阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第31号
羽ノ浦町の石造文化財 付.火葬蔵骨器・羽ノ浦町の地名考

郷土班

   河野幸夫・石川重平・森本嘉訓・

   吉見哲夫・植村芳雄

はじめに
 われわれ郷土班は、羽ノ浦所在の石造文化財調査をテーマとして調査活動を行なった。在地の吉見哲夫先生のご指導を得て、羽ノ浦町所在の中世石造物のリストアップから作業をはじめ、板碑・宝篋印塔・石幢・一石五輪塔に分類して、その委細調査と個々の文化財の詳細にわたる実測調査を実施した。
 この調査活動の過程で、既刊文献に載っている板碑で、その後においてすでに消滅してしまったのか、発見できなかった板碑もあった。
 また、偶然の機会に能路寺山墓地で発見された火葬蔵骨器を除いては、新たに発見されたものはなかったが、精密な実測調査がなされたことで、それなりの成果を得たものと思う。(河野)


羽ノ浦町の石造文化財
 1.板碑
 羽ノ浦町内の板碑については、既に確認されているものは、
(1)高田(こうだ)薬師堂の画像板碑と思われるもの
(2)那東農村公園内の種子板碑
(3)能路寺(のろじ)山墓地内の種子板碑(2基)
(4)千田(せんだ)池・池田家墓地内の種子板碑
の5基である。
 このうち、特に注目されるのは、千田池の池田家の砂岩製板碑で、終末期板碑として、この種のものが那賀川中下流域に散見する。この種の板碑が近世墓塔に連続していくのか否かは、今後検討を要する大きい課題である。
 また、板碑ではないが、池田家墓地内にある慶安4年銘の墓塔についても、実測調査を行なった。
 以下、個々の板碑および墓塔について、材質・寸法(総苟・幅・厚など)・加工(頭部・側面・銘文など)等に関する実測および拓影を示す。
(1)高田(こうだ)薬師堂の板碑(拓影略)
 薬師堂境内にあり、緑泥片岩製で一部風化している。砂岩製台石中に差し込まれ、地上高100.2cmである。幅は肩で32.5cm、70cm下で32.8cm、元部で32cmである。元部は剥離しているが根部の可能性もある。厚さは、二線上で7.1cm、60cm下で8.4cm、元部(剥離部分)で5.5cmである。頂部を山形に整形(山形高9.4cm)し二線を刻み、輪郭を刻むが前面全体が剥離しているため痕跡が残っているのみである。加工は、前面みがき、側面は一部みがき、裏面は横に加工痕がありおそらく板石調整痕と思われる。前面全体が剥げているため種子や銘文等見られず、画像碑の可能性も考えられる。


(2)那東農村公園内の板碑(拓影1)


 公園内堂宇脇にあり、緑泥片岩製で完全。根部は地中に埋められ地上高65.5cmである。幅は肩で23.5cm、輪郭上部で24.1cm、輪郭下部で25.6cm、元部で25.1cmである。厚さは二線上で4.1cm、頂部より40cm下で6.3cm、元部で5.3cmである。頂部を山形に整形(山形高7.4cm)し二線と輪郭(高48.5cm、幅下19.8cm)を刻む。加工は前面細かいたたき、側面調整、裏面はつりの状態である。
 前面上部にキリーク(7.5×7.5cm、種字線幅0.7cm、深さ0.25cm)、サ(5.3×3.5cm、種字線幅0.5cm、深さ0.15cm)、サク(5.2×4.0cm種字線幅0.5cm、深さ0.15cm)を刻む。他に銘文は見られない。


(3)能路寺(のろじ)山の板碑(A)(拓影2)


 A 、無緑基塔群内にあり、緑泥片岩製でほぼ完全。総高60cm、幅は肩で15cm、40cm下で15.9cmである。厚さは3.5〜3.8cmである。頂部を山形に整形(山形高4.8cm)し二線と輪郭を刻む。加工は、前面みがき、側面調整、裏面割石加工である。
 前面上部にキリーク(6.0×5.0cm、種字線幅0.6cm、深さ0.15cm)、サ(3.9×3.7cm、種字線幅0.45cm、深さ0.1cm)、サク(4.0×3.6cm、種子線幅・深さはサと同じ)を刻む。他に銘文は見られない。


(4)能路寺(のろじ)山の板碑(B)
 B 、同所にあり、緑泥片岩製で上部のみ残存。残高22.7cm、幅は肩で18.2cm、厚さは2.4cmである。頂部を山形に整形し、頂部より5cm下より二線を刻み、下に輪郭の一部が見える。加工は、前面みがき、側面調整、裏面割石加工である。

