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総括 郷土班の調査目標は町内所在の板碑の悉皆調査と、鴨島町に関する町名(大字小字名)の由来の究明であった。 板碑調査は、従来ややもすると年号の判然としているもの、或は形、大きさなどに特長あるものに主力が注がれている感があったが、今回は、それが如何に小破片であろうとも板碑と名のつくものは残らず調査の対象とした。それは時間と労力のかかる大へんな作業であったが、森本嘉訓氏が中心となって、とにかく悉皆調査をすることができた。今後の板碑調査に何か寄与するものがあれば幸いである。 鴨島町やその周辺町村はもとより、全県下、全国にわたって地名の由来を調査研究し、それより引き出された独特の見地から地名を考察してきた植村芳雄氏の多年にわたる研究成果も併せ報告した。 なお、以上の調査活動の間に、鴨島町樋山地に所在する河辺寺跡と、同寺と一遍上人との関係を考察(一部、口頭発表ずみ)および鴨島町牛島にある西覚寺に所蔵されている「仏説宝如来三昧経」についても親しく調査することが出来た。 この経巻は、寺伝によると有名な中尊寺経のうちの一巻といわれているものであるが、詳しく調査して得た結論としては、 (1)西覚寺経巻の末尾の一部に書体の異なる金泥書が張りつけられている。字の線は太目で雄渾な書体であるが、はたしてこの経文は前巻の続きのものか或は異なる経文か、その点は明らかにすることはできなかった。ただ、時代の特徴である罫線は細い金泥の線である。 (2)とびらの見返し絵にかかれた如来像は台座に藤原期の特徴をよく残しており、光背の描き方などから平安時代後期とみられる。 (3)末尾の部分の金泥の質、書体など、現存中尊寺に残っている、秀衡経のものに極似している。 (この頁・石川)
I 鴨島町の板碑 A はじめに 従来徳島県の板碑調査は、年号のあるものや特長的なものを中心としたピックアップ方式で、それから「阿波板碑」を意義づけてきた。しかし今回は、たとえ破片でもすべてを取り上げる悉皆調査を行った。時間と手間のかかる作業であるが、その積重ねが「徳島板碑」研究の新たな展開に役立つものであることを信じる。鴨島町内で総数30基の板碑を確認し基礎調査を行った。以下はその概略報告である。 B 調査報告 1.本行寺前の正慶元年(1332年)板碑 緑泥片岩製。山形部一部欠損。総高107.5cm、幅(二線上)25cm、厚さ(80cm下)5.3cmである。頂部は山形状で二線と輪郭を有し、身部上方に弥陀三尊の種子を配し下部には「右意趣者為逆修善根□ □□禅敬白 正慶元年申壬8月27日」と刻む。
 2.本行寺前名号板碑1
緑泥片岩製。山形部一部欠損。総高111.5cm、幅(40cm下)35.5cm、(二線上)6.1cmである。二線を刻むが、輪郭は見られず、身部中央に6字名号(高さ54.5cm)と蓮華座(高さ9.5cm)を刻む。
 3.本行寺前名号板碑2
緑泥片岩製。上部欠損。地上高192cm、幅(30cm下)58.5cm、厚さ(額部)8.2cmである。頂部は山形状、二線と輪郭を刻む。身部中央に6字名号(高さ97.3cm)と蓮華座(高さ12cm)を刻む。 4.本行寺の弥陀三尊種子板碑 水道工事中に発見。緑泥片岩製。完全。総高96.7cm、幅(二線上)26cm、厚さ(額部)6.1cmである。頂部を山形に切り、二線と輪郭を刻む。種子は身部上に弥陀三尊を刻み、また下には宝瓶(高さ12cm)と蓮華(高さ13cm)を刻む。銘文は見られず。 5.玉取庚申堂内の板碑残欠 緑泥片岩製。板碑頭部と思われるが不明。地上高29.2cm、肩幅26.7cm、厚さ6.1cmである。 6.山路三好家の享禄5年(1932年)板碑 緑泥片岩製。完全。地上高143cm、幅(二線上)41cm、厚さ(二線上)6.4cmである。頂部を山形に切り、二線と輪郭を刻む。種子はなく身部上部から5行に文字を刻むが風化のため判読は難しい。従来の判読は「六万九千三百八十□□ 享禄5年3月」 7.貞末八坂神社の弥陀三尊種子板碑 緑泥片岩製。完全。地上高95cm、幅(二線上)31.5cm、厚さ(二線上)12.7cmである。頂部はゆるやかな山形で二線を溝状に刻む。
