阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第31号
羽ノ浦町の葬送儀礼と盆行事

民俗班 前川富子

 町内の人々の、くらしの朝夕を垣間見ながら自転車を走らせる。
 国道から一歩はずれると、あおあおと育った田の面を、プラチナ色に波をおこして風が通り過ぎ、那賀川の流れも眩しく水を湛えている。そのむこうに津の峯のかたちがはっきりと認められ、丹生谷山系の山々が濃く淡く重なっている。
 まことに羽ノ浦町というのは、すみずみまで太陽の光の降り注ぐ、もの成りの豊かな良い土地だなあ、と思うことしきりであった。
 古毛の埴渕伊三郎氏(明治38年生)と岩脇の稲垣則美氏(明治40年生)という、この上ない話者であり、協力者に恵まれたのを幸に、この2地区を中心として、葬送儀礼、墓制、年中行事等の聞取りを行った。
 時季柄、町の人達が折目正しく盆の行事に、専心している様子に心をうたれ、葬送儀礼と盆行事について報告させていただいた。
 私たちは古来から伝承された死者を弔い、祖霊をなぐさめるためのさまざまな行事に心を砕いているが、戦争とその後の経済変動に伴って、切捨てられ、様変りした仕来も数多い。殊に、大正年間までは行っていた、という伝承などを聞くにつけ、昔経験したことを語ってくれるお年寄りがいなくなった後には、どんな事実があったことも、夢のように消えてしまうのではないかと思えてくる。そういう意味からも、何からでもお年寄りの経験を書きとめておきたいと思っている。
 調査にご協力いただいた数々の方々、特に羽ノ浦町教育委員会、町当局の皆様と市原自転車店、上記埴渕伊三郎、稲垣則美両氏には心からお礼申し上げると共に、一層のご健康をお祈りする次第である。


部落の概要と組織
 岩脇は、旧土佐街道が小松島から当地を通り、阿南市へ那賀川を渡る要衝であった。原分、内手(上岩脇)西在所、東在所、西一丁、浜一丁、町筋、姥ケ原、畭、傍示(上岩脇)の字がある。
 古毛では、昔那賀川は現在よりずっと北よりに流れており、古毛は山添いから開けたということである。山に添って覗石、小谷口、車田、三百歩、細谷の字があり、南側に川に添って上須賀、前須賀、大須賀、中須賀、小須賀、下須賀の字がある。
 共に農業地帯で、昔は二毛作、今は米作のみで、温室で蔬菜、果樹等の生産もみられる。
 宗旨はほとんどが真言宗で、岩脇の取星寺の壇徒である。他に門徒、創価学会、神統もみられる。取星寺は古毛、岩脇、加茂谷、及び春日野の一部に壇家をもっている。
 葬送の総名は、オソーシキ、あるいはソーレンと言う。友引をさけて行っている。講組が主になって葬式を行ってきたが、町や葬儀屋で間に合うようになって役割は少なくなった。
 大正時代までは土葬であった。その後、羽ノ浦山の山中に焼き場ができ、昭和20年頃まで使用したが、現在は小松島市の火葬場で火葬にしている。火葬の場合は四十九日で墓地へ埋葬する。
 トッコウ、コウグミ、トナリグミ
 冠婚葬祭、先祖の供養、社会的連帯等のために、5〜10軒が組になって斎講組が組織されている。昭和30年頃まではこの組で田植の手伝いもしていた。トッコウ、コウグミ、トナリグミ等と呼ばれ、構成員をミトモ何軒といい、先祖から受継がれた組織である。
 手伝いに出ることをデヤクといい、講組の間では手伝いは出ることも受けることも当然の事である。最近になって引越して来た物理的な隣、戦時中にできた隣組、あるいは実行組などが、依頼や、両家の関係等により手伝うのとは重さが違っている。
 トッコウ
 斎講組では、きまった期日に念仏をあげており、これをトッコウという。
