阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第32号
石井町の古代文化

史学班 青木幾男

現在の石井町
 石井町は東西約6km、南北約5kmで東は徳島市、西は麻植郡鴨島町、北は吉野川を隔てて板野郡上板町、南は四国山脈の支脈によって名西郡神山町および徳島市につづいている。西南山頂には石井・鴨島・神山三町の境に標高327mの立石山があり、行者山とも称し山上に行者寺があって毎年7月には護摩供養を行う古来から信仰の厚い山があり、東南山頂には徳島市との境に212mの気延山があって、その両山の支脈の山裾に抱かれるようにして石井平野があり、平地の中心部を飯尾川が山なりに蛇行して流れている。北方には江川及び吉野川があり、大部分が沖積層地帯で、昭和30年3月に旧石井・浦庄・高原・藍畑・高川原の一町四村が合併して現在の石井町となった。その面積は2,872平方キロメートルであるが、山地部が全面積の約 1/4、3/4 の平地部の土地の標高は10m〜4mときわめて低く、西から東にむかって次第に低くなる傾向をもっている。集落の標高は10mから6mで人口2万5千人のほとんどは此処に住んでいる。飯尾川は町のほぼ中央を西から東に向かって蛇行して流れ、その南側に上浦・下浦・諏訪・城ノ内・石井・高川原・白鳥・市楽・加茂野・桜間・また気延山の支脈、鳥坂を越えて尼寺の各旧村の集落があり、北側には西から開・中須・平島・高原・覚円・国実・大万・重松・南島・桑島・中島・天神・藍畑・高畑の集落があり、此れらの集落は飯尾川や江川の氾濫によって築かれた自然堤防か或いは洪水にとり残された微高地であって、微高地は南側に多く、自然堤防は北側に多い。


 石井町の産業は藩政時代には藍の耕作がさかんで住民の大部分は藍の生産加工にかかわっていた。そのために藩の藍政策の変更が農民の生活をおびやかす結果となり、宝暦の五社宮事件が発生したりなどしたが、大正以降は藍の低調とともに桑園や、麻名用水の通水による水田化がすすみ、第2次大戦頃までは他の農村地帯と同じ農業を主とする地域であったが戦後は徳島市のベットタウンとして通勤者が多くなり、農家は市場出荷の蔬菜栽培農家が多くなった。街の形体は最近都市化が急速に進んでいるが、県都徳島の近郊都市としての様相を帯びるようになったのはまだあまり古いことではない。近々20年ばかりの間にとくに開発のスピードが早くなった。此のような状態ですすむと旧来の石井の姿を探ろうとしても困難となり、わからなくなるのはそう遠くないであろう。今平地部は埋め立てられ、新しい道路ができ、道路に沿って街が発生し、河川もつけかえられている。都市化した街の間を飯尾川や渡内川が旧態依然(タイイゼン)として自然のままに蛇行して流れているのはアンバランスとも、情緒(ジョウチョ)ある自然美としても受取ることができる。


古代の石井の姿
 古代の石井の平野部は大部分が低地帯で、吉野川は今よりも南に流れの中心があり、江川を中心としてそれよりも南の飯尾川とも合流分離を繰り返しながら、現在の平地部の全体が低湿地であり、時には遊水地帯であった。その中に高原・国実・覚円・高畑等の微高地や低丘陵が散在し、飯尾川の南方には山麓から上浦・下浦・高川原・桜間などの微高地が張り出していたと考えられる。現在の地形とあまり大きく変るものでないが、飯尾川の蛇行している様子から推察すれば、古代の地形を大略ながら想像することができる。石井町に流れこんだ飯尾川が大きく南迂回するのは高原の丘陵地に打ち当ったためであり、それが東行して再び向きを変えるのは高川原の丘陵に当った為で、東北上し高畑で東に向きを変え、加茂野で渡内川と合流して一部は北上し吉野川と合流、旧吉野川となって板野平野を流れていたと考えられる。飯尾川の一部は東進して岩延・不動附近で鮎喰川と合流し湿地帯の稲を養いながら徳島沖に出ていたであろう。


