阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第32号
石井町利包の石風呂

郷土史班

  森本嘉訓・河野幸夫・石川重平(河野雄次)

1.はじめに
 石井町は徳島市国府町と共に、阿波型石碑の造立密度のきわめて高い地域である。本町所在の板碑については、すでに石川重平氏があます所なく調査し、すべてにわたって写真撮影や拓影採取がなされている。
 そこで、今回はその中の主要な板碑について、正確な実測図を作ることになり、古文書調査とは別組織をもってこれに当たった。
 作業の途中、利包にある「石風呂」が、町指定の文化財であるが実測図のない事を聞き、予定を変更してこの方の作業を行った。板碑の実測調査は、今後、機会をみて実施したいと思っている。


2.石風呂実測調査
 (1)石風呂周辺の配置図 (この項 森本)
   1. 石風呂薬師碑
   2. 歴代庵主墓塔
   3. 木納屋
   4. 墓所
   5. 手洗鉢
   6. 薬師庵本堂
   7. 井戸
   8. 石風呂覆屋
   9. アガリ屋(西屋)跡
   10. カド(庭)

 (2)石風呂の構造 (この項 河野雄)
 石風呂は、横穴式石室をもつ古墳に類似する。石を積み上げて石室をつくり、赤土で被覆する。頂部を円丘状とし、すそを長方形状に整える。石室の用材は結晶片岩である。部分的に、温石とミソ石とも呼称される脆弱な結晶片岩も用いられている。加工痕のない平石や棒状の石が主であるが、入口部分には切石もみられる。
 石室の入口は東方向である。その平面形は入口が長方形、奥がほぼ円形という杓子状を呈する。床面は入口から奥にかけて下降する。奥の中央がややくぼみ、浅い皿状を呈する。奥には平石が置かれ、敷石とする。入口の2つの石については、敷石としての用途があったかどうか不明である。
 石の積み上げ方法は、一部に横積みがみられるが、主として小口積みである。奥の部分では壁面を外に引くように積み上げて、広い空間をつくり出す工夫がみられる。床面から高さ1.2〜1.4mあたりで内にせり出すように、いわゆる持ち送り手法を用いて積み上げ、天井部を円丘形(ドーム状)とする。その頂部には、比較的大きい平石をのせて、天井部を完成させている。入口部分では、主として横積み手法を用いて、ほぼ垂直な壁面がつくられている。その天井部は、赤さと鉄棒で補強されているが、石材が両側壁に横架されているとみられる。
 石室の壁面には、赤土がしっくい状に塗りこめられ、石材が見えない部分もある。赤土には、スサおよび竹材の小片が混ぜられ、より強さを増す工夫がみられる。
 石室の内法は、長さ約3.1m、奥の部分の直径約2m、高さ約2.05m、入口部分の高さ0.8〜1.0m幅約0.7mである。
 この石風呂を築造するための結晶片岩、赤土、竹などは、この地の裏山から搬入されたとみられる。石室の奥部分の床面にも、敷石の上に赤土が塗りこめれていた形跡があり、蒸気浴の折、足に熱が直接伝わらない工夫もみられる。
 いま、この石風呂には覆家が設けられ、文化財保護への対応がみられる。しかし、西端の一部分が風雨にさらされており、覆家の拡張が望まれる。(実測調査は中途であるため、ここで挙げた数値・図面などの転載については希望しない。)


3.石風呂の歴史的考察 (この項 河野幸)
 薬師庵が所蔵する由来書が新旧二通ある。古い方は残片をとどめる程度で、全文の解読は不可能である。新しい方は江戸中期ごろ、当時の庵主が古い方を転写したものと思われる。その内容を概説すると次のとおりである。
 「天平9年(737)聖武天皇は、厄除祈願のため僧行基に命じて、四国に九十九体の薬師如来像を造らせた。行基は石井へ来て、前山の密林の中に小屋を建て、そこで薬師如来を念じている中、「厄難を避けんと思えば、この山の温石(おんじゃく)で石風呂を築き、17日間入浴すれば、厄難はもとより、諸病難を除くであろうとの霊示を得た。これがこの石風呂の由来である。」
 さて、「湯浴びする」と「風呂に入る」とは、本来、全く別物で、湯浴びつまり入湯は温湯浴、風呂に入るは蒸気浴と区別されていた。石風呂はもちろん後者に属する。蒸気浴の風習は、仏教と共に大陸から渡来してきた風習といわれる。(飯田義資・『粟の抜穂地之巻』由来書のとおりとしたら、行基が石井へ巡錫して、この地に諸病厄難の方法として、蒸気浴を教えたと考えることもできる。
 ただ、石風呂の原型は天然の岩穴などの中で、焼いた温石に水を注いで蒸気を発生させたといわれる。(前記『粟の抜穂』)従って現在のような、石を赤土で練り固めて築造した石風呂の登場は、ずっと時代が下がり、江戸中期以後と考えたい。
 その理由として、
(1)石井に現存する石風呂本体を構成する石や赤土の被熱度から考えても、せいぜい250〜300年位しか経過していないようである。
(2)石井の石風呂と規模・構造・使い方が全く同じものが、徳島市大原町篭(かご)に残存している。篭の藻風呂(もふろ)は、宝暦年間(1751〜63)に時の阿波藩主重喜の好みによって築造され愛用されたという。(『阿淡年表秘録』)この事から類推して石井町の石風呂もこの前後の築造と考えたい。
(3)石風呂の蒸気浴が温湯浴と同一視されるようになったのは、江戸中期以後との説がある。(前記『粟の抜穂』)これはその頃から日本各地で石風呂形式の蒸気浴が盛行しだしたからではなかろうか。


