阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第31号
羽ノ浦を中心とする古代の地域文化

史学会 青木幾男

歴史以前の羽ノ浦町


 羽ノ浦町は面積8.9平方キロメートル、那賀川を腹とし、羽ノ浦山を背として、伏した「ライオン」にも似た形をした平地部を主体とする町である。古くから宮倉といわれてきた米どころの地域を中心に明治22年に中庄・古庄・岩脇・古毛の5ケ村を合せて羽ノ浦村とし、大正7年に町制施行、昭和29年大野村明見地区を編入して現在の形となった。街の中央を土佐道が貫通しており、那賀川の水運とあわせて交通の要衝として古来から栄えてきた処であった。那賀川は長川とも呼ばれていた時代もあったようで、その沿岸を中心とする附近一帯を那賀郡と言い、海部郡とあわせて古代には「長の国」と言い、長の国は「阿波国」とならんで古代の徳島県を二分する独立した文化圏であった。羽ノ浦町中庄に存在する一山由美子氏(旧姓天羽)は『徳島県に於ける横穴式石室の地域性と須恵器の様相』(註1)と題する研究の中で、県下全域の横穴式石室をその構築方法によって分類し、その地域性や共同体の勢力範囲を推定して居られる。それによると「徳島県内の横穴式石室をABCDEFに分類し、Aを美馬郡を中心に三好郡と阿波郡の1部、Bは麻植郡を中心に阿波郡の1部や板野郡土成町で見られる隅丸のいわゆる忌部山型石室をもつ麻植グループで、高所にあるのもその特徴。Cは名西郡と徳島市に見られ平面がやや長方形、Dは板野郡と鳴門市に見られ玄関部のつくり方に特徴がある。Eは阿南市と那賀郡に見られ平面プランは長方形と正方形に近いものがあるが他のグループとは違った共通点をもっている。Fは海部郡海南町に存在し長方形で両袖式であるが袖の幅が左右では長さが異る。AとBに存在する古墳は構築そのものがその在地の共同体の規制をより強くうけており、畿内的な横穴式石室を見ることはできないと言ってよい。この地区の前期古墳を見てもわかるように畿内的な古墳が少い。現在発見されているものは三加茂の丹田古墳のみである。このことは比較的にこの地域では畿内的な統治方法つまり古墳築造と言う祭祀的、思想的行為を通じて共同体を統治する方法(規制)を採用することがおそかった。むしろ古い政治形態である生産に直接関係のある灌漑設備や、田畑の整備等の土木工事に集中させて生産を増大させることが1番の目標であったのではなかろうか。

AとBには石室の構造に明らかな違いが見られAが古い。CDEFはそれぞれ地域による相違のあるもののきわめて畿内的様式が濃く、この地域には須恵器の生産・屯倉(みやけ)・古式須恵器を日常生活に取り入れて使用するなど畿内とのつながりがつよく感じられ、それらの古墳の構築そのものも畿内に一般的に見られる横穴式石室と様相を同じくしている。」以上は一山由美子氏の研究要旨を筆者なりに要約したものであるが、古墳の分類の上からもA・B・C〜Fの3地域に区分できることが述べられているが、それは今から約30年程前に史学会の湯浅良幸氏等が提唱された「阿波三国説」とも一致している。以上に見られるようにC〜F地区は立地的条件もあって、早くから畿内との接触をもち文化的にも古代から発達していた。とくに羽ノ浦地区は郡賀文化圏(E地区)の入口にあたり宮倉には「春日部屯倉(かすがべのみやけ)」があったと伝えられ、長の国の中枢であったとも考えられる。

その文化圏を証明するものに阿南市廿枝(はたえだ)の旧石器時代遺跡があり、縄文時代には上那賀町古屋堂見谷の「古屋(ふるや)岩陰遺跡」がある。つづいて弥生時代の銅鐸出土地として小松島市勢合山(赤石)をはじめ多くの銅鐸出土地があげられる。阿南市水井の水銀鉱遺跡は日本で各地にあり古代国家では朱の原料として最も貴重とされた水銀採掘地の中でも最も古い採取地としての可能性がつよまり、古代国家の解明の手がかりにもなるものとして目下脚光をあびつつある。古墳は羽ノ浦町だけをあげて見ても宮倉直田(じきでん)古墳・能路寺山(のろじやま)古墳群・宮倉背戸田古墳・宮倉恵田古墳・宮倉大木古墳・寺山田古墳群、三社ノ森古墳・観音山古墳、中庄千田池古墳群など多くの古墳があげられるが、観音山古墳と能路寺山1号墳が信仰の対象として護られている他は放任状態ですでに撤去されて、その跡地さえもさだかでないものが多いのは残念である。

