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はじめに 幕末から立憲体制成立期の民衆運動はこれまで自由民権運動、とりわけ自助社の運動を中心に研究が蓄積されてきた。その意義はもちろん決して小さくはないことは当然であるが、一方で旧来の概念に視点を奪われるあまり近代社会成立期の地域民衆の負債、農民騒擾、減租要求、地域民衆生活に根ざす土地均分など平等論的志向をもつ種々の民衆宗教、思想、運動などに着目しトータルに追究されてきたとは言いにくいように思われる。 そのようなわけで、さしあたり旧来の概念の枠内にとどまらない多様な地域民衆の動向を掘り起こしその実相を浮かびあがらせることが急務の課題であると考える。したがって本報告もその基礎作業としてそのような視点から地価修正運動、水害土木復旧工事費請求運動を中心に宮倉・小笠原鶴太郎の軌跡を紹介しておきたい。
1.勧業活動への取り組み 小笠原鶴太郎は、1858(安政5)年に那賀郡宮倉村に生まれ、16歳で伍長頭、18歳で地租改正惣代、19歳で副戸長、21歳で戸長兼学区取締また同時に那賀郡書記に任命され新政府の役人として活躍をはじめた。 ここに鶴太郎の役人としての出発がはじまったが、翌明治13(1880)年には郡書記を「同僚中議不合モノアリ、郡長更迭ニ際シ不服」で辞したことが、人生の転機となり、他方で地域産業の育成活動に本格的にのりだし、近代技術摂取・生産向上への意欲を示しはじめることになった。 「農談会」「種子交換場」は明治13(1880)年、「農事モ又改良進歩ノ必要ナルヲ感シ」「植物試験」などの目的で地域の有志とともに設置し、一方翌明治14(1881)年の第1回内国勧業博覧会を観覧し各地の農業を視察して回るなどいちはやく精力的な勧業活動に取り組んだことに注目しておきたい。のち鶴太郎は農工銀行、阿陽鉄道設立発起などに関わるのも、このような活動への取り組みと関わっていると思われる。 2.県会での活動 運動史という、いわゆる自由民権運動期の鶴太郎の軌跡はどうだったか。 先述した精力的な勧業活動はその後も、明治16(1883)年に織物外四品連合共進会奨励委員、那賀郡来麦菜種共進会事務取扱委員兼審査長に任命、明治18(1885)年に四国連合砂糖外四品共進会委員に任命とさらに情熱的に取り組んでいった。加えて発展への飛躍が問われた養蚕業に集中的に取り組み「私立繭生系品評会」を開催し、また明治21(1888)年農商務省農務局蚕業試験場への遊学、帰県後の有志による「蚕業協会長」として活躍したことは本県養蚕発達史のうえでも重要な役割りを果たしたことが特に注目される。 ところで、鶴太郎はこの期に勧業活動のみならずその政治行動にその主要な活躍の場を拓きつつあった。それは明治18(1885)年を境に那賀郡書記を退き政府の権威に連らなる役人を辞職、県会議員、連合町村会議員という議会活動への志向を強めていったことである。 このことと県南で勢力を増大した徳島立憲改進党などの諸政党運動との関わりを示す史料が末見であるので何ともいえないが、実証的な解明が課題である。 さて鶴太郎が県会議員としての活躍をはじめてからの行動のなかで特に注目できるのは一貫して高額地価修正の運動に精力的に取り組んでいることである。この運動の性格は必ずしも地域民衆生活に根ざしたものといえるものではないが、その運動が地域民衆の多様な願いやそれを実現する動向とどう関わっていたのかといった関心を重ねながら以下その運動を中心に紹介しておこう。 3.地価修正運動について さて、地価修正運動とはいうまでもなく明治初年の地租改正によって決められた課税基準の修正を求める運動をさすのだが、その運動は地租改正実施時期からたびたび取り組まれた。