阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第32号
石井町の獅子舞

史学班 喜多弘

石井町の獅子舞目録
1.はじめに
2.獅子舞について
3.石井町の獅子舞
 (1)三社神社の獅子舞―三社神社、天満神社(天神)、天満神社(神木)青木神社
 (2)八坂神社の獅子舞―八坂神社、国実八幡神社、二ツ森神社、新宮本宮両神社
 (3)五社神社の獅子舞―五社神社、国実の八幡、新宮本宮両神社、王子神社
4.大万の地名について
5.五社宮一揆の概要
6.那須与市の旧領説について

 

1.はじめに
 昭和60年度の阿波学会総合学術調査は、石井町を対象に行うことになり、7月29日石井農協で結団式をして、調査を開始した。調査の1項目として町から要請された「石井町の獅子舞」について調査を担当し、地域の方を訪問したり祭礼の当日獅子舞を見学したことをまとめたが、調査が不充分なので、皆様のご批正をお願いします。またご協力下さった方々に、深く感謝致します。

 

2.獅子舞について
 村の鎮守の祭礼に豊作を感謝し、悪魔の退散を願って、獅子舞を奉納する風習は、全国各地にある。県内でも多くの市町村で、種々の形の獅子舞がかつて行われ、現在も行われていて、神事として、また貴重な民俗文化財として、その保存に努力されている。
 獅子舞のルーツは、中国の西域地方で、現在でもチベットや蒙古で、踊られているという。我が国へは奈良時代の初め、唐から伝わり、舞楽の伎楽面として、宮中や神前で踊られた。もともと百獣の王ライオンを象った獅子は、悪鬼を払う霊獣として尊ばれ、神社の前で狛犬となり、獅子面となって神人に冠られて、神様の先駆をして、悪魔祓いの役を勤めた。後世民間の悪魔退散の祈願に使われたり、祭礼や年月の芸能となり、また舞台の上で踊ったり、大道での曲芸にも使われた。東北地方ではかつて、正月に獅子面を冠った山伏が、村々を廻って各種の芸をし、熊野神社のお札を配って歩いた。また青森県や秋田県のナマハゲ、越後のナマメハゲのように、獅子面を被った若者が、正月13日の夜家々を廻り、子どもたちのなまけ心や、いたずら心の鬼を払い、病気の子は獅子に噛んでもらうと、病気が治るといわれるのも、その1例である。能楽では獅子に扮して踊る「石橋」「望月」などがあり、歌舞伎の「鏡獅子」「競獅子」は、石橋系統の踊りである。少年が獅子頭を冠り、鼓に合わせて逆立ちなどの芸をする越後獅子も、よく知られている。また岩手県の「シシ踊り」や伊予の宇和島の「八ツ鹿踊り」は、鹿の頭を冠って踊る。昔は鹿をシシ、カジシ、といったことから、同音なので獅子舞に使われ、渡来した獅子像を「唐獅子」と呼んでいた。
 このように獅子舞も時代や地域によって種々に変化したが、獅子頭に布をつけて胴体とし、頭と尾に2人の若者が入って、笛や太鼓・拍子木に合わせて踊るのが獅子舞の、基本の形である。徳島県内の神社でも、胡蝶を持った少年が、獅子にたわむれる大麻比古神社の獅子舞。大江山の酒呑童子退治の芸をする北島町の獅子舞、石井町の三社神社や五君神社では、二十四孝の筍掘りを演じる。また、太刀を振って獅子と戦う吉野町案内(あない)神社や、石井町三社神社の獅子舞、その他扇子や棒・日傘やざいを持って踊る石井町大万の獅子舞など、いろいろの形式がある。

 

