阿波学会研究紀要


このページでは、阿波学会研究紀要論文をご覧いただけます。
 なお、電子化にともない、原文の表記の一部を変更しています。

郷土研究発表会紀要第31号
羽ノ浦町の考古学調査報告

考古班

  小林勝美・岡山真知子・田村明敏・

  一山典・阿部里司・滝山雄一・

  高橋正則・大塚一志・三宅良明・

  宮本敬子

はじめに
 阿波学会が昭和59年度に羽ノ浦町総合学術調査を計画し、7月26日〜8月5日まで実施された。
 徳島考古学研究グループは初参加であるが次の調査目標をたてて実施した。
 1.宮倉周辺の古墳調査一能路寺山1号墳
 2.羽ノ浦町出土の考古遺物調査
 3.羽ノ浦町の分布調査
 本報告の図面整理は岡山真知子が、執筆は小林勝美が行った。


 I 能路寺山1号墳調査報告
 (羽ノ浦町大字宮倉字背戸田2の1)
(1)能路寺山1号墳の位置
 国道55号線を阿南市に向って、小松島市大林町を過ぎると小高い山が左手に見え、現在、「特別養護老人ホーム」が造成されている山である。能路寺山の隣接地で、東南の浦分地区には「丸山」と「観音山」があり、「趣味の郷土、羽ノ浦(註1)」の記述によると、丸山にも古墳があったと記録され、観音山には「観音山古墳(註2)」があり、町史跡指定となっている。
 また、能路寺山1号墳の位置より東南、西方には那賀川によって形成された羽ノ浦町が一望できるし、東には紀伊水道が遠望でき、和歌山県の山並がはっきりと見える絶好の立地環境にある。
(2)能路寺山1号墳の墳丘(図版1)


 能路寺山の東南の隅に能路寺があり、寺の西側より山道を登り、墓地造成地の東に小道があり、新四国88か所参拝地蔵が建てられている。この参拝地蔵墓の五十番が能路寺山1号墳で、信仰の対象とされ、今日まで保存されている。
 墳丘の最頂部は標高20.25mで、25cm間隔で墳丘実測を行った。墳丘の南側はみかん畑で、盛土を削平し、平坦な地形に造成している。北側は少々の削平と土砂流失による整地が行なわれているが、原状を留めている。実測より復元すると、直径10m、高さ3mの円墳であり、横穴式石室を覆うだけの墳丘盛土である。
(3)横穴式石室(図版2)(折込み)

 横穴式石室は東西方向に築かれ、全長5.1mの片袖式横穴式石室である。石材は砂岩の自然石を使用し、粗雑に構築されており、玄室の南側石の墓底部と玄門近くの南側石の墓底部の一部の壁石が抜かれており、石室は非常に不安定である。
 石室の規模は、玄室の長さ2.6m・幅1.2m・高さ1.3m+αであり、羨道の長さ2.5m・幅1.2m・高さ1.4mである。玄室の北側石は墓底部から5段積みで、石材を横長に使用し、内側に側石を積み上げて天井石に達している。南側石も北側石と同様の構築方法であるが、抜石された跡を見ると、ひかえ積みの石は丁寧に築かれている。奥壁は石材を横積みで、5段積みにし、両端は少々隅丸になっている。奥壁の前には地蔵墓が三墓安置されている。
 羨道は玄室の両側石をそのまま延長した構築方法で、5段積みを基本にしている。
 玄門の床面は踏みかためられて整地されているが、河原石が散乱しているので、拳大の石で敷石されていた可能性がある。玄門部には2段の仕切石の施設がある。石は長さ30cm・幅20〜25cmのものを3個ずつ並べて2段としている。玄室の方が10cm高く、重ねてある。発堀調査をしていないので、構築時の施設か後世の信仰場として整地された施設かは不明であるが、もし、2段の仕切石となると県下初めてのものである。
 天井石は巨石を使用し、玄門部に1枚を架け、羨道部は同じ高さで、2枚を架けている。玄室は1段高くして1枚で構築している。この古墳は石室の側壁石に比べて、天井石が巨石のために、側壁石は天井に向って、少々狭くなっている。
(4)まとめ
 能路寺山より東南約500mに観音寺山があり、中腹に挙正寺が建立され、観音堂の中に、観音山古墳がある。昭和47年に県博物館により実測調査が行なわれ、古墳の石室規模は全長7.35mの横穴式石室である。玄室の長さ4.30m・幅2.10m・高さ2.00m、羨道の長さ3.05m・幅1.10m・高さ1.50mで、袖は左袖0.2m・右袖0.6mの幅をもつ、両袖式横穴式石室が構築されている。能路寺山1号墳を比較すると、石室の石材は自然石の砂岩を使用し、横長に石材を使っているのも同様である。玄門部は巨石を縦長に用いて立石として、玄室と羨道を明瞭に区別しているが、能路寺山1号墳は片袖の玄門であるが、退化していく過渡期の時期で、仕切石の存在で、確認できる程度である。
 石室構築全体から見ると、観音山古墳がひとまわり大きな横穴式石室であり、古墳時代後期に、県下各地で見られる典型的な古墳であるが、能路寺山1号墳は、出土遺物が不明で、構築時期の想定は難しいが、観音山古墳よりも、少し後の時期で、後期古墳の末期頃で、実年代で言えば、6世紀末〜7世紀初頭頃までに築かれた古墳である。


