盗みの風習があった。大阪へ女中奉行に出発しようとする娘を、若衆がかついできて若者宿にかこい、若衆頭が娘の家へ行き○○男の嫁にくれないか、と話をつけたという伝承がある。
 戦前(太平洋戦争前)までは、盆踊りは、輪踊(慰霊踊)で、若連中が主催して行われていた。顔を手抜いでほおかぶりして変装し、若い男女が入り混じって賑やかに踊った。
 この地で古くから行われている左義長(1月15日の送り正月の火祭り)の行事の主役をつとめるのも若連中であった。
 奥浦地区では、手板(ていた)(20才〜25才前後)が中心となって左義長行事を行っている。


二.八幡神社の祭礼行事と当屋
 海南町大里松原にある八幡神社は、式内社で海部川流域の海部、海南住民の総社である。
 八幡信仰は、とりわけ鞆浦漁民が強く、祭礼行事に深くかかわってきた。これは、当社が元、鞆浦の大宮に鎮座していたものを、慶長9年(1604)に大里松原に遷座したことにもよる。
 秋の祭礼には、八幡大菩薩ののぼりをかかげた漆朱塗りの豪華な関船(せきぶね)2台、唐破風、欄間、格天井の屋台をのせた山車(ダンジリ)が7台、計9台のダシが出る県南最大の豪壮雄大な祭りである。
 この関船やダンジリの進行順位は古くから定められており、その伝統は、当屋によってきびしく守られてきた。
 1.関船と山車の進行順位
  先頭は鞆浦南町の関船
  (八幡神社が元鞆浦の大宮にあったので、当社の発祥の地の故をもって優先)
   二番手、鞆浦の高倉の山車
  (鞆浦の高所に位置し、船大工などの職人が、この地に多く住居していた)
  三番手 奥浦西の山車
  (奥浦で一番早くから開けたところ)
  四番手 鞆浦北町の山車
  (高倉に次ぐ高所に位置している)
  五番手 鞆浦仲町の山車
  (北町に次ぐ高所に位置している)
  六番手 鞆浦東町の関船
  (鞆浦漁業者の密集地、海部の本拠といわれる)
  七番手 奥浦本町の山車
  (西町に次いで開けたところ)
  八番手 海南町大里の山車
  (本社の在るところ、鞆浦の大宮から大里松原へ遷座)
  九番手 海南町四方原の山車
  (江戸時代に開拓された村)
  以上の順位を、どうしてきめたかは定かでない。文献資料もみられない。一説によると、鞆浦5台の構成は、先頭に南町の関船を配し、中間に高倉、北町、仲町の山車を最後に東町の関船を配したもので、昔、海部族の船団が兵員や物資を輸送した当時の海上進行体制を再現しているともいわれる。
 2.南町の関船(八幡丸)の八幡詣でについて
  1 渡御準備
   10月14日の早朝から関船納屋に集合、当屋の責任において、若者頭(14人)手板(ていた)(20人)若者(10人)小若者(6人)を指揮して、関船を組立て飾り付けを行う。昼過ぎに準備が完了すると、日暮の川渡御まで酒宴をはり、景気付けをする。芸者・仲居を4〜5人呼んで賑やかに行う。
 2 川渡御
  辺りが暗くなりかけた頃、関船を浜まで曳いて、高瀬船4艘の上に関船をのせる。関船には南町・若中と印した提灯(ちょうちん)がともされ、船留りから取舵いっぱい三本松(海南町大里浜崎)をめざして渡御する。川面に映える満灯の豪華な関船が、威勢よく、曳歌にのって海部川河口に広がる様は一幅の絵巻である。「伊勢はえー津でもつ、さあーよいよい、津は伊勢でもつ、さあーよいせーはーりなあー、尾張名古屋は城でもつ、さあーよいせーとこせ、よいやあなー、ちょいとはりわりせーさあさあよいとこせ、在郷の姉さん草刈る手元、南風(まぜ)よりなお早い」。
 この間、他の町の関船の渡御も同時刻頃に始まるので、各町の当屋は、高瀬船に乗って、争い事が起らないように監視をする。
 3 三本松に上陸
  関船は三本松に曳き上げられ、一晩とめておく、このとき、飾物など重要備品は近くの気安い家で預ってもらう。
 4 本祭りの出発準備
  翌朝若者たちが三本松に行き再度飾り付けをする。そして、正装の出来たものから八幡神社の参道に勢揃いをする。
 5 宮詣り
  9時半過、南町の関船を先頭に高倉の山車、奥浦西の山車、北町の山車、仲町の山車、東町の関船、奥浦本町の山車、大里の山車、四方原の山車の順で出発する。そして、昼前に浜入りする。八幡神社の前からどうーと地響をたて、全速力で曳いて走る。鳥居の付近をひとまわりし、その勢いで浜の出口まで曳き、次に後向に曳きもどし、鳥居の横まで曳いて据える。それぞれ据える場所が定まっている。
 松林の中や浜にござを敷いて昼弁当を食べ、神酒をのみかわす。これが直会(なおらい)である。
 6 御渡り
  御輿が小宮の御旅所まで御渡りをするとき、御輿の後に関船、山車が続く。定位置に着くと神事があり、御輿がお帰りになるまで待つ。午後4時頃御輿のお供をして八幡神社の鳥居の近くまで静かに曳いて帰る。御輿が鳥居をくぐり神社にお帰りになると、各町の関船や山車が再度浜入れをして元の位置に据える。
 7 流鏑馬(やぶさめ)
  参道の松の大木に的(まと)をつけ、馬を馳せながら馬上から弓で的を射つ。この間、関船や山車は休めておく。
 8 帰りの川渡御
  日が暮れると関船や山車に提灯の火をともす。夜の川渡御の準備は若者がする。
  浜から高瀬船4艘に積み、当屋の乗った別の高瀬船が関船に付き添って、昨夜来た川筋を鞆浦まで帰る。
 9 後始末と打上げ
  天候がよければ、翌日の16日に解体し小屋に納めるが、天候の悪いときは夜通し後始末をする。納屋おさめが終ると酒宿に集まり盛大に酒宴が始まる。芸者や仲居を呼んで夜が深けるまで、どんちゃん騒ぎをする風習があった。
 10 勘定休み
  17日は、当屋と若者頭が中心となって、祭礼費用の勘定をする。そして、決算報告を町の掲示板で告知する。このように、役待ちは、17日も仕事休みである。
  関船や山車は、下図のような要領で高瀬船に乗せて、川渡御が行われた。