 岩脇では毎月集まっている組や盆だけ念仏をあげる組があるが、古毛では正月の念仏の口開け(1月16日)お釈迦はん(4月8日)春秋彼岸の中日、盆の十六日に念仏をあげ、先祖の供養と組のコミュニケーションをはかっている。
 一例では、十三仏さん、お大師さん、お不動さんの軸を床にかけた当番の家に、膳に飯、皿、汁椀、箸をそれぞれ持って集まる。念仏をあげた後で、当番の家から汁と菜を振舞われて、持参した飯を食べる。夜7時頃集合して11時頃解散する。念仏は十三仏さん(十三佛眞言般若心経)を唱和して廻向する。酒を出す組、饅頭を食べる組もある。


葬送儀礼
 1.死とその前後
 ヨビモドシ
 息が切れた瞬間に、枕下の全員が大きな声で名を呼ぶ。ヨビモドシをかけると言う。
 死とタマシイ
 ヨトギが終るまで、死人の扱いをしない。
 タマシイは「魂魄この世に四十九日」いるということで、棟から離れず、四十九日に旅立つまでは家人は旅行などで家をあけない。
 ササ(笹)
 岩脇では病人の息が切れた時、古毛では翌日に、死人に触っていない人が神棚に笹を入れる。天照皇大神、お稲荷さん、お不動さん、荒神さんなど神様ごとに笹を1本ずつ立てかける。
 忌中札
 死亡した日にトノグチに忌中札を貼る。死人が野辺に出た時にはぎとる。
 講組
 病人が死亡すると直ちに講組へ知らせ、講組では役割をきめて葬送の準備、執行をする。近頃は葬儀屋で大抵のことはできているので仕事は少なくなっている。
 ヨトギ、オツヤ(通夜)
 死亡した座敷、あるいはオモテの間で東向きに寝させて通夜をする。ヨトギという。飲物、菓子、果物等を準備して、一晩中交替で起きて死者を見守る。顔には白布をかける。死人の扱いではない。ヨトギは12時頃までに終るようにきめられている地区もある。
 キタマクラ、マクラカエシ、マクラナオシ
 ヨトギの終った朝、濃い親戚の揃ったところで、表の間に北枕で寝させる。キタマクラ、マクラカエシ、マクラナオシなどと言う。これから死人としての扱いになる。
 死人には生前好んだ着物を着せ、蒲団を掛けて顔には白布をかける。死人の枕元ヘマクラノメシ、水(樒の葉を一枚添える)、線香を供え、箒、鎌を置く、死人は床に向って北枕になっており、床には東から順にお不動さん、十三仏さん、お大師さんの軸をかける。この軸の並べ方は、盆や法事の時とお大師さんとお不動さんの位置が人れ替っている。線香は一すじに行くように1本立てる。
 マクラノメシ、マクラノママ、マクラノゴハン
 講組の者が4合の米を炊き(普段は4合の米は炊かないということである)、丸いダンゴに4個握る。死人を北枕にした時、枕元に供える。
 末期の水
 死人の唇をシキブノハナ(樒の葉)に水をつけて湿す。末期の水をあげるという。
 ユカン
 現在は行わないが、大正時代までは死人を裸にして身体を拭いた。
 オモテの間は、北から三分のところに座板二枚がはずせるように釘を打っていない。ユカンの時にはこの板を少しずらせて隙間をつくり、湯が床下に落ちるようにする。稲藁をそぐって薄く敷き、死人をのせ、なま湯で身体を全部几帳面に拭き清める。
 この湯は日が入ってから、陽の当らない陰になる場所へ流し捨てた。ユカンの後は抹香をいれた湯で手を洗い清めた。
 死装束
 女にはネルの腰巻、男には越中の下着をつけ、故人の好きであった着物を着せ、その上に帷子を着せた。着物は左前に合せる。手甲、脚半をつけ、足袋、藁草履をはかせ、サンヤ袋を首に下げる。
 サンヤ袋には銭六文、お弁当(マクラノメシ)、お手水手拭、女の人には針1本。その他好物を人れる。
 帷子は、死亡した宵の晩に娘、あるいは身の濃い女達が縫った。一針でも、と替り合って縫ったり縫い始めの節と止めをしない。布は白木綿を一反買い、一反で着物、帯、サンヤ袋、手甲、脚半、手拭を裁い合せる。
 現在は葬儀屋ですべて用意できている。
