阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第31号
羽ノ浦町の用水と水神信仰

民俗班 喜多弘

1.はじめに
 羽ノ浦町は、那賀川下流の沖積平野に開け、その氾濫に若しみつつも、土佐街道の要衝・上流との交流の良港として栄え、独特の文化を築き上げた。近世になって、ようやくその水を制し、川水を引いて、南阿の穀倉地帯とした。しかし、洪水の度に被害を受け、破堰・修復のくり返しであった。那賀川を生活の場とする人や、デルタの住民は、要所に水神を祭って、その怒りを鎮め、加護を祈った。堅固な那賀川堤防が築かれたのは、昭和初年であり、国営の那賀川南北岸用水が完成したのは、ようやく30年前である。したがって、那賀川下流には、水神社の数が多く、その信仰心も強い。今回の総合調査では、羽ノ浦町や周辺地域の水神社の分布と、用水を通じてその信仰のようすを、調査することにした。

 

2.那賀川デルタ地帯
 那賀川は剣山々系の南側、高知県境に近い木頭村の高の瀬山(1740m)に源を発し、全国有数の多雨地帯の水を集め、四国山地の間を蛇行しながら、東に流れ、阿南市上大野町や、羽ノ浦町古毛付近から平地に出て、思うままに流路を変え、いわゆる「那賀川デルタ地帯」を形成して、紀伊水道に入る。延長約150km、県内第の2大河である。


 那賀川の本流は、古毛から羽ノ浦山脈に沿って、流れた時代がある。その後も町民が「外川」「内川」と呼ぶ本流・支流が、大雨の度に流路を変えて氾濫し、住民を若しめ、恐れさせた。那賀川改修工事で堅固な堤防ができ、流路が決った現在でも、各地の地形・地名・伝承、水神社の所在等で、かつての流路や氾濫の跡、用水開さくの若心を、しのぶことができる。

 

3.羽ノ浦町の用水と水神さん
 那賀川の洪水に悩まされた住民は、高い所に住居を構え、思い思いに堤防を築き、低い所には川や河跡池の水を引いて、わずかばかりの水田を拓いた。組織的な堤防構築や、大規模な用水開さくは、近世の中期以降である。

那賀川下流の水神さん
1.古庄用水と古庄の水神さん
 「駄良蔵用水」、昔那賀川橋下流の、那賀川町西原に住む、田助という馬子が、仕事の合間に鍬を使って溝を掘り、人々に駄助・駄良蔵といわれながら、数年後に用水を完成し、水田を招いた。人々はその努力に感心して、「駄良蔵用水」と呼んだという。
 「牛蔵用水」、田助の用水開さくの話を聞いて、感激した牛蔵という人が、外川の水を引こうと計画し、生の歩みのように、根気よく溝を掘り、水田を拓くことに成功、牛蔵用水と名付けられた。この両用水の名は、明治9年の地租改正のころまで、残っていたという。
 「古庄用水」正徳3年(1713)10月、牛蔵用水に手を加えた、「牛太郎用水」を拡張し、古庄字大坪原から、那賀川の水を取り入れ、「古庄用水」と名付けた。その後、古庄大道の西方で、大井手用水と連結して、その水を引き、東方金住川原まで延長、長さ1.5km、幅約1.5mとなった。
 「古庄の水神さん」、那賀川橋北詰から、下流約100mの堤防上にある。古い記録には、「古庄大坪原の古庄用水取入口にあり。」と記されている。古庄用水が大井手用水と連結するようになり、古庄渡しの守りとして、現在地点に移されたという。堤防工事の時は一時、旧古庄駅前の、野神さんの境内に移され、堤防完成後、現位置に帰られ、那賀川に向って鎮座する。鳥居の横に柳の大株があり、灯籠の竿の四面には、金比羅神社、水神社、八幡神社、天照大神宮の四社の名があり、明治2年10月31日の建立である。主祭神は、「水速女命」(みずはのめのみこと)で、龍神、堅牢地神を併せて祭る。水速女命は、水波女命・罔象女命・美都波能売命などの字をあてる。神代の昔伊邪郡美尊が、火の神迦具土命を生み、陰(ほと)を焼いて苦しまれた時、その尿(ゆまり)から生まれた神で、女性の尿のすさまじさを象徴し、灌漑用水の神様として、その取入口に祭られることが多く、肥料を司る神様ともいう。
 しかし、この地方では、祭神についてのせんさくなどはせず、単に「水神さん」と呼んで、尊崇している。古庄の水神さんは、岩脇の水神さんの妹であるという。毎年8月16日(昔は旧7月16日)のお祭りは、岩脇の水神祭りと同日で、大仕掛けの花火がある。当日は旧古庄駅前から堤防にかけて、露店がぎっしり並び、付近の道路や那賀川橋の上、両岸の堤防は、身動きもできないほどの人で埋まり、その数は10万人を超えるという。
2.大井手用水と岩脇の水神さん


