阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第31号
藍作・養蚕・棉作・焔硝の採取・織物・紺屋人口動態について

染織班 上田利夫・谷幸雄・斎藤靖子

 昭和五十七年に、数回にわたり羽ノ浦町を調査したが、充分なる資料を得るに至らずに終った。今回は阿波学会総合学術調査に参加し、地元の谷氏や羽ノ浦町各地域の古老の方々の御協力を得て、一応の調査が出来、これ等の方々の御厚意に感謝し乍ら阿波学会へ調査報告書を綴る事が出来ました。
 毎日の暮しの中の衣食住の内、衣料とその関連性のある事柄について調べました。私達、日常生活の中で常用着(ふだんぎ)には肌着として、昔は楮や三椏からその繊維を採取し太布として用いられ、夏は汗の吸収が良く涼しさを感じるので使われていました。寛政年間以降、木綿が棉作りによって、入手容易になって太布は木綿に変った。然し、一部の漁師や山林労務者のハッピに厚司として太布が使われ、無地柄で紺色に染められていた。農家では、太布が木綿に変り、木綿の縞柄が常用着や仕事着の股引・褌・ハッピ・帯・襦袢・袴下・手甲・脚胖に藍染したものが主に用いられ、大正年代から男の人は褌の代りに猿又、女の人はパンツ又はズロースが用いられ、肌着に腰巻に白木綿が使われた。外出着には木絣縞、木綿絣絹縞紬。女の人は、銘仙や友禅模様が着用されていた。藩政時代には武士階級の上下(かみしも)には麻や木綿が用いられていた。上流階級の人々は、絹や麻を使った織物が衣料として多く用いられていた。宮倉には、綿打屋があって種取器で綿の実を取り、ぎん槌で綿に延ばし欅の台の上でピンピントントンと綿打ちして糸に紡いだ。紺屋では染料に藍の外山野に自生する草木、即ち黒染にくぬぎの皮と実と木醋酸鉄で染めた外かや・よもぎ・げんのしょうこ・柿の葉・栗南・天・銀杏・いたどり・桜梅に媒染剤として、木灰・石灰・明磐・木醋酸鉄を用いて色物に染めていた。
 藍は、地元で収穫された藍を寝床で寝させて藍玉にしたものを用い、瓶(かめ)は備前焼の一石八斗入か二石入。家によっては、川島焼の瓶(かめ)を使い、藍染派を造るには藍玉と米の粥や甘藷・木灰・石灰を使っていた。家によって方法も違い、詳細な資料を得る事が出来なかった。
 藍作についての記録として、藩政時代那東に藍玉抜荷制道役人のいる役所があったので、周辺の地域に広域な藍作が行なわれていた様である。役所のあったと云われる中庄那東のどの辺にあったか知る人はなかった。宮倉では藩政時代から明治にかけて藍作が行なわれていたと伝えられるが、戸数反別について記録がない。
 北方の藍こなし期には、農家の人々は北方の藍作農家で迫り込み、明治二十年頃には日役男で十二銭から二十一銭。女で八銭から二十銭貰っていた。又、藍粉こなしの手伝いに来ていた外の農家では、藍作りしていた家があり収穫された藍は、出稼ぎ先の家で買って貫ったと云う話もあり、これを裏付ける買上帖もあった。宮倉では、田八十三町六反壱畝拾歩。畑三町六反七畝あったので、一部藍作地であった事は可能である。
 中庄では、中塚の湯浅冨士太郎が大正末期迄一町余り藍を作り、附近の人も手伝って三丁切りで藍を切り干して「かりさお」で打って藍こなしを行ない、寝床で「ねせこみ」をして藍玉にし、自分の家の藍がめに入れて紺屋として糸染をしていた。外に二戸川原忠八。岩瀬茂雄位が三反余り藍作をしていた。那東では、二〜三戸が三反程藍作をしていたがみんな大正の終りにやめた。
 古庄では、明治三十五年頃から昭和の始め迄、一〜二戸が一町五反余り藍を作って富岡の藍商に売っていた。岩脇では、大正六、七年頃迄二〜四戸が六反余り藍作をして、生田喜之氏の家で東の寝床で藍をねせこみして■(すくも)にしていた床は小さく一床三百貫の中床であった様である。町筋の新居一二郎宅でも藍を刈り、「ナタ」で藍切りし手で藍すりをして、干して藍こなしをし寝床でねさせていた。その外に庄野嘉壱宅でも藍作していたが、昭和の初めにやめた。明見では、旧大野村での調査により藍作があったと云うだけで、詳細不明で地元で調査は出来なかった。古庄の前藤宅では、明治年代に二反程藍作をしていたが大正年代にはやめた。