 入棺
 大正時代、土葬の時にはオケ・カメを使用した。
 オケに入れる時には手を合掌させて、脚は頭の方まで折り曲げるので、息が切れた時に腕や脚の関節を動かせて入れやすくしておく。お土砂(高野山でうけてきた砂)を脚にすりつけると脚が楽に曲げられた等の方法で納めた。
 冬はオケ・カメの中に座蒲団を入れる事もある。三味線等本人が生前愛玩したものも入れる。香茶を袋に入れて隙間に詰めた。
 出棺の時は木製の蓋をし、カラナワで下から十文字に結ぶ。ソーレンが終ってからソーレンの棒の一本をオケの縄に通して山へ担いで行くので、担ぎやすいように十文字に縄をかけておいた。
 その後寝棺になり身体を伸したまま入棺する。生花を詰めるが、茶の葉を入れる家は今もある。寝棺は見おさめが終ると石で釘を打ちつける。
 2.講組の仕事
 病人の息が切れると講組に知らせる。講組では宵に集まって翌日の仕事の打合せをする。当日は一家から男女2名が出る。婦人は主に炊事をする。講組の仕事は大正時代には以下のようなものがあった。
 連絡
 医者、役場、寺への手続、届、打合せなど、現在は火葬場とも打合せが必要。近頃は家内で連絡をすましている。
 ヒキャク
 講組から二人組で親戚に知らせに行く。ヒキャクをうけた家は飯を炊いて食事を出したり、酒代を包んでくれるので戻り道でうどんを食べる事もあった。自転車で行くようになるとお茶ぐらいですますようになった。今は家内から電話で知らせている。近所へは今も講組が知らせる。
 穴堀り
 土葬の時は一日がかりで2人が墓穴を堀った。穴堀りは一番の重労働なので順番をきめてあった。埋葬する場所へ家人が案内し、ハセバ、スコップ、ツチミを用意する。墓穴は4尺のオケが1尺残して入り込むように、オケの高さを計った杖で深さを計りながら5尺位に堀る。浅くてオケが人らなくてもやり直しはできないので慎重であった。雨の日もあり、土の堅いこともあって苦労した。酒やつまみを用意する事もあった。穴堀りの道貝は埋葬の時に使用するのでその場へ置いて帰る。
 石ブタ捜し
 土葬の場合、オケ・カメの上に石ブタを置くので、一枚石か、二枚石の石ブタを石口で見付けるか、石屋で買って馬車に積んで帰った。老人の場合は自分のための石ブタを構えていた。石ブタは5〜6人がかりで埋葬場所へ担ぎあげておく。
 カメ・オケ
 カメ・オケを買う。カメの方が高価であった。買うと葬具は附属についていた。
 現在はネカンを使用する。
 帳つけ、貢物
 家人に人数、賄の内容を聞き、相談の上で必要な買物をする。弔問の礼状等を用意する。
 竹の準備
 ノボリの竹を山から伐ってくる。3m位のもの10本。4m位のもの5本を用意する。竹は現在も必要なので用意する。
 炊事
 家人は死人に触っているので、火が混じると言って所帯はしない。講組の婦人が炊事をすべて受持つ。
 昼は飯、汁、こごり豆腐、煮染、北海豆、かきまぜ寿し等。
 夕食は黒塗りの膳を用意する。オヒラ(三角の油揚げ、こごり豆腐、椎茸)、ナライ(大根、人参)、オツボ(こんにゃくの白あえ)、汁(豆腐又はあられふの味噌汁)、飯の精進料理を準備する。
 近頃は、仕出し屋に注文をするので、この世話も講組がする。
 祭壇
 現在は町役場、葬儀屋に依頼しているが、戦前は祭壇も家々でこしらえた。オモテの間の床に、東からお不動さん、十三仏さん、お大師さんの掛軸をかける。棚を造り、一の棚に高坏(たかつや)にダンゴを盛って一対、同じく高坏に生菓子一対。二の棚にお大師さんのお霊供と死人のお霊供。三の棚に季節の果物、ローソク一対。棚の下に左に生花、右に樒をいける。
 その前にオケ又はカメ、あるいは寝棺を置き、香盤と線香を用意する。
 その他葬具の準備
 ソーレン、ハタ、トーロー等をととのえる。