 「大井手用水」大井手堰は那賀川橋北詰から、200mほど溯り、50mほど入った岩脇にあった。この用水の幹線は、岩脇では内川、中庄では那東川と呼ばれる、那賀川の旧支流であった。旧堰の上の水神さん横の、「大井手堰趾」の碑文の書き出しには、「大井手堰ハ阿南ノ穀倉タル那賀川北岸立江・坂野・今津・羽ノ浦・平島地区ノ稲田一千三百町歩ニ灌漑スル大動脈ニシテ、之ガ潤渇ハ関係二千数百農家ノ死活ニ関スル重要用水ナリ。」と記されている。
 「大井手堰の歴史」、碑文はその歴史についても、
「前人ノ事蹟湮減シテ伝ハラズ、文献ノ徴スベキモノ甚ダ稀ナリ。偶伝フレバ粗雑誤謬亦多シ、要約スレバ大井手用水ハ、阿波藩普請総裁別役伊沢亀三郎及其ノ子、藩ノ用水方速蔵ガ、西紀1825年文政8年玉川上水及利根川ノ水利ヲ研究後ノ目論見指図シテ、川北全域ノ庄屋肝煎役等ノ協力ニ依リ、永久的大井手堰ノ完成ヲ見タリ。」
 とあるが、その構築については、次のような伝承がある。
 「延宝2年正月」、那東の佐藤良左衛門が、藩命を受けて、築造したという。堰口は非常に難工事で、度々の洪水で壊された。良左衛門はついに意を決し、娘お秀を箱に入れ、人柱として、将に沈めようとした時、藩の使者が到着、人柱を中止して、代わりに観音像と、村人の書いた梵字の石を沈め、その上に水神様を祭って、堰の守護神とした。これが旧堰の上にある「岩脇の水神さん」であるという。
 「宝永年間」(1704〜1710)藩の重臣柏木求馬が、藩命によって開さくした、ともいわれるが、大補修をしたのだともいう。
 「文政8年」(1825)碑文にあるように、伊沢亀三郎、養子速蔵によって、完成した。これは時代も新しく、記録にも残っている。亀三郎は阿波町伊沢の与頭庄屋、伊沢十左衛門の次男で、父の仕事を助けるかたわら、独学で土木技術を習得、吉野川下流の宮島新田400haの開拓や、笹木野、鮎喰川の堤防改築、八貫堰の築造などにも功績があり、文政5年小普請奉行となり、父子で関東地方の水利工事を見学後、大井手堰の工事を完成した。孫の文三郎も土木技術にすぐれ、当時藩内の主な土木工事で、伊沢三代の手にならないものはない、とさえいわれた。
 「大井手堰の消滅」昭和30年この堰の上流約3kmの羽ノ浦町古毛に、農林省直営の「郡賀川北岸用水」の取水口が完成し、北岸一帯を灌漑するようになり、大井手堰はその任務を終って閉鎖された。そして取水口付近の水路は埋めたてられて、舗装道路となった。住民たちは中西長水氏に文と書を委嘱し、昭和30年2月11日、巨大な記念碑を建てた。碑の末尾に、「多年川北ノ美田ヲ育成シ来リタル大井手堰モ、今や成功リ名遂ゲ千古ノ歴史ヲ秘シテ、永久ニ地下ニ眠ラントス。川北住民ハ恰モ慈母ノ死ヲ見ルガ如ク、愛惜禁ジ難ク」
と彫られている。
 「岩脇の水神さん」、祭神は水速女命で那賀川橋北詰の上流凡そ250mの、旧大井手堰の上に祭られている。水神社の額を掲げた鳥居の奥に、玉垣をめぐらして、水神様の小伺がある。建立年代は地元でもはっきりしないというが、300年ほど前の延宝2年、佐藤良左衛門が、大井手堰を築いた時に、その守護神として祭られたともいう。
 「岩脇の水神さんは、古庄の水神さんの姉様」といわれ、祭日も昔から同日で、「岩脇の水神さんの花火」で知られている。こちらが姉さんなので、先に花火を打ち上げるのだという。観衆の多いことや、混雑のようすは、古庄の水神さんと同じである。
 8月16日の両水神さんの花火大会は、古くからの伝統である。那賀川上流の木材は筏師によって、岩脇や古庄に陸掲げされ、製材して県内や阪神方面に送られた。またこのあたりは、那賀川の上、下流の物資を川船で運ぶ、船頭や商店主、藍玉を川船に託す藍商、川魚を獲って生活する漁師など、直接間接那賀川を生活の場とする人々が、その安全を水神に願って、スポンサーとなり、花火大会を盛り上げて来た、という。
3.那賀再北岸用水と古毛の水神さん