 8.西覚寺弥陀三尊永徳3年(1383年)板碑 境内に建つ(すべてコンクリートで下部を固められている)板碑で唯一年号のある板碑である。緑泥片岩製。上部欠損。地上高43cm、幅(下部)26.3cm、厚さ(額下)3.9cmである。左右に輪郭の縦線が残り、種子は「サ」のみが残る。銘文は左右に「為沙弥守重霊位 永徳三年七月廿八日」と刻む。 9.西覚寺弥陀三尊種子板碑 緑泥片岩製。完全。地上高56.7cm、幅(肩)18.1cm、厚さ(根部)4.8cmである。頂部を山形に切り下に二線と輪郭を刻む。身部に弥陀三尊を刻む。 10.西覚寺弥陀三尊種子板碑 緑泥片岩製。完全。地上高40.8cm、幅(肩)16cm、厚さ(20cm以下)4.1cmである。頂部を山形に切り下に二線と輪郭を刻む。種子は身部に弥陀三尊を刻む。 11.西覚寺弥陀三尊種子板碑 緑泥片岩製。一部欠損。地上高35cm、幅(輪郭上)15.8cm、厚さ(二線下)3.1cmである。頂部を山形に切り、下に二線と輪郭を刻む。種子は弥陀三尊を刻む。 12.西覚寺弥陀三尊種子板碑 緑泥片岩製。上部欠損。残高34.7cm、幅上21.4cm、厚さ上で2.5cmである。輪郭は左右に縦線のみ残り、種子はサの一部とサクが見える。 13.西覚寺欠損板碑 緑泥片岩製。板石状で上部欠損。残高20.3cmである。種子は不明。 14.西覚寺欠損板碑 緑泥片岩製。欠損。残高27.5cmで輪郭の一部が見える。 15.地蔵堂裏弥陀三尊種子板碑 緑泥片岩製。地上高(以下四基共下部はコンクリート中である)66cm、幅(肩)46.5cm、厚さ元部)9.5cmである。頂部を山形に切り、二線がなく身部には弥陀三尊種子を刻む。 16.地蔵堂裏月輪弥陀三尊種子板碑 緑泥片岩製。全体に自然石状である。地上高127cm、幅(30cm下)55.3cm、厚さ(10cm下)13cmである。頂部は水平に近く、身部に3つの月輪を配し内のそれぞれ弥陀三尊を刻む。 17.地蔵堂裏月輪種子(一部)板碑 緑泥片岩製。頭部のみ地上に出、地上高32cm、中央に月輪と種子(?)が見える。 18.地蔵堂裏月輪種子(一部)板碑 緑泥片岩製。大半は地中か。地上高28cm、厚さ(肩)10.9cm、月輪の一部(径30cmか)が見える。 注.地蔵堂裏板碑はすべて地中に埋め込まれ、コンクリートで止められているので、下部の確認ができなかった。四基の中に、「正和5年6月28日」銘と「建武3年2月日」の銘をもつ板碑があると言われている。町で掘り上げる予定らしいのでそれに待ちたい。 19.報恩寺元享元年(1321年)月輪弥陀三尊種子板碑 緑泥片岩製。半折接合。地上高100cm、幅(20cm以下)43.5cm、厚さ(20cm下)8.5cmである。身部中央に月輪の中に弥陀三尊種子を刻む。銘文は身部下部に「元享元年 六月□□ 廿六日 死去」と刻む。
 20.報恩寺康永元年(1342年)弥陀三尊種子板碑 緑泥片岩製。上部欠失。地上高135cm、幅(40cm下)36cm、厚さ(20cm下)8.5cmである。身部上面に弥陀三尊を刻み、下に「康永元季 歳次壬午 敬白(以下不明)」と刻む。 21.報思寺応永4年(1397年)弥陀三尊板碑 緑泥片岩製。完全。総高76.5cm、幅(肩)22.2cm、厚さ(30cm下)4.5cmである。頂部を山形に切り下に二線と輪郭を刻む。身部上に弥陀三尊を刻み下に銘文「応永4年 10月3日 □□□為□□ 敬白」と刻む。注.応永4年の文字は異体字にて刻む。 22.報恩寺板碑その他 門を入って右に寝ている板碑がある。緑泥片岩製。総高149cm、下幅42cmである。 23.報恩寺前道路脇弥陀三尊種子板碑 緑泥片岩製。完全であるが風化が進む。地上高57cm、幅(30cm下)33.5cm、厚さ(30cm下)12.3cmである。身部正面に弥陀三尊を刻む。 24.藤井寺弥陀種子板碑 緑泥片岩製。完全。地上高121.8cm、幅(40cm下)36.7cm、厚さ(40cm下)6cmである。頂部を山形に切り身部上にキリークの種字を刻む。
