阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第33号
海部町の産業と人口の変動

地域問題班

   立花敬雄・中嶋信・中谷武雄

1.はじめに
 海部町は1955年(昭和30年)3月に鞆奥町と川西村との合併によって発足した。当時の人口は表1に示すように5,206人であるが、その後一貫して減少を続け、85年10月には3,244人となった。

その間、71年には国の過疎地域指定を受け、一連の過疎対策事業の実施をみたのであるが、人口流出の基調は変化せず、この30年間に1,782人、35.5%の減少を経験してきた。過疎化の進行が地域の産業動向と密接に関連していることはいうまでもない。本稿は海部町の人口減少がどのような形をとって進んだのかを明らかにし、町の人口減少対策の基礎資料を提供することを課題とするが、併せて、産業のあり方を検討することによって今後の展望についても手掛りを得ることを試みよう。
 まず前提的作業として海部町の産業動向についての一般的特徴を見ておこう。町の『過疎地域振興計画書』(昭和60〜64年度)では「本町は、海部族発祥の地で中古よりこの地方を『かいふ』と呼称し、県南における政治、経済、文化の中心地であり、高知県をむすぶ交通の要衝として重要な地位を占めてきた由緒深い町である」と特徴づけている。この指摘は少くとも最近まではあてはまる。海部町は商業を中心とする奥浦地区、漁業を中心とする鞆浦地区、農業を中心とする川西地区の三地区によって構成されている。1889年(明治22年)に鞆・奥浦を統合する鞆奥村(1923年(大正12年)に町制施行)と川西村が発足するが、鞆奥村(町)の発展は川西村はじめ周辺町村との関りでもたらされてきた。すなわち鞆奥町は、戦前・戦後を通じて、海部川上流域および木頭山分の林産物や、海部平野などの農産物の集散地としての役割を果たすとともに、阪神・徳島方面から移入される衣料、食料、雑貨などの生活物資の流入地としての役割をも果たしていた。そしてこの物の流れに伴って多くの人の流れが形成された。たとえば、木材・薪炭を扱う山林労働者、輸送労働者、また山持ちや商人、船員などの往来が活発であり、これにより奥浦地区の旅館、飲食店、商店などの第三次産業が活況を呈したのである。鞆奥町は下灘地区全体の第一次産業を基盤として、その経済活動の中心地として発展をとげてきたのである。ところが1960年代後半以降、海部川上流、木頭山分の林産物出荷が大きく減退するなかで、物、人の流れは不活発になり、他方でモータリーゼーションへの対応が不十分であったことなどと相俟って、海部町の第三次産業は大きな衰退をみせることになった。
 また鞆浦地区の漁業は明治期より盛んで、堅実な経営を特徴とし、海部町の産業のひとつの柱となっていた。ところが1960年代以降、沖合漁業の衰退と沿岸漁業の再編成という大きな変動を経験してきており、今日も沿岸漁業の不振から多くの経営問題をかかえこむに至っている。そして農林業を軸とする川西地区もそれ以上の変動をみせた。海部町の農業は零細性にひとつの特徴があるといえよう。それは戦後農地改革時点での各農家の所有面積が平均6反余りであったことからも明らかである。高度経済成長期に零細な農林漁業が分解して、労働力が都市に流出する現象が一般化するが、海部町においてもそれは顕著であった。町内では農業生産を強化するために機械化や施設園芸部門の拡大などの取組みがなされたのであるが、農家戸数の減少や兼業化の進展はそれ以上のテンポで進み、今日も地域の農業経営の危機は深まりつつある。
 このように海部町の産業は高度経済成長期に、かつてない変動を経験し、今日もその変動は継続しているのである。そしてこのことは海部町の人口構成の変化をただちに招かざるをえない。次にその内容を検討しよう。


2.海部町の人口動態
 人口動態は出生・死亡数の差である自然増(減)と転出・入数の差である社会増(減)とで構成される。海部町の最近の人口動態は表2のとうりである。