以上のように此の文化圏に属する地域は、弥生時代から畿内とも密接な交流をもって徳島県でも最も早くから発達していた地域であったと推定される。此の地域に人が住みはじめたのは旧石器時代にさかのぼることができる。旧石器を出土した阿南市桑野町廿枝(はたえだ)は羽ノ浦町から10数km南方の国鉄新野駅の東方にあたり、ここからナイフ形石器・細石器・剥片・掻器・石核・尖頭器等も出土している。現地は標高140m程度の低い山塊が低く西に延びる丘陵の先端が鞍部をなしており、ここに佐藤忠雄氏の住宅があり昭和42年8月に佐藤氏が新しく宅地造成のため鞍部の北側くびれ部をブルトーザーで削平中に遺物が出土し遺跡が確認された。(註2)石質はいずれもチャートである。チャートはサヌカイトら黒耀石と共に旧石器時代からその硬度と剥利部の鋭利性を利用するために一定の方向から原石に衝撃を与えて打缺(か)いだ剥片利用の打製石器として多くつかわれている。吉野川水系の遺跡が多くサヌカイトを使用しているのに対して此処だけが上那賀町の古屋岩陰遺跡とともにチャートの原石を使っているのは文化圏の違いに由来しているのであろうか。サヌカイトの原石は四国では香川県屋島から丸亀方面にかけて産出し、チャートは秩父帯周辺とくに剣山周辺などに分布し、阿南市燧崎では「ヒウチ石」として江戸時代にさかんに使用された。廿枝遺跡の石器は旧石器から無土器(先土器)文化時代に使用されたと考えられるものであって、その絶対年代の測定については諸説があって明らかにすることができないが此の地域に縄文時代に先行する文化があった事はたしかである。古屋(ふるや)岩陰遺跡は那賀郡上那賀町古屋にあり、長安口ダムの下方あたりで那賀に合流する古屋川を遡ること約1.5kmの石灰岩の岩陰にあり、昭和41年に県博物館が発掘調査を行って縄文早期の押型文土器・無文土器・条痕文土器のほかチャート製石鏃などが発見された。(註3)銅鐸は弥生時代畿内を中心に島根・広島・香川・高知(東半部)を西界とし、石川・岐阜・静岡(西半部)を東界とする地域から約350個あまりが発見されているが徳島の出土数はその1割を優に越えて44個が出土している。中でも此の地域は最も多く、阿南市だけでも見能林町才見・富岡町長生・下大野町畑田・下大野町八貫渡・山口町田村谷・山口町長者ケ原(2個)・椿町曲り(2個)の7ケ所から9個が出土している。小松島市赤石等小松島の3個を含めると地域内から10ケ所、12個が出土したことになっている。銅鐸の用途については各説があるが、その原型は大陸から伝わった一種の楽器であったらしく、日本では弥生時代の各地の共同体(ムラ・国のはじめ)が畿内政権から流入をうけて、農耕とくに稲作の祭祀儀礼に使った神聖なものであったと考えられている。水井の若杉山水銀遺跡は昭和59年8月県立博物館の岡山真知子主事を中心とする「若杉山遺跡調査団」によって調査がすすめられ、辰砂原石の他に、石臼・石杵と土器片が大量に併出した。土器片による年代は庄内式(大阪豊中市・弥生終末期)にあたるものが多いと報告されている。(註4)古墳時代初期あるいは弥生に遡る水銀遺跡は日本で最古と言われ、調査は今後継続して何年か行なわれるらしいが多くの期待が寄せられている。調査結果によっては銅鐸と水銀との関連も考えられ、今後の研究によって大きく進展するであろう。各時代の人々の遺跡は陸地と、河と、海との関係によって築かれてきた。羽ノ浦町が此の文化圏の重要な位置を占めていたと考えられるのは那賀川の川口であり、海に近く、なだらかな丘陵を多くもっていた故であろう。川の流れは時代の変遷とともに移動していることが多いので時代を明示せずにその流れを示すことは困難であるが、那賀川もその例にもれず、ある時は阿南市大野・本庄から桑野川と合流して宝田・富岡を流れ、或は羽ノ浦町から小松島市立江・赤石に流れ、また岩脇から那賀川町方面に流れていた。この流れの跡は今も湿田が多い。宮倉に屯倉(みやけ)があったと伝えられる1千4百年も昔、川には堤防もなく洪水の時にはあふれるままに水は低い処を流れていた。然し川の本流はあった筈である。羽ノ浦町の現代の低い地点をたどってみるとそれは思わずも山の麓近くをめぐっていたことになる。一番低い所、それが当時の那賀川の本流(中心的に流れる深い流れ)と考えてよいのではあるまいか。

低い地点を旧河道と見て他の地点と比較してみると、古毛の那賀川北岸用水附近から山麓に添って東に流れる旧河道は古毛南部の11.7mよりも低く10.7mを示し、東に流れて明見山に突き当たり大きく右施回する。此の附近で川添いが10.6mに対して9.8m。花見橋附近から東北に流れて旧河道が7.5mに対して岩脇商店街が8.0m。農業改善センター附近で旧河道が5.8mに対して八幡神社附近が8.2m。宮倉駅前から旧河道は大きく北西に向きを変えて小松島市立江に人り赤石方面に出ている。旧河道は丁度、羽ノ浦山の裾をめぐるようにとりかこんで流れながら余り水が宮倉湿田をつくっていた。その湿田は古代の水稲栽培地として最適の場所でもあった。


註1.徳島県考古学研究グループ機関紙『しぶき』
註2.『日本の旧石器文化』―3巻―徳島県の遺跡―天羽利夫
註3.『徳島県百科事典』866p―古屋岩陰遺跡
註4.『若杉山遺跡現地説明資料』1984年8月18日 徳島県博物館


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