 当時気延山の山裾が市楽・桜間の丘陵地につながっており、高川原は自然堤防上にあったと想像される。川の流れの屈折はそのことを教えてくれる。一つの川の流れの変遷をたどってみると時代をさかのぼるほど、川の流れには屈折が多い。地勢のままに迂回していた川が洪水のたびに岸をけずり、遊水地に自然堤防をつくり、流れの当る丘を水勢でけずって次第に直線化して行った。その古い川の流れの跡は、水の流れの性質を念頭に置きながら低地をたどり、線を引けばほぼ間違いなく旧河道を知ることができる。それで見れば縄文時代頃までは飯尾川の左岸に当る地帯は流れの中に島嶼のような陸地があり、雨期には全体が遊水地帯であった、そのためにここで人が狩猟を行うことはあっても生活の場ではなかったと考える。石井町に縄文遺跡が確認されたと言うことはまだ聞かないが、縄文人が飯尾川右岸で活躍していたことは確実であろう。今後石井町で縄文遺跡や旧石器が発見されることがあるとすれば飯尾川右岸か南方の山麓地帯からであろう。


弥生時代の石井
 弥生時代は人々の生活様式を変えた。稲作の伝来で湿地や水利のできる場となり、用水の確保や、水路の設置、種蒔き、収穫の為に共同作業を必要とするようになった。水田経営が時代の趨勢になったので生活の舞台が低地帯にうつり、住民の多くが山麓線以下の低地帯に吸引され、低い段丘や自然堤防のうえに住居がつくられた。内谷・高川原・清成・前山公園遺跡は此の頃に成立した遺跡である。集落の中では豊作や住民の無事を祈る信仰もあった。高川原遺跡から出土した土製のミニ銅鐸も此のような信仰の対象としてつくられたのではないかと考えられる。金属器の利用もこの時代の特徴であり銅器、鉄器が大陸から伝わった時人々は驚きと畏敬の念をもってそれを見たであろう。銅器はとくに実用面よりは地域集団の権威のシンボルとして統率や信仰のために用いられる事が多かったと考えられている。鉄器は弥生前期か縄文晩期に日本に導入されたようであるが、はじめに工具としての斧・刀子がつくられたがやがて漁具としての銛・釣針・農具として鍬先・鍬形鉄器・鎌、木工具として鉋(やりがんな)がつくられたらしく、弥生中期以降の畿内から西の各遺跡から出土している。高川原遺跡は出土品の其の後の研究から弥生中期前半にはじまって、中期末或いは後期初頭には潰滅したと見られているがここから多くの小形鉄片が出土している。鉄は腐蝕しやすいので形はさだかではないが、川魚漁に使用する漁具も混入していたかも知れない。弥生後期には武器として鉄鏃・鉄剣等もつくられるようになり、石器は姿を消すようになるが鉄器の生産は農業生産や漁業・生活文化を急速に向上させ、その中で人口は増加し、地域集団(ムラ・クニのはじめ)は次第に強固となっていった。此の頃から死者を鄭重に葬る風習があったことが、方形周溝墓によって知ることができる。方形周溝墓は弥生前期末に畿内からはじまり、中期には東瀬戸内、後期には関東、北陸方面から終末期には九州にも見られる。住居跡に近接して少し小高いところに造られる特徴のある墓制で一辺10m前後の方形で区画し、周囲を幅1〜2mの溝で囲い、中に一基または数基の土擴墓があって1〜2mの封土をもっている。方形周溝墓は副葬品をともなわないが首長層(地域集団の長)の墓と考えられて居り、清成遺跡(県立農業試験場構内)で一辺10mの方形周溝墓が確認されている。ここでは祭祀・供献も行われたようで墓擴や溝の部分から高杯・壷・深鉢・甕などが発見される例が多く板野郡郡頭遺跡もそうであったが、清成遺跡でも溝から多数の土器が発見されたが呪術的に溝に投入したのか、墓に配列された壷・高杯などが転落したものかまだ明らかでない。清成遺跡から出土した土器の様式は凹線文手法が見られる。凹線文は弥生中期後半に畿内に発生した成形手法であった。様式から見て弥生後期の遺跡であろう。首長を手厚く葬る風習は首長の権力の伸長と共に大形古墳の築造へと伸展して行った。一般民衆の墓として土擴墓があった。土擴墓は集落の近くの高燥の地に一定の墓域をかぎって埋葬した集団墓で、集団墓はいくつかの世帯をふくむ家族墓がひとつの単位をなす血縁的あるいは地縁的共同体として埋葬されたと考えられるが、墓地には地域的制約があったらしく幾世代にわたって限定された狭い地域に重複して埋葬された例が多い。弥生時代後期には鉄の木工具がつくられたので木器の利用が急に多くなった。前山公園遺跡(県営曽我団地南方)は弥生後期のものでここからハツリ痕のある「鍬ではないかと考えられる」木器が出土している。

