阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第32号
石井町の古文書

郷土史班 河野幸夫・石川重平・藤丸昭

1.はじめに
 石井町の吉野川寄りの一帯は、藍畑という地名が示すように、かつての藍作地帯であった、いわゆる芳水七郡の中の中心地であった。豪盛さを誇った藍商や藍師の壮大な構えの邸宅が、今もその姿そのままに残っている。
 また、当時の藍作農家の人たちの、苦難に満ちた生きざまは、五社宮事件という藍作騒動哀史として、今に伝えられている。
 それだけに藍に関係する史料も豊富であることが考えられるので、これらの史料にメスを入れたいというのが、当初の計画であった。ところで、石井町教育委員会に、かなりの分量の古文書が寄託されている事を知ったので、とりあえずそれらの史料から手を初める事にした。大型の箱二つに一ぱいつまった史料は、思いの外多量であったので、河野と藤丸が、それぞれ一箱ずつを受け持って、整理作業を進めた。
 そのため、旧家所蔵史料にまで、到底手をのばす事ができなかったが、ただ、五社宮事件に関する史料は、今後の研究に利用できるように、解読整理した。(藤丸担当)


 史料目録の作成にあたっては、県立図書館がこれまでに作成している史料所蔵目録の分類によって、簿冊類(縦帳・横帳)・一紙類(一枚物)に分けた。ただ、いろいろの制約があって、目録は整理番号・作成年月・表題・備考の四項目に止め、史料内容による分類はせず、年代別に一括して記述した。また、個々の文書の文言については、一例をあげて目録の末尾にのせた。一紙類のうち土地の質入・譲渡などに関するものが、その大半を占めているような場合には、一々表題を掲げず、年代別に分類した一覧表とし、これを付表として、目録の後に示した。(第一凾の分)
 町当局保管の史料の外に、藍畑の多田家にあった日露戦争当時の軍事郵便類の整理作業も行う事ができた。(石川氏の協力)
 これは多田家から出征していた常太郎が、戦地から生家や親族・知己・戦友などに宛てた封書や葉書で、その数は合わせて350通に余る多量のものである。通信文を一読すると、軍の編制・戦況(戦況見取図も添えたものもある)・戦底見られない生なましい戦闘の様子が手に取るようで、まことに貴重な戦史史料ということができる。紙数のつごうでその一部の紹介にとどめた。(河野)

 

2.調査報告
石井町所在史料
 1.古文書類目録(第一凾の分)


〈注1〉簿冊類目録番号40 石井村運送会社の人足賃不足仕出簿
午十二月ヨリ未十二月マデノ分 林基茂勤中御状持人足賃賃不足仕出簿
1、七百七拾九匁八分七厘 但シ石井駅ヨリ川島マデ御状持四拾参渡 壱渡ニ付拾八匁壱分六厘
1、九百弐拾匁壱分六厘 但シ送夫五拾壱人 壱人ニ付右同断
1、五百八拾壱匁七分八厘 但シ送夫四拾八人 壱人ニ付拾匁壱分弐厘
   徳島駅マデ
1、四百拾匁八厘 但シ御状持参拾四度 壱渡ニ付拾弐匁壱分弐厘
 合 弐貫六百九拾弐匁九分 此金弐拾壱円五拾銭三厘
  右株 十郡割□
1、参拾弐匁四分 麻植郡山路村ニ御状持三渡 壱渡ニ付拾匁八分
1、七匁 名東郡庄村へ御状持 壱渡
1、六匁 同郡早渕村へ御状持 壱渡
1、弐拾八匁五分 村々持廻御状賃
 合 七拾三匁九分 此金五拾九銭壱厘 三郡割
右総高合 弐貫七百七拾三匁八分(内エ)弐貫拾弐匁九厘 請取
 差引残額 五百六拾壱匁七分不足 此金四円四拾九銭三厘
  (下略)
  上願書
 私儀サキニ駅逓裁判引続キ陸運会社勤中際別紙一〜三号・如ク林基茂勤中・□御状持人足賃不足ニ相成因テ数度催促ニ及候ト雖モ聊カモ埒明不申−中略−相渡被下呉様御説諭被成下度此段奉願候也
   明治十四年十二月二十四日
    名西郡石井村通運会社 阿部善太郎
 名西郡書記
  安田乕七殿
〈注2〉一紙類目録番号19 下札
  覚
  斗
居屋敷同所道
 1、中畠 四畝弐拾壱歩 高壱斗八升八合 名負 喜久次
上毛高
 1、桑 三拾八本 高弐斗六升六合

