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はじめに 徳島考古学研究グループは7月29日から8月2日まで高川原公民館において、石井町出土の考古遺物の整理、復元、実測調査を実施した。石井町教育委員会がこれまでに実施した町内における発掘調査は数次にわたり,その出土遺物は膨大な量になる。我々が実見できた資料はそのうちのごく一部であるが、なかでも特に重要な問題をはらんでいる高川原遺跡出土の銅鐸形土製品と、内谷山古墳群出土の須恵器について報告する。 なお、調査にあたり石井町教育委員会からは未発表資料を含む資料の提供をうけ、また石川重平氏からは発掘当時の状況など数々のご教示をいただいた。 本報告の執筆はIを滝山雄一が、IIを下田順一が行った。 I 高川原遺跡出土の銅鐸形土製品 高川原遺跡は、石井町高川原1197番地に所在する。飯尾川の堆積作用によって形成された自然堤防上に位置する。昭和54年に石井町道高川原27号線の新設改良工事に伴い、石井町教育委員会によって発掘調査が実施された(1)。銅鐸形土製品は、第4調査区の円形堅穴住居址の覆土中より出土した。
銅鐸形土製品の形状 高さ6.97cm、底部付近の長径4.82cm、中央部での短径2.78cmを測る。細いヘラ先により施文されておりA面とB面とは、斜格子による縦帯の位置に相違がみられる。これは、A面において鰭を飾る鋸歯文が身の部分にはみ出したため斜格子文が一つずれた結果によるものと考えられる。また通常の銅鐸は、鈕の外縁から鰭にかけての鋸歯文が内側を向くが、外向きに施文されていること、一段目に穿たれる型持孔が二段目上部に位置すること、斜格子による横帯が一条の沈線に省略されていることなど銅鐸における約束ごとが十分守られているとはいえない。しかしながら、現在西日本各地で発見されている50例近い土製品の中で、高川原例は最も銅鐸を忠実に模倣していることには違いない。

 銅鐸形土製品の廃棄の時間について この土製品の廃棄の時間を確実に証明するものはなにもない。わずかに土製品と同じく住居址覆土中より出土した土器の小片が手掛かりとなる。それによると20片の甕胴部の小片のうち17片に内面ヘラ削り痕もしくはヘラ削りによると思われる擦痕が認められた。内面ヘラ削りが胴部全部に及んでいたと思われる。内面ヘラ削り技法は、徳島を含む中部瀬戸内地方においては弥生時代中期中頃以降一般化する。特に体部内面全体を覆うヘラ削りの出現は、中期末以降である。さらに2図に揚げた土器はいずれも住居址の南側の溝から出土したもので、後期前半に比定される土器である。我々が実見し得た高川原遺跡出土の 弥生土器の中では一番新しいもので、後期後半の土器は認められない(2)。つまり銅鐸形土製品廃棄の時期を、中期末から後期前半とすることができる。 銅鐸祭祀と銅鐸形土製品について 弥生時代に始まる稲作農耕は、初期の段階から大規模な灌漑土木事業を必要とした。このような事業はとうてい一集落で達成されるものではなく同一水系に属する複数の集落の協業としてなされた。銅鐸祭祀はこのような農業共同体の祭祀と位置づけられている。銅鐸埋納の理由について、春成秀爾氏は、「共同体に深刻な事態をもたらしている邪霊の侵入口たる地境や出現した土地の霊に対して、共同体にとってもっとも大切な豊饒の呪器ひいては象徴を供犠することによって、おそらく未来永劫までの宥和を請願した」と説明している(3)。鮎喰川が平野部に流れ込む入口に銅鐸埋納遺跡である安都真遺跡および源田遺跡がある。安都真銅鐸は鮎喰川左岸に展開する南庄遺跡(4)、名東遺跡(5)、名東北遺跡(6)などによって構成される農業共同体の、源田銅鐸及び銅剣は同じく右岸域に展開する矢野遺跡(7)、矢野松木遺跡(8)などによる農業共同体によって、豊饒を脅かす荒ぶる霊(具体的には河川の氾濫)を静めるため、埋納されたと考えられる。 銅鐸・銅剣が集落から離れたところから出土するのと異なり、銅鐸形土製品あるいは武器形木製品の多くは集落遺跡から出土する(9)。穀霊を守護する青銅儀器の模造品は、各集落において青銅儀器と同様の効果を期待しつつ農耕の祭りに使用されたと考えられる。つまり農業共同体レベルの銅鐸・銅剣の祭祀と、集落レベルの土製品・木製品の祭祀と、弥生時代祭祀における重層構造が指摘される(10)。 高川原遺跡出土の銅鐸形土製品のモデル 高川原遺跡出土の銅鐸形土製品は、いくつかの省略が認められるものの6区袈裟襷文銅鐸をモデルに作成されたことはまちがいない。また胎土中にわずかではあるが結晶片岩粒が確認された。在地産である可能性がきわめて高いといえる。高川原遺跡の西方、飯尾川流域にも城之内遺跡をはじめ、数箇所の弥生時代集落の存在が知られている。さらに鴨島町上浦王子壇からは扁平鈕式の6区袈裟襷文銅鐸が出土している。飯尾川水系を中心とした農業共同体が存在したものと思われる。高川原遺跡が飯尾川グループに属することが許されるならば、銅鐸形土製品の作者が上浦銅鐸をモデルに製作した可能性も否定できない。