阿波学会研究紀要


このページでは、阿波学会研究紀要論文をご覧いただけます。
 なお、電子化にともない、原文の表記の一部を変更しています。

郷土研究発表会紀要第32号
石井町の民家

建築班

   四宮照義・鎌田好康・林茂樹・

   森兼三郎・松田稔

はじめに
 石井町は、吉野川下流南岸にあり、東は徳島市国府町、西を鴨島町、南は神山町との山々に囲まれている。吉野川の氾濫によりもたらされた肥沃な土地に恵まれ、昔から農業が主要産業であったが、とりわけ近代は阿波藍の生産で栄えた。


 私達建築班は、日本建築学会徳島支所の学会員を中心に「石井町の民家」をテーマに7月29日から8月1日まで現地調査を行なった。本町の民家は明治末期まで藍の耕作が盛んであったこともあり、農家住宅では徳島県で一般的な四間取り形式が多く、とりたてて特徴的な平面や構法は見られない。屋根も草屋葺で四方蓋のものが多く残っているが、ほとんどのものはトタンで巻かれている。四間取り形式は、また「田の字形式」ともいわれ、通り庭の土間以外の部屋部分が田の字形に四つあるものをいう。これより広い六間取形式のものも、藩政時代末期から明治中期まで全盛であった藍作で裕福となった藍師たちにより作られている。国の重要文化財に指定されている田中家住宅もこの形式である。また、吉野川の氾濫に悩まされてきたこの地方の藍師の屋敷の特徴として路面より敷地や家を高くし、青石で基礎や石垣を築いていることが多い。

 

 目次
1.大西隆行家(家相見の家)石井町浦庄字大万250
2.志磨良雄家(棟札に古銭を付けた家)石井町浦庄字諏訪265
3.多代修家(藍師の家)石井町浦庄字国実202番地
4.久米武義家(通し太黒の家)石井町石井字内谷101
5.一宮芳生家(旧街道沿いの酒屋)石井町石井字石井933番地
6.田中良司家(中世の形式の小家)石井町浦庄字諏訪
7.王子神社境内あずまや(住民手造りの家)石井町高原字桑島
8.山口組石切丁場(阿波の青石)石井町浦庄字下浦
9.重文指定建物(藍商の家)田中家(国指定) 武知家(県指定)
10.旧街道の町並
11.あとがき(間取りについての考察)

1.大西隆行家(家相見の家) 石井町浦庄字大万250
 大西家は、大正11年に建築されたが、茅葺四方蓋下屋造り四間取りの、吉野川平野の藍作地帯一般農家に見られる典型的な形式をしている民家である。
 屋敷は南東の隅に離れ、北西の隅に蔵、主屋の西に納屋を配し、門(アプローチ)は少し東に寄った南に位置する。当主の隆行氏は易学を修め、号を「見龍」と称されるが、彼によるとこの家屋敷は家相学上理想的な配置、間取りをしているとのこと。平面は東に広縁を配し、4間×6間の大きさ、南向田所の家である。広縁に続く便所は北の壁面より半間南へ寄っているが、これは鬼門を避けたためと、釜屋を北へ出したのも家相上からである。これは以前には無く、後から増築されたものである。小屋組の架構は極めて一般的なもので、矩計図でも分るように四方下の典型的な軒先構造をしている。また、この家は大正期に建てられているので柱毎に持出し梁を出し、丸太の大蓋桁を受けている。(古い家は柱一本置きの間隔で太い持出し梁を出しているのが通例である。これを地方によっては「源氏」「平家」と呼んでいる。)桁には大蓋掛けがあり、急雨の際干していた農作物を取込み、大蓋にて雨を凌いだものと思われる。昭和43年には葦の葺替え工事を行った。(2尺5寸の厚さ…耐久性60年)

 

2.志磨良雄家(棟札に古銭を付けた家) 石井町浦庄字諏訪265
 茅葺四方蓋下屋造りの一般的な農家である。屋号は大国、現在藍作も復活して栽培されている。配置は主屋の西に納屋を配し、その裏(西)に墓地がある。アプローチは東側の南隅からとなっている。主屋の釜屋は北に突出し増築されており、東には縁を設け北東隅の便所へとつながっている。棟札は3枚保存されており、明治30有年のものと天保壬寅2年節分と書かれ、もう1枚は判読不可能(享保では?)であった。これには明や北朝時代の古銭(道光通寶3枚・康煕通寶・嘉慶通寶・崇相通寶・乾隆通寶、各1枚)が付けられていた。古銭の知識が無いので分らないが、貴重な物ではないかと思われる。また、納屋の棟札は明治17年のものである。主屋の架構の特徴は、下屋の軒を支えるための持出し梁は少し出すだけにとどめ、小さな中間桁(母屋?)を受けるだけで、丸太の軒桁は4本の独立柱で受けている。[矩計図参照]また、洪水に悩まされたため、青石を積み建てて地盤を高くした上に建てられている。