 「那賀川北岸用水」那賀川橋北詰から堤防上を、約3.5km上ると、那賀川北岸全体を潤す、北岸用水の取水塔がある。
 「北岸用水の歴史」、この用水の取入口の道端にある、みかげ石の大きな石碑は、高さ4m幅1m余りで、表には、「国営北岸用水碑」と筆太に書かれ、裏面には、「慶長年間(1596〜1614)すでに原始的な、杭や柵の井堰があった。」と記している。その後、伝承によると、「明和年間に広瀬用水の堰が築かれ、大井手堰とともに、現羽ノ浦町一帯を潤した。昭和23年農林省は直営事業として、北岸用水開さくに着工し、昭和30年1月、8年の歳月をかけて完成した。これは阿南市上大野町久留米田から取水し、阿南市の水田1.037haを灌漑する「南岸用水」同年7月完成と、対比されるものである。
 「北岸用水の概略」この用水は4億5千9百万円の巨費と、近代科学の粋を集めて造られ、平水時には毎秒123立方メートル以内、出水時には835立方メートルを取水し、下流の羽ノ浦・今津・平島・立江・坂野の旧5か村、2,520haを灌漑し、年間1万石余を増収する。主な幹線水路は、「坂野幹線水路」古庄、岩脇の境の明治橋付近の「水位調整配水桶門」から北流し、観音山の東を坂野天神付近に至る。水路の長さ約756kmにおよぶ。「平島幹線水路」前記桶門より、古庄地区から、那賀川町西原に至る。延長1,578m、途中3か所の調整桶門がある。「立江幹線水路」坂野幹線から浦川分水桶門で分れ、宮倉、中村の南を流れ、立江町向山や櫛渕に向う。延長377km余である。
 「古毛の水神さん」、北岸用水取入口に、守護神として祭られている、「古毛の水神さん」は、用水記念碑の横にある。正面の鳥居には、「奉昭和4年、納3月建之」とあり、その奥石段を登ると、台座の上に、高さ87cm、幅60cmの砂岩の碑面に「大綿津見神」「速秋津日子神」と二柱の水神の名があり、裏面には「天保九戊戌年季秋」と彫られている。この年(1838)に建立されたのであろう。この水神さんはもと上流約300mの、覗石という所の道路上に、川に向って建っていた。ここは那賀川の本流が、上流持井橋付近から、断崖に向って激突する。その川岸に「覗(のぞき)石」という大岩があり、筏や川船がこれに突き当たって、度々遭難する難所であった。それで筏師や船頭たちが、水上の安全を祈って、ここに水神さんを勧請したのであろうという。覗石はその後爆破されたが、碑は路上に傾いていたため、旧広瀬用水取水口の現位置に移し、記念に鳥居を建てたという。
 祭神の二神は、先に古事記によると、伊邪那岐、伊邪那美二神の子で、先に綿津見命が、次に速秋津彦、速秋津比売の二神が生れたという。大綿津見命の、大は美称、綿は「海(わた)」、津見は「司る」の古語で、「海を司る神」である。速秋津彦、比売の二神の速は「流れの速いこと」で、「水戸(みなと)の二神」ともいい、「港を司る神」である。昔の港は川口にあり、潮の満干によって、速い流れを生ずるので、このようにいう。この男女二神は、その守護場所を分担して、男神は河を、女神は港を守るようになった。(古事記伝)水流が激突する覗石に、川を司るこの男神が祭られたのも、うなづかれる。なおこの二神の間に、山上にあって水源を守る「水分(みくまりの)神」など、八柱の水の神様が生れた。ここの水神さんには、正月に注連を飾り、神官が拝む以外、特別な行事はない。
