阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第31号
羽ノ浦町の民家

建築班

   四宮照義・鎌田好康・松田稔・

   林茂樹・森兼三郎

はじめに
 羽ノ浦町は、那賀川の下流北岸にあり、町の北部は小松島市に隣接し、那賀川を挾んで南部と西部は阿南市に囲まれ、東部は那賀川町とそれぞれ接している。私達建築班は、日本建築学会徳島支所の学会員有志が、テーマを「羽ノ浦町の民家」と決めて、8月1日から8月4日まで現地調査を行った。又、町当局からの希望があった「春日野団地住民の意識調査」については、住意識として取りあげ町教育委員会の協力を得て、アンケート調査を松田稔がまとめた。
 羽ノ浦町は近世において、民家の改築が著しく、このたびの調査件数では、19世紀初頭の民家が現存するものでは占い遺構である。尚この調査に当り、町役場、地元の皆様方、県立図書館の皆様方には、多大の御協力を賜わりました事に対し、深く感謝申し上げます。
 

 目次
A.春日野団地住民の住宅意識調査
B.民家
1.古い棟札のある家
 イ   湯浅真治家(羽ノ浦町大字古庄字葭ノ本)
2.舟番所の家
 ロ   湯浅正一家(羽ノ浦町中庄)
3.士族の家
 ハ  小笠原滋家(羽ノ浦町宮倉字木村)
 ニ   生田善之家(羽ノ浦町岩脇)
 ホ   岩城孝徳家(羽ノ浦町岩脇)
4.農家
 へ   埴淵十八家(羽ノ浦町古毛字細谷三)
 ト  竹治雄三郎家(羽ノ浦町古毛字中須賀)
 チ   岩佐修家(羽ノ浦町中庄川の上)
5.まとめ

 

A.春日野団地住民の住宅意識調査(松田)
 私達建築班が、今回羽ノ浦町を調査するにあたり、羽ノ浦住民の約3分の1を占める規模で開発されたいわゆるニュータウンである羽ノ浦春日野団地の住宅意識について調査を行ったので、その結果を報告します。
 なお、この調査の実施について羽ノ浦町教育委員会に多大な御協力を頂いたことに感謝申し上げます。
○ 調査の方法について
 春日野団地約1,000戸のうち1割にあたる100戸を無作為で抽出し、その世帯にアンケート用紙を郵送し、記入の後返送していただく方法で行った。なお回収率は44%でした。
 また、住宅に対する全県的な住民意識を把握比較資料とするため、県下全域のデータとしては昭和58年12月に実施された昭和58年度徳島県住宅需要実態調査の結果を用いました。
○ 世帯主の年令について


 全県よりも年令の幅が小さく、全県では40代以降各年代が20%程度の構成となっているが、春日野団地では30代がピークとなっており、38%を占めている。
○ 職業について


 農林商工業に従事する人の割合は小さく、公務員、事務員、サービス、技能員の占める割合が多い。
○ 通勤時間について
 自宅から15分未満の人は全県に比べて少なくなっている。また15〜30分の通勤時間の人が最も多く36.4%であり、通勤時間1時間をこえる人が12.2%となっている。これらの資料から町外で勤務している人が多いと考えられる。


○ 居住環境の変化について
 「最近5年間に居住する住宅が変化しましたか」という問いに対して31.8%の人が「変化した」と答えており、その理由について、「以前の住宅が狭かった」という人が全体の50%で最も多く、ついで「設備が不十分であった」の15.0%である。

 全県では17.6%の人が理由としてあげた「老朽化していた」が団地に住む人々の意識では0%となっているが、これはまだ団地が新しいためと思われる。


○ 住まいに対する感じ方について
 「住宅を総合的にみてどう思っているか」という問いに対して、全県では「満足している」と「まあ満足している」を合わせて63.8%であるが、春日野団地では27.3%と非常に少ない。これは、住宅に対する住民の意識の高さを反映しているのではなかろうか。
 細かな項目についてみると、「便所等の設備」、「住宅の間取り」、「収納スペース」に対し不満を感じている人が多いことが分る。


