阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第30号
鴨島町の民家

建築班

   四宮照義・鎌田好康・林茂樹・

   森兼三郎・松田稔

はじめに
 徳島県では県内の各学術研究団体を統合して、「阿波学会」を組織し、県立図書館のお世話で毎年、夏休み初め頃、県下の市町村の協力を得て、地域を定めて総合調査をし、その年の暮れに公開の研究成果の発表と紀要を出している。
 今年は、その昔、阿波藍の生産地として栄えた吉野川の中流の鴨島町を調査した。
 私達建築班は、日本建築学会徳島支所の学会員が中心となって、テーマを「鴨島町の民家」と決めて、8月1日から8月4日までの4日間調査した。班員5名の他に客人として、日本建築の研究にフランスからきておられるBERNARD・JEANNEL(ベルナール・ジャネル)さんと、その友人で京都の木下龍一(龍建築事務所長)の二人が参加してくれた。特にベルナールさんは、日本民家に深い興味を持ち、その真摯な調査態度には、私達に敬意の念を抱かしめた。


 目 次
1.士族の家
 新居亮輔氏宅(鴨島町敷地376)
2.藍商の家
 A.笠井三郎氏宅(知恵島1003)
 B.工藤禎造氏宅(西麻植字西植市)
3.原士の家
 七条澄美氏宅(知恵島416)
4.藍作農家
 A.河野芳夫氏宅(西麻植字田渕)
 B.宮本勝義氏宅(上浦)
5.樋山地の家
 A.河野タキエ氏宅(樋山地237)
 B.五島一良氏宅(樋山地184)
 C.河野元一氏宅(樋山寺137)
6.町 家
 川真田省三氏宅(鴨島町鴨島)
7.遍路宿
 岡田覚三氏宅(飯尾藤谷)
8.森藤石(阿波の青石)

 

 1.士族の家
 新居亮輔氏宅(鴨島町敷地376)
 主屋の中央には玄関構え、右側に「上の間」、「下の間」を備えている。長押には「釘隠し」を打ち、中二階、本瓦葺の地方士族の家の面影をとどめている。
 棟札が5枚保存されており、寛政3年(1792)、天保15年(1845)、弘化4年(1848)、安政3年(1857)。
 絵図面2枚あり、文久2年(1863)の記入あり、敷地建物配置が和紙に色付けされている。
 裏庭には寛政年間に建てたという平屋本瓦葺の湯殿が建っているが、修繕改造されている。特に浴槽は当時の指物大工が、腕を振るって造ったという槇の木の風呂であった。これは5年程以前に、奈良の天理教へ資料として寄贈したという。


 2.藍商の家
 A.笠井三郎氏宅(鴨島町知恵島1003)
 阿波の青石で一番良質である森藤石で囲まれた高い塀の屋敷構えをもつ笠井家は、明治の初め頃の藍商の間取りと姿をとどめている。
 家に伝わる「普講入目帳」が4冊ある。それによると、主屋(明治5年)、ネドコ(明治16年)、蔵(嘉永5年〔1853〕)、門屋(安政3年〔1777〕)と記入されている。主屋は明治5年に修理改造されてはいるが、「チョーバ」(帳場)と「中の間」の境の鴨居は、「デンジ梁」が使われているところを見ると、明治以前の梁と鴨居を流用した古い架構法が残されている。外部の柱下には森藤石の小叩仕上の布基礎が廻っている。
 笠井家は先祖が他国から阿波に来たもので、浪人→百姓→名字帯刀→砂糖作り→養蚕→藍作り→明治士族の家柄であるという。

 B.工藤禎造氏宅(西麻植字西植市)
 ■(ヤマキ)の屋号を持つ工藤家には、先祖が明治元年12月に当地に来て住居を構えたとの記録がある。藍商として栄えてきたが、明治37年頃よりドイツの化学藍に押されて藍作が衰えると、養蚕に切り替えたという。現在の当主は四代目に当たる。二代目の「工藤鷹助屋敷図」の絵図面が保存されており、ほぼ現状どおりの豪壮な屋敷構えであったことが解る。
 主屋の間取りは佛間を中心にして周りに各部屋をとる明治中期頃の阿波藍商の主屋平面図の典型である。主屋の裏側に離れの裏座敷があって、主屋との間に「取次の間」を二部屋列べて、その両側の廊下で結んでいる。
 「中の間」と「カマヤ」の土間との境には220センチの欅の大黒柱があり、土間には195×185センチの小黒柱がある。