II 寺田山古墳出土の遺物(図版3)


(羽ノ浦町大字宮倉字直田19の2)
 寺田山古墳は、現在、春日野団地内にある小丘の小山で、最頂部には「春日祠」が祭礼されている。もとは、東西の二峯に分かれた小丘であったが、昭和9、10年に西峯を開墾した時に、古墳が発見され、発堀したと記録されている。
 この時の出土遺物は「趣味の羽ノ浦」に昭和10年5月9日、出土物目録として「斎瓶1.坩堝1.提げ壷3.盤(蓋付椀)(註3)16.斎瓶穴付1.脚付坩堝1.高坏2.脚付盤4.直刀1.鏃5.勾玉(出雲石瑪瑠)3.丸玉3.小玉60.切子玉(水晶)1.管玉8.木玉(扼子)2.金管(断面六角)1.計113点」報告されている。(註4)
 現在、出土遺物は「羽ノ浦町、友成氏」宅に保管されており、今回、実測したので報告をする。
 須恵器、坏(1.2)
 (1)は口縁のたちあがりは縮小化し、口縁径は12.8cm・蓋受け径は15.0cm・器高は4.0cmで全体に浅く扁平である。色調は灰色で、焼成は良好である。製作は右回り粘土ひもで巻き上げ、左回転ロクロで仕上げて、底部はヘラ削りで粗雑に整形している。
 (2)は口縁のたちあがりは縮小化し、口縁径は14.2cm、蓋受け径は16.3cm、器高は3.8cmで、浅く扁平である。色調は黒灰色で、焼成は良好で、胎土は白い砂粒を多く含んでいる。製作は左回り巻き上げて、右回転のロクロを使用し、内面はヨコナデで、外面はヘラケズリで整形している。
 須恵器、蓋坏(3)
 口縁径14.3cm・器高3.5cmの小型の蓋である。胎土は白い砂粒を多く含み、非常に粗いが、焼成は良好である。色調は黒灰色である。製作は粘土を左回り巻き上げで、右回転のロクロを使用し、天井部はヘラ削りで整形している。
 須恵器、提瓶(4.5)
 (4)は扁平な円球形の体部に口頸部をつけており、口径7.8cm・器高19.7cm・胴最大径15.8cm・厚さ最大10.9cmの小型である。色調は灰黒色で、焼成は良好である。口頸部は外上方に立ち上り、端部は段をなす。肩部には退化した粘土塊が鉤状に付けられ、かろうじて紐を掛ける用途として残されている。体部は丸味をもち、前面にカキ目が丁寧に施されている。
 (5)は扁平な円球形の体部に口頸部をつけており、口径5.0cm・器高19.5cm・胴最大径15.8cm・厚さ最大12.0cmである。色調は灰黒色で、焼成は良好である。口頸部は短く外上方に立ち上り、端部は内傾している。肩部には退化した粘土塊が鉤状に付けられ、紐掛けに使用された。体部は丸味をもち、前面はカキ目をよく残し、背面はヘラ削りが行なわれている。
 勾玉(6.7)
 (6)は石材が碧玉製で、色は深緑である。勾玉の長さ3.0cm・直径0.9cmで、0.3〜0.2cmの穿孔で目をつけている。
 (7)は石材がメノウ製で、色は琥珀である。勾玉の長さ2.8cm・直径0.9cmで、0.4〜0.1cmの穿孔で目をつけている。
 管玉(8.9.10.11.12.13)
 現在6個保存されている。石材は全て碧玉製で、濃い緑色である。大きさは長さ2.4cm直径1.1cm前後のものばかりである。穿孔も一方が0.3cmともう一方は0.1cmで、全て片側より穿孔している。
 切子玉(14.15)
 現在は2個保存されている。石材は水晶で七角形で、通称、ソロバン玉と言われる。(14)は長さ1.2cm・最大径1.2cm。(15)は長さ1.1cm・最大径1.0cmである。穿孔は径0.3cmと一方が0.1cmである。
 ガラス小玉(16.17.18.19.20.21)
 現在6個保存されている。(16).(17)はガラスの丸玉で、長さ0.4〜0.5cm・直径0.7cmのもので、色は水色である。
 (18)〜(21)は4個のビーズ玉で、長さ0.2〜0.3cm・直径0.3〜0.5cmの小型で、色は黄色(3個)と水色(1個)がある。
 棗玉(22)
 石材は碧玉で、色は灰緑色である。長さ1.8cm・最大径1.8cmで、少々は稜線をつけている。穿孔径は0.3cmと0.2cmである。
 練玉(23.24.25.26)
 土製の丸玉で4個保存されている。色は黒色で軟質である。長さ0.4〜0.5cmで、径は0.5〜0.6cmである。
 銀環(27)
 1個保存されており、銅芯銀貼環で、直径2.8cm・環の径は0.5cmである。質は良好であるが、やや腐蝕痕がある。
 以上が友成氏が現在、保存している遺物であるが、須恵器の製作時期より考察すれば、寺田山古墳は古墳時代後期で、観音山古墳と同時期に構築されたものである。