3.石井町の獅子舞
 石井町内には、高川原の三社神社、大万の八坂神社、高原の五社神社に獅子舞がある。いずれも100年に余る伝統を持ち、それぞれが、氏神である数社、あるいは近接の神社に獅子舞を奉納していた。太平洋戦争の前後には一時中止を余儀なくされていたが、現在三社神社と八坂神社の獅子舞は復活されて、秋祭りには神前に奉納し、また貴重な民俗芸能として、その保存に努力している。
 (1)三社神社の獅子舞
  ○三社神社 高川原字池南
   祭神 明治天皇、菅原道真、王子神社の祭神
   例祭 10月26日、氏子 120戸、境内 50坪
   建物 本殿・幣殿・拝殿
   由緒 この地域はもと字天神の天満神社の氏子であったが、昭和11年地域に神社を創建することを決議し、同12年社殿を建て、字神木の天満神社(おち神さん)と、王子神社の祭神に加えて、氏子の総意により明治天皇を合祀して、「三社神社」と称した。

 三社神社の獅子舞
 地域の隣保館長太田高一氏(66)の話によると、ここの獅子舞は今から120年ほど前の幕末のころ、老人たちが柿原(吉野町案内神社?)へ行って習って来て、氏神である天神村の天満神社の秋祭りに奉納していた。同じころ、土地の佐藤清次郎という人が、阿波、讃岐、淡路の各神社の獅子舞を見て廻り、新たに創意工夫を加えて、現在の形を作り上げたという。ここの獅子は「南郷のあばれ獅子」といって、早いテンポで、きびきびした勇壮な踊りである。明治40年ごろ少年少女の踊りを加え、大正時代に天満・落神両社の外に、北東箕手の青木神社の例祭にも奉納していたが、昭和12年からは、創建された三社神社を奉納の中心とした。しかし、その後は戦争のため中止、同23年復活したが、同年青木神社、同28年天神の天満神社での奉納を中止、同38年〜54年まで中断、同55年9月「高川原獅子保存会」が誕生して、踊り子の衣裳を新調、太鼓の張り替えなどを行い、三社神社、落神神社、天満神社で盛大に獅子舞を披露した。以後継続して青木神社にも奉納するようになった。
 「構成」 獅子は、雌雄1対、重さ各約5kg、両耳に5色の御幣と、たこ糸で束ねた鈴をつける。こげ茶色の胴体には蹴毬の模様を染め、顎の下には前ホロの網がある。若者2人が入って、「鈴や御幣がちぎれて飛ぶほど」、勇ましく踊る。太刀踊りには、太刀を持った男子が加わる。踊り子は、小学校低学年の男女各3名。太鼓は、大太鼓2、小太鼓2を大人が打つ。横笛、昭和3年御大典奉祝の時、横笛のはやしが入ったが、その後中止されている。
 「練習」 10月に入ると毎夜隣保館で練習する。昔は当屋の庭で、軽い竹製の土箕を獅子頭の代わりに使って、練習した。