○ 住環境に対する感じ方について
 全県では72.9%が「満足」であるという結果になっているが、団地では58.1%とここでも満足の度合いが低くなっている。
 しかし、住まいに対する満足度と比較すれば、住環境に対する満足度の方が30%程度多くなっている。
 細かな項目については、「公害のなさ」、「買物等の利便性」、「公園の近さ」などに満足する人が多い。


○ 今後も住み続けるかどうかについて
 「住み続ける」、「どちらかといえば住み続けたい」を合わせて41.8%であり、全県の統計と同じ結果となっている。


○ 今後の住宅の改善計画について
 「増改築」と「新築」を合わせて90%の人が改善計画を持っている。
 全県では、19.3%ある建替の需要が春日野団地で0%であるのは、まだ団地に建っている住宅が新しく建替の時期に至っていないからであろう。


○ 住宅の選択要素について
 「持家であること」が第1位の要素であり6分の1の人が要素であると考えている。
 また、「便利さ」は県全体では11.9%あるが、春日野団地では4.2%と少なくなっている。
 その反面「環境」に対しては、全県が18.3%であるのに対し、春日野団地では37.5%と1位の要件になっている。


B.民家
1.古い棟札のある家
イ   湯浅真治家(羽ノ浦町大字古庄字葭ノ本)
 湯浅家は、那賀川下流平地部民家の平均的スタイルである四方蓋下屋造りで四間取り系の間取りを持っている。この家の建築年代は棟札により、文政2年(1820)と推定され、柱、梁の各個所に■冗が見られるが、これは明治10年、旧那賀川のほとりより、この家を移築した時に古材を用いたか、建方に喰い違いが生じたのであろうと思われる。尚10年前に内部外部の一部を造作している。棟札が3枚保存されており、文政2年(1820)、寛延3年(1750)、寛?11年(1672)、最後寛文の文という字が不明であるが、棟札の「干支(えと)」から判断すると、寛文11年であろうと思われる。寛文の棟札には、「みずき」がついており「みずき」をつける慣習は、勝浦川、那賀川流域で多く見られるもので、江戸時代後半からの棟札に、火除けの願いをこめてつくられたものと思う。棟札は、記録的意味と祈祷文的(家内安全と繁栄)な意味があり、住文化の大切な資料となる。
 徳島県の棟札の歴史は古く、室町時代には、存在していた。上勝町関守家、文明元年(1469)(日本民家最古のもの)

2.舟番所の家
ロ   湯浅正一家(羽ノ浦町中庄)
 棟札慶応元年(1865)加島家(蜂須賀家の二番家老)の舟番で、名字帯刀が許されたと言う。
 主屋の中央に玄関構えを持ち、接客部がととのい、仏間と化粧の間を配置しいる、整型四間取り系の発展したものであろう。すでに今は、解体されているが、湯浅良三郎家(中庄)の間取りと類似している。(19世紀初頭7間×5間、6間取り系寄棟茅(かや)葺周囲亙庇)


3.士族の家
ハ   小笠原滋家(羽ノ浦町大字宮倉字木村居内75番地)
 棟札、慶応元年11月(1865)
 今は改造されているが、主屋の中央には、式台付の玄関があり、長押には、三階菱家紋の「釘隠し」を打ち、中二階、本瓦葺切妻の地方士族の家の面影を残している。
 羽ノ浦町の民家の屋根形式は、寄棟型茅(かや)葺に四方あるいは、三方本瓦葺の下屋(四方蓋造り)がついている。羽ノ浦町は、県下でも瓦屋根の発達が著しい地域で、比較的グレードの高い家では、大屋根も切妻本瓦葺で造られた。北西面には、「主屋に続いて「オヘヤ」と呼ばれる隠居屋があり、それに続いてサヤ造り」の倉がある。


ニ   生田善之家(羽ノ浦町岩脇)
 棟札嘉永元年4月(1848)現在棟札は、取星寺に保管している。大正時代に2階を増築している。
 武士の系譜の古文書が保管されているこの家は、敷地の周囲を塀などで囲い、表門を設け乾の方角に倉を設ける。主屋は、敷地の中央に建ち、玄関を構え、接客座敷があり座敷に面して庭園をつくる。

ホ   岩城孝徳家(羽ノ浦町岩脇)
 江戸屋と呼ばれる庄野であった。現在の御主人で8代目、現在は材木商を営んでいる。此の家は、約180年前に建てたもので、当時の姿のまま修復して使っているそうだ。今回の調査では、御家族の方が病気のため未調査である。