 受付
 葬式の当日受付、記帳等をする。
 3.野辺送り
 昔は葬式は夕方出るものであった。死後24時間以上経過しないと埋葬できないのは昔からであった。僧が午後に来て回向し、全員が焼香して野辺に出た。棺はオモテの間から直接担ぎ出す。お供えの花輪などを持って部落はずれまで送って行く。
 カルミ
 甥など死人と身の濃い者が2人で担ぎ出す。担き手は三角の頭巾(紙製)をふたえにつけ、ワラゾーリをはく。担き手をカルミという。
 六地蔵のローソク
 出棺の時はカドに立てた六本のローソクに灯をつける。ローソクは柱を1本立ててその上に横木を打ち、横木にローソクを6本並べて立てる。
 ソーレン
 二本の棒の間にオケを乗せ、オケを囲って紙製の飾り物をつける。ソーレンはカドで3回左へまわる。このため左まわりは忌まれている。
 天蓋
 身の濃い者がソーレンに天蓋をたらす。
 ワラビ、送リ火
 ソーレンが出た後、講組の人が藁火をたいて、ケンドをカドからモンヤに向けて蹴転がせる。その後死人の茶碗をカドヘ打ちつけて割る。茶碗を割る時には「ええとこ行きないよ」などと言う。
 カツギ
 カツギと言って、身の濃い女の人は白い着物の左袖を頭にかぶって送っていた。カツギの数が多いほどいい野辺送りだと言われた。
(岩脇)
 ツエ(杖)
 野辺へ送る人は、竹に小さなゾーリをつけて持って出た。
 野辺送りの葬列の例
 イ  カネ 1人(講組の年長者)
   ボンボリ 2張
   ノボリ 4本
   イハイ 跡取り(三角の紙を額につける)
   オケ 交替しながら2人で担ぐ
   天蓋 三角の紙を額につける
   子供のお供 3人(ダンゴ、小判、花を持つ)
   親戚
   一般
 ロ  カネ 1人(講組の先達)
   ハタ 4本(講組)
   ボンボリ 1対(講組)
   天ガイ 1人
   ソーレン 2人で担ぐ
   イハイ 跡取り
   お供
 帰りの作法、野帰り
 棺を担いだ人は帰りは替りのゾーリにはきかえる。
 送った帰り道は、行った道と違えて帰る。仏さんがついて来るからと言う。
 墓地まで送った人は、帰るとトノグチで竹をまたぎ、抹香を手にのせて水で手を浄める。
 盆行事
七月一日
 昭和25〜30年頃までに盆行事を8月の月遅れで実施するようになった。8月(旧7月)を盆の月という。
 盆のお地蔵さんのお念仏
 盆の月の1カ月間、毎晩年寄りが辻堂に集まって念仏をあげる。夕飯のあとで集まり、おひかりをあげて十三佛眞言般若心経を唱和し、世間話などして終る。昔は最後の日には野菜を持寄って五目ずしをつくって食べた。
 岩脇には辻に地蔵をまつってあり、四ツ辻のお地蔵さん、町筋のお地蔵さん、東在所、西在所のお地蔵さん等と呼ばれている。
 土用の水
 土用の期間中、七夕までの晴天の続いた日に墓に水をあげる。
 タナバタのムイカ(七夕の六日)
 昭和の初め頃までは、この日の夕方に灯心を川で米糖を使って洗った。
 夜、全部の神様に灯心をあげてタナバタをまつる。
 タナバタはオモテの間の軒に棚を吊り、両側に笹竹を立て、笹に短冊を吊る。棚にはお神酒一対、ご神灯(戦前は灯心、今はローソク)とお供えのダンゴ、その他あんころ餅、きなこ餅、ナハ豆、ナスビ、トマト、果物等を供える。キュウリはまつらない。短冊には天の川、織姫さま、七夕さま、ナスビの絵、カボチャの絵、スイカの絵などをかく。
 七月七日
 朝、七夕の笹を川へ流す。笹には一番先についた短冊を一枚だけ残しておく。お供えは牛馬に食べさせたというところと、お供えも一しょに川へ流したというところがある。
 ススハキ
 家のすすはきを七夕の前後にした。
 墓掃除