 「服装」 獅子使いは、昔ははだしで、シャツに股引の軽装であったが、今は「祭」と染め出した法被を着用する。踊り子は男女別々の色の、鉢巻き、たすきをかけ、白たびをはく。巾広の帯たすきで袖をからげて後で十文字に結んで、長く後に垂らし、相撲の化粧まわしのような、美しい前垂れをかける。これらの服装は、昭和55年高川原獅子保存会の設立の時、有志や住民の協力で新調した。
 「芸題」 1 蝶舞(チョウコ) 子獅子がたわむれ遊ぶ優雅な踊りで、獅子使いの初心者はまずこれを習う。2 新震い 雌雄が左右に大きく孤を描いて舞い遊び、最後に肩をよせ合って突進して来る。3 扇 6人の踊り子が、五穀豊穣と平和を祈って踊る。4 新獅子 虚空に舞い上がる飛竜のように、獅子が踊り上がって舞う。5 旧震い 荒々しい踊りの中で、これは優しい静かな演技なので、使い手も一息入れることができる。6 日傘 子どもたちの、可憐であでやかな踊りである。7 打切り 子獅子が成長して、どう猛性を発揮した劇しい踊りで、その暴れぶりは、踊り子たちを恐れさせる。8 抜打ち さらに劇しく踊り狂う。青年期に達した獅子が、互いに異性を求め、種々のしなを示したりして、踊り子たちを恐れさせる。9 奴(やっこ) のどかな田園で踊り子たちが、無邪気に踊り遊ぶ。10 太刀、そこへ突如獅子が襲いかかる。奴が身の危険をかえり見ず、抜刀して現われ、子どもたちを救うという、獅子、踊り子、奴が三者一体となって舞う、最も熟練を要する勇壮な演技で、観衆が手に汗をにぎり感嘆するクライマックスの場面である。11 寝こけ 傷つき疲れはてた獅子たちが、互いにその傷をなめあい、いたわり、励ましあう、表現が1番むづかしい場面である。12 二十四孝 昔中国の孟宗という孝子が、病母のため寒中に筍を掘る、という場面の、パントマイムで、人々に親孝行を教える。13 継獅子 若連や観衆の応援で足場を作り、獅子がその肩の上に登り、傷の痛みからのがれようと、天に向って飛び上ろうとする、最も力の入る演技である。14 のた 獅子舞最後の演技で、満身の太刀傷にもだえ苦しみ、のたうちまわる。やがて太鼓も止み、静寂な平和な村に、五穀豊穣の秋がおとづれる、という組み立てで、各所に佐藤清次郎の創意が加わった、三社神社独特の獅子舞である。
 なお三社神社の獅子舞は、次の3神社にも奉納している。
 ○天満神社 高川原字天神334
  祭神 菅原道真
  例祭 10月25日 氏子550戸 境内1450坪
  建物 本殿・幣殿・拝殿・神輿庫・社務所
  由緒 創立年代は不明であるが、伝承によると、昔貞丸安房という人が、道真公の神像を持って当地に来て、祀ったのが初めという。境内には大樹がうっそうと茂っているが、社殿前の大イチョウは周囲10.5m、県指定天然記念物で、多くの乳を垂れ、乳銀杏として崇敬されている。もと南郷はこの神社の氏子で、秋祭りには同地の獅子舞を奉納していたが、昭和28年以後中止している。