 25.藤井寺下部欠失弥陀種子板碑 緑泥片岩製。下部欠失。残高47.3cm、幅(30cm下)26cm、厚さ(30cm下)で5.9cmである。頂部を山形に切り、身部上にキリークの種子を刻む。 26.樋山地弥陀三尊種子板碑 緑泥片岩製。完全。全長79.7cm、幅(20cm下)19.2cm、厚さ(20cm下)2.8cmである。頂部は山形、二線と輪郭を刻む。銘文に関ししては検討中である。 27.樋山地弥陀三尊種子板碑 緑泥片岩製。完全。総高136cm、幅(30cm下)25cm、厚さ(30cm)10.6cmである。頂部は山形に切り、17cm以下に一線(二線の意味か輪郭の意味か)を刻み、下に弥陀三尊種子を刻む。 28.中筋の板碑1
緑泥片岩製。一部割れている。地上高76cm、幅上25cm、厚さ(25cm下)10cmである。頂部は水平、21.5cm下からキリーク、その下に種子一つが見られる。 29.中筋の板碑2
緑泥片岩製。完全。地上高81.5cm、幅(種子の上)34.5cm、厚さ上で4.5cmである。頂部は水平で種子はキリークとその下にもう一つ種子が見える。 30.田渕交叉点の板碑 緑泥片岩製。地上高83.5cm、幅(元部)で59cm、厚さ(40cm下)8.5cmである。頂部は不整山形、身部に現在4つの種子が見られるが地中にもまだあるかも知れない。
C まとめ 以上鴨島町内の板碑について、紙数の関係もあって簡略化して報告した。「板碑だけでは板碑は分からない」という言葉の通りに、板碑も中世社会の動きの中に位置づけるべきことは言うまでもない。しかし、中世文書等の資料が少なく、その結びつきについての考究が十分でなく研究が進展していない。 従来の板碑研究は銘文・種子が中心であったが、これからは板碑自体の基礎的把握(形態論・材質論・加工論・種子銘文論等)は勿論、地理的環境や歴史的背景から板碑を考える時期に来ていると思われる。そのためには石造美術だけでなく、中世考古学、歴史地理学、民俗学、仏教史等各方面からのアプローチが必要であると思う。各分野の諸先生方にご指導をお願い申し上げると共に、鴨島町内の板碑所有者の方々に厚くお礼申し上げます。 鴨島町板碑関係文献目録 ○服部清五郎『板碑概説』昭和8年 ○鴨島町教委『鴨島町誌』昭和39年3月 ○徳島委『石造文化財』昭和52年3月 ○三宅武夫『石造美術』(写真入り手書稿本) (この項森本)


II 鴨島町の地名考 A はじめに 地名のいわれの解明は、何回も何回も現地を歩いてみることが鉄則であるといわれているが、それは地名が地勢、地形、地質などによって多く名づけられているからであるといわれている。 和銅6年(713)の詔に「幾内、六道諸国郡郷の名、好字をつけよ」とあり、また延喜式(927)の民部式に「凡そ諸国、郡内、郷等の名、二字を用い必ず嘉名を取れ」とあり、古くからあった地名は、その当時使われていた古語や方言で名づけられているのが多い。そしてそれに良い意味の漢字を適当に意味に関係なく、しかもなるべく他の地名に混同しないように変化をつけてあて字しているのである。 このことは全国の地名を究明してみてはっきりと証明することが出来る。 鴨島町の地名を研究するうえで注意すべきことは、吉野川平野は1500年位前は、浦社あたりまで海が入り込んでいたといわれていることは学界の常識であるから、その当時の鴨島は現在より土地が低く吉野川(当時は江川が本流のデルタ地帯であったはずである。 鴨島の平地部は現在でも起伏が多く、河跡が歴然と残っていることは、その名残りであろう。それで鴨島の地名はこのような地形に対して、名づけられたのであると思われるが、現在は全部開墾されて川原の石塊は取り除かれ、川底であったり池であった所は排水路が設けられたり客土されて乾田化していて、地名と現状が合わない場合が多いが、これは名づけられた当時の土地の状態によって判断すべきであろう。 