各年、自然増が若干あるが、ほぼ一貫して流出人口がはるかに上まわり、年率で1〜2%の減少をみせている。変動の主要因である人口の地域間移動の内容がまず検討されるべきだろう。
 町からの流出人口がどのような年齢で構成されているかを捉えるために、総理府「国勢調査」間の年齢別人口変動率をみよう。5年毎に行われる国勢調査の結果として、5才年齢区分の人口構成が発表されている。これにより、特定の5才階級の人口の変動を比較することが可能である。たとえば、70年に15〜19才階層に属する男性は138人であった。そして75年にはその階層は20〜24才の階層に移行するのだが、当該階層には64人のみであるから、5年間に74人の純減、53.6%の減少率を確認できる。この階層の死亡率はきわめて低いから、この間の減少はほとんどが町外流出によるとみることができる。同様にして1965〜80年のセンサス間の年齢階層別変動率を得たものが図1である。


 概括的にみるならば、グラフは近年になるにつれて0に近づいていることから、人口変動はやや緩和しつつあるといえよう。ただしそれは副次的な特徴であって、基本型は変っていないという点こそが留意されるべきである。図から確認されるように、男女ともに10代後半・20代前半に減しい減少をみせている。この時期は高卆(大卆)、新規就職の時期にあたるが、それが人口流出の契機となっているといえよう。減少率はわずかの低下をみせてはいるが、男性の場合では、20代前半には小学校同級生の 1/3〜1/4 しか町内にとどまっていないという、高度成長期に形成された若年層流出の構造はいぜん維持されている。そして女性の場合も、変動率は相対的に低いとはいえ、高卆までに過半数が流出し、「Uターン」の形成も微弱であるという状況は一貫している。
 75年以降の新たな動きは20代後半におけるいわゆる「Uターン」率の上昇である。男性の場合、60〜65年:3.9%、65〜70年:2.7%、70〜75年:59.5%、75〜80年:37.5%、80〜85年:23.5%と大きく変化している。海部町の人口減少をくいとめる上では明るい材料といえるが、このことを過大に評価することは正しくない。まず、流出により母数が小さくなったために相対比が高く示されるという点に注意が必要である。次に、これらの「Uターン」人口が、海部町の就業条件の好転によって呼び寄せられたと判断することはできず、むしろ構造不況下での人口集積地域の労働力吸収力の低下や就労条件の悪化によって排出された人口と判断すべきであろう。つまり人口集積地域の経済事情により海部町からの労働力吸引の様相が規定されるという構造は不変である。そしてこのことは「Uターン」人口の形成そのものが脆いものであることを意味している。
 このような若年層の激しい流出がくり返される中で、海部町の人口構成は大きな変化をみせた。図2は町の年齢別人口構成の変化を示すが、30代以下層の大幅な減少は一見して明らかである。

それは、10〜14才の男子の場合、60年:339、70年:218、80年:142という数値をとる。20代がくびれた「農村型」の人口ピラミッドとなっていることから、都市への人口流出が構成の変化を直接的にもたらしていることは確かである。だがそれだけではなく、その結果、地域の出産年齢階層が縮小し、出生率の傾向的低下を招いていることにもよっている。80年のグラフは下部の小さい「ツボ型」(=人口減少型)をなしており、状況の大きな変化がない限り、出生数の一層の減少は不可避といえよう。
 一方、40代後半以上の人口は停滞ないし増加基調にあり、とりわけ高齢者の増加率の高さは顕著である。このことは一般的に指摘される「高齢化社会の到来」と同一視されがちであるが、過疎地域での現象は区別が必要である。つまり、過疎地域では高齢者の増加も進むが、それ以上に、若年層の流出が進むことの方が、高齢者比率をおしあげているからである。表3に老齢人口比率の推移を示す。