 1、栃 壱本 高三升七合
  高 合 四斗九升壱合
右者名西郡石井村我等拝知水帳之内同村友次郎相扣候所去ル文化年中指上地ニ相成居候所此度其方願出ニ付冥加金差上向後其方名畠ニ居出候条年貢地役全可相勤候依而下札如件
    太田章三郎 ■
 文政十三年十二月廿五日
  名西郡石井村
   只吉方へ
〈注3〉一紙類目録番号36 地券名居奉願証
    地券名居奉願証
 第千三百五拾号 阿波国名西郡石井村字原田南
     高知県下阿波国第二大区一小区石井村
     三百七拾六番地居住
      佐藤住蔵
 一中田 壱反百廿歩
   此地代三百円也
右田地之義ハ別紙証文之通私等先祖名田ニテ相扣居候処去明治三午年十二月当村山口藤蔵方江五年切ニ売渡御座候処本年五月迄請返金子相調不申地券名居御願大ニ□々仕奉恐縮候別紙書物之通請引仕候間何卆前書之通私共名居ニ被成下度依而正副戸長奥印証書ヲ以此段奉願候也
      高知県下阿波国第二大区一小区石井村
 明治九年 三百七拾六番地居住
  十一月二日 佐藤住蔵 ■
      同村三百九拾六番地
       山口藤蔵 ■
      伍長
       遠藤重太郎 ■
  高知県権令小池国武殿
  前書之通情実相違無御座候ニ付奥書仕リ候也
   戸長
    高橋甚平 ■
  明治九年十一月六日
   二等副戸長
    河野磯次 ■
〈注4〉付表1 *印 田地譲渡証文
   譲渡田地之事
 宮前同所
 1.下々畠 五畝九歩 高壱升六合
右田地其方ヘ譲与所実正ニ候 向後御年貢地役等其方分上納可有之候 右畠地相障無之ニ付御代官□井佐吉兵衛様ヘ御願申上御聞届之上証文相究庄屋五人組加判仕御下代元木実右衛門殿御裏判申請譲渡候上者全違乱有之候間敷候 尤反高御検地御帳ニ引合等モ相違無之候 仍而譲渡証文如件
 享保四亥年四月二日 石井村 譲主
    五人組甚左衛門
   同村 加判 八兵衛
   同村 庄屋 市兵衛
   同村 五人組 政左衛門
   同村 同 半兵衛
   同村 同 加左衛門
   同村 同 友左衛門
  同村 源左衛門殿


2.古文書類目録(第二凾の分)
 1 名西郡天神村薪開御検地帳 天和元、十二、十三
 2 阿波御国名西郡桜間村薪開御検地帳 寛政七、十一
 3 名西郡天神村生駒織部様御分高帳 ―――
 4 阿波御国名西郡市楽村薪開御検地帳 寛政六、十一
 5  〃 高川原村薮開御検地帳 享保弐拾、三月
 6 阿波御国名西郡市楽村薮開御検地帳 文化十、三月
 7  〃 〃 享和二、三
 8 名西郡内谷村田畠反高並人指出帳 元録二、三、廿三
 9 阿波御国名西郡南嶋村御検地帳 寛政四、十一
 10 阿波御国名西郡高川原村薪開御検地帳 享保十六、三
 11 名西郡石井村薪開御帳写 元和五、三、五
 12 阿波御国名西郡桜間村薮開御検地帳 宝永八、三
 13 〃 加茂野村薪開 〃 寛保元、十一
 14 阿波御国名西郡市楽村薮開御検地帳 安政四、十
 15 阿波御国名西郡加茂野村薪開御検地帳 宝暦十一、三
 16 〃 賀茂野村 〃 享保十八、十一
 17 名西郡市楽村薪開御検地帳 嘉永二、三
 18 名西郡加茂野村薮開御検地帳 弘化三閏五
 19 名西郡内谷村薮開御検地帳 天和元、十二、十三
 20 名西郡桜間村薪開御検地帳 天和弐、六、十八
 21 名西郡桜間村薪開御検地帳 元和五、卯月六日
 22 天和元年薮開宝暦二年宝暦十一年
  薪開御検地御帳
 23 名西郡高川原村畠方之内 享保拾壱、十一、廿三
 24 村中田畠
 25 名西郡之内内谷村薪開御検地帳 寛永十七、五、十三
 26 阿波御国名西郡加茂野村薮開御検地帳 宝暦二、十一
 27 名西郡内谷村書技帳 文政十二、十一
 28 阿波御国名西郡天神村薪開御検地帳 宝暦十一、三
 29 阿波御国名西郡天神村薪開御検地御帳写 享和元、五
 30 阿波御国名西郡加茂野村薪開検地帳 寛文二、六、七
 31 名西郡高川原村薪開御検地帳 宝暦拾壱、三
 32 阿波国名西郡市楽村御検地帳 天保三、正月
 33 名西郡賀茂野村立木伝左衛門拝知薪開帳 天和元、十二、十三
 34 名西郡内谷村薮開検地帳 明治四、六
 35 名西郡桜間村御検地御水帳 寛政六、二
 36 名西郡桜間村御検地御水帳 寛政六、二
 37 〃〃 井出 寛政六年
 38 〃〃 稲田
 39 阿波御国名西郡高川原村薪開御検地帳 元文弐、三
 40 〃〃 享保十八年十一月
 41 阿波御国名西郡天神村御検地御帳 享和元、六
 42 名西郡市楽村御検地帳 天保二、三
 43 名西郡桜間村薪開御検地帳 文政元、六
以上は第二凾分の主たるものであり、これ以外にも一紙類等が保存されているが省略した。
 保存状況については、まずまずで、保存にとりかかる以前に既に虫損等の欠損があり、今後これらの修補等に配慮が必要である。