4.関係者からの聞書 (この項 森本)
 この聞書は、現在この石風呂(庵も含めて)の管理者の代表遠藤福勝氏、風呂をたいた経験のある笠原専次郎氏(大正10年生)、近隣に居住して石風呂利用の状況を見聞している遠藤道雄氏らの話をまとめたものである。
 (1)燃料
  すべて松葉(小枝共)であった。松葉の葉緑素が体に効くので、青いうちに切ったものがよく、枯葉は良くなかった。これらの燃料はほとんど入田町の割木師(薪屋)から仕入れ、馬車などで運んできた。それを庵の庭や東側の木納屋に積んでおいた。
  松葉が枯れ始めると効きが悪くなり、また松葉が落ちると掃除に手間取るので、早めにたくのが良いとされていた。
 (2)たき方
  1回にたく松葉の量は20束(1束は両手で一抱え位の量)、これを1時間ぐらいかけて少しずつくべていた。
  石風呂の天井石(葉師像が彫刻されていたとの伝承あり)の焼け工合を見て火をとめる事になっていた。実際には煙で充分見えないので、入口付近の石組の焼け工合で判断した。
  火を消して残り火を全部風呂の外へかき出した。これには長い柄の付いた掻き出しを使った。
  次に手桶で塩湯(ニガリ)をパッパと打ち、その上にこもを敷き、更にその上へ二度目の塩湯をうった。こうすると石風呂の中には蒸気が充満した。
  たき方のこつは、内部をできるだけ効率よく熱すること、それには火は内へ内へ、煙はたき口から外へ出すことであった。
  昼頃はいれるように準備した。最初を「アラブロ」といい、時間が経過して夕方頃になると「サメブロ」とよび、これにはいる前にもう一度少したく事もあった。
 (3)入り方
  石風呂にはいる時は、頭や体に綿入れや座布団(ざぶとん)を巻き付け、壁に触れないように注意しながらはいった。足にはぞうりか足袋(たび)をはいた。
  入口(こもをつるしている)が狭く、天井も低いので、はうようにしてはいり、中ではしゃがんで、じっとしんぼうした。1回に5〜6人、男女同時にはいったが、風俗を乱すような事はなかった。一時、警察から混浴は良くないとの注意もあったが、そのままであった。
  「アラブロ」にはいる時間は3分位で、せいぜい5分までが限度であった。
しかもこの「アラブロ」にはいれたのは、常づねからはいりそめた人でないと難しかった。
  風呂から出ると井戸で水をかぶり、体を洗って「アガリ屋」と呼ばれた西屋の座敷(現在はない)で休んだ。その後でもう一度はいる人もあった。(西屋がなくなってからは、本堂の仏間の隣の広間が休憩所となっていた。)
 (4)利用者と効用
  利用者は若い人もあったが、老人が多く子どもはほとんどはいらなかった。石井町だけでなく、徳島・鳴門・小松島など県内の広い範囲の人が利用した。中には泊りがけで来る人もあった。
  石風呂にはいると万病に効くといわれ、「輝かる花のうてなに瑠璃の花、念ずる人の病種切る」と歌われていた。特に神経痛・リューマチには特に効果があったので、病のあるといわれた。
  一般に「サメブロ」より「アラブロ」の方効果があったので、病のある人は「アラブロ」に好んではいった。最も盛んであった頃には1日20〜60人位の人でにぎわった。
 (5)管理
  この石風呂の管理は、代々の薬師庵主が行った。(現在は無住で管理人が送任されている)建物や風呂本体の点検・掃除・こも干し・松葉の保管・塩湯打ちなどは、庵主の仕事であった。
 入浴料はその時代の物価などとにらみ合わせて庵主が決めて徴収した。3ケ月ほどたくと、1年分の庵主の生活費が得られていた。入浴料は詳でないが、ただ、昭和37年発行の「徳島新聞」に「物価高のため入浴料1日分50円に値上する」という記事がある。ただし、以前から地元の人たちは夕方5時以降にはいり、料金は心付程度でよかったようである。
 また一時、松葉の炭を掻き出して集め、ビランカズラをたき出した汁で練り固め(茶わんで型をとった)乾燥したものを販売した事があった。これは養蚕室の暖房用に使われた。


徳島県立図書館