B 鴨島の古名「呉島郷」について 呉島(くれしま)の名は全国にも多いが鴨島町全域はこの地名が名づけられた1300年位前は吉野川のデルタ地帯であり、砂礫地の川原であったと思われる。 現地名として残っている呉島(上下島字呉島)は低地で大正初期に現在の吉野川の堤防が完成したにもかかわらず最近まで家も建てなかった位の低湿地である。 現川島町にも「呉島」地名があるが、ここも低地で、しかも石塊地で戦後の昭和30年位まで草も生えないような土地であった。 他の例などからも考えると呉島とは石塊地の塊のあて字ではないかと思われる。 地名はどの地名を見ても大部分が漢字をあて字してあるが、その漢字から伝説が生まれるのが習わしである。この地名も呉の国から織人が来て機織りの技術を教えたからだとか、また町内に唐人・カラ谷・クレ谷等の地名や川の名があるからなおさら呉人伝説が間違いないといわれているが、果たしてそうであろうか。 地名学からいえば唐人は方言「ゴーラ処」で石くれ地の処のこと、から谷、くれ谷も同じような意であり、これは全国で例が多い。 果たしてどちらが正しいであろうか。 C 鴨島町の旧名「麻植保」と「麻植郡」について 麻植とは「古語拾遺」に「阿波国殖穀麻種其商今在彼国」云々とあり忌部氏が雑穀の粟等を奨励したから国名を阿波、麻を植えさしたから郡名を麻植と名づけたということが最近までは定説になっていた。しかし阿波の語源については縄文時代から稲作が行われていたのに忌部氏が活躍したといわれる古墳時代の粟作が阿波の国名の語源であるということは現学界ではナンセンスになっている。麻植についても奈良正倉院御物の中に天平4年(723)川島から忌部為麻呂が黄■(きいのあやぎぬ)を戸調して納めてあるし、若しも呉の国から織女が来たとすれば中国では3000年も前に已に絹が生産されていたのにその織女が来て綿よりもおとる麻を作らし、麻織を教えたということはおかしい。日本でも古墳時代已に絹が生産されていたのであるので忌部説はつじつまが合わない。 また麻植地名は郡名として奈良時代当時あったが忌部氏の本拠地である川島以西には町名、大字小字地名として残っていなくて現在鴨島町に大字名として西麻植、麻植塚が、小字名として麻植市名が残っていることからいっても忌部の伝承から関係が無いように思われる。 麻植塚は本流であった江川と支流飯尾川に囲まれた低地帯で一旦氾濫すれば水没するような所、麻植市は吉野川の水が洪水の時は川島の城山にぶち当たった水が渦を巻いて鴨島町の中で一番先に押しよせて来る所で河跡湖や水溜りがあって麻植塚と共に大江状の地形の所である。 鎌倉初期に現鴨島町地区が地名「麻植保」であったということは水溜や川原の中に江状の土地であり、それに対して名づけられたのではないであろうか。 また麻植のオを尾根の尾とすれば尾江で、南から山の尾根が幾つも突き出ていて、平地部は江状のデルタ地帯であった地形に対して名づけられたのかもわからない。 これも果たしてどちらがほんとうであろうか。 D 「鴨島」という町名について 鴨島(加茂島とも書かれている)と同じかも地名は県内では三好郡の旧加茂村、徳島市の加茂名町加茂町、阿南市の加茂谷、石井町の賀茂野などであるが、共通するのは古代では河底や川沿の土地であった。 この内、三好郡の加茂は京都の賀茂神社の社領であったことが記録に残っているから、それで加茂と名づけられたと思われるが、その賀茂神社の賀茂の語源は何であろうか。この神社も元は帰化人秦氏の一族である賀茂氏が祖神を祀ったことに始まったのであるが、ここは賀茂川が京都盆地に出て来た扇状地で川泉地である。 そのいわれはいろいろ考えられるが、左に列挙してみよう。 (1)河水島、河面島、河間島がもじってかも島になったか。 (2)デルタ地帯で鴨が多かったからか。 (3)蒲が繁茂した水辺ということか。 (4)神を祀った島から神島を名づけたか、それが変化したか(小字に神島という地名があるのでこの拡大地名か) (5)下手に中島という大字地名があるからその上流なので上島となづけたのが変化して鴨になったか。 E 大字地名について 大字地区は合併前の旧町村と他町村から編入された地区である。粟島は旧八幡町、知恵島は旧柿島村、樋山路は旧東山村、小字先従賀地区は鴨島町の合併前に旧一条村から牛島村に編入された地区である。 これを見ても江川から北の地区は旧阿波郡で、江川が郡境であったということは上古は江川が今の吉野川本流であったということである。 なおこの大字地名は当町の平地部は支流が何本も流れていて、いざ出水ともなれば浸水し島状の所々高洲が頭を出すような地形であったことが地名に現れているところが多い。 (1)牛島 イ.旧吉野川の本流であった江川と、その旧流でありまた飯尾川である川に挾まれた細長い牛の背のような地形に対して名づけられたのであろうか。 ロ.牛という地名は山稜に対して名づけられることが多いので向麻山が丁度牛が臥したような形なので、これに対して名づけられたのであろうか。 ハ.漁師の鶏師が住んでいたから名づけられ後牛とあて字されたか。 (2)上浦 上古海が浦社あたりまで入り込んでいた時の石井町の浦社、下浦、上浦との関聯地名であろうか、ここはそこの続き地である。 (3)麻植塚 麻植については「鴨島の旧名麻植保」を参照して下さい、塚は洲処のあて字、ここは特に低地で今でも出水の時は水の集まるところ。 (4)内原・中島 共に中洲で出水の時は水に囲まれる所。 (5)山路 山地と台地が主な地区。 (6)森藤 杜処であろうか、ここは三谷川の扇状地と山間部を主とした地域。杜森は古語で神の宿る所の意即ち神社のこと、藤は処のあて字であろうか、ここは元は台地の方から人が住みつき、神を祀ったからこんな地名になったのであろうか、また藤をふじとすれば人が伏すが語源で人が伏したようにゆるやかな傾斜面の地形に対して名づけられた地名であろう。 (7)知恵島 上古はこの土地が北の方まで広くのびていて、現在の吉野川の中央位まであって天島といっていたので、その天がなまってテー島と呼び、それがまた知恵島とあて字したのであろう。 なお天とは訓読あまで漁夫の島ということで名づけられていたのであろう。 (8)喜来 この地名はキラキラと川原の石が太陽に輝くさまに対して名づけられているのが語源である。ここも上古は江川沿の川原地であった。鴨島商業高校も最近迄は藪と川原地であった。なお山間部にある喜来地名は雲母等の岩肌の輝くさまの表現地名である。 (9)鴨島 鴨島町名の由来の処乞参照。 (10)上下島 上下島とは古名呉島の草書書き■を二字に分割したものであるとの通説であるが恐らくそうであろう。その呉島とは呉の国の織人伝説があるが、旧江川の流跡であって最近迄は家が無かった位低地で、現在も小字として小地区に呉島地名が残っているから上古の石塊地に対して名づけられた地名であろう。 (11)西麻植 この地名は鴨島町の旧名麻植保の西の端にあるということで名づけられたと思うが、麻植が問題である。先述の「鴨島町の旧名麻植保」の所を参照して下さい。 (12)飯尾 この地名も全国に多いが発音から井野すなわち田水路の完備した野、とか稲野すなわち稲の穫れる豊稜地の意である。 (13)敷地 河川敷地のこと、ここは唐谷川の扇状地である。 (14)樋山地 火山路とも書かれていた標高350m位の崩壊台地である、焼畑によって開墾されたので火山地とも書かれたが、現在は用水路が完備し稲作も出来るのでこんな字に変わったのであろう。 (15)粟島 元は阿波郡旧八幡町の土地で上古は江川の北岸であった、江川が北に移るに従い川底を取り吉野川の堤防が出来て南岸の政治区域に入った。粟とは粟でなく泡、淡い、やわらかい、うす塩などの意が語源とすれば、湿地のことであるのが通説で、現在阿波の国で地名として残っている粟津(鳴門市)粟の浦(海南町浅川)等も低湿地帯である。