3.石井町藍畑の多田家所蔵・出征兵士よりの書簡
 石井町藍畑の旧多田家には、明治37〜38年の日露戦争に出征された同家の荒太郎氏が、戦地から自宅あるいは戦友知己に書き送った書簡(大半はいわゆる軍事郵便)や戦地の荒太郎氏宛の書簡類(葉書264通、封書92通)が所蔵されていた。
イ.多田荒太郎氏自筆の履歴書.
 明治37年6月7日、東京出発以後、38年3月(奉天大会戦に勝利したのが3月10日)にいたる間、各地に転戦した戦歴が、刻明に記されている貴重な史料である。


ロ.書簡目録
 多数ある書簡のうち、戦地から自宅宛に出したもののうち、封書のみを抽出して採録したのが下表である。


 これらの封書は、いずれも「軍事郵便」と朱書されているので、一応の検閲を受けたものと思われる。それにしても、
 ・所属部隊名が明記されていること
 ・発信地まで明記したものがあること
 ・戦闘状況や戦況(地図まで添えて)が詳記されていること
 ・軍の編制にふれたものまであること
 ・戦場生活のスケッチ画が添えてあること
 など、明らかに軍の秘密事項に属するものまで、見たまま感じたままに、率直且つ大胆に記されているので、まことに興味深いものがある。公式記録にはない、生なましい戦争の実態がわかる貴重な史料である。
 そのうちの一例をあげると、明治37年10月19日ごろから、歪頭山付近の第一線で前哨勤務についた時の状況を次のように、地図を添えて書き送ってきている。


 此度最モ敵ニ接近セル第一線ノ前哨勤務ヲ中隊ハナシタリ。此レハ後松木堡子ヲ我前哨線歪頭山村ヨリ展望セル図ニシテ、■ハ砲門、■ハ藁人形、■■ハ鉄条網ナリ。
 独立丘阜(二本樹木ノアル所)ハ我部落ト彼ノ部落トノ中央ニシテ丘阜迄ハ五百米突アリ。此処へ彼我ノ手紙及絵葉書・ビスケット・パン等ノ交換アリ。始マリシ以来数回、夜ニ入レバ彼ハ三個中隊或ハ小隊ヲ以テ来襲スル事、私ガ七日間前哨勤務中一夜モ欠ゲタル事ナシ。一夜中三回四回ハ間違ナク来リタリ。彼ハ阜ノ北方三十米突ノ沙河ノ左岸ノ崖ヲ利用シテ我ニ抗シ、或ハ奮進シテ二百米突近ヅキ来リシ事数回。我兵力(秘密)、通常小哨ハ一個小隊。皆之ヲ撃退シタリ。小生ハ下士哨トナリテ服務スル事四回(四昼夜)然レドモ継続ニハアラズ、平面図ヲ以テ我位置ヲ示スベシ。敵ニハ多少損害ヲ加ヘタルモノノ如シ。然レドモ夜間ノ事故、殊ニ彼ハ死傷者収容ニ押レ居レバ、之ヲ見ルヲ得ザルハ遺憾ナリキ。
 昼ハ我前線ヲ山トナク村落トナク砲撃、一日ニ約前方ノ砲兵陣地ヨリ一千五百余発、余リ多ク安抛(?)スルノデ、終ニハ数へ切レズナリシ。
 時シモ雪ハ上番ノ日ヨリ降リ始メ約尺余、寒気烈シキ為未其盡□有リテ消ヘズ。敵ノ近ヅクガ能ク見ヘ且又足音ニテ僅カニ知ルヲ得タリ。
 勤務中一人前四百発ヲ発射シタ小銃、障又少シトセズ。一週間ノ勤務中我が中隊ニテ手ヲ負傷セシハ一、頭ヲ負傷セシハ一ナリ。
 寒気甚ダシク手袋一枚ニテ風ニ当テル事三十分間ニシテ凍リ果テ石ノ如クナル。之レ凍傷ニ罹リタルナリ。然レドモ揉ム事二三時間、摩擦熱ヲ自ラ起セバ自然モトノ手トナスヲ得。(河野)


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