阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第32号
曽我氏神杜の神踊り

民俗班 岡島隆夫

1.神踊りのいわれ
(1)起源について
 曽我氏神社の神踊りの起源について、『石井の文化財』(石井町教育委員会)では、当家記録等から文化年間に推定している。しかし、当村久米道夫氏所蔵『曽我氏神社神踊歌(踊の例誌)』には、「明暦年間より相■(つづ)住よし踊り」とあり、「今は昔摂州住吉の郷よりはじまれり、是によりて住吉踊と名づけ陰暦七月廿一日村民挙て諸所の神前に之れを踊り氏子繁栄五穀豊饒を祈る」と記している。この記録(明治期の書写と思われる)を信用すれば、その起源はさらに江戸初期までさかのぼることになる。今も古老が「上方から伝わった住吉踊りが起源だ」というのはこれに拠るのであろう。
 旧暦7月21日は曽我氏神社の夏祭りで、現在も守られている。この日は、神社の由緒書によると、もと古曽氏谷に奉斎されていた旧社を、寛永2年(1625)村議を以って現在地に迎えることに決した日だとされている。そして、社殿が竣工して同年11月21日に遷座した。以降この日を冬祭りと称して例大祭を行ってきたが、明治期に新暦の12月21日となり今日に及んでいる。
(2)目的について
 かつて米づくり中心の暮らしの中で、村人はひたすら氏神に五穀豊穣の祈願をこめた。夏は風水害、虫害にことのほか悩まされ、命の稲を守るためには、その祈りも今日想像以上のものであった。また医術も未熟で疫病等に苦しんだ人々は、ひたすら無病息災を神に祈った。この神踊りも無病息災、五穀豊穣の願いを込めて、氏子の万福を祈り奉納されてきたのである。今も夏祭りに各郷で掲げる祭礼幟には、「風雨順時」「五穀成就」「豊年楽有成」「無事自治泰」などの祈願詞が墨痕あざやかに記されている。


 もちろん神事芸能には娯楽的要素も強い。この踊りでは大人たちが楽しく唄い、子供たちが喜々として太鼓を打ちながら舞い遊ぶ。村人が打ち揃って氏神に集まり、神前で和気あいあい村中一家の如く睦び和む。産業構造が変わり、医術が進んで祈りの気持ちがうすれても、村民が一体となって地域社会の“きずな”を確め合うこうした機会はますます重要になってきているように思う。
 なお、12月21日の冬祭りに行われる「大飯盛式」の神事は、収穫を了えて豊作を感謝する霜月祭りの一種で、豊作を祈る夏祭りの神踊りとともに、神祭りの古儀を伝えて興味深い。


2.神踊りの準備
(1)当家組について
 旧城の内村(現石井町字城の内)は東・中・西・北・木留の五郷(ごう)よりなる。この五郷から東組、中組、西組の三当屋(とうや)組が編成され、曽我氏神社の夏祭りの神踊りや冬祭りの大飯盛式などを奉仕する。
 当家では「くじ」で決める。かつては全氏子の総くじであったが、近年は団地もできて勤務の都合などで辞退する家もあり、古くから在住の農家などが中心となっている。
 東・中・西の各組の構成は12〜13戸で、各組とも各郷からまんべんに選ばれるようになっており、定められた順で三組の当家が交互に年番を勤める。三組あるので三年ごとに廻ってくる。そのうち本当が廻ってくるのは3×12で36年めに一度ということになり、当主が一生に一度奉仕できるかどうかということで、大変に力が入る。(昔は久米、武市、笠井、一宮、田村の五名(みょう)を中心に当家組が編成されていたという。)


(2)役者について
 踊りの構成メンバーを役者という。
○音頭取 大人1名。司(つかさ)あるいは音頭司ともいう。現在の司は田村誠六氏で昭和42年に就任し今日に至っている。
○太鼓打 子供十数名。踊り子ともいう。当家組の子供で、小学校の1年から6年までの男の子とする。
 音頭取の衣装は白衣白袴に白足袋草履ばきで菅笠を冠り、笠の上から白布を垂らす。手には唐団扇(「あずまや木瓜(もっこ)」の神紋入り)を持つ。
 太鼓打は袖無しの白衣を着し、肩口の袖付に青・赤・白のフリルの袖飾りをつける。白足袋、白の鼻緒の草履をはく。両手につけた黒の手甲で腕をおおう。頭には花びらをかたどった大きなひさしの花笠を冠る。笠の上部には赤やピンクの造花をさしている。腰には径約30センチくらいの小太鼓を紅白の布で結びつけてヘソのあたりに固定し、金銀紙で巻いた細長い(長さ約30センチ)ブチを両手に持つ。