 

三.鞆浦北町の当屋記録より
 鞆浦北町には、江戸時代末期頃からの当屋記録が保存されていたので、その一部を紹介しておきたい。


 文政3辰年作事いたし候事
棟梁大工吉助也
 1.円(だん)じり柱高欄其余朱塗
  塗師長江由左エ門
 1.龍宮城玉取円じり其余彫
  もの 大工助三郎
 右之通御役人中へ御届申上候
 文政6年8月 泉州堺にて相調
 1.猩々飛幕 金尺2丈2尺
   但1巾金1尺 銀6拾4分替
   同大阪大丸にて調べる
 1.本金錦裏吹幕 1丈8尺
   但1巾金1尺 銀3拾5分替
   右立岩兵吉相調候事 但当屋2人1組
   嘉永4亥年新しく出来
 1.円じり船大幕 喜八郎組栫也
   但染賃4拾5分 紺屋宍喰浦吉原善助也
 1.同引綱 但出入手板組請持之事
   安政8酉年出来
 1.8月円じり行列之儀 嘉永元申年高倉へ円じり後と来酉年は奥浦へ円じり後と相成申上1年替り順に右之通相定申候
 1.町之円じり関船其町之渡より引物候事尤も御役人様へ出奉許願以取究申候
 1.太鼓はりかえ代2拾5分
  此の張かえ桑野村嘉七組栫也
 1.当屋幟 当屋庄六組栫也 但其綿3丈2尺喜八郎組より指出候
  以上、当屋記録の一部である。紙面の都合で他はカットした。

 

 おわりに
 旧鞆奥町の年齢階梯制は、八幡神社の祭礼や左義長の行事を通して、若者組や朋輩組の中でみられるが、近年若者の減少によって次第に消滅しつつある。
 八幡神社の祭礼行事である関船や山車の川渡御が止まり、現在は陸上を曳くようになっている。あの情諸豊で華麗な川渡御がなつかしく思われる。いつの日か海部の特色ある祭礼行事として、再現されることを希望したい。
 鞆浦北町の当屋記録は、八幡神社の祭礼行事に関する記録であり、今後、「海部の祭」を研究する上で貴重な資料である。この資料を大切に保存している北町の方々に深甚の敬意を表したい。
 又、これが調査に当り、ご指導いただいた海部町教育委員会と鞆浦の浅川初夫氏に対し厚くお礼を申し上げたい。


徳島県立図書館