銅鐸の製作開始年代論は、弥生時代前期末にまでさかのぼらす説、中期後半に始まったとする説など、大きな開きがある。しかしながら最近、京都府鶏冠井遺跡において菱環鈕式と推定される銅鐸鑄型が中期初頭の単純層から出土した(11)。銅鐸の製作が遅くとも中期初頭にまでさかのぼる可能性がきわめて高くなったといえる。とすれば、扁平鈕式銅鐸の製作年代は、中期後半となる。銅鐸の製作、使用、埋納の時間幅を考慮すれば、高川原遺跡の銅鐸形土製と、上浦銅鐸の接触の可能性は十分ありうることである。 〈註〉 (1)石井町教育委員会『高川原遺跡発掘調査報告書』1980 (2)調査担当者の見解とも一致する。註(1) (3)春成秀爾「銅鐸の時代」『国立歴史民俗博物館研究報告』第1集 1982 (4)徳島市教育委員会『庄遺跡の人々のくらしと文化』1985 (5)天羽利夫・岡山真知子「鮎喰川下流域における弥生文化の展開−序論−」『徳島県博物館紀要』第5集 1974 (6)一山典「名東遺跡調査成果の概要」『徳島市史だより』1978 日枝神社を中心とする名東遺跡とは、旧河道によって分断されている可能性が強いので、名東北遺跡として名東遺跡とは区別する。 (7)徳島県教育委員会『徳島県文化財調査概報 1976年度』1978 (8)徳島県教育委員会「矢野遺跡現地説明会資料」1983 (9)庄遺跡自然河道内から銅剣形木製品が出土している。 一山典・滝山雄一「速報 徳島市庄遺跡出土の弥生時代木製品」『月刊考古学ジャーナルNo.252』1985 (10)中村友博「弥生時代の武器形木製品」『東大阪市遺跡保護調査会年報1979年度』1980 (11)山中章編「鶏冠井遺跡第二次発掘調査報告」『向日市埋蔵文化財調査報告書 10』1983
II 内谷山古墳群出土の須恵器 高川原公民館に展示されている須恵器のうち、徳島県名西郡石井町内谷に所在する、内谷山古墳群より出土した須恵器をこの項で報告する。この古墳群は、気延山の北東にのびる尾根上に造営されており、現在は開墾が進み、各古墳の旧状が失われている。付近には、尼寺古墳群、ひびき岩古墳群があり、そのうち尼寺1、2号墳(1)とひびき岩17号墳(2)は、6世紀後半と報告されている。今回報告する須恵器は、内谷山古墳群より出土したとされてはいるが、古墳群のうちのどの古墳より出土したものかは不明である。
 蓋杯の蓋(図3−1〜3) 三個体ともに稜は短く、鋭くないことと、口縁端部に内傾する明瞭な段があることで共通しているが、口縁部がハの字に外反する(1)・(2)と直下に下がる(3)の二形態がみられる。 (1)は口径13.6cm、器高4.7cm。胎土は密で、色調は青灰色で、焼成は良好である。成形はマキアゲ、ミズビキによっており、天井部外面
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に反時計方向の回転ヘラ削り後、時計方向のヘラ削りが行われている。口縁内外面は横ナデ調整を行っている。完形品。 (2)は口径15.0cm、器高5.0cm。胎土は2mm以下の白砂粒を多量に含み、粗で色調は口縁部外面が淡青灰色、天井部外面が明灰色、内面が淡青灰色で、焼成はやや良である。成形はマキアゲ、ミズビキによっており、天井部外面
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に反時計方向の回転方向の回転ヘラ削りを行う。口縁内外面は横ナデ調整を行っている。完形品。 (3)は口径14.8cm、器高5.2cm。胎土は2mm以下の砂粒をわずかに含むが密で、色調は暗青色で、焼成は良好である。成形はマキアゲ、ミズビキによっており、天井部外面
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に反時計方向の回転ヘラ削り後、時計方向の回転ヘラ削りが行われている。口縁内外面は横ナデ調整を行っている。完形品。 蓋杯の杯身(図3−4〜7) 四個体ともたちあがりが比較的短く内傾しており、その端部は丸く仕上げられている。また、受部は比較的長くて、その端部は丸い。 (4)は、基部径10.0cm、受部径12.6cm、器高4.7cm。胎土は1mm未満の砂粒を多量に含みやや粗で、色調は青灰色、焼成は良好である。成形はマキアゲ、ミズビキによっており、底部外面
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に時計方向の回転ヘラ削りが行われている。内外面は横ナデ調整し、内面中央部に仕上げナデを行っている。完形品。 (5)は、基部径11.6cm、受部径13.8cm、器高4.7cm。胎土は1mm未満の砂粒を含むが密で、色調は青灰色で、焼成は良好である。成形はマキアゲ、ミズビキによっており、底部外面
