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(I)人口 鷲敷町は古くより、藩政時代に丹生谷58か村組頭の所在地であった和食と、町筋で在町的機能を有した土佐町を中心に、丹生谷の谷口集落として発展してきた町である。現在でも、第1表にあるように、金融・保険業就業者数の占める割合が極めて高いことは、そうした中心性の一面を表わしていよう。 しかしながら、戦後の高度経済成長下において、道路網の整備やモータリゼーション化の進展とともに、鷲敷町でも農林業の相対的な地位低下がみられ、結果、人口流出という我が国山間町村に共通する現象を呈してきた。 こうした変化は、鷲敷町住民の就業構造のあり方に影響を及ぼしたことは言うまでもない。第1表は、1960年と1980年とにおける産業分類別人口(常住地就業者)の比較である。

高度成長の開始期にあたる1960年の農業人口率は40%強を示すものであったが、1980年には20%を割ることになる。もちろん、かかる衰微は全県的あるいは全国的な傾向であり、農林業就業者数の激減が山間町村における人口流出の主要因であったことはよく知られているところである。 ただ、後でも述べるように、1980年にはそれまで逓減し続けていた専業農家数は増加に転ずる。これは、構造改善事業などに伴うイチゴ・野菜などのハウス集団栽培が安定した農業収入をもたらしたことが影響していると考えられる。結果的には、専業農家との乖離が顕著になり、後者に内包されていた多くの労働力は他産業へ振り向けられることになり、さらには他市町村への通勤兼業者の主流をなしたと思われる。 鷲敷町から他市町村への通勤者数の変化をみると、1960年には、通勤者総数が213人であったのに対し、1980年には407人へと急増し、鷲敷町の就業者総数に占める割合も11.0%から22.2%へと倍増した。内訳は、60年には阿南市への通勤者数が88人、相生町へ75人、他の市町村へ50人であったが、80年には阿南市へ233人、相生町へ54人、小松島市へ47人、徳島市へ46人、他の市町村へは27人となっている。特に顕者なのは、阿南市への通勤者数が増えたことであろう。周知のとおり、阿南市は製紙・化学工業を中心に県南における工業地域の拠点として発展を遂げ、1980年には鷲敷町全就業者の約12%にも当たる233人を吸引している。鷲敷町から他市町村への通勤者のうち、製造業従事者が100人、建設業従業者が74人と工業関係の比率が高いのも、阿南市への通勤者が過半を占めることに関与しているといえよう。 こうした通勤現象は、藤巻正己が述べるように距離低抗に強く反応し、ほぼ県域内で自己完結的に行われる
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な反復運動とみなすことができる。そして、各市町村間の通勤者数を分析指標とした通勤流の検討は、各市町村間の結節関係、あるいは地域的な特徴を導き出すのに便宜的である。ここでは藤巻の方法に従って、1960年と1980年の時点での結節構造を検討したい(第1図)。

 60年においては、徳島市・池田町・穴吹町・海南町・木頭村の5市町村を頂点(最終結節点)とする5つの結節地域(エリア)が存在した。しかしながら、10%以上の指向率を有していたのは徳島市のみで、それも吉野川中下流域に隣接する町村からに限られたものであった。この他の結節地域においては、いずれも各市町村間の結節力は弱く、県西・県南地域のほとんどの市町村では、農林業などの第1次産業を中心とした就業構造の下に、自市町村内就業率は極めて高かったといえる。鷲敷町においても、1960年の町内就業率は88.6%(県平均89.3%)を示していた。 80年になると、徳島県の通勤者総数は78,277人となり、60年時点の43,491人
注1)通勤者の流入量=従業地における他市町村からの通勤者数/徳島県の通勤者総数 注2)指向率=最大通勤市町村への通勤者数/各市町村就業者総数 注3)黒印は最終結節点 資料)昭和35年及昭和55年国勢調査,従業地・通学地に関する集計結果