気延山を越えて東方、尼寺地区の内谷遺跡は弥生中期のものであり、土器類が多く出土している。この頃から石井は徳島市国府・庄と隣接して湿地帯が多く、穀倉地帯としての価値を発揮した筈であるが平地部の 2/3 を占める飯尾川左岸は遊水地帯であり、出水の為住居として利用できなかったのかいずれの地からもまだ遺跡は発見されていない。右岸の高川原遺跡が、中期末には洪水のために壊滅していることから見ても出水時のはげしさを想像することができる。高川原遺跡の報告書を要約して見ると、昭和55年3月31日発行『高川原遺跡発掘調査報告書』より
 「高川原遺跡は吉野川と気延山山地との間に広がる吉野川南岸の沖積平野のほぼ中央に位置し、飯尾川と渡内川にはさまれた微高地(自然堤防)の縁辺部(集落から水田にかわるあたり)にあり、弥生時代中期から平安時代にかけての復合遺跡である。弥生時代の使用時期は弥生中期初頭、約2千年前から弥生中期末、約1千800年前まで約200年間使用された形跡があり、中期末か後期初頭に北方を流れる吉野川の大出水によって一挙に埋没したと見られている。

発掘調査の結果をる。発掘調査の結果をみると、洪水による土砂の推積、とくに細砂層の推積から推定して出水は北から南に流れ弥生中期末〜後期初頭期の住居跡と土器などを埋め約30cmの厚さで細砂層が推積していた。住居跡は楕円形のもので壁の高さは比較的低い。住居を囲む貯蔵穴があり貯蔵穴は二段式に掘っているものもあった。貯蔵には土器が多数あり、これらは、土器に食料や種子類を入れて穴内に貯蔵していたものと思うが、炭化物は見つかっていない。住居跡の床面から石器類では石鏃・石斧・石包丁・土器類では壷・高杯等が出土しているが、土器の中でとくに注目するのは銅鐸形土製品であって6区画袈裟襷文様、紐は兜形で綾杉文を施文し鰭には鋸歯文を施し、身部の2段目に型持穴をあけている。舞の天井に舞穴をあけている。高さ7.2cm、幅(上)2.3cm、製作技術も極めて優秀で、銅鐸形土製品の出土例は全国で約20個あるが袈裟襷文とわかるものは岡山県上伊福・西尾市岡島町・橿原市四分・名古屋市西志賀・鈴鹿市上箕田等で出土して居りその中で高川原遺跡のものは文様なども明瞭であり弥生中期後半から後期というきわめて重要な時期の正しい認識を得るための出土品としてこの高川原遺跡が日本全国的に見ても重要遺跡となるであろう。」

 

古墳時代
 古墳時代の文化は厚葬思想にもとづく大形古墳の出現によって代表される時代であるように、その文化の特徴や変遷も古墳の調査や研究によって確認される場合が多い。石井町には弥生時代にひきつづく前期古墳として内谷古墳・利包古墳、清成古墳がある。古墳には副葬品が多く築造にも時代・地域毎に若干の差異をもっていた。東から石井町の古墳を拾ってみると内谷古墳群・日枝古墳群・ひびき岩古墳群・尼寺古墳群・白島古墳群・利包古墳群・高良山古墳群・前山古墳群・東王寺古墳群・清成古墳群・曽我氏神社古墳群があり、いずれも20mから50mの尾根や山腹の見晴らしのよい処につくられており、生活の場は弥生時代からつづく低地であったと考える。稲作栽培技術は伝来以来次第に向上し、それを耕作するための共同体は血族集団から、地域集団となって水利権の確保や耕作管理のために近隣の集団を統合、吸収を繰り返しつつ次第に統治区域を広め、4世紀初頭には首長墓として古墳を築造することができるまでに経済力も統率力も強大になり、大和政権に吸収されるまでそれぞれ獨自の文化圏を持ち自治を行っていた。文化圏は川筋を中心として統一される場合が多かったと考えられている。水利権を確保する関係から生じたものであろう。石井町の東部は飯尾川下流と鮎喰川下流の接触点でもあり尼寺地区の古墳は鮎喰川に面し、他の古墳は飯尾川に面している。石井の文化圏を考えてみると、古墳時代の後期には飯尾川の上流に阿波忌部が代表する麻植文化圏があり、古墳時代の鮎喰川上流には遺跡は発見されていないが、神山町下分の左右山と東寺で銅剣が発見されており、それ以後も獨自の鮎喰川文化圏があったと考えられている。当時の人々は食糧として稲作の他に丘陵地や山間部では縄文時代からつづく焼畑農業を行っていた。生産様式の違いにもとづいて獨自の文化が成立したのではないかと考える。稲作を生産の主体としない社会では、共同作業の必要も少なく、権益の争奪もなく、階級制度が成立するのも遅かった。それが鮎喰川上流(神山町)に古墳を多く見ない原因であろう。石井町の文化は稲作文化圏である。したがって古墳を築造する文化であり、童学寺トンネルの西南方標高200mの山上にある神山町の長谷古墳も石井文化圏に属していたと考えてよいのではあるまいか。石井町の古墳は主として町の東半部に片寄り、気延山を中心として展開しているように見える。これは明らかに麻植文化圏ではなく、気延山を軸として石井・国府にひろがる穀倉地帯を掌握する気延山文化圏があったと考える。それは古墳の築造の上にも微妙な変化を見せている。前期の古墳があるのも麻植には見られない石井の特徴である。『徳島県博物館紀要第9集』第三章「後期古墳の地域性について」によれば吉野川流域の後期古墳をABCの3つに分類し、それを要約すると