 ○天満神社(落神神社)高河原字神木251
  祭神 菅原道真
  例祭 10月24日 氏子150戸 境内309坪
  建物 本殿・幣殿・拝殿
  由緒 不詳、南郷一帯の氏神で、落神(おちがみ)さんの名で親しまれている。大正年間から獅子舞を奉納、戦時中中断していたが、昭和55年以後復活している。


 ○青木神社 高川原字青木1679
  祭神 豊玉姫命
  例祭 10月16日 氏子117戸 境内682坪
  建物 本殿・幣殿・拝殿・神輿庫
  由緒 不詳、箕手郷一帯の氏神で、秋祭りには中郷と箕手郷から各屋台が出てにぎわう。池東は氏子ではないが、大正年間から獅子舞を奉納、戦争で中断していたが、最近復活して奉納している。


 (2)八坂神社の獅子舞(大万の獅子舞)
  ○八坂神社 浦庄字大万42の2
   祭神 素戔鳴命
   例祭 11月3日 氏子70戸 境内164坪
   建物 本殿・幣殿・拝殿・社務所
   由緒 寛永21年6月15日創健、明治5年村社に列する。


 八坂神社の獅子舞
 神社総代大西有利(84)、鎌田義一(83)両氏と、高原の大崎真兄(88)氏の話によると、故老の話として、「今から約200年前土地の老人たちが、板野郡の古城(ふるしろ)へ行って、習って来た」という。古城は、板野町字古城(板西城趾)と思われる。以来氏子たちによって受け継がれ、氏神であった二ツ森神社や、新宮本宮両神社にも奉納していた。また今年から国実の八幡神社でも踊るようになった。
 「構成」 雄獅子 頭赤、胴の布緑。雌獅子、頭黒、胴の布茶、頭と足に各1人、計4人。頭は馬の尾の毛で飾り、両耳に五色の御幣をつけ、耳の間に束ねた鈴を3つ付ける。顎の下に前ホロという網をつけ、使い手の息抜きと前が見えるようにする。胴には蹴毬(けまり)の模様を染める。
 拍子木 1人、その打ち方に合わせて、大鼓や踊りが変わる。
太鼓 太鼓は太鼓台にのせてたたく。大太鼓2、その面は径37.5cm、胴の最も太い所の周り151.5cm、長さ47cm、台の左右に横向きにおき、着飾った小学校高学年の男子2人が、種々の芸をしながらたたく。小太鼓2は面の径24.5cm、胴の最大周り113cm、長さ35cm、台の中央に斜上に向け、大人2人が竹のむちで、同じリズムでたたく。太鼓台は高さ75cm、間口250cm、奥行48cmの枠組みである。
 踊り子 小学校低学年の男女で、氏子の中から選ぶ。人数は10人前後である。
 踊りの種目 踊りは神前に敷いたシートの上で踊る。種目は1 扇子、2 ざい、3 日がさ、4 棒、を持って踊る。1つの踊りに表と裏があり、1種目を終わるごとに小休止し、その間に獅子がシートの上1ぱいに踊る。1通り終わるのに約1時間かかる。昔は神前に向って踊り、次で東向きでも踊る。お旅所の光厳寺前でも踊り、お入りの後「傘破り」といって、獅子使いの家を廻ってまた踊る。
 「練習」 昔から「大万の夜獅子」といって、八朔(旧8月1日)の夜から、社務所で練習を始め、約1か月間ずい分きびしく、教えこまれたという。現在は祭り前2週間ぐらい、毎夜練習する。昔の祭は10月12日であった。それが15日、22日となり、さらに11月3日になった。これは養蚕や米の収穫期を避けたのと、この日は文化の日で休日であり、快晴に恵まれる特異日でもあるからだという。
 大万の獅子舞は、もと氏神であった中島の新宮本宮両神社と、南島の二ツ森神社の秋祭りに奉納していたが、凡そ25年前から中止した。そして今年から国実の八幡神社で奉納することになった。
  ○国実の八幡神社の獅子舞
   八幡神社、浦庄字国実(くにざね)139
   祭神 品陀和気命外
   例祭 11月3日 氏子1200戸、境内1245坪
   建物 本殿・幣殿・拝殿・社務所・勤番所
   由緒 もと中須賀にあったが、洪水で今の地に流れ着いたという。明治10年村社に列せられる。
 秋祭りには氏子の中須賀から、獅子舞を奉納したが、昭和20年頃から中止し、今年から大万が獅子舞を神前で奉納し、国実の屋台が八坂神社を訪ねて、相互に祭りの賑わいを盛り上げている。
  ○二ツ森神社の獅子舞
   二ツ森神社、高川原字南島西627
   祭神 大己貴命
   例祭 10月24日 氏子50戸、境内864坪
   建物 本殿・幣殿・拝殿・社務所
   由緒 境内の記念碑によると、この神社は寛仁年間(1017−1021)大万に創建されたが、洪水のため現位置に流れ着き、大万と南島の村民が「神様はここがお気に召した」といって、社殿を建てて、祭るようになったという。なお旧社地は不明であるが、洪水は慶応2年の「寅の年の大水」であるという。昔は神社の付近一帯は、大樹がうっそうと茂り、その中でひときわ大きいクスの大木の洞穴には大陀が棲み、人畜をおそったので、人々は薪を山のように積み、クスもろとも、焼きすてたという。藩制時代は大万の光厳寺が別当として祭りを司り、秋祭りには、大万・南島が隔年に神輿を担ぎ、南島からは屋台を、大万は獅子舞を出したが、25年ほど前から獅子舞の参加を中止している。


