阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第30号
鴨島町上浦地区周辺における山の神信仰

民俗班  関真由子

はじめに
 山の神はふつう“ヤマノカミサン”と呼ばれる。祭神は一応“大山祇神”とされているが明確ではない。上浦の場合は、山の入口、あるいは中腹に、高さ0.7m〜1.5mの撫養石を使用した祠を持っている場合が多い。(大きな松が何本かある所を山の神さんと呼んでいるものもある。)現在は、氏神である国中八幡神社境内に合祀されているが、祠は殆んど以前の場所に残っている。祭礼は1月9日に行われる。しかし、山の神に関する行事については、だんだん少なくなりつつあるといえるだろう。

 

 I 上浦地区について
 この地区は主として田園地帯であるが、南は山になっており、神山方面に続いている。昔から林業を専業にすることはなかったが、かつては、薪を求める人々がよくこの山を往復していた。7〜8人の家族のある家では、炊事・風呂用の薪が、年間2t〜3t 必要であったという。またその他にも、堆肥の原料となる下草の刈りあげや、松や杉の手入れのための雑木刈りなどの仕事もあったので、山はこの地区の人々にとって、生活の重要な部分を占めていたといえるだろう。
 上浦は、南・中・辻川・八本松・市・原・玉取・丸山・国中と九つの在所がある。山の神は在所別にというより、山の入口、中腹にあって、山仕事をする人々の間で信仰の対象とされてきた。全部で九ケ所存在する。祠の成立年代は、17世紀末、すなわち江戸中期のものが多い。おそらくは、この頃から明治、大正、昭和初期に至るまで、連綿として信仰され続けてきたものと思われる。ただ前述のごとく、大正4年に上浦地区にあった、王子神社、天神社、日吉神社、オツジサン(俗称)の四つの神社が、国中八幡神社に合祀されたので契機に、山の神もこの神社の境内にある山の神に合祀されている。しかし、祠はそのまましてあったので、以後も変わりなく、山仕事をする人々の間で信仰されていた。
 こうした信仰に、大きな変化がみられるようになったのは、どこの地方でもそうであるように、日本の経済が高度成長期に入った昭和30年代である。この頃迄は、どの家庭でも燃料としてなくてはならなかった薪が、石炭・石油・ガス・電気などの普及によって必要とされなくなり、山に入る人も徐々に減りはじめた。
 現在は、平地に近い所で、畑作と果樹のパイロット事業が行われている程度である。かつて、山の神の祠があった場所を知る人も殆んどいなくなったといってもいいすぎではない。

 

 II 調査方法
 明治生まれの男性を対象に、聞き取り調査を行った。特に昭和30年代からの信仰形態の変化が著しいため、その点にも留意した。また、祠の現存している場所を確認し、記銘のあるものは記録した。伝承については、現在殆んど残っておらず、明確な資料となり得るものは、わずかしかなかった。

 

 III 山の神信仰について
 a. 場所について
 祠は、山の入口、中腹などにあり、道に背をむけたかっこう(以前は道の正面にあったが、現在は道がかわっている。)あるいは、うっそうと生い茂る林の中など、きわめてわかりにくい場所にある。かつては、どの山の神にも、1反(10アール)ほどの土地があり松・桜・杉・椎などの大木が茂っていたという。この土地も、大正四年の合祀の際に民間に払い下げられたため、現在は特に山の神の木としての大木は存在しない。また、なかには祠がなくなっている所もある。
 以下は、山の神の祠を東側から順に記したものである。
 1  ゴリョウのヤマノカミサン(御陵)


上浦では東端にあたる。ふもとより約200m登った丘の上、道の東側にある。まわりは畑になっている。
 高さ 約0.7m 撫養石使用 東向き
 記銘 元録八年亥年 九月吉日
 2  ヒロタニのヤマノカミサン(浦山)
 標高350mの山の稜線上にある。祠はなく、昔は“ヒロタニのヤマノカミサンの三本松”と呼ばれていた。三本の大きな松が目印であったという。この松は、戦時中に松根油を採るために伐採された。現在それにかわるものはない。
 3  オオスギサン(舟ケ谷)