4.広瀬用水
 明和9年(1772)に着工、寛政2年(1790)8月に完成するまで、13年の歳月をかけて、大井手用水を通じた佐藤良左衛門の孫、良左衛門が開さくした。この用水は大井手用水より高い所にある、中庄地区を灌漑して、畑を水田に変えた。
 「広瀬用水の歴史」この用水の開さくについては、次のようなエピソードがある。
 那東の佐藤家は、藩主から扶持を受け、客分扱いを受ける旧家であった。孫の良左衛門の時、藩から預かった公金を、留守中類焼によって焼失した。良左衛門は全家財を差し出し、不足分の赦免を乞うたが許されず、万策尽きた良左衛門は、家族を花見に出し、その留守中に、切腹を計ったが、たまたま来合わせた隣の人に止められて、果たせなかった。事情を知った中庄方面の人々は金品を拠出して、その弁済にあてた。良左衛門はその恩義に報いるには、用水のない中庄方面に、新用水を造る以外に、方法はないと考え、人々とともに計画を立て、藩に願い出たが、許可されなかった。しかし奉行の黙認を得て、工事に着手した。上流の人々の中には、用水路のために良田が失われることを恐れ、竹槍で襲撃して、中止させようとした。良左衛門は、奉行の駕籠を借りて、それに乗って指揮し、藩の事業のように見せかけて工事を進め、13年の歳月をかけて、古毛から中庄に至る、長さ3.5km、幅2m、凡そ120haの水田を灌漑する広瀬用水が完成した。ところが、無断で用水を開さくした罪を問われ、十数人の主謀者は捕えられ、用水は埋めもどされることになった。村民必死の嘆願で用水はそのまま残され、良左衛門だけが死罪となり、他は全部釈放された。中庄方面の人々は、明治9年の地租改正まで約百年間毎年用水路の補償米を支払い、最近まで良左衛門の屋敷跡を拝んで通ったという。また昭和16年3月10日、那東の道ばたに、「水路開鑿の義人」と彫り、その由来を記した大きな碑を建てて、その恩義に報いた。北岸用水の上流部分は、ほぼ広瀬用水を転用してる。
5.妙見の水神さん
 那賀川橋北詰から1kmほど上った堤防の下に、「妙見の水神さん」の小さな祠がある。もと「八貫渡し」の安全を願って、北岸に建てられたが、改修工事で堤内に移された。桑野・長生方面の人々は、三倉越えをして、下大野に出て八貫渡しから妙見に渡り、古毛越えをすると立江・小松島・徳島方面への最短コースになるので、立江の地蔵市には、大ぜいの人々が、この渡しを利用したという。南岸の堤防にも「八貫の水神さん」が祭られている。
6.その他の水神さん
 羽ノ浦町内には以上の外に、次のような水神を祭る神社があったが、明治43年5月、羽ノ浦神社に合祀された。
 「住吉神社」祭神綿津見命 旧社地、中庄ときうち、万治元年創建されたという。
 「国中神社」祭神弥都波能売命外三柱、旧社地宮倉字国中、一之宮より遷宮したという。