 この豪華な衣装や太鼓は、かつては踊り子が自前で用意した。かなり経費がかかるので参加できない子供もあったのが、今は保存会で衣装、太鼓など整え(昭和48年に国の選択無形文化財に指定された折の保存費をもとに整えた)、適令期の子供が希望すれば誰でも参加できるという。
 踊り子の練習は一週間ぐらい行う。今は村の中ほどにある城の内集会所で行い、その折当家が菓子などを接待する。以前は踊り子の家を順に廻って練習したという。
(3)花籠(かご)について
 神踊りの音頭に「雪華」というのがある。この踊りのときに雪になぞらえた紙吹雪を散らす神具で、竹で作った籠を約5mの竹ざおの先端に取りつける。竹籠の編み残しの部分の細長い割竹が12組24本垂れさがり、その裾にそれぞれ木製の朱塗りの魚やひょうたん・ひし形の餅、そして松かさ(提灯の意)や椿の実なども取りつけてある。竹ざおのてっぺんには金紙でつくった御幣が立ててあり、この籠が編みっ放しになっているのは注目すべきところだ。実はこの形式が「山車(だし)」であって、山や鉾と同じように神霊を招くための媒体となる。割竹の裾に取りつけた作り物は、神様への供え物をかたどったものである。この花籠をつくるのも当家の仕事で、夏祭りの前々日の精進入につくる。


(4)踊り歌と噺子(はやし)
 この神踊りで音頭取(司)が唄う神踊り歌は『踊の例誌』に記されている。石井町教育委員会編『曽我氏神社神踊』にも全て収録されているので、歌詞は略してその下題だけを記しておく。
 入葉 四季 五色 大黒 名古屋 綾踊 お屋形 手利 鶯 駿河 虎松 雪華 嫁御 煙草 松虫 鐘鑄
 この神踊りの噺子は太鼓だけで、その打法は難かしく、各音頭により打法に変化情緒があり、代々司役が口伝していく。『踊の例誌』には踊り子が打つ噺子太鼓は「必ず法則通りに打つべし思ひ思ひに鳴らすべからず」とある。


3.神踊りの日時と場所
(1)昔の神踊り
 『踊の例』には神踊りの日時と場所、音頭について次のように記している。
 七月十九日夜 政所庭 大印なし 不残
  二十夜同
 同廿一日五ツ時 当家庭 入連波、四季、鶯、煙草
  御神前 四季、入連波、五色、御屋形、雪花
  古宮様 入連波、四季、五色、松虫、虎松
  踊場 入連波、四季、五色、鐘鑄
  岡原村宇知惣御神々様踊 不残
(2)今の神踊り
 旧暦7月20日の宵宮に曽我氏神社の境内で踊る。時間は夕方で、以前は政所(庄屋)の庭で踊っていたと古記録にある。
 旧暦7月21日夏祭り当日、午前8時当家祓いがある。神職が本当に出向き、表座敷に特設した曽我氏神社の神床で、当家・氏子総代参列のもと祝詞をあげる。そのあと本当の庭で、司の音頭に合わせて踊り子たちが太鼓を打ちながら踊る。今も古記録のとおりだ。
 当家庭での踊りをすませて打ち揃って曽我氏神社に出向く。神社では先ず、音頭取踊り子一同神前に額づきお祓をうけ祈願を込める。
 午前11時すぎ、社殿前庭で神前に向かい所定の神踊りを奉納する。この間約30分、その最後の音頭が雪華で、このとき白衣姿の青年が花籠を捧持して巧みに揺り動かし、先端の籠から紙吹雪が舞い散る。
 御神前の踊りを終えると社務所で昼食休憩する。当家や踊り子の親たちを交えてなごやかなひとときである。


 午後1時すぎ、今度は境内で一同南面して踊る。かつて古宮様(古曽我氏谷)に出向いて踊っていたが、今は境内からその方角(南)に向かって踊りを奉納する。
 小休ののち、再び神前に踊りを奉納する。これを「お裾踊り」という。そのあと山麓の浄土寺(曽我兄弟の木像あり)に出向き境内でひと踊りして午後4時すぎには全ての踊りを了える。『踊の例誌』にある「踊り場」(山麓に残っている)での踊りは、現在は行っていない。
(3)お裾踊り


 お裾踊りというのは神恩(ご利益)の“お裾分け”にあずかる踊りの意と思われる。古来この神社は悪病除、牛馬の守護神、安産の神として知られ、また戦時中は武運の神様として近郷近在はもとより、遠く淡路・讃岐などからも参詣者が多かった。信者が受付に祈祷料を添えて家内完全・無病息災などの「お裾」の祈願を申し出て神踊りを奉納する。数は減ったが今もこの「お裾」の祈願を申し出る人がかなりある。受付では半紙を横に二つ折りにした名簿に「家内安全」などの願旨と「子の年の男」「寅の年の女」などと干支で祈願者の名を書きあげる。お裾踊りのときには、世話人が祈祷名簿に従って声高らかに願旨や祈願者名を読みあげる。読みあげた祈願者をチェックするためだろうか、読み上げるたびに祈祷名簿の端(裾)を千切っていく。この間、音頭に合わせて神踊りがつづく。昔はこの「お裾」の祈願者が多く、何回にも分けて神踊りが奉納されたという。


4.帳やぶり
 夏祭りの翌日、旧暦の7月22日に当家で、この祭りの収支決算と慰労会が行われる。踊り子への「お歓び(ご祝儀)」は子供たちに分けてやり、「お裾踊り」の祈祷料は帳やぶりの費用となる。以前は帳やぶりに浪曲師を呼んで村中で浪花節を聞いたりして盛大であったという。
 (この報告書をまとめるにあたり、ご協力をいただいた富崎民夫氏、山口浩氏、久米道夫氏ほか氏子の方々に深く謝意を表する。)


徳島県立図書館