 III 分布調査
 今回の調査時期が真夏のため、分布調査には条件が一番悪く、限られた地域のみしか調査できなかった。また、雑木・雑草が繁茂し、分布調査には限界があった。
 その中で、緊急を要する場所として「中ノ森古墳」を指摘し、一日も早い「精密分布調査」と古墳の確認を必要とする。中ノ森は旧宮倉から大木地区への峠で、西側には三社の森がある。
 また、町内各地域での開墾・開発の進行が大規模化している。町行政での「文化財保護行政」の立遅れを痛感した。


 IV 今後の問題点
1.羽ノ浦町は現在まで、埋蔵文化財(考古学)の発堀調査が実施されていない。しかし、古くから寺田山古墳・観音山古墳・能路寺山古墳群が知られ、これ等の古墳を形成した古代人の生活場が想定されていた。この生活場即ち集落跡の解明は、那賀川流域の古代文明解明への糸口であり、その中心的行政単位が羽ノ浦町である。
2.今回の羽ノ浦町総合調査で、町内を回り、道路建設・住宅建設、その他の開発が急速に進行している現状には驚いた。特に、住宅建設に伴う山地の宅地造成は、遺跡を面として破壊している恐れが十分予想された。文化財保護行政の立遅れが懸念され、一日も早い「英知と決断」が要求される地方行政である。
3.この立遅れと今後の開発に対応するためには、早急に町内全域の精密な分布調査を実施し、考古学上の資料を収集すべきである。この事は、今後、当然実施される「国道55号線の建設、それに伴う町道整備及び付属工事等」に十分対応できる資料作成でもある。また、その他の開発にも十分なる行政処理が行なわれるためには、羽ノ浦町独自で、専門分野(考古学専攻)の担当官を配置し、きめ細かい行政事務と処理ができることを望む。
4.埋蔵文化財は地中に埋蔵されたもので、一寸先は闇だと言われるし、一度破壊すれば二度と復元不可能なものである。しかし、調和のとれた開発行為は、行政者の努力と献策で対応できる一面をもっている。このことは、文化財は地域の生活環境の構成要素であり、生活環境の享受でもある。言いかえれば、私達の今日の生活をより理解するためにも、文化財への意識の向上と保存は不可欠の問題である。その中で、埋蔵文化財保護の促進と強化は、私達の生活環境保全の道をも切り開く手段である。

 

参考文献
註1.「趣味の郷土、羽ノ浦町」羽ノ浦町、1959年。
 2.天羽利夫「徳島県博物館紀要、第4集」昭和48年 徳島県博物館。
 3.註1に同じ。
 4.「陶邑古窯址群1」1966.平安学園考古学クラブ。
  中村 浩「和泉陶邑窯の研究」1981年。
  小林行雄・水野清一「図解考古学辞典」昭和34年。


徳島県立図書館