 

4.羽ノ浦町以外の水神さん
 今回の羽の浦町内の調査に併せて、阿南市と那賀川町の那賀川沿いの水神調査をした。その結果確認したものは、阿南市2社、那賀川町6社、坂野町1社、これに羽ノ浦町の5社を加えると23社で、両岸に各11社が祭られている。これは他の地方に比べて特に多く、沿岸住民の生活が、那賀川と深く結ばれ、水上の安全を願い、氾濫をいかに恐れたかがわかる。
1.那賀川町の水神さん
 「大京原の水神さん」 大京原橋北詰の少し上流にある。もと堤防下にあったが、改修工事で移転、大京原用水の分岐点に移した。行事はない。
 「飛龍神社」 祭神水速女命、堤防から少し入った、西原狭間にある。大きな社で、昔は10月29日の宵宮に花火があって、にぎわった。


 「西原の水神さん」 西原の堤防下にあったが、改修工事で、堤防の内側に移した。昔は8月16日の夜、浪曲や音頭で、にぎわった。
 「八幡の水神さん」 揚水桟場の守護神で、土用三日めが祭日、地区で祭る。「坂野町島尻の水神さん」も同様で、8月1日が祭日である。
 「大京原の水神さん」 もと少し南の青龍神社にあったが、昭和40年、橋の南詰に移転した。
 「青龍神社」 祭神水速女命橋の南方にあり、昭和40年社殿を改築、新しい灯籠、玉垣、鳥居があり、ていねいに祭られている。
2.阿南市の水神さん
 「円地畭(ばり)の水神さん」 大京原橋の下500m、弁財天とともに祭られている。
 「柳島伊月の水神さん」 堤防上に不動さんと共に祭られている。祭日は8月16日である。


 「柳島小田の水神さん」 堤防から少し入った「こでん」にある。子どもの守護神で、名前を書いた提灯を奉納する。8月16日の祭日には、カラオケ大会でにぎわう。
 「八貫の水神さん」下大野の旧八貫堰の取水口に祭られていたが、改修工事で、堤防下の現位置に移った。昔はよく堤防が壊れ、下流の岡川へ流れた。八貫渡しの南岸にあたる。
 「惣蔵神社」 祭神罔象女命外二神、八貫堰のすぐ南の森に鎮座する大きな神社である。
 「水天神社」 惣蔵神社の隣にあったが、水害で、福長稔宮司邸内で祭る。「水天宮、玉澗書」の大きな額や、古い太鼓が保管されている。昔は夏秋の祭日には、花火大会があり、木頭をはじめ丹生谷一帯や、鳴門からも参詣者があった。
 「久留米田の水神さん」 上大野町久留米田の南岸用水が完成し、その守護神として取水口に、新しく祭られた。
 「清松の水神さん」 上大野町清松の堤防上にある。旧南岸用水取入口、持井渡し、筏や川船の碇泊地の守護として、古くから祭られていた。
 「持井の水神さん」 持井橋の北詰、旧持井渡しの上の崖に、山神と並んで鎮座し、社前に船形の手洗鉢がある。付近の数戸が祭る。
 「龍王神社」 祭神和田津見命、豊益町大手にある。明治3年まで竜王大明神と称した。
 「林崎の水神さん」 見能林町林崎の打樋川の橋の袂にあり、轟神社の分神という。水難防止、生活用水、水田の豊作を祈って祭られている。氏子217戸、夏秋の祭日の夜、足神さん―お不動さん―水神さんを巡拝して、各社に灯鉦を供え、鉦・太鼓で神踊りを踊る。


5.おわりに
 羽ノ浦町の用水開さくの苦心や、水神信仰に併せて、那賀川沿岸の水神さんの分布を、調査したが、短時日の上、地理不案内もあって、その一端を見るだけに止まった。これを機に、皆さんの御指導を得て、より稔りのあるものにしたい。終りに御協力下村った羽ノ浦町や住民のみなさん、特に現地にご案内して、指導して下さった三枝一美・埴渕伊三郎・松原幸吉・稲垣則美・野上マサエの諸氏と、那賀川町の星野■董宮司様、阿南市の福長稔宮司様、新居文子氏に深く感謝します。


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