 前面にキリーク(5.2×6.2cm、種字線幅0.75cm、深さ0.15cm)とサ・サクの一部が刻まれているのが見える

(5)千田(せんだ)池・池田家墓地の板碑(拓影4)


 池田家墓地墓塔群中にあり、砂岩製完全。基部(根部)は土中に埋められているが、最下端まで総高53.5cmである。幅は肩で19.2cm、下21.5cm、厚さは二線上で9.4cm、25cm下で13.5cm、基部上で12cm、基部(根部)は身部より約1cm前が張り出している。頂部はやや尖った山形(二線より上11.5cm)で、二線は約0.9cm突出している。輪郭は無く身部にキリーク(9.8×7.2cm、種字線幅0.7cm、深さ0.2cm)とその左右に種子らしきものが見えるが判然としない。種子の下には線刻蓮華台座(幅12.2cm)をやや斜めに刻む。
 加工は前面たたきで裏面割石たたき、基部も荒調整である。
 この板碑は、阿波板碑の終末を語るものであろうと思われ、類例の調査を進めたい。


2.墓塔
(1)千田(せんだ)池・池田家墓地慶安4年銘墓塔(拓影5)


 同所にあり砂岩製、完全し砂岩製台石の上に建ち総高64.5cmである。幅は肩で29.8cm、下で23.5cm、厚さは下がずっと広く安定した形になっている。前面から見ると山形状墓塔に見えるが、側面から見ると光脊形である。加工は前面みがき、裏面はつりである。
 銘文は前面に「慶安四辛卯年ア(梵字)月光道圓禅定門霊位八月廿(異)七日」と刻まれている。基部には線刻蓮華台座が刻まれている。


 3.石幢(せきどう)(写真1)


 中世の石造文化財の中で、板碑と共に造立の主意が同じ石造文化財に、石幢(せきどう)がある。幢は、梵語では、Dhvajahといい、幢旗・標幟等と訳されるが、種々の絲帛をもって荘厳した一種の旗である。幢の字は、後に石製の宝幢が案出されるようになってから当てられた文字であろう。石幢はまた宝幢、花幢、頂幢、経幢等種々の名称があるが、それらはいずれも使用目的、形状、荘厳から見た形容的称呼である。石幢の形状、石幢は多角形の石柱を主体とするもので、幢身は大きいものでは3mあまるものもあり、小さいものは、40cm位のもあるが普通は1m内外のものが多い。その角面は、八面角を原則とするが、六面形、四面角稀には十面角のものもある。日本の石幢には幢身に多く六地蔵像を彫るという使用目的から通常六角面を取るのが多い。石幢は通常、基礎、幢身、笠、宝珠の各部からなり憧身に所望の経文や陀羅尼朝文、仏像等を刻むものであるが、その上下に中台を設け柱を立てることもある。宝珠は、単に宝珠形、五輪塔形をもってするが相輪のように積んだ例もある。
 日本に於ける石幢は、かつてはその存在を疑われたほどであったが、近来の調査研究の結果ようやくその存在が確かめられ、しかもその分布はほとんど日本全国にわたっていることが認められるようになった。しかし幢の信仰が輸入されたのは、弘法大師が京都の東寺に塔を建てる時の勤進表に幢の功徳が称えられ、また嵯峨天皇の皇后の召請によって、中国から来朝した義空の伝記に彼が檀村寺に六角の石幢を建てた事が見えている。一般に流行したのは鎌倉時代からであり、南北朝時代を経て室町時代、江戸時代におよんだ。
 羽ノ浦町の石幢は、全高(現在)92cmで憧身を一面12cmの六角に造り、上部に像高18cmの地蔵苔蔭の立像が陽彫されている。
 磨滅がひどいのでノミの跡がハッキリ見えないが、全体から受ける感じでは室町末期の文亀〜永正年号期の造立の如き感じがする。
 上部の笠の下部を三段に区切り六角に造られ軒端も厚く力強い感じを受ける。笠の上にのせてあるものは、この石幢の宝珠ではなく、他の石造物の基礎石の様なものである。
 材質は凝灰岩のようであるが、長い間の線香の煙りで黒くすすけていて確かなことはわからない。いずれにしても、中世石造文化財の中でも最も数少ない石幢遺物であり、保護処置を加え長く保護されんことを望むものである。
(石 川)

 

 