の1.7倍余りに達し、通勤流動は東祖谷山村・木沢村などの山間僻地村を除いて、全県的に激しくなる。徳島エリアは、60年当時の穴吹エリアを吸合し、なおかつ周辺町村からの通勤流を増大させている。これに対し、徳島エリアの中に、副次中心ともいえる市町が成長してきたという特徴も認められる。阿南市と脇町である。特に阿南市は、隣接する那賀川町・羽ノ浦町・由岐町そして鷲敷町における各町就業者総数の10%以上もの通勤者を吸引し、徳島市に次ぐ結節中心地として発展してきたといえる。かかる阿南サブエリアの成長に伴い、鷲敷町は阿南市への“通勤者の町”としての性格を強めてきているように思われる。 もちろん、第1図でも判るように、鷲敷町は低次ではあるが結節中心地として存在する。しかも、相生町からの指向率は60年の2.9%から80年の5.7%へと増大している。しかしながら、80年における相生町から阿南市への指向率も5.6%へと急増しており、近年中には相生町から阿南市への通勤者数が鷲敷町へのそれを凌駕すると推定される。その限りにおいては鷲敷町の中心性は後退し、“通勤者の町”としての性格をさらに帯びてくるものと考えられる。 1980年国勢調査全数集計調査区別集計結果によって、鷲敷町の各集落別に就業者総数に占める通勤者数の割合をみると、阿南市に隣接する中山一区が一番高く41.5%を示す。また、広い耕地に恵まれず、農業就業率の低い南川、大坪などでは一般に通勤者率が高い。逆に、和食・土佐町などの市街地、およびハウス農業の盛な八幡原・北地では通勤者率が15%前後と低くなっている。このようなことから、鷲敷町においては、那賀川右岸に形成された段丘面上に位置する各集落においては通勤者率は低く、かつて農業集落としての性格が極めて強かった周辺の各集落において他市町村への通勤者率が高いという特徴が認められる。つまり、鷲敷町では中心部の集落の通勤者率は低く、周辺集落が高いという同心円的な構造を有しているものと考えられる。こうした構造は、すでに述べた第2種兼業農家の増大に深く関わっているわけである。
(脚注) 1)詳しくは次の論文を参照されたい。 藤巻正己(1978):新潟県における結節構造とその変容過程:1960−70年,人文地理30−4,75−87頁 2)1960年の統計は通学者(1割程度)を含む。
(II)農業 (1)農業基艦とその変化 鷲敷町は、那賀川中流域の傾斜地山原野の占める率が高く、耕地率は8.4の山間地農業地域である。主要耕地は那賀川河谷とその支流谷にある。とくに、中山川・南川が那賀川と合流する地帯にかなりまとまった耕地があり、鷲敷町農業の中心地帯を形成している。 これらの農用地での水田率は57.9%で、那賀川沿いの山地にみごとに開発された棚田が小現模に展開し、鷲敷町農業生産の基盤となっている。しかし、この水田規模は一農家当たり、37.7aで、農家にとっては自給生産の域を脱しきれない状態にある。 この主谷河岸段丘面、支谷河岸段丘面や開析谷低地部に発達した水田を基盤として、換金作物としてタバコ、スダチ、温州ミカン、生食用タケノコをはじめ、食品加工用原料作物の水ブキ、タケノコの生産を補完関係作物として農業経営に導入することで農業収益の高収益化を図ってきた。 鷲敷町は仁宇谷5ケ町村の入口にあたり、第2次大戦前頃までは、那賀奥林業の木材流送の中継地点であった。このため、人の出入りも非常に多く、仁宇谷5ケ町村の各集落と結合した商業機能地域を形成し、地域住民に就業の場、サービスの場を提供してきた。戦後になって那賀川の電源開発が進行するとともに、交通条件の整備がなされ、阿南工業地域との関係が強化された。鷲敷町と阿南工業地域との関係強化は物流の強化と労働力流出の強化とである。とくに、労働力流出の強化は、農林業労働力の流出現象として表面化した。農業労働力の流出は、農家の兼業化を著しく進行させ、在町通勤兼業農家を増大させた。 1980年の専兼業農家数は、総農家数387戸に対し、専業農家41戸(10.6%)、一種兼業農家45戸(11.6%)、二種兼業農家301戸(77.8%)となっている。1956年に比べ農家数は20.0%減少している。専兼業別の変化では、専業、一種兼業農家が減少し、二種兼業農家が増大している。鷲敷町においても、農業経営基盤の弱体化とともに山村農業地域に一船的である二種兼業化が進行し、農業構造再編が強く望まれている。このような状況下にあって、鷲敷町の農業生産の変化に大きい影響を及ぼす事業計画が実施された。1978年から1980年にかけ新農業構造改善事業の一環として、土地基盤整備事業、農業近代化施設整備事業の実施である。 