 古毛では、藩政期から明治にかけて三戸余りが一町五反余りを藍作していた。埴渕伊三郎宅でも藍作をしていた。
 養蚕について、宮倉の小笠原鶴太郎宅では、大規模の養蚕が昭和の初め迄行なわれ外に小笠原の新宅と二戸で桑園は山際の高台にあった。中庄では、昭和四、五年頃迄三十三戸、内那東で、一戸が養蚕を行ないくず繭は真綿や糸に取り織物にしていた。古庄では、昭和の初め迄二〜三戸が大正中頃迄、約二十戸が養蚕をしていた。明見では、大正四年頃迄全三十六戸の内十戸が養蚕をしていた。当時の桑園は可成りあったが全部水田に変わった。岩脇では、昭和十五年頃迄生田外十数戸が養蚕をしていた。今蚕室の一部が残っている。古毛では昭和十年頃迄、約三十五戸の農家で養蚕をしていた。当時の戸数は、上山路二十五戸、中島十八戸、下山路三十七戸、原二十三戸あり昭和五十八年に百八戸になった。
 綿作について、宮倉に二戸大正末期迄中庄の高田で大正の初め迄、三戸余り古庄で少々岩脇で大正初め迄、十数戸明見では少々、古毛では大正七、八年頃迄どの農家でも自家用の外営業用に綿を作っていたが、戸数は少ないが、作付面積は広く収穫量も可成りあった。隣村の立江村の増田実屋は、綿作りから糸紡ぎ迄していた。
 焔硝の採取について、宮倉に藩政時代焔硝蔵があったとの記録があるが、どの辺にあったか、知っている人はなかった。焔硝は、地域によっては硝石とも云い農家が堆肥を造る時に、堆肥を積んだ一番上に莚で覆いをする莚の上に、白い粉末が出来る。これが焔硝で火(ひ)打ロの火(ひ)口や狩猟用の火薬の原料や、花火の原料に木炭と硫黄と共に使われ、宮倉・岩脇・古庄・中庄・古毛の地域で採取されていた。農家の自家用として使われた外、一部商人に売却された。花火は、消し炭1.硫黄2.焔硝9.の割全で混ぜ綿て造っていた。火口にも焔硝と木炭と綿で造られ、日常生活の必需品となっていた。マッチが出来て不要となった、火打石は、加茂谷の奥の大田井から産出されたものを使用した。
 織物について、宮倉では、百六十戸の内町筋の十六戸が木綿のしじら織りや木綿縅を織り呉服店へ売却していたが、昭和の初めにはやめた。大正末期迄どの家でも自家用に木綿縅や絣又繭を鍋に人れて、ダルマ式の座繰機で絹糸を取ったり、真綿から糸を取り絹縞や紬に織っていた。その織物も今残っている。はたおり機も座織機が明治になって高織機となり、大正になってしやつくり織機に変り能率も良くなった。今も残っている。中庄では、大正中頃迄綿から糸を紡ぎ、白木綿を織り幕・幟・風呂敷に染めた。又は、糸を染めて木綿縞や絣に織り、繭から糸を引き絹縞や嫁入りの着物地に織っていた。那東では、白木綿が織られ隣村の西原の遠藤が木綿糸を持って来て、農閑期に農家の人に縞柄や白木綿を織らしていたので農家の副収入となっていた。早い人で一日に二反も織った人があったと云う。全部で三十戸の農家の内二十戸が賃織りをしていた。古庄では、主に中流以上の家でなければ、はたおりをしていなかった。大正五年頃迄五戸位が絹縞、木綿縞、絣、舟乗り用の厚司を織っていたが、今は何にも残っていない。岩脇では大正末期迄百二十戸の家で木綿縞や厚司が織られ、見本帖に百柄余りの織本見本が貼られ、資料館に保存されている。又資料館には、綿の種取器や糸車総取器、枠手織機、杁おさ等の織物用具が保存されている。木綿縞は、綿の種を取り糸車で糸に紡ぎ、紺屋で適当な色合いに染め、織り上げた。主に、自家用として使用、一部は織物問屋に売却した。絹縞や紬は、繭からダルマ式の座繰器で糸に取り、又真綿から糸にして紺屋で染めた。今は高織機は残っているが、座織機は残っていない。明見では大正四年頃迄絹縞、木綿縞、絣を約三十戸の家で織っていた。皆自家用にしていた。古毛では大正四、五年頃迄七十五戸の家で自家用に白木綿・木綿縞・絣・絹縞を織っていた。自家用にした残りの反物は、凡て商人や町家に売却した。那賀川の舟乗り用として、一部の家で太布の厚司が織られていた。舟子や船頭は、太布の厚司が良く寛政年間木綿入国以前は太布であった。川筋の家では、厚司を織る家が多かった。