 

3.多代修家(藍師の家) 石井町浦庄字国実202番地
 多代家は屋号を■「カネエ」といい、四方蓋造りの主屋の平面構成は四間取り形式の進歩したものであり、藍業の盛んな頃の中規模の後発藍商としての生活様相を知る事の出来る間取り構成をとどめている。
 まず、配置であるが、屋敷の東側道路の南寄り部分に青石柱の高い門があり、ここから緩いカーブに沿ってアプローチする。敷地の中央に主屋が位置し、西に納屋、東に庭園を配し、真北に倉があり、北西の隅には離れがある。この離れは昭和7〜8年頃養蚕場として建てられたものである。今は解体されて現存してはいないが、西の納屋の位置にはかつて藍納屋があり、今は畑の敷地南西部にも藍寝床が建っていたとのことである。
 主屋は棟札によると明治38年の建築であるが、四間取り形式を発展させ、「オモテ」の背面は「オク」を二分して奥方専用の「化粧の間」を東側に取っているのが特徴である。この家も「オモテ」東に内縁を設け、その外側の庭園に面して外縁を、北側を通り釜屋北の風呂場まで廻らしている。便所は「オク」の外縁から北側に突出す様に設けている。また、釜屋には下男食事場、奥の「ウチニワ」には下女食事場が分けて作られ、ここには下女の寝所である「ヒロシキ」もしつらえてある。地盤は青石を2枚積重ねて高くしてあり、架構も釘を一切使用していない(隠し釘かも知れない)との事からも、贅沢な建方と言え、藍師の経済力の裕福さを物語っている。

 

4.久米武義家(通し太黒の家) 石井町石井字内谷101
 国分尼寺跡の近く、旧伊予街道沿いに位置する久米家は、屋号を■「ヤマク」といい、分家ながら現在7代目を数える農家・地主であり、昔は藍作もしていた。敷地は、東側の南北に通る道路から畑の中の進入路より長屋門ヘアクセスするが、かつてはこの畑の位置に伊予街道が有り、長屋門もこれに沿ってカーブしている。西側は山が迫り、これを取込んで「オモテ」の南西に庭が造られている。前庭の西に納屋があり、南の塀沿いにも昔の納屋の基礎石が残されている。また、屋敷北に納屋、西には家具蔵があったそうである。
 この家の特徴は主屋にある。増築によって連なる二棟の二階建入母屋造は、長屋門との構成美に独特の風格を現わしている。平面形式は四間取りを基本に、内ニワの部分に「ミセ」「下男部屋」を造り、北へは増築により座敷を増やしている。東には通りニワを残し、玄関とカマヤを繋いでいる。
 天保14年と明治11年の棟札がある南棟(古い方)は二階軒高が低く、創建当時二階は座敷ではなくて、ミセの倉庫であったのを後で造作したものと思われる。また、太黒柱が通し柱となっているのが大きな特徴でもある。
 階段は箱階段となっており、仏間は無いが床の間は本床であり、かつての栄華がしのばれる。

 

5.一宮芳生家(旧街道沿いの酒屋) 石井町石井字石井933番地
 旧街道沿いに面した商店街の東の外れに一宮家はある。屋号を「イヤカ」といい、酒店を営んでいるが、通りから美しい主屋の茅葺屋根を見る事ができる。この屋根は四方蓋下屋造りで、7年前頃茅を葺替え、一部残ったものを1年後田中家の修復に使用したとのことである。建築年は棟札によると、明治26年である。平面形式は四間取りであるが、「ニワ」の部分が広く、現在は改造されて部屋になっており、子供部屋の位置に物置か何かがあったと思われる。

 

6.田中良司家(中世の形式の小家) 石井町浦庄字諏訪
 水田の中の小さな森の緑から茅葺屋根が頭を出している。田中家は昭和20年終戦により、外地より引揚げきて当地に自分で建てたものである。物資の無い時代で資材集めに苦労したそうである。平面形式は、農家住宅の発展史的にみると、二間取りから発展した「座敷」「ネマ」「ニワ」の三間取りで中世の形式と考えられる。当時の被支配階級の一般的な農家住宅の雰囲気を現わしている。

 