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に時計方向の回転ヘラ削り後、底部外面中央部に反時計方向の回転ヘラ削りが行われている。内外面は横ナデ調整し、内面中央部に仕上げナデを行っている。完形品。 (6)は、基部径12.5cm、受部径15.0cm、器高5.0cm。胎土は1mm未満の砂粒をわずかに含むが密で、色調は青灰色で、焼成は良好である。成形はマキアゲ、ミズビキによっており、底部外面
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に反時計方向の回転ヘラ削りが行われている。内外面は横ナデ調整し、内面中央部に仕上げナデを行っている。なお、この杯身には、底部外面中央部に、「へ」の字状のヘラ記号がつけられている。完形品。 (7)は、基部径13.1cm、受部径15.3cm、器高5.2cm。胎土は1mm未満の砂粒をわずかに含むが密で、色調は淡青灰色、焼成は良好である。成形はマキアゲ、ミズビキによっており、底部外面
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に反時計方向の回転ヘラ削りが行われている。内外面は横ナデ調整し、内面中央部に仕上げナデを行っている。完形品。 有蓋短頸壷(図3−8) 口径7.7cm、器高7.3cm。胎土は1mm未満の砂粒を含むが密で、色調は頸部外面のみ明青灰色で、他の内外面とも暗青灰色、焼成は良好である。なお体部外面
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は自然釉がかかっている。形態的には、わずかに内傾して直線的に立つ短い頸部をもち、口縁端部に内傾する明瞭な段を有する。また肩部はなだらかで、いわゆるなで肩である。成形はマキアゲ、ミズビキによっており、頸部・体部内外面は横ナデ調整を行い、底部内面には仕上げナデを行う。底部外面
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に反時計方向の回転ヘラ削り、底部外面中央に時計方向の回転ヘラ削り、底部外面中央に時計方向の回転ヘラ削りが行われている。完形品。 有蓋高杯(図3−9) 口径9.0cm、受部径11.6cm、底部径8.4cm、器高9.8cm。胎土は杯部では最大1mmの砂粒を多く含みやや粗で、脚部は最大2mmの砂粒を多く含みやや粗である。色調は淡青灰色、焼成は良好である。形態的には杯部は、たちあがりは比較的低く、内傾ぎみであり、口縁端部では内傾する明瞭な段を有する。成形はマキアゲ、ミズビキによっており、脚部までの底部外面
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に時計方向の回転ヘラ削りが行われている。内外面は横ナデ調整し内面中央部に仕上ナデを行っている。脚部は短く、三方向に長方形透かしがある。手法的には、内外面とも横ナデ調整し、脚部の周囲にカキ目を施す。杯部を約
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欠くが脚部は完存している。 まとめ 今回調査した須恵器は、徳島における須恵器の編年が完成していないために、時期を特定できない。が、あえて考えるならば、和泉陶邑における中村編年(3)でI型式5段階にあたる蓋杯の蓋(3)と蓋杯の杯身(7)と有蓋高杯(9)があり、ついでII型式1段階にあたる蓋杯の蓋の蓋(1、2)があり、そしてII型式2段階にあたる蓋杯の蓋(4、5、6)のような移り変わりをとらえることができる。(1) また、実年代でいうならば、六世紀初めから中頃になるであろう。 現在、徳島考古学研究グループでは、気延山周辺における考古学的調査研究を実施している。そのなかで、徳島市教育委員会に寄贈されている、気延山の古墳群より出土した須恵器も調査中である。こちらの方の年代は、およそ六世紀中頃から七世紀中頃の100年間に集中する。このことより、当内谷山古墳群より出土の須恵器は、気延山に存在する古墳群より出土した須恵器のなかでも比較的古い時期に位置づけられるのである。 〈註〉 (1)石井町文化財保護委員会『石井町文化財調査報告書』第4集 1969 (2)徳島県教育委員会『徳島県文化財調査概報、昭和54年度』 1979 (3)中村浩『和泉陶邑窯の研究』柏書房 1981 (4)有蓋短頸壼(8)は、ここでみている中村編年には断定できる資料の提示が少ないが、田辺編年(5)のMT15に類似例がある。仮にこの類似例によるならば、中村編年のII型式1段階あたりになるであろう。 (5)田辺昭三『陶邑古窯址群』I 平安学園考古学クラブ 1966 おわりに 今回の調査で我々は阿波における原始・古代史のうえで石井町の重要性を改めて認識した。一方、多くの遺跡が開発行為によって未調査のまま破壊されている現状も目撃した。早急に町内全域に及ぶ精密な分布調査の実施が必要である。と同時に、石井町教育委員会による発掘調査体制の確立が望まれる。 |