 ふもとより約300m登る。道より少し雑木林の中に入る。かつてはここに大きな杉の木が茂っていたというが、今はない。この地区唯一の方塔で、大きさも最も大きく、年代も一番古い。正面の台座に寄進者の名前らしきものを彫り込んでいるが破損が著しいためよくわからない。
 高さ1.5m(台座を含む)方塔
  南向き 撫養石使用
   記銘 貞享四年卯ノ年
    奉寄進 御山神宝前
    十一月九日
 4  マルマツサマ(浦山)
 標高約300mの山の稜線上にある。祠はなく、ヒロタニのヤマノカミサンの場合と同じく大きな松が5〜6本あったという。これも戦時中に伐採され、そのままになっている。
 5  シイノキサン(浦山)


 ふもとより約1km、道より少し林の中に入る。周辺に椎の木が多い。
 高さ 0.7m 東向き 撫養石使用
 記銘 元禄四年辛未 九月二十九日
    講中十七人
   奉供養山神
 6  アマツジサン(玉取)


 ふもとより約100mの丘の上、四つ辻の近くにある。かつては、お堂、祠があったとのことであるが、現在は個人の土地として家畜小屋などが建っている。祠は存在しない。
 7  サムカゼサン(浦山)


 シイノキサンよりさらに約500m登る。尾根上あり、林道に背を向けている。(かつては道の正面にあったとのこと)
 ここは、風がことさら強く吹く。
 高さ 約1m(台座を含む)
 東向き 撫養石使用
 記銘 元禄五年壬申 五月七日
 (玉取)
 8  オオツキダメのヤマノカミサン
 山道を作るために若干東に移動している。かつて桜の大木があったという。(山の神の木を切ってはいけないと言いつたえがあったので、伐採にあたっては神職にたのんでよく拝んでもらったとのこと)。


 高さ 約0.7m 東向き 撫養石使用
 記銘 元禄五年壬神年 ○月十日
    山之神寄進○○○○○○
 9  国中八幡神社のヤマノカミサン


 境内の南手にある。昔からあったものだが、公園をつくるために若干南ヘ移動している。大正四年に上浦地区の他の山の神を合祀した。1月9日に行われれる山の神の祭礼の場所にもなっている。
 高さ 約0.7m(台座を含む)
 東向き
 記銘 昭和二十三年 五月
 (左右にある祠に記銘はない)
 10  ミズサメサン


 (森山地区 大谷)
 サムカゼサンよりさらに奥へ700m登る。みはらしのよい岩の上にある。ちかくに清水の湧いていたあとがある。
 高さ 約0.7m 撫養石使用 東向き
 記銘 文政九年丙戌 九月吉日
  ○○○○山神
 (なお、この祠は森山地区に入るが、上浦地区の人々にとっても信仰の対象となっていたので特別に記した)
 ※ 記銘の○印は破損などのため読みとれなかった文字である。
 b.行事について
 1  ヤマノクチアケ
 旧歴の1月4日(新暦にかわってからこれを行う人は殆んどいなくなった)に行われる。この日は山の仕事始めの日にあたる。(正月三ケ日は仕事を休む)山持ちの人、あるいは山仕事をする人は、山の神の祠に行き、半紙を切って作った御幣、お米、お神酒すずの口にシャシャギ(ヒサカキ)の葉を添えたもの、をまつる。丁寧な人は、おしめを飾り、鏡餅(下の方が直径10cm程の小ぶりのもの)をまつる。また、こうしてまつったものは、家に持ち帰っていただく場合が多い。1年間の山仕事の安全を祈願した後、正月15日に使うカヤバシを採って帰る。(たとえ里にあっても山で採る)それ以上の山仕事はしない。
 かつては、玉取郷などでは、1月3日の夕方から4日の朝にかけて、山の神のお堂で、お日待ちを行ったという。里の人が、アマツジサンのお堂に寄って話をし、夜中の12時くらいに水と芋で作ったお粥を食べ、再び話をしながら夜明けを待った。これも昭和初期頃まで続いていたが今は行われていない。
 2  山の神さんのお祭り
 1月9日(昔は9月9日だったという人もいるが、明確ではない。)に行われる。この日は、国中八幡神社境内にある山の神の祠の前に当家が集まり、神職にお祓いをしてもらう。まつるものは、お神酒、塩、米、海のもの山のもの、などである。この行事は比較的新しく、以前の山の神の祭りの日にどういう行事があったかは、よくわからない。
 3  山の神講
 かつては上浦地区全域にわたって行われていたが、現在は丸山郷のみになっている。(写真9  丸山、有特久一氏宅)。