海部町の特段の高さを確認できるが、同様の過疎地域を多くかかえているために、徳島県も「全国水準の10年先を行く」高さとなっている。
 高齢者の増加それ自体は平均寿命の伸びを反映したものであり、歓迎されるべきことはいうまでもない。また、高齢者の社会活動への参加が地域社会に多くの可能性を保障することも期待されよう。ただし、地域社会の年齢構成という視点でみるならば、高齢者比率の著しい高さには、いくつかの課題が含まれていることは確かである。ひとつには地域の労働力の再生産が確保されないために、地域の生産力の停滞や社会活動の沈滞がひきおこされるという点にある。現に海部町では労働力人口の高齢化による生産力構造の弱体化や、後継者が得られぬための自営業の廃業などの発生をみているのである。
 次に、生産年齢人口に比して高齢者比率が高まることは「扶養負担係数」をおし上げ、住民一人あたりの所得水準の低下や社会福祉事業の困難を招く可能性がある。とりわけ比率の変化が人口学的変化によるのではなく、若年労働力の流出のような社会・経済的変化に基づく場合には、変化は過大であり、地域社会の混乱を招きがちである。表3の数値の高さから、対処は急がれるべきといえよう。国士庁は『過疎白書』の中で、出生率の低下と老齢化による死亡率の高まりとによって「第二次過疎」が発生する可能性に注意を換起しているが、海部町においてもそのことは充分に留意されるべきであろう。
 若年層を中心とした労働力の地域外流出は、いうまでもなく雇用機会を求めて発生している。それでは町内での就業内容はいかなる姿をなしているのかをみよう。高度経済成長の過程でわが国の就業構造がかつてない変化をみせたことはよく知られている。通常それは第一次産業が分解して第二・三次産業に労働力が移動する過程=「産業高度化」と捉えられている。海部町においても表4に示すように、就業構造の変化は同様の傾向をみせている。

だがその内容は慎重に検討されるべきだろう。まず、第二次産業の増大は農業を主とする就業者数の減少のもとで相対的に実現されたものであって、実数は激しく変化していることが確認できる。第一次産業から排出された労働力を第二次産業に吸収することはおろか、第二次産業内部でも陶汰がくり返されているのであって、地域の第二次産業は外部経済のいかんにより左右されるような不安定な実体にあるとみるべきであろう。
 第三次産業も同様の問題状況にある。地域の物的生産部門の後退のもとで後退傾向は露わになりつつある。表5は徳島県全体の商業活動に占める海部町などのシェアの指標を示す。

統計数値の揺れを防ぐため平均値が比較されているが、これから以下の点を読みとることができる。まず海部郡全域の過疎化の中で、郡の商業活動が県全体に占める比率は次第に縮小しつつあり、地域の商業従業者は減少を余儀なくされている。次にその海部郡の中に占める海部町の位置の変化がある。それはシェアの傾向的低下や隣町とのシェアの逆転の事実に象徴される。海部町は永らく下灘地域の中核地であった。ところが地域の第一次産業の後退と交通網の再編が進む中で中核地的性格を弱め、かつて築いた商業的集積の分解過程を迎えているのである。
 これまで就業者構成の推移を手がかりに、地域の就業構造の特徴を確認した。各産業の動揺が顕著であって、労働力の産業間・業種間移動がたえず発生せざるを得ない状況といえよう。そしてそのために、労働力の地域内での吸収をなしえず、労働力は地域外に排出されざるをえないのである。
 だがこのことは、海部町の産業の再建が不可能であることを意味するものではない。たとえば第一次産業の後退と一括されがちであるが、漁業者が一時期の減少以降、増加ないし横ばいの状況にあることが注目される。このことの背景には、沿岸漁場の環境整備事業や動力船化などの経営改善の取り組みがあったことは明らかである。つまり生産的投資の効果が就業者の確保という形であらわれているのである。このことを理解するならば、農業や製造業関連の基本投資の遅れを、地域の産業解体を阻めなかったひとつの要因として指摘することができる。そして地域の産業を再建し、過疎化に歯どめをかけるために、大胆な生産的投資を準備することが緊要であるとすることができよう。
 次に、過疎化への対処策に関って、近年の社会移動の特徴をみよう。表6は海部町の社会移動の内訳を75年と85年について示したものである。