 盆の前に墓地の草刈り、墓掃除、花立て線香立ての立て替えをする。花立て線香立ては青竹を使用していたが、だんだん墓に備えつけのものや、市販のものを利用するようになっている。ハナはほとんどシキビ(樒)だがミソハギ(溝萩)を立てる家もある。神統では榊を立てる。
 盆の5日頃までに終る場合と、七夕が終って12日までに行く場合がある。「盆にはおいでなしてよ」とおまいりする人もある。
 水棚
 盆の13日までに水棚をこしらえる。古くには女竹四本を立てて(1m余)竹を割って編んだ棚をつくる。棚の上にハスの葉を敷いてダンゴを供え、四隅にはシキビのハナを一本づつ竹に立てる。(岩脇)又は、青竹の上を四つに割って十文字の竹で広げた上にハスの葉を敷いてダンゴ、果物等を供える。竹の根元に花立2本、樒を立てる。前には線香立てを立てる。(吉毛)これらは屋敷内の門を入ってすぐの所につくる。
 水棚は16日に川へ流す。
 盆の十三日
 仏壇又はお床に先祖の位牌を全部出して、お供えものをする。お霊供、ハスの葉に敷いてダンゴ、かしわ餅、菓子類、果物、ソーメン等を供える。お床の場合はお大師さん、十三仏さん、お不動さんの掛軸を出す。オガラを渡してほうずき、十八豆等を下げる。今は簡略にしている家が多い。
 13日の朝、オガラ3本と槇の葉の乾いたのを束ねたものを10束位つくって、水棚の前でたく、水棚へ水をあげて墓へお参りに行く。新仏のある家はこの日に迎えに行かない。(古毛)
 盆の十四日
 岩脇ではこの日取星寺から来て水棚に棚経をあげる。
 又岩脇ではこの日の朝水棚に線香をあげ、オガラをたいて、家内一同がそれぞれミズノモトをお供えし、水をかけてお参りする。オガラをたく時は、火の明りで仏さんが家内中の顔を見るといわれているので、皆が寄ってたく。この後一同墓へ迎えに行く。
 オガラをたいた灰は井戸端(いずみさん)便所のクチヘまいて悪魔除けとした。
 ミズノモトは、ヒイナ、ナハ(ナハ豆)ナスビ、ナツノハナ(ほうせん花)等を賽の目に切り、洗米と混ぜたもの。
 ホウズキはぼんぼりのかわりということで古毛では必ず供える。
 盆の十六日
 午後、家族で祖霊を墓地へ送る。送り火はあまりたかない。水棚を夜に川へ流す。
 トッコウの念仏が行われる。
 水神まつりがあり、那賀川で花火がある。
 盆の食物
 盆中の供物、食物に以下のものがある。
 ダンゴ 迎えダンゴ、送りダンゴなど、モチ米の米をねって、ダンゴにしてゆでる。きな粉をからませるのと、モチ粉をからませて白いダンゴと二種類つくる。
 モチ 小餅にして(重ねない)お床と水棚に供える。昔は赤、白、コムギの三色の餅をついた。
 カシワモチ 餡入り、練込み、ユムギ等をサルトリイバラの葉で包んで蒸した。
 ソーメン 酢ぞうめん、冷しそうめん等にして食べる。
 赤飯 盆うちに一回は赤飯をお供えする。五目ずし、かきまぜずし。
 魚ずし 昔はアジの姿ずしをした。
 煮染 里イモと野菜、里イモは盆には必ず供えた。
 ヤツガシラのズキ ヤツガシラのズキをゆでて味つけしたものを供えた。
 甘酒 昭和初期までは盆に甘酒をつくって供えた。
 魚 盆の14日は両親が揃っている場合のみ魚類を食べても良かった。塩ザケ、塩サバ等を食べた。
 新仏のある家の盆行事
 新仏のある家では、8月1日(旧7月1日)にボンボリをオモテの間の軒下に吊る。1カ月間吊り、夜は灯をともす。
 13日までにお床に位牌を出し、供えものをする。昭和初期までは、新仏用の水棚をつくっていた家もあったが、現在はしていない。
 13日は新仏のある家は墓へ迎えに行かない。
 14日に親戚一同がオガラをたいて水棚に水をお供えし、墓地へお参りに行く。午後全員が家のお床で供養し、仕度をして解散する。


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