 Aは天井が高く、壁の積石を天井に向かって前後左右に持ち送って、いわゆる穹窿式の天井を構築し、玄室の平面プランが胴張りまたは末広がりを呈す。石棚・石梁・仕切石等の構築があり、羨道は玄室の中央にある両袖式式で、立地は河岸段丘等あまり高くない処にある。
 B麻植郡全域と板野郡土成町にあり忌部山型古墳として阿波忌部氏との関連を想像される様式でAよりも新しく、Aと多くの共通点が見られ、平面プランは隅丸で玄室空間を広げるために側壁の持ち送りも見られるが天井石の持ち送り方が違うため、段の塚穴型石室に比して高さが低い。玄門部に扁平な立石を持ち、すべて両袖式で、立地は50mから250mと高い処につくられている事も忌部山型の特徴で、1つの尾根を占拠して小規模ながらも群集墳を形成している。
 C気延山一帯を中心として散在する古墳で石室は長方形プランを呈し、天井は平である。玄門に立石のあるものとないものがあるが、あっても天井に接せず、玄室と羨道を区別する程度のもので、片袖式が多い。立地は20mから50mと比較的低い処にあるものが多い。
と説明されている。

 

奈良平安時代
 奈良時代は徳島市国府町に国府が置かれ、阿波国の首邑としてそこに中央から国司以下の役人が派遣せられ、統一した政治が行われていた。当時は古墳時代にひきつづいて祭政一致の傾向がつよく、大化改新でも神祇崇重を第一義として掲げ、神社制度を調える一方、全国に国分寺・国分尼寺が建てられた。気延山東麓にある国分尼寺遺跡もその当時に建てられたものである。

国司は一定の任期(大宝令では6年、のちに4年となった)で中央から派遣され、任期終って交代し都へ帰るのが普通であったが国司の中には任期終っても中央に帰らず任地にとどまって豪族となる者もあった。武内宿禰の末裔の阿波真人広純は斉明天皇の白雉四年(658)に阿波国司として着任した。真人の末裔の田口(たのくち)氏が阿波に住みつくようになったのはいつの頃かわからないが田口息継は大同3年(808)5月に阿波国司に任ぜられている。田口氏は桜間に居て田口または桜間(さくらま)を名乗り、息継の何代か後の阿波介国風は桜間にいて、阿波国統治につとめ、その子文治直行は桜間の防備を整え、承平天慶(931〜947)の頃、西海を乱した藤原純友が讃岐・阿波に侵入したのを迎え撃ったといわれる。直行は桜間を名乗って阿波を統治し、その子孫も代々その職を継ぎ、それより十代の桜間外記大夫良連まで桜間を名乗ったが、良連の跡を継いだ良連の甥成良(しげよし)は田口を名乗り武威を誇った。成良は安徳天皇の寿永元年(1千182)正月阿波守となり、ついで民部大輔に補せられて阿波大輔と称し、吉野川下流の肥沃な沖積平野を占有して、「財甲充ち、兵馬も頗る充実し、その勢力は板野郡から勝浦郡地方にも伸び」と徳島県史にもあり、その弟桜間ノ介良遠は勝浦本庄に城を築いて蟠居していたので、当時の阿波における最大の勢力として知られていた。成良は平清盛の信任も厚く、平氏に味方する四国第一の勢力として活躍していた。『東鑑』治承五年(1千182)9月の条を見ると「廿七日庚子、民部大夫成良平家の使として伊予国に乱入す、而るに河野四郎以下の在庁等、異心有るに依って合戦に及ぶ、河野頗る雌伏す。是無勢の故かと」とあり、その勢力のほどがうかがわれる。寿永の乱で安徳天皇が平氏に奉ぜられ西海に遷幸すると、将兵1千騎をもってこれに応じた。四国の軍勢の多くがこれにならったので平氏の威勢は大いに振るった。成良は寿永3年屋島に行宮を築き安徳天皇を迎えた。『平家造屋島皇居記』によると「寿永2年癸卯6月平氏は阿波民部成良を讃州山田郡につかわして屋島の要地を検せしむる。成良は郡司に命じて民力を藉り、行宮のとりでを築き黒木御所と称す。兵糧・薪・まぐさを積み蓄えて戦いの準備を調え行幸を待つ、蓋し此の山田郡は往古天子の御領とせられしところ也」とある。長門壇ノ浦の海戦で平氏が滅亡し、源氏の功臣佐々木経高が阿波・淡路・土佐の守護職として入国したので田口氏の勢力は衰え、一族の一人が神山町大粟神社の祠官としてわずかにその名跡を守っていた。