75年時点では純流出が若年層にほぼ集中していたが、85年では全年齢にわたって転出が転入を上まわっている。より立入った分析が必要であるが、人口流出による生活条件の悪化が全階層的流出を招く(「過疎が過疎を呼ぶ」)事態が進行していることが予測されるのであり、早急な対処が求められているといえよう。
 また下段は各地域との転出入関係を示している。この表で注意すべきことは、木頭村、高知県など従来の転入超過地域が85年には転出超過地域となっている点である。過疎化がより進行すると人的資源が涸渇し、流出人口すら減少する。そしてそれらの地域から人口供給を受けていた地域に過疎化が上乗せされることになるのである。海部町は過疎化のテンポでは県内では中位に位置するが、今後、過疎化のより進んだ地域の影響を強く受けることが予想される。人口の地域間移動の上述の関係を理解するならば、各自治体の個別的対応のみにとどまらず、広域的対処が必要であるといえよう。


3.地域づくりへの課題
 われわれの主要関心は、海部町のこの困難な状況をいかに打開するかにある。もとより限られた調査ではあるが、その過程で明らかになった諸課題を以下に確認しよう。
 第一には、海部町の将来展望を考えるうえで決定的に重要なことは、その産業面における発展をいかに実現するかということである。このことについては海部町「過疎地域振興計画書」においても確認されている。同書では各種公共施設、道路網や文教施設の整備に比して、産業基盤整備は相対的に遅れており、従来の投資効果が顕在化するためにも、この方面でのさらなる諸施策の実施が必要であることが指摘されている。
 海部町の産業的発展を考えるうえでのひとつの制約は、幸か不幸か、町外からの工場誘置の可能性がきわめて少ないということである。この事実は、最初から選択の幅を狭めるという意味ではひとつのマイナス要因となる。しかし、そのことが行政レベルはいうに及ばず町民全体の共通認識となっていることは重要である。
 地域産業の活性化や地域開発の方策をめぐっては、外部依存型と内発的発展型の二類型があり、その戦略をめぐって両者の深刻な論争や対立が発生している。この下で、海部町では前者は事実上放棄されているといえる。外部依存型には不確定要素が多く、また地域内での分裂や対立を各地でひきおこしているが、海部町ではその選択は現実的でない。したがって地域の資源を活用しながら産業の活性化を図る内発型が選択される。このことが住民のコンセンサスとなるならば、不毛な論争や不幸な対立を招かず、一貫した政策方針が維持され、集中的で効率的な財政投資が可能となる。
 海部町において産業基盤整備という場合には、農業と漁業が中心に考えられている。前掲の「過疎地域振興計画」でも「振興方針は、基幹産業である農業・漁業を二つの柱とし次いで商工業の振興、観光開発をすすめる」としている。農業と水産業を発展させるための基盤産業投資を先行させ、その成果である地域に産する資源の効果的な活用をはかるという戦略は、一見、消極的であり、かつ困難と思われがちである。だが前節でみたように、この地域においては第一次産業こそが基幹産業であり、その動揺が地域経済全般の困難を方向づけていた。この基本戦略の正しさは、その点で明らかであるが、この戦略についての地域的合意を確かなものとする必要があろう。海部町では、町財政の執行残に見られるように、財政投資には概して消極的に推移してきた。このことは産業振興の基本戦略についての住民合意が不充分であることに基づいていると判断される。
 第二に、地域づくりを確かなものとするためには、長期的で総合的な政策目標を確定し、それを着実に実現していく地域経営システムをつくることが緊急の課題となっている。
 海部町は、農業地域の川西、漁業地域の鞆浦と商業地域の奥浦というように、地域的、人口的また産業的に、ほぼ三分割されている。この三つの要素が海部町の全体を構成するのであるが、町政運営上では地域的利害の対立を招き易い構成となっている。この三者の利害を調整し、効果的に統一するために、住民の合意形成の場を設けることが求められる。
 これまでの行政投資の流れは、まず漁業が先行した。そして農業がそれに継ぎ、商業は目下、始動段階にある。ここで留意すべきは、この三種の事業の関連性や、町全体の発展計画上の各々の事業の位置づけが必ずしも明確になっていないことである。実際の事業選択は財政力に制約されざるをえず、町内では政策選択をめぐって矛盾が形成されることはさけられない。その際、重要なことは、町全体の発展計画についての住民全体の合意のための「場」である。これにより部分的な矛盾は解決され、計画推進にむけて、町内の人的・物的資源の有効活用が果たされる。海部町の場合、街区の利用状況ひとつをみても、この点の不備が指摘されよう。
 第三に、地域づくり運動の担い手対策と町行政のイニシアティブの発揮の方途が検討されるべきであろう。
 町の将来像を模索するという動きが出始めていることを看過してはならない。代表的なものとしては母川の蛍祭がある。これは地域の青年集団の自発的な取り組みで出発したものであるが、次第に行政のウエイトが高まり、事業規模も大型化して、県下にも名を広めるに至っている。また長らく途絶えていた青年団活動が再興の気運にあり、町内の全体組織としても動き出して、海部郡を単位とした広域的交流も始まっている。Uターンなどもあり、若者が地域再生の主体として動き出しつつあるということは注目されるべきである。他にも、農協婦人部の特産品づくりの取組みやこれへの農協の援助、村づくり推進委員会の発足など、町内では多くの人々が多様な方法で動き出している。また、これらを支えるものとして、社会教育の推進など町行政の役割も高まりつつある。これらは未だ模索段階であり、本格的な地域づくり運動とはいいえないが、これらの模索に海部町再生への重要な手掛りがあるといえよう。海部町の振興計画では担い手対策が明記されていないが、地域づくりの気運を高め、運動の発展方向を示すうえで、町行政のイニシアティブの発揮が不可欠である。またそのためには、重点部門への人員配置など行政機構の活性化が前提として求められるのである。
 第四に、町の独自性を保持しつつも、下灘地域さらには県南地域全体の広域的な対応を考えることが必要であろう。前節で確認したように、海部町の経済はこれらの地域の動向に深くかかわっていた。県南地域の第一次産業の発展は、中核地・海部町の発展の重要な条件である。
 徳島県の「総合開発基本計画」では、「この地域の気候・地勢などにあった第一次産業の振興と観光資源の開発を主とする均衡のとれた産業開発をはかる」ことが県南地域に対して基本方向として示されていた。第一次産業の振興については、生産団地形成や市場対応を効果的にすすめることが必要とされるが、このこと自体、広域的対処を求めるものである。また観光開発についても同様である。県南地域全体としては、この十数年来、各種施設が整備されてきてはいるが、観光産業の育成は十分でなく、観光地としての特徴を十分に打ち出せないでいる。広域的連携により面的な展開が図られるべきといえよう。