  ○新宮本宮両神社の獅子舞
   新宮本宮両神社 高原字中島71
   祭神 速玉男命、伊邪那岐命、伊邪那美命
   例祭 10月15日、氏子90戸 境内1589坪
   建物 本殿・幣殿・拝殿・神輿庫・随臣門・社務所
   由緒 「新宮さん」で広く知られるこの神社は、成務天皇の御代速玉男命を祭神として、創建されたという。文治年間(1185−1190)那須与市宗高が、屋島での戦功により、現石井町・上板町で28か村、3,000貫の地を与えられ、その中心である当社に、新たに熊野神社を勧請して新宮といい、旧来の社を本宮と唱え、併せて、「新宮本宮両神社」と称するようになった、という。南方約300mに、境内から移した与市の祠がある。大万・高原等与市の旧領28か村の氏神で、藩制時代は隣接する神宮寺が、別当寺であった。明治6年郷社に列せられた。境内には大樹がうっそうと茂っているが、社殿の前の「矢神の大イチョウ」は、県指定の天然記念物で、歴史の古さを物語っている。また毎年3月12日は、「新宮さんの大市」といって、農具や植木の市があり、秋の例祭には氏子の大万や中須賀などから3組の獅子舞や、10台余りの屋台が参加してにぎわったが、中須賀は昭和20年ごろから、大万は凡そ25年前から、参加を中止している。
 (3)五社神社の獅子舞(中須賀の獅子舞)
  ○五社神社 高原字東高原411
   祭神 五社宮一挨の主謀者、後藤常右衛門、同京右衛門、山口吉左衛門、同市左衛門、宮崎長兵衛の5柱。
   例祭 11月3日、氏子50戸 境内446坪
   建物 本殿・幣殿・拝殿・神輿庫・社務所
   由緒 五社宮一揆参照
 五社神社の獅子舞
 神社の隣の高瀬伊平氏(83)、神社総代の後藤徳一氏(75)や後藤金一氏(74)元氏子で川島町の河野ヨリ子さんから説明を受けた。高瀬さんは「慶応4年生まれの来島友三郎さんから聞いた」として、明治8年ごろ土地の老人が、阿波郡市場町粟島の粟島神社へ、獅子舞を教えに行った。当時8才の来島さんも一緒に行って、子どもの踊りを教えたという。それから推して、120年ほど前すでに有名であったのであろう。その後毎年続けられたが、昭和20年ごろから、秋祭りの奉納を中止している。
 「構成」 獅子は雌雄1対、頭と足に各1人の計4人。頭が2貫もあって重いので、芸題毎に使い手が交代する。胴体は緑とこげ茶の布に大柄の唐草模様を染め、前ホロや、尾をつける。今の頭は昭和12年ごろ高瀬さんら3人が、鳴門市大代の大江巳之助さんの所へ買いに行った。頭には1番獅子、2番獅子、3番獅子の3種があり、軽い1番を買うつもりが現物がなくて、重い2番を買った。重いので1回使うと息が切れ、のどがかわいて物も言えぬほど疲れる。それで練習の時は古い頭を使う。
 「拍子木」 紅白の綱で結んで首にかけて打つ。正式には2人だが、今は1人で老人が打ち、芸題によって打ち方がちがう。
 「太鼓」 小太鼓(カンコ)3、面の径26cm、胴の最も太い所105cm、長さ38cm、太鼓台の中央に、横向きにして、子どもが打つ。大太鼓2、台上に斜上に向けてすえ、大人が打つ。面の径36cm、長さ41cm、胴廻り最長150cm、台は横275cm、奥行41cm、高さ65cm。


 「芸題」 若者が獅子を持って踊るものには、1 裏 2 見合い 3 表 4 狂い獅子 5 日傘 6 肩くま獅子 の6種。
子どもだけが踊るものには、
1 蝶々 2 不明 3 日傘 4 表獅子 5 筍掘り の5種目がある。
 「衣裳」 踊り子や太鼓打ちの少年は、白い鉢巻を横で結んで垂らす。着物は袖口に白いシャツをのぞかせ、赤い繻絆の上に、美しい友禅柄の60cmもある長袖の着物を重ねる。袖をからげるたすきは、背で十文字に結び、房を付けて長く垂らす。前には相撲の化粧まわしのような派手な前垂れをする。前垂れや鉢巻には金糸・銀糸のぬいとりをする、というこりようである。足許は白たびに、色布で作った切りわらじをはく。衣裳は個人持ちの上、他にもいろいろ経費がかさむので、だれでも出るわけにいかないという。踊りは神前に20枚ほどの莚を敷いて、その上で行い、まわりを見物の人々が取り囲む。それがすむとお旅所で踊り、最後に境内の「孫之進さん」の祠の前でも踊る。この祠はもと神社の東方から移転したもので、裕福な藍商大崎家の、先祖神であるという。五社神社への獅子舞奉納は、昭和20年ごろから中止しているが、昭和40年ごろ、東京オリンピックを記念して、「全国郷土芸能大会」が一ツ橋大学体育館で開かれた時、徳島県代表に選ばれ、高原地区や石井町の声援を背に、熱演して観衆の喝采を博したという。また昭和52年4月27日、徳島市の蚕糸会館で行われた「徳島県神社庁創立30周年記念式」にも、選ばれて出演し、参集した人々の拍手を浴びた。ここの獅子舞は、昭和20年ごろまで、氏神の国実八幡神社や、元氏神の新宮本宮両神社・桑島の王子神社の秋祭りにも、獅子舞を奉納していた。
  ○王子神社の獅子舞
    王子神社 高原字桑島54
    祭神 豊玉比売命
    例祭 昔は10月27日であったが17日になり、1昨年から11月3日になっている。
    氏子 180戸、境内1985坪
    建物 本殿・幣殿・拝殿・神輿庫・社務所・勤番所
    由緒 創立年代は不明だが、延喜式内社で、もと王子権現と称した。境内には老樹がうっそうと茂り、「烏の森」といわれる。昔この地方が深夜急に洪水に襲われた時、社殿前の大イチョウの上に、大きな火の玉が現われて煌々と輝き、人々を救った、という伝承がある。昭和20年ごろまで、秋祭りには五社神社の獅子舞が参加していた。