桜間城の遺構は東西150m×南北228mで四囲に水堀があり東方は4m、西方と南方は2m、北方は3mの堀に囲まれているが当時は飯尾川の流れであったと考えられる。数百m離れた西に渡内川、また北から東にかけて桜間の池・鏡池とも言われる広大な池があったことが延慶3年(1310)に編集された夫木和歌集に詠まれていることから、水利の便もよく天然の要害であったと考える。桜間には田口氏の祖、桜間文治直行の祠があり今も祀られているが、
田口氏と桜間の関係についてふれてみよう。田口氏が桜間を拠点としたのは水田支配の為であった。田口(たのくち)は水口(みなくち)に通ずる。いずれも潅漑管理を意味し、それを姓としたのは水田支配の性格を物語っている。当時は広大な稲作地帯を支配することのできる者が強力であり、権力者となることができた。阿波の国府であった徳島市国府町も鮎喰川と吉野川の湿田地帯にのぞみ、水田支配の適地であったが、桜間は国府の地よりは、より水田に接近している。桜間は湿地帯の中央に岬のように張り出した微高地の突端に位置し、水田としては現在の徳島市不動町附近が鮎喰川と飯尾川の合流点であって、不動町を扇のかなめとして石井町と気延山に向かって広がる扇形の広大な湿地帯があった。桜間の北側飯尾川からたづちに舟を出すこともできたので各河川に添う水田の支配も可能であった。水口氏が阿波最大の豪族となり得たのも阿波国最大の穀倉地帯の支配権を持っていたからであり、当時は戦術の巧拙よりは生産力の強弱が権力の増強につながっていたことに注目したい。

 

鎌倉・室町時代
 平氏滅亡のあと源頼朝の命によって阿波の守護職として佐々木経高が築城したと伝える鳥坂城(茶臼山城)については田中省造氏が分担して詳細に報告することになっているが、筆者が数年前に調査した時、山腹の四国電力送電鉄塔を建設の際に出土したと言う鎌倉時代と思われる陶器の破片十数点を確認しているので有力者が此処に居たことが推察できる。佐々木氏の守護職としての庁舎や常時居住する場所が何処であったか明らかでないが当時は平家に心を寄せる者もあり、佐々木氏の入国時に反抗のあったと言う記録はないが外来者としての佐々木氏としては不安要素も多くあったので鳥坂城を築いたのであろう。承久の乱後次の守護職として入国した小笠原氏に政められて佐々木氏が落城するまでの平安から鎌倉時代にかけての約4百年間実質的に石井は阿波を支配する役割をはたしてきたことになる。飯尾川左岸の高原・覚円などに人が住みついたのは鎌倉期からであろう。それを証明するものに板碑がある。板碑は石材の関係か緑泥片岩の産出する徳島県に多く、中でも石井町には数も多く、古いものも石井に集中している。供養塔の一種で、当時の地域の指導層であった。中・軽輩の武士が現世・来世の不安を仏教に救いを求めるために墓の側らに供養として建立したもので、板碑によって武士の活躍を推測することが出来る。石井町に多いのはその人達の活動の場であったことを証明する。飯尾川左岸にあるものとして延文6年2月(1361)藍畑村覚円観音庵墓地にある逆修五輪塔板碑、応安5年8月(1372)高原村中島の上田家東側の三尊種子板碑、応安6年9月(1373)の高原村桑島地勝寺の名号板碑、応永2年9月(1395)の高原村性福寺境内の五輪塔形双式板碑二基等がある。
 以上をもって報告を終わることにするが、調査に当って石井町文化財保護審議会長石川重平氏より多くのご助言と御協力をいただいた事を末尾ながら深謝します。

参考文献
『高川原遺跡発掘調査報告書』
『徳島県博物館紀要第9集』
『徳島県史』第1巻第3編第8集
『日本城郭大系』巻15徳島・桜間城−創央社編集


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