能路寺山で発見された火葬骨器
発見の場所 能路寺山共同墓地
発見年月日 昭和59年9月15日
発見者 石川重平・森本嘉訓
発見時の状況 共同墓地の一隅に、古い墓碑が一ケ所に集積されている。その中には、花崗岩製の五輪塔や宝篋印塔(室町時代のもの)の残欠も多数まじっている。それら残欠の集積された所に、掘り出したままの姿で、この蔵骨器は置かれていたもので、偶然の発見であった。
蔵骨器の法量


 総高 25.5cm 肩部最大径 21.2cm
 底部径 13.4cm 厚さ平均 0.8cm
 色調 須恵器独特のネズミ色  焼成 堅緻
 製作方法 紐状の陶土を輪積みに積み上げ、ヘラで成型している。平均右下がりのカゴ目の叩き目を入れ、すそを細めて平底に造ってある。高い火度で焼成され、所どころに自然釉薬が現れている。
 肩部の所のカゴ目の叩き目はよく残り、頭部の下にロクロ目の細い線がついている。胴部もカゴ目跡があるが、整型のためヘラですり消されている。また、所々に工人の指紋が残っている。
蔵骨器の内容物
(1)火葬された成人一体分の骨
 性別は不明、大部分が細片になっていて、灰黒色を呈している。中には完全に炭化した骨片も混っている。
(2)副葬品
 ・土鈴 1個 土鈴は径が4.1cmのほぼ球形。上部に1cmほどの山形の造り出しがあり、中央に紐をとおす穴があけられている。球形の半分を切りとり、竹ベラで中を空洞にし、土製の玉が1個あり、振ればコロコロと音が出る。色調は茶褐色、所々に灰黒色のすすけた黒雲状のあとがついている。


 ・青銅鏡 1画 八稜形、最大幅9cm、厚さ0.5cmほどのきわめて細いもの。中央に紐を通す穴のある鈕(ちゆう)を造ってある。
 表裏とも緑青がついて錆びている。背面の文様は緑青を落とさないと確認できない。全体の40%は欠落している。
(3)被葬者の考察
 須恵器(蔵骨器)の製作技術及び形態から推して、奈良時代末期乃至平安時代初期の須恵器である。
 被葬者は、この地域に在住したかなり有力な地位(たとえば里長または郡家の一族のごとき者)を持った指導的立場の人物と推測できる。換言すれば格別尊重な配慮を以って仏教信仰者摂取者の営んだ火葬骨埋納用器という点では間違いないと考えられる。もちろんこのことの真否は遺物だけでは明確にいい切れるものではない。
(4)考古学的価値
 本県における火葬蔵骨器の報告例は、極めて少ない。わずかに昭和57年4月〜5月にかけて、石井町浦庄の板碑造立墓地発掘調査報告書(調査主任石川重平)に1例あるだけである。それだけに今回の発見は、本県における考古学的資料として、きわめて重要なものである。
 また、一般に土師器は庶民階級、須恵器を上層階級のものとする通念から考えると、能路寺山に火葬されて埋葬された被葬者の身分階級を知る上で、この蔵骨器の出土は、今後における能路寺山遺跡の解明に有力な資料を得た事になった。
(石 川)

 

羽ノ浦町の地名考
1 はじめに
 羽ノ浦駅の方面から北の方向への排水路は、東や南の方向と反対に北方の山地の方向に流れている。これは駅附近が海抜五m位なのに北方の小松島市立江との境界附近は海抜三m位で比高差二mによるものである。
 昔は那賀川が羽ノ浦一帯に流路を取り、南に東に北に分流してデルタを形成して来た。そしてその中洲に人々が石垣を築いたりして家を建て住み始め、また近年国道が通じたり、那賀川の現堤防が出来たりして次第に集落化して来た。
 今でこそ排水路が出来て乾田化しているが、以前はデルタ特有の低湿地であり、所所に河跡湖や深さ一、二mもある深田が多かった。
 それでこの町の地名は河床、河岸、等低湿地関係の地名が大部分であるということである。
 なお地名の大部分は和銅6年(713)元明天皇の詔によって名づけられたといわれているが、その詔は「幾内及び七道の諸国の郡・郷の名は好字をつけよ」とあり、また延喜式(927)の民部式にも「凡そ諸国郡内郷等の名二字を用い嘉名を取れ」とあるが、地名はその当時用いられていた古語や方言で名づけられ、そしてそれに意味に関係無く嘉字をあて字しているのであり、そのあて字も重箱読みのようなものも多い。これは全国共通のものであるのは全国の地名を照合して実証されている。
 本町の那賀川の旧流路と関係地名要図は別紙の通りである。