7.王子神社境内あずまや(村造りの会手づくり) 石井町高原字桑島
 高原字桑島に在する王子神社境内に、今年正月から手造りで進められている四阿『あずまや』が完成間近、「手造り村造り」に指定された同地区村造り会長 松家富一他約15名(会員35名)が、勤労奉仕で茅葺木造平家建のあずまやを建てた。作業はまず、今年正月の勝浦川河口の茅取りから始まった。約1200束、2tトラックに4台という量を持ちかえり、6月30日上棟式のあと4日間、茅葺職人他10人の手伝いと共に工事を行い、茅葺屋根が完成した。
 8月4日には、堂々落成式が行われ、茶会(野だて)他盛りだくさんの行事が行われ、今後、桑島地区の楽しい思い出と希望とを末代まで語り継がれる良い憩いの場所として活用される事であろう。
*概要
用途 あずまや
構造 茅葺木造平家建
仕上 [床]真砂土敷均し [基礎]四方柱 根巻コンクリート
 [柱]末口210φ(電柱) [桁梁]末口210φ(電柱)
 [棟]カラートタン・VP60φ [屋根]茅葺 [机]電柱半割加工
*使用材料
 [電柱]14本。電力より寄附・一部購入1本@¥1,000(柱、梁、机に使用)
 [ナル、竹]稲掛けの不要になった物を持込み(母屋、垂木)
 [茅]1200束、約6ケ月シート養生にて野積み保管
 [カラートタン]棟
 [ビニールパイプ]棟飾り
 [羽子板ボルト]鉄筋16φを加工
 [真砂土]11tダンプ1台

 

8.山口組石切丁場(阿波の青石) 石井町浦庄字下浦
 阿波の青石はその産地の名が冠せられ、以前県下で、12種類の産地を数えた。その内下浦石が青石の代名詞となっていた。石井町浦庄の東山、及び龍王に産するもので、阿波郡林町に産する片解石(かたげいし)と共に特に青石と呼ばれて来たもので、良質の緑泥片岩である。また、内谷石と称する石は石井町石井内谷(尼寺の南、矢野の北付近)に産する石で、明治時代まで採掘していたもので特に薄石(貼石)が採れていたので短冊石と称して、板碑、箱(阿波式石棺の側枠)に使用され、その歴史は古い。

 

9.重文指定建物(藍商の家)
 これらの文化財建物については、既に調査発表されているので紹介だけにとどめる。
A.田中家 石井町藍畑字高畑705番地
 田中家は昭和51年2月に11棟の建物と敷地が国の重要文化財に指定され、昭和52年より56年まで解体修理工事が行われた。南北約50m、東西約40mの敷地は青石で積上げ、主屋とオモテニワを中心に、周囲を納屋や寝床、土蔵、門長屋と塀により囲まれ、城郭の様な屋敷構えは藍商の全盛時代を彷沸させるものである。
 尚、詳細は[田中家住宅保存修理工事報告書]に記録されている。


B.武智家 石井町天神
 武智家も先祖代々藍師として続く豪商で、南の寝床は県の重要文化財に指定されている。主屋は本瓦葺入母屋造で、文久二年の建築。これは、身分が士分であるから許された事と思う。

 

10.旧街道の町並
 石井町石井の旧街道には一部昔の町屋の続く所が残されている。しかし、軒高の高い二階建てであることから、建築年代は比較的新しいことが伺われる。
 ここで特徴的なことは、妻側の牛梁覆いに、鐘馗像(中国で疫病神を追払うという神)の木の彫刻を取付けてあったり、軒側の壁に漆食で型取り着色した鐘馗像のパネルが付いている。

 

11.あとがき(間取りについて考察)
 今回の調査を振返り思うことは、その地方で長い年月を経て育んできた住文化、建築技術の偉大さ、その地方にある自然の素材の持つ強さ、心地良さである。今、徳島の、いや日本の住宅の多くは本来の発展史の流れからかけ離れたところにあるのではないか。材料は工場生産の無機質の規格品、デザインはコロニアル風といった外国の模倣の氾濫、後世の人の目から見れば、この我々の時代で長い伝統が断切られているのを嘆く、といった事のないように、地域固有の建築文化を守り、発展させるのが我々の使命だと考えます。
 石井町の場合には、農村部にまだ多くの近代民家が点在し、日本らしい風景をとどめている。これらはほとんどが四間取りかその発展型である。
 徳島県の平野民家で典型的な四間取りの農家住宅も、出入り口(ニワ)の位置により二つの形式『右勝手』『左勝手』に分れる。『右勝手』の家は東側にニワ(玄関兼作業場の土間)があり、『左勝手』の家は西にニワがある。
 これは、床の間にも影響し、『左勝手』の家では位置が逆勝手となる。


 大きく分けて県南部・東部は『右勝手』西部は『左勝手』という分布ではあるが、その境界線は定かでなく、今後の調査で明確化したい。
 石井町の場合ほとんどが『左勝手』であるが、町東部、国府町に接するあたりには『右勝手』がある。
 敷地へのアプローチはどの家も家相上からか、南東の隅近辺よりされるが、『左勝手』の家では庭を横切って西の出入り口まで行かなければならず、動線上良くないと思われるが、敢えてこうしたのも家相上かも知れない。しかし、『右勝手』の家も家相を考慮してあると思われるので、どうも不可解である。
 この『勝手』の違いの理由は今後の研究課題として分布と共に調査したい。


徳島県立図書館