 

4.大万の地名について
 石井町浦庄字大万地区は、古老の伝承によると、大万という人が拓いたので、その名を村の名前にしたという。大万がいつの時代の、どのような人であったかは、全くわからないが、光厳寺の南方重松に「大万屋敷」という地名が残っている。大万にはまた「天時(テントキ)・地利(チリ)・人和(ジンワ)・以成(イナリ)」という、変わった地名がある。これは今から120年ほど前に、地区の光厳寺(コオゴンジ)にえらい坊さんがいて、その人が名付けたという。孟子という本の公孫丑下編にある「天の時は地の利にしかず、地の利は人の和にしかず」という、有名な言葉から名付けたと思われる。天の時に恵まれて天災を避け、地の利もあって、土地はよく肥え、水利もよく、五穀は豊穣。そこに住む人々はいつも仲よく、にこにこ笑って、以て(村を)成す。という理想を、村民に示したのであろう。

 

5.五社宮一揆の概要


 藍玉一揆ともいわれるこの百姓一揆は、藩制中期の宝暦6年、藩の藍作行政に抵抗して、吉野川中・下流の農民が起こした、大規模な百姓一揆である。宝暦6年10月ごろから、名西郡内の農民は、夜ひそかに神社やお森に集まり、不穏な空気があり、藩でも探索を始めていた。11月になって、名西・名東・麻植・板野の農民に、寺院を通じて、「兼藍売買に対する苛酷な税の撤廃と、玉師株制度の廃止を要求するため、来たる28日を期して、ほら貝・鉦・太鼓を合図に、簑(ミノ)笠を着用、竹槍・棒・鎌などで武装して、鮎喰川原に集合し、城下へ押し寄せるよう。」との廻状が廻された。この企ては密告によって失敗し、主謀者の高原村の後藤常右衛門・同京右衛門・山口吉佐衛門・同市左衛門・宮崎長兵衛の5人は捕えられ、よく年3月25日、鮎喰川原で処刑された。処刑の当日刑場には数万の人々が集まり、その壮烈な最後に、なみだを流して悲しみ、後に五社明神として神に祀った。現在の五社神社である。藩でも農民の力を恐れて、その要求を容れ、藍政策の根本改革を行った。一揆が廃止を要求した「玉師株制」というのは、乾燥した葉藍を寝床で醗酵させ、それを搗き固めて、染料の藍玉を作る。これを製造する人を藍師というが、宝暦4年藩では従来の藍師の株を持つ者以外は、新しく藍師の株を持たせず、藩から保護された藍師は農民の葉藍を、安く買いたたいて巨利を得、藩は藍師から巨額の冥加金を徴収するという、一種の専売制であった。この制度廃止後の明和3年(1766)の、領内の玉師は1289人、内7割近い910人は、新規の玉師であった。「藍作税」は、一揆の回状によれば、「藍四分懸り24.5年に罷り成り候処(享保年間新設)、又々去る戌の年(宝暦4年)より玉師株仰せ付けられ、作人共一統困窮仕り、その上悪年に罷り成り……」とある。葉藍の売買の重税に苦しみ、藍師の搾取に不満が募っている時、宝暦6年は藍が凶作で、それが一揆の引き金に、なったのである。
 藍作農民は、京衛門らの徳を慕って、その霊を神として祭った。五社神社の由緒を見ると、
・宝暦6年(1756)11月藍玉一揆起こる。
・宝暦7年(1757)3月25日主謀者処刑される。
・天明元年(1781)25周忌に五社明神として祀る。
・寛政元年(1789)33回忌に社殿を建立。
・寛政6年(1794)融(とおる)大明神と改称する。
・嘉永5年(1852)罪人を神として祭るは不都合であると、社殿を焼き、祭祀を厳禁する。
・明治元年(1868)再び小祠を建て、天満天神と称して祭る。
・明治12年(1879)11月、公許されて社殿を建立、五社神社と称す。
・大正15年(1925)高原村社に列せられる。
 藍作が盛んであった明治時代の秋祭りには、阿北一帯の藍作農民が、大勢参拝して境内を埋め、拝殿前にすえられた賽銭箱代わりの、15石入りの醤油桶に、費銭が一杯になったという。また徳島市南佐古7番町の椎宮八幡神社への入り口の国道脇に、弘化四未年(1847)銘の大鳥居が建っている。この鳥居は阿波の藍師たちが、五社宮に寄進するため運搬中、たまたま通りかかった殿様に、「どこの鳥居か」と尋ねられて、五社宮の鳥居ですともいえず、「椎宮に奉納します」と答えたので、そこに建てられたという。