2 町名の羽ノ浦地名
 羽ノ浦という地名は昔は宮倉村字羽ノ浦であったから、小地域の地名が拡大されたのである。
 地名のいわれを考えると2つの起源が考えられる。1つは旧宮倉村地区の羽ノ浦山地が鳥の羽のようであることに対する象形語と、もう1つは端の浦の意に対して端を羽にあて字したと思われることである。旧地区は現在の長く連なった羽ノ浦山系の東端地区にあるからである。
 浦とは水辺とか、山間部では日当りのよいうららかな所等に名づけられるが、ここの浦は旧那賀川本流に沿った地域に対して名づけられたのであろう。


3 大字地名
宮倉(旧 宮倉村)
阿波名には「春日祠左宮倉村葉油林木蒼然、景行天皇57年10月置春日部屯倉即比間也」とあるので、これによって名づけられたとされていることは定説となっている。しかし現在は景行天皇も架空の天皇とされて居るから再検討されるべきではないであろうか。
 他に考えられることは、地名で倉とは崖地に名づけられる地名である、これは全国共通の何千という地名から云えることであるが、これから考えて神社のある崖のある場所という羽ノ浦山系東端附近の地形に対する地名とも考えられる。
 将来の研究に待ちたい。
中庄(旧 中庄村)
 那賀川の旧流のデルタ地帯の何本もに分流した河の中に出来た部落という意で名づけられたのであろう。
岩脇(旧 岩脇村)
 那賀川旧本流が羽ノ浦出系の南側を流れていたので、その山地の岩の脇に開けた部落ということであろう。
古庄(旧 古庄村)
 古くから南岸への渡し場として開けた部落の意であろう。
明見(元大野村)
 元来はここは現在は対岸となっている旧大野村と地続きで、大野村に属していたが洪水によって流路が変り切り離されまた堤防も出来て羽ノ浦に編入された所である。
 また、この北方山地にある明現神社とは氏子関係も無いといわれるから神社とは別に考えるべきであろう。
 妙(ミョ−)―ミ。見―訓読みでミでミミは水水で水に囲まれたとか水辺とかの意で旧那賀川本流域の地域ということで名づけられたのであろう。
古毛(もう)(旧 古毛村)
 毛とはけで農作物のことで、古くから開けた耕地という意であろう。


4 小字地名
(1)宮倉地区(旧 宮倉村)
背戸田
 山の背処田(太陽に向って山の後側の処の田)の意。
居内本村居内、羽ノ浦居内。
 重箱読みでイナイでイナ(砂地)のあて字、ここも旧那賀川本流が北流していた河床、河岸である。
芝生
 芝とは雑木・雑草のことで、ここも旧那賀川の河床、河岸で雑木・雑草の生え繁っていた所。
日開元
 ヒガイス(形動)はやせ細った弱々しいさまの意で砂礫地等に名づける地名、ここも旧那賀川本流の河原である。
ながれ
 流れで旧那賀川本流の河原跡。
はたへ
 端枝で山の稜縁の端の方のこと。
鵜ノ音
 発音から上のくぼみのあて字であろう。
恵田
 江田のあて字、湿地帯の地名。
摺鉢
 摺鉢状の小盆地のこと。
国中
 クネルのあて字、山裾のくねった道路とか小川の流れがくねっている所等に名づけられる地名、ここも湿地帯で小川がくねって流れていた所という意のあて字地名。
南浦
 浦は水辺、旧那賀川の南岸地帯。
春日野(かすがの)
 河洲処野で河岸の砂洲地のこと。ここも旧那賀川本流の河岸。
大木
 大きいのあて字、即ち広い場所に名づけられる地名、ここは沢田盆地から出て前に大きく広がっている地形。
沢田
 沢は湿地、ここも大湿地であった。
(2)中庄(旧 中庄村)
中塚、中須
 塚は洲処のあて字、須は洲のあて字、共に砂洲地のこと。
こしまえ
 大字古庄にも腰前という地名がある。古庄の腰前とここは旧那賀川本流の対岸であったと思われるが、こしとは越で波し場のことであろう。またかし(河岸)のあて字かもわからない。
びわくぼ
 びわの実のような楕円形の盆地などに名づけられるが、ここは低湿地がびわのような形になっているのに名づけられたのであろうか、河跡湖の形がそうであったのかもわからない。水輪窪で丸い形の河跡湖の形であったかもわからない。
那東原
 河の流れのなるい、ゆるやかな所の原という意であろう。また起伏のなるい処の地形にも名づけられるが果してどちらであろうか、どちらにしても比処は旧那賀川の下流で流れはなるいし、土地の起伏もなるい土地である。
久保
 窪地のあて字。
なかあい
 中合で河や道路の合流したり、交又した所の意。
花の池
 端のあて字、中庄の東の端の河跡湖。
かわら池
 河原池で河跡湖のこと。
とき内
 床内であろう、河床のこと。
ミタテフ
 ミタは水田のこと、テフは小区割のこと。
大知渕
 大地渕か、落ち渕か、旧那賀川の渕であったのではないかと思われる、現在も低地である。
梶島
 河地島のあて字、川原地のこと。
ハタイ
 畑井であれば水流沿いの畑、端井であれば水流のそばの土地ということ。
京満
 清水(キヨミ)のあて字、旧那賀川が流れていた辺りの意。
蔵のホケ
 クラとは蔵や倉の字をあて字されるが崖地のこと、ホケ、ハケ、バケ、ボケ等も同じく崖地のこと、クラのホケとは崖の意の重復地名。
黒松
 クロはクレ(塊石)のあて字、松はショーで同系子音ス(洲)のあて字。河原地のこと。
やたけ
 いやたけでいやはいや地(湿地)。たけは由処(タケ)のあて字。
とい添
 といとは樋で水路や川のこと、ここも旧那賀川の河岸である。
神木
 カミは河水のあて字、木は処のあて字であろう。
原婦ち
 原縁で川縁の原っぱであった所。