 紺屋について、宮倉の谷武半は徳島佐古の福島屋板東八郎衛門の番頭をしていたので、藍の事は良く知っている家では、藍かめ十六本で糸染めや型染をしていたが、明治末期にはやめた。谷縞の名前で知られていた。外に松本紺屋が昭和初め迄幟や風呂敷を染めていたが、時には糸も染めた。藍かめは六本位あって前の小川で糸を洗っていたが、徳島へ移住して今は何にも残っていない。又谷紺屋も家を建替へて昔使用した道具や建物は残っていないが、染めた物は残っている外に、川島ぐり屋がかめ八本で綿糸綿布を染めていたが昭和初めにやめた。この家では、綿を作り種取り器で種を取り糸に紡いで染めていた。中庄の湯浅冨士太郎宅では、自分の家で藍を作り、藍玉にし藍がめ十六本で大正十五年頃迄目籍を使って、糸染や幟風呂敷型染をていた。今隣の矢部儀一宅に着物や風呂敷が残っている。外に曽川紺屋や矢部紺屋が藍がめ十二本で主に糸染をしていたが、大正の終りに皆やめた。
 古庄では、水が良質で豊富にあったので良い染め物が出来た。円乗和平(藤平)紺屋が藍がめ十六本で糸染・幕・幟を明治初め迄していた。岩脇では二戸の紺屋があったと云うが、古い事で詳細を知る事が出来なかった。唯紺屋があったと云われる所は水田になっていた。明見では紺屋がなかったので、富岡や長生の明谷の紺屋に糸を染めに持っていたと云う。
 古毛の埴渕伊三郎宅は、平家の子孫で屋島の戦いに敗れた平家は、祖谷より宮倉を経て、古毛に住みついた平家一族で代々庄屋をして古毛明見岩脇櫛渕を統轄していた。埴渕藤助が初代で七代目(文久年間)から紺屋をしていた。古毛の紺屋は、山路・原・中島に各一戸宛あって主に型染をしていた。埴渕家は、中島紺屋又は中紺屋として糸染等を明治初め迄していた。外の二戸は藩政末期にやめた。
 羽ノ浦町の何水の紺屋も土地で収穫された、もち米・くづ粉・米粉・粥が使われ、石灰・木炭で藍染液が造られ木灰をとかした上澄液を使っていたと云うが詳細を知る事が出来なかった。藍かめの数も正確な数を述べたが、かめの容積が何石入か残っている藍がめでは、一石八斗入や二石入があるが外に一石三斗入があったのかも知れない。主に、備前焼で中には川島焼のものも残っている。建物や道具は全く残っていない。岩脇や明見、古毛の各地域では、山間にまむしの生息地が多いので、まむしの防御用に藍染の衣類や手甲脚胖が多く用いられていたのは、生活の知恵から出たのであろう。岩脇の新居一二郎宅の寝床はなくなっているが、生田善三宅の東の建物が寝床として昔の名残を留めている。人口動態について、別紙の通りで昭和二十九年九月に大野村より明見地区が羽ノ浦町に合併したし、昭和四十八年に春日野団地が宮倉地区に加わり、人口は急増しました。大正四年から昭和四十五年迄の戸数について残っている資料から概数を出したものです。


 本報告書を綴り終りに町職員や教育委員の方々に、御協力を載いて有難うございましたとお礼申し上げると共に何日も通った羽ノ浦町の山野や那賀川の姿が懐しく思い出として、頭の奥深く刻みこまれています。又各地域の古老の方本当に有難うございました。何時迄もお元気でいて下さいと、祈りつゝ。
上田利夫記
追伸
 藍に関係ある資料として補稿改訂 阿波藍民俗史が各市町村の所にありますので御参照下さい。


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