講は6〜7軒で組織されており、当番はまわりもちである。当番にあたる家には「大山神祇尊」と書かれたおかけじがまわされる。講の集まりがあるのは年に三回、俗にオショウゴック(1月、5月、9月をさす……正月、5月、9月の頭文字をとった略称か?)と呼ばれる日である。場所によると12月にも行っていた。日は7日か、9日が多いが、当番の都合で変更が余儀なくされる場合は、11日、13日のいずれかに行う。(奇数日が好まれる)。
 当日になると、当番の家では床の間に前述のおかけじをかけ、まつりものをする。内容は四角い盆に、五目寿司(具については、昔は、油楊げと野菜であったが、近頃はくずしものなども入れる)酢物・御神酒・小さな桝に入れたお洗米、真中に皿をおいたもので、手前にロウソクをたてる。(写真10 )

夕方になると、講中の代表者が訪れるので、一緒に食事をする。五目寿司と酢の物である場合が多い。夕食が済むと、当番宅の主人がおかけじの前にすわる。皆もいっせいに居ずまいを正す。主人はおかけじに向かって一拝し、全員で声をあわせて「不動明王」の真言を7回唱える。(ノウマクサンダ、バサラダン、センダン、マカロシャダ、ソワタワ、ウンタラ、カンマン、タズラタタリヤ、ソワカ……タズラタタリヤソワカは、不動明王の真言には入ってないが、丸山郷では昔から唱えられているとのことである)。唱え終わると主人はまつってあったお洗い米とお神酒を盆にのせて、1人1人にすすめてまわる。すすめられたものは一拝し、お神酒をいただき、お洗い米を少々口に入れ、再び一拝する。全員まわったところで終る。このあと菓子や果物で団欒する。
 また、昔は他の在所でもこれを行っており、場所によって若干の違いがあったようである。玉取郷などでは、当日、当番宅の神棚に、お洗い米、お神酒をまつる。夕方集まってきた人達に、五目寿司や、芋の入った粥などを出し、皆で“アブラウンケンソワカ”と三回唱え、柏手を打ち、お洗い米をいただく、といったかたちで行われていた。
 昔は、こうして近隣の人々が寄って雑談をするのは、楽しみのひとつだったという。また、山の神講の日だからといって山仕事を休むことはなかった。
 4  伝承
 ○山の神の祭りの日は、山の神さんが守ってくれないので、刃物を使うとケガをする。
 ○ハテノハツカ(12月20日)は山の神さんが種を蒔く日なので、この日は山に入ると悪いことがおこる。

 まとめ
 山の神に関する信仰は、だんだん薄れていく傾向にあるように思われる。おそらくは、昔はあったに違いないと思われる伝承についても途切れてしまっており、今は話す人もいない。ハテノハツカなどのタブーは、かなり高齢のお年寄りの口から聞くのみで、もう殆んど忘れられている。山の神に対する畏怖の念もすでに消えかかっているといえるだろう。
 また、この地区が農耕中心であることなどから、去来する神であるかどうか、などの質問もしたが、明確な伝承を聞くことはできなかった。おそらくは、この地区は平坦部が多く、他の地方よりも近代化が進んでいたので、山の神に関する信仰も、途絶えていったのであろう。
 しかし、山仕事によく行っていたというお年寄りは、“山くらいありがたいもんはない。木を切っても生えてくるし、汚してはいけない大切なもんじゃ”と言われる。これは、とりもなおさず、山の神は人を守ってくれるという強い思いがあったということなのだろう。
 また、山の神講で、不動明王の真言を唱えることについては、麻植郡から三好郡に続く山岳地帯が、山伏の修験の道になっていることから、真言密教の不動信仰がいっしょになったものと思われる。

 

 最後に
 この山の神の調査にあたり、多大な御協力をいただいた、村本長平様、松本融様をはじめ、上浦地区の皆様方に深く感謝申し上げます。


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