この事業計画は、仁宇地区、八幡原地区にイチゴの集団パイプハウスを設置し、専業農家の育成強化を図るものであった。1978年にイチゴの集団パイプハウスが完成して以来芳玉と宝交の二品種が栽培されている。現在では、、品質の良さが市場で認められ、産地としての評価を高めている。 また水田利用再編対策による転作や農産物輸入自由化により市場性の弱くなった温州ミカンの改植として、スダチの増産が行われるようになった。とくに露地中心の栽培からハウス加温、ハウス無加温栽培の導入が図られるようになり、早期出荷によって安定した収益を得るようになってきた。 以上のように、鷲敷町の農業基盤は、山間地主谷河川の河岸段丘面、支谷河川河谷低地の水田や、山間地傾斜樹園地や竹林における水稲、水ブキ、温州ミカン、タケノコを中心作物としてきた。農工間所得格差の増大が農業経営環境を悪化させる中で、二種兼業化が一般化し、在町通勤兼業農家を増加させた。このような農業の分解過程の中にあって、平担地農業地区では、ハウスイチゴの栽培に取り組み、山間傾斜地農業地区では、スダチ、タケノコの栽培に経営の中心を転換するなど、イチゴ、スダチ、タケノコ、水ブキの特産地農業が展開しつつ、商品生産農業の育成が進行している現状にある。 (2)農業の性格 鷲敷町農業の性格を各種統計によってみると次のようである。1965年の農業粗生産額は215百万円であったが、1980年には472百万円と2.2倍の増加となっている。農業一戸当たりの農業粗生産額は59.7万円で、徳島県平均より低く、農業経営規模の小さいことを示している。土地生産性は8.8万円で徳島平均の12.6万円の69.9%となって、県平均より低い。労働生産性は57.6万円で、徳島県平均の96.8万円の59.5%となって顕著に低い。このように土地生産性の低さが、山間地農業地域にあたる鷲敷町農業の性格を示すとともに、一農家当たりの生産規模の零細性を表している。(第2表)
 作物別農業粗生産の構成比については、第3表に示すとおりである。
 この表によると、1980年の作物別農業粗生産の構成は、野菜類33.7%、果実18.9%、米17.2%、畜産12.9%、工芸・種苗12.9%となって、耕種部門の粗生産比重が高くなっている。とくに野菜類では、近年特産地を形成させつつあるハウスイチゴをはじめ、タケノコ、水ブキの比率が高い。中でも山間地施設園芸農業団地を形成したハウスイチゴの栽培は、大規模生産農家が増加する傾向にある。 1965年と、1980年との総粗生産額に占める各作物比率の比較でみると、米(29.3%→17.2%)、工芸作物(19.5%→7.2%)、畜産(16.7%→12.9%)などの減少化傾向が著しい。増加した作物は野菜(14.4%→33.7%)、種苗(0.5%→5.7%)、果実(15.4%→18.9%)などが大幅に増加している。 専・兼業別農家数、階層別農家数および構成比を第4表に示した。
 表4によると、1980年の総農家数は387戸である。専業・兼業農家の比率は専業農家10.6%(41戸)、一種兼業農家11.6%(45戸)、二種兼業農家77.8%(301戸)となっている。専業農家に一種兼業農家を加えても農業比重の高い農家は農家総数に対して22.2%と顕著に低いものである。1965年と、1980年との比較でみると、専業農家、一種兼業農家、二種兼業農家それぞれの比率は17.0%→10.6%、34.6%→11.6%、47.5%→77.8%となって、一種兼業農家がもっとも著しい減少を示し、二種兼業農家が増大して二種兼業化の比重がきわめて高いものとなっている。 1980年の階層別農家数をみると、30〜50a規模農家が88戸(22.7%)で首位であり、次いで、50〜70a規模農家84戸(21.7%)、30a以下規模農家の減少化が著しく、125戸から83戸へと43.6%の減少となったのをはじめとし、70〜100a規模農家で97戸から64戸へと34.0%、30〜50a規模農家で100戸から88戸へと12.0%の減少となっている。これから考えると、鷲敷町での農家の減少は30a未満階層の零細農家のの脱農家が最も著しく、次いで、中規模農家ともいえる70〜100a階層での農家数の脱農家が目立つようである。一方、150a以上規模農家は、1965年の13戸から、1980年に22戸と69.2%の増加となって、これらの農家が鷲敷農業の中核となっている。 以上のようなことが鷲敷農業の実態である。 |