なお最近の学説では暴く、暴れる等が語源として取り上げられているが暴く語源の所は山間部は崩壊地、暴れるは平地部で水害を受ける土地ということといわれているが、ここの粟島も、また阿波□阿波郡等もピタリの地名でなかろうか。 F 小字地名について 鴨島町の小字地名については、多くの頁を要するので平地部、台地部、山地部の三つに分類して要約してみよう。 (1)平地の部 古代では平地部はデルタ地帯で砂洲地であった。藩制初期位までは江川が本流であり、幾條もの細流に分かれ、一旦出水すれば平地部は全面冠水した、退水後も至る所に河跡湖や水溜りが出来たことはその名残の地形がはっきりと現在も至る所に残っている。 (イ)砂洲地地名──○○須賀・○○塚・諏訪・松の元・松尾・杉尾・乗島・貞未・高白・高松・○○須・センダン (ロ)礫地地名──呉島・唐人・唐谷・呉谷 この地名も呉の□から織人が来たという伝説による地名だといわれるが「鴨島の古名呉島」の所を参照して下さい。要するにクレ、カラは石塊地のことである。 (ハ)開墾関係地名──喜来・新田・三軒屋・四ツ屋。○○張・○○開・桑○○ (ニ)職業地名──天島・知恵島 (ホ)河岸台地と川沿地名──千田須賀・江川・梅市・源斗・○瀬・柳○○ (へ)地形による地名──円の元・福井・常玄・十二騎・絵馬堂 (ト)低湿地、低地地名──市久保・市瀬・正尺・生福・正延・沢・道場・江渕・田渕・ニガタケ・鳥取畑・両足・福井・田中・国木地・道場・殿泉・殿郷・大止 (チ)畑地地名 ・豊畑・豊郷──共に嘉名である。 (リ)水利関係地名 ・井堰・飯原──井堰とは水を引く為に石や木などで水をせき止めたところ、飯原は井原のあて字で用水路が出来た野のこと。 (ヌ)城や豪族関係地名 ・城の内──豪族の居住地 (ル)社寺関係地名(山地・台地を含む)──天神・王子・神島・宮○○・野神・春の免・堂○○・馬場・山王・十五常・東禅寺・戒野 (2)台地部の地名 ・玉取──玉取とは音読でぎょくしゅすなわち丸い珠のこと、ここは台地上の小山頂が丸みを帯びたなだらかな丘陵地なので美稲として名づけられたのであろう。 ・堂宗―お堂のある所とか、人間の胴のように中高の土地に名づけられる地名。 ・壇・壇○○・○○壇──1段高い台地に名づけられる地名。 ・赤坂──赤土の坂地のこと。 ・藤井谷──ふじとは人が伏したような、ゆるやかな傾面に名づけられる地名。 ・城ケ丸──城があった土地などに名づけられる地名。 ・ヒヨの東、ヒヨの西、ヒヨの北──ヒヨとは境界の標の場合と、日吉神社の場合とあるがここは日吉神社のことであろう。 ・円生──まるせで、せは狭とか背のこと、ここは低い尾根が南北に細く丸く長くなっている地形なので名づけられたのであろう。 ・樫原──山間部で非常に多い地名であるが、このかしは首をかしげる等のかしげるが語源で傾斜地にけられる地名。 ・竜高──訓読みたったかで高いの重復あて字、高い台地に名づけられる地名。 (3)山間部の地名 黒岩・滝倉・古林裾 ・滝倉・滝の上──山間部で使われている滝とは水瀑の外に、切り立った崖とか嶽の意に使われている。 ・端山──行手をはばむの意から崖のことである。 ・白木峰──白は音読みはくではくきみねとはハケ、ホケ、ホキ、ボケ等山間部に使われる崖地の地名。語源は古語で「ほうける」「ぼぼける」でほつれ乱れる意でくずれた崖地のこと。 ・長戸──頂処のあて字。 ・阿葉谷──あばとは「あばれる」が語源で崩壊地のこと。 ・六坊──ここは平康頼が六坊を建て人々の冥福を祈ったとの伝説があるが、山間部でろくの字がつくのはロクロ師の居住していた所に多い、ぼうは堂宇とか部落の意もあるが「ぼぼける」が語源であればそそけ乱れた土地ということで崩壊地のことでここの地形にぴったりである。 ・獅子舞──「しじまる」「ちぢまる」語源の地名であろう、小い谷が幾つもある土地のこと。 ・亀ケ尾──亀の甲らのような地形の所の意であろう。 (この項 植村)
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