実際、地租改正法体系自体が、その実施時期の地域的相違ともあいまって極めて重大な予盾を孕むものだったのであり、それに対して担税者・農民はたびたびその根幹である地価修正を求めてきた。それゆえ明治政府もやむなく明治13年、20年と手直し、修正をせざるをえなかったが、それは部分的な修正に過ぎなかった。しかし、明治22年のそれは初期議会以後の全国的な地価修正運動のモデルになったとされるように地租軽減に本格的に取り組まざるをえないものであった。 そのようなわけで、本報告ではこのような動きを背景にその後の鶴太郎の動きをとおして徳島県における運動がどう展開し、先述したようにそれは地域民衆とどう関わっていたのかという課題に焦点をあて紹介したい。 まず、鶴太郎は明治23(1890)年には「本縣地租ノ高額ナルヲ以テ政府ニ訴エ」るために有志者設立の「那賀郡懇和会」の近府県地租額当否調査委員となって広島、山口、岡山、兵庫、さらに京都、滋賀、愛知、兵庫などを二度にわたって視察する。また続いて翌24(1891)年郡内より地価修正請願委員に選出され上京しさらに、「各府県上京委員ヨリ撰バレ東北地方地価ノ実際調査ノ為メ」茨城、福島、宮城、岩手の調査を行いさらに東京の修正事務所で活動を行った。 さて、このような鶴太郎の努力にも拘らず徳島県における地価修正も全国的に明治31(1898)年に実施される田畑地価特別修正をまたなければならず、すでに地租が国家財源として相対的に地位を低下し補助的な税の役割に転落して以降ではある。しかし、初期議会期は同時に地域民衆生活にとっては最も切実に地租軽減が必要とされた時期であり、このような観点からもこの期の地価修正運動の実態を一層深く追究する必要があろうし、さらには、この期にたびたびくり返された地租「上納延期」の請願や「荒地免租」要求などの地域民衆生活に根ざす動向との関わりを問題にしながら。 4.水害土木復旧工事費請求運動について ところで、鶴太郎らが地価修正運動に取り組んだ頃には同時に吉野川などの風水害がたびたびひき起こされその対応を鋭く問われた。県会議員としての鶴太郎はまたその「水害土木復旧工事費請求運動」への取り組みを強めていったのである。 とりわけ、うち続く風水害への対応が一挙に政治的にクローズ・アップされたのが明治25(1892)年である。この年には「被害人民等は郡役所に至り金円借用の義申迫り」、次いで知事の責任追及まで行なった地域民衆への対応や復旧工事への姿勢が不十分であったばかりでなく選挙干渉さえ引き起こした知事関義臣、書記官櫻井義起に対して県会は不信任決議を行ったのである。かくして県会「解散か執行か」が注視されたが、結局勅令を以って解散〔明治25(1892)年12月12日〕を強行することにまで至った。 「本月十日勅令第百十一号ヲ以テ徳島縣会解散の件ヲ公布セラレタル旨電報有之侯ニ付此段及通牒侯也 明治二十五年十二月十二日 徳島縣 元縣会議長大串龍太郎殿」(「徳島日々新聞」明治25.12.7) 一方、鶴太郎らは県会の上京、陳情委員として活動し、土木費追加予算獲得のために奮闘したのであり、まもなく追加予算を獲得していった。 5.おわりに さて、鶴太郎はその後県議会議員として、また県会議長として県議会史で重要な位置を占めるばかりでなく、加えて徳島県水産組合長や徳島県養蚕会長として地域産業史の上からも興味深い活動を行った人物であり、殊に近府県との漁場設定をめぐる漁民の運動と関わりを持つなど多方面で活動を行い、明治44(1911)年に病没するまで波乱の人生を生き抜いた人物であった。 本報告では、その半生を中心としてしか紹介ができなかったが、近代社会成立期の地域民衆の動向を掘り越こすための手がかりとして後半生を含めた「年譜」を以下に掲げておきたい。 小笠原鶴太郎年譜




 本稿で使用した資・史料は全て小笠原家所蔵文書に拠っています。御親切にしていただいた小笠原家の皆様に記して謝したい。 |