4.農家
ヘ  埴淵十八家(羽ノ浦町古毛字細谷3)棟札天保弐年(1832)
 比較的小規模な四間取り系民家である。この民家の間取りにおいて、東側に「ウシヤ」を主屋内部に取り入れているのは他民家には例がなかった。四国の民家は、関東、甲信越地方の民家にくらべると平均して小さい。これは、分割相続や隠居制を考えることが出来る。それよりもっと大きな理由として、居住空間と作業空間が分割していた。主屋は、住むための空間、納屋、牛屋は、農作業のための空間というような屋敷構えが成立していた。山村と平地とで違いはあるが、このような屋敷構えがいつ成立したかは明らかではないが、遅くとも19世紀初頭までには成立していた。(上勝町、笠松家納屋棟札、文化5年1809年)


ト   竹治雄三郎(羽ノ浦町古毛字中須賀)棟札明治元年(1868)
 この地域には、3軒の寄棟型草屋(鉄板巻)四方蓋(下屋造)の家が見られる。この家には、四方に本瓦葺の下屋はなく、西側が欠けている。(写真19)これは、外観上西側にも下屋をつけると寄棟の小屋部分があまりに貧弱な外観となるのを避けるためであろう。徳島県の平野部の屋根型式は、ほとんど四方蓋造りで葺きおろしの葛屋(クズヤ)は少ない。これは瓦製造に好都合な良質の粘土にめぐまれていた上、経済的にも農民たちは、瓦を金で買う余裕を持っていたので四方蓋という型式が一般化されたのだろう。なお羽ノ浦町ではあまり見られなかったが、同じ那賀川流域の鷲敷町では、主屋前面のオブタの出が大きい。これは、その地方の農作業(葉タバコ栽培)と関係が深い。「四方蓋造り」の古いのは、上勝町の田中家(貞享2年1686)に見られる。この様式は、17世紀後半には、完成していたと思われる。羽ノ浦町には、17〜18世紀に至る古い家は存在しなかったので、この当時よりの様式間取り変遷の過程は明らかではない。古文書、絵図面等より創造力を働かせてたどるより他にないであろう。

チ   岩佐 修家(羽ノ浦町中庄字川ノ上)
 棟札元禄10年(1693)、安永6年(1778)、安政3年(1857)、明治9年(1877)明治初頭においては、岩佐家のように平野部の四間取り系の間取りが完成され、上層の家では、大屋根も切妻本瓦葺となった。


5  まとめ
 我々調査班は、今回9件の民家を調査しました。これらの民家は、いずれも19世紀の建物でそれ以前の建物は見当らなかった。この事からして羽ノ浦町は、開発と近代化が近世において急速に進んだ地域である事がわかる。今残っている19世紀の伝統的工法による木造建築物を見て、この建物がたとえ見すぼらしくて小さいものであったとしても、我々はそれらを通して祖先の生活と美意識を思い、そうした人達のおかげで現在の我々が存在するのであると考え、又そういった意識を潜在的に持ち、物を大切に使って現在に伝えるという生活態度は、私達も見習うべきものがあると思う。
 建物が古くなったからといって心に残るものまで、全てを取りこわしてしまったならば未来の人達はどう思うであろうか。かつて織田信長は、寺院をことごとく焼きつくしてしまった。私達はそれを愚かであるというが、現在の私達も同じような事を繰り返しているのではないだろうか。今生きている人の生活が大事で優先しなければならない事もよく分かる。世の中は、刻々と移り変わり、我々はそれに適応していかなければならない事も理解できる。
 我々日本人は、ヨーロッパ、アメリカの文明、文化をいち早く吸収して理解する事は最も得意とするところである。そしてそういうものを即席的につくり、又こわしている現実があるのではないだろうか。民家調査を通して、その家に受けつがれる思想、文化、教育等今も不変のものを見る事が出来る。廃屋の家に入るとそういった霊気を感じる事がある。我々調査員はそういう民家を目の前にして哀惜の情をもって見ると共に、未来意識を持って踏襲し創造していきたいと思う。


徳島県立図書館