 市場の意の字であるが、果してそうであろうか、学校の建っている土地は元来低湿地、即ちイジ地(水路や河流のある低湿地のこと)、果してどちらであろうか。
鴻ノ袖
 鴻は河のあて字、袖(そで)は砂田(さだ)のあて字、ここも河道の跡である。
千田池
 千田とはセタ(狭田)で狭い山合の所の池のこと、ここも田河流。
(3)岩脇(旧岩脇村)
 沼川水(ヌクミ)のあて字であろう。ここも旧那賀川の本流が流れていた処。
神代池
 シド池のあて字、シドとは低湿地のこと。
弐反地
 ニタ地、ヌタ地即ち沼地、湿地のあて字。
紫衣地
 シイとはシイケ、シケのあて字、湿地のことである。
七反地
 シド地のあて字、低湿地のこと。
姥ケ原
 山姥伝説の地は全国的に川岸の竹籔等が生い茂っていた低湿地、現在は現堤防が出来て人家も多いが、元は荒地。
松の元
 松の音読ショーであるがシの同列子音スのあて字即ち洲である。
阿千田
 アセンダ即ちアシダ(葦田)のあて字、葦の生え茂っていた湿地のこと。
猪の谷
 井の谷のあて字、井とは谷川や水路のこと、ここも幾筋もの谷がある所。
(4)古庄(旧古庄村)
腰前
 河岸前のあて字か越し前(渡河点)のあて字か。
金住河原
 河岸河原(カシガワラ)のあて字。
二輌車
 田の灌漑用の水車の数による地名。
中相
 相は合で川や道路の合っている所。
(5)古毛(旧古毛村)
車田
 水車で水をあげて灌漑している所の意。
古河内
 河内とは川に挾まれた土地のこと。
三百歩
 三百はミオのあて字、ミオとは水尾で水流のこと、歩とは土地のこと。
須賀
 洲処(スカ)で砂洲地のこと。
覗石
 上から覗いたら恐ろしいような断崖地。またソギのあて字としたら、そいだようなツルツルの面の崖のこと。


5 おわりに
 以上小字地名まで解明してみたが、この町に元は那賀川の本流が流れデルタを作ったが、その上に人々が住みついた所であるのは、古い家に全部石垣を築いた上に建ててあるのを見てもわかる。海抜は三米〜五米位である。その後、排水路が出来て現在は二毛田になっているが元は全部一毛田であった。それで大部分の地名も平地部は、川床、河岸、低湿地、池等に関係したもので、それに嘉字であて字しているのがわかる。
 また地名は、大部分が地勢、地形などによって名づけられているということがおわかりになったと思う。
 なお、この地名の解釈は絶対正確ではなく、私見であり参考としていただく程度であるが、ただ申し上げたいのは同じような地形、地勢に対する地名が日本に何十、何百とあり、こじつけで無く科学的な解明であるということを、ご理解いただきたい。(植村芳雄)


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