 

6.那須与市の旧領説について


 新宮本宮両神社の記録によると、「文治元年屋島の戦に、扇の的を射て功をたてた那須与市は、源頼朝から阿波国名方郡高志郷において、中島・桑島・高原・国実・重松・大万・南島・天神・高畠・西覚円・東覚円・藍畑・第十と、北岸上板町の瀬部・高瀬・高磯・上六条・下六条・佐藤須賀・須那木(寛永年中崩壊(カイ))等28か村3千貫の地を与えられ、その中心中島の旧祠の側に熊野神社を勧請して新宮といい、旧社を本宮と唱え、併せて新宮本宮両神社と称した」とある。名方郡は寛平8年9月5日、名東・名西2郡に分かれているが、社寺の記録にはあえて、旧来の呼び方をする場合もあるので、それにならったのであろう。吉野川北岸高志小学校北方約1kmには、名西・板野の郡界石があるが、名西郡は流路の変遷で分断され、北岸は昭和30年3月31日、板野郡に編入された。
 阿波誌には「熊野祠」、中島村に在り二、一は本宮と称し其神伊弉冊尊、一は新宮と称し其神速玉男命・事解男命。俗に伝う文治中源宗隆本郡諸村を領す。因て此祠を置く。其共に祀る者16村。として上記村名を挙げている。
 阿府志巻第23巻には「奈須与市中島御所之旧蹟」の標題がある。(内容は与市に無関係の人の墓のことで、前に記した与市の墓にはふれていない。)
 また新宮さんの社殿前の大イチョウは、「矢神の大イチョウ」と呼ばれて、県指定天然記念物である。矢神は弓矢の名人那須与市にちなんで、名付けたものと思われる。このように、この地域では古くから、那須与市に関する伝承がある。
 しかし、鎌倉時代初・中期の貴重な史料である「吾妻鑑」は、治承4年頼朝の挙兵から、文永3年宗尊親王の帰京まで、約80年間の出来事を、幕府の記録、社寺や諸家の古文書、文学作品等を基にして、年次別・日記風に細かく記録した、52巻からなるぼう大な記録で、正確な史料とされているが、その中に与市に関する記録は見当らない。また「那須家系図」にも、「与市は戦功によって頼朝から、武藤の国大田荘等5荘(荘名略)を与えられた」と記されているが、名方郡での記録はない。この外与市に関する記録は「扇の的」以外極めて少なくて、「物語上の人物」とする人も多い。
 以上のことから、那須与市の阿波国名方郡での28か村領有は、なお今後の研究にまたねばならないのではなかろうか。


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