4.まとめにかえて
 海部町は高度成長期以降、人口構成の大規模な変動を示してきた。それは若年層の流出と総体としての人口減少、老齢化の高まりというあらわれをとった。この人口変動をひきおこした第一の要因は大都市圏における人口集積であるが、同時に、地域の産業が弱体化したために人口流出を阻止できなかったという側面も併せて捉えることが必要であろう。そして海部町の産業の再建の見通しが得られないために、今日も「過疎が過疎を呼ぶ」状況が解決されずに進行している。
 このような理解にたって、この報告書では人口構造の分析にひきつづいて、海部町産業の再建にかかわる主な課題をあえてつけ加えた。これらの整理は町関係者からの聴取りなどに基づいているとはいえ、もとより限られた調査であり、「傍観者の潜越」との批判をまぬがれようもないだろう。だが、この調査に協力いただいた海部町の人々の誠意にわずかでも応えようというわれわれの姿勢は汲みとっていただけるものと思う。
 この調査では、受入れ事務局の町教育委員会、町役場の関係部局、農・漁協、商工会などの協力をえた。御多忙の中、われわれの勝手な注文に非常に好意的に対処していただけたことに深く感謝申し上げたい。この調査を出発点に関係者との討論が多様な形で深まることを期したいと考えている。
 なおこの報告書は三者の素稿と討論をもとに中嶋が編集した。また調査および討論の過程には三木正幸が参加した。


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