3.原士の家
 七条澄美氏宅(鴨島町知恵島416)
 原士とは、福井好行著「徳島県の歴史」によれば、阿波藩における独特の身居(みずわり=身分階級)制度の中にみられるもので、家政入国後、縁故をたより阿波へきて、慶安3年(1650)藩主忠英(ただてる)のとき、阿波郡の荒地を賜って「原士」となった半農半士で、その多くは柿原村ヒロナカや、市場町興崎を中心に約50戸あり、阿讃国境の警備の任に当たった。
 このように原士というものは、家老長谷川伊豆の直属配下の在村藩士であるところが、他藩の郷士とは異なっていた。又、原士は、郷高取(ごうたかとり)や、庄屋の上位にあって、正月には登城して殿の御目見(おめみえ)を受けた。原士は常時文武の道を励み、在郷では卓越した権威と格式をもっていたので、郷士や村役人も、原士の門前の道を下乗して通らねばならなかったという。
 鴨島町知恵島にある七条家は、吉野川を狭んで原士の里、吉野町柿原に近く、三軒ある七条家は原士の子孫である。
 原士の家の間取りは、中心に佛間をとり、周りに4部屋を配し、式台付の玄関と「広間」をもった所謂玄関構えを備えており、「オモテ」の間の外側には椽を付けるのが普通である。
 吉野川の中流地方である鴨島町知恵島に建つ家々は、大正11年に吉野川堤防ができるまでは、30〜40年毎に訪れる大洪水のため、民家はよく流された。その度毎に上流の土佐から流れてきた木材で家を建て直したという。そういえば、この家の西側外壁には、流れてきたであろう舟の底板を貼ってある。
 現在の家は明治20年頃建てたもので、青石(森藤石)で築かれた地盤の高さは1.7メートルもあり、洪水に悩まされた昔時が偲ばれる。


 4.藍作農家
 A.河野芳夫氏宅(鴨島町西麻植字田渕)
 此の家は三代前の先祖が建てたもので約120年位前のものであるという。
 主屋とウマヤとも外壁は土壁、屋根は藁葺寄棟造りの小ぢんまりした姿は、周りをとりまく緑の稲田に溶け込んで、さながら一幅の田園風暑画を見るようである。鴨島町に残る唯一の藍作当時の昔を偲ぶ民家である。
 この家の間取りは、ナカノマ(帳場)が4畳と小さくて、「整型四間取り」へ移行してゆく過程をとどめている平面図である。


 B.宮本勝義氏宅(鴨島町上浦)
 藍作農家の典型的な(整型四間取り)と、茅葺の寄棟屋根に本瓦葦の庇を四方に下した所謂、「四方下(シホウゲ)」の家は、吉野川流域農家外観の一般的なものであった。これらの農家は10年前位から段々と新しい近代建築に建て替えられ、残った家でも茅とその葺職人の不足によって、トタンで覆うようになってしまった。
 宮本家は、130年前に建てたという家であるが、3年前に茅葺替えを行った。その時は、トラック3台分の茅を、国府町の職人を呼んで行った。その費用は、食事付で200万円程かかったという。おそらくこの地方の農家茅葺の最後の家となるであろうから、吉野川流域農家建築の伝統を、大切に残してほしいと願うのは、私一人ではなかろう。


 5.樋山地の家
 A.河野タキエ氏宅(鴨島町樋山地237)
 樋山地は鴨島町の南端の山中の集落で、車を下りてから1メートル巾の山路を登ること20分位で着く。ここには14軒の茅葺屋根の民家が点散し、河野姓が多い。河野家は伊予から移住してきた河野一族の子孫であるという。古文書も多くあったが、200年前に火災にあったとき焼失してしまったという。現在の家はその時建てたものだという。現に棟札が発見されたが、焼けがひどいので年号が解読できず残念であった。家の構造部材には、杉、松、栗、椎と昔この山で生えていた木を寄せ集めて建てられている。


 B.五島一良氏宅(鴨島町樋山地184)
 茅葺屋根と本瓦葺の下屋(オブタ)の約100年位前の山村農家の天井は径6センチの杉丸太を、間隔1尺位に渡し、これに直角に割片を配し、その上に杉皮を敷き、その上に土を置いた山家の「ヤマト」天井である。


 C.a.河野元一氏宅(鴨島町樋山地137)
 推定150年前の建築で、茅葺トタン覆いで、「オブタ」(庇)は本瓦葺、外壁は土壁仕上。「ナカノマ」、「オモテ」、「オク」の三部屋の形式は、山間民家に見られる古い間取りである。
 b.河野松蔵氏宅(鴨島町樋山地196)
 この家は約120年前の建物で、河野元一氏宅の上の山にあり、現在廃屋となっているが、外部も内部もまだ充分住生活ができる建物である。24センチ角の欅の大黒柱があり、平地の農家に見られるような「整型四間取り」の家である。


 6.町家
 川真田省三氏宅(鴨島町鴨島)
 鴨島町の町並は経済成長の急テンポと、都市計画による道路整備によって、旧町家は段々と姿を消して、新しい商店建築街に変わってきている。
 川真田氏宅は、文政2年(1819)の棟札をもつ醤油製造業者として町屋「鹿嶋屋醤油」であったが、道路整備のために、町屋部分は削りとられて、今は、記録にとどめる在りし日の店の外観写真と、間取り図がある。
 これは、昭和55年11月に、徳島県建築士会の町並保存研究会長の林茂樹氏の調査した貴重なものである。


 この家の取壊しについての記録をとどめておこう。
 1  昭和55.12.15、町文化財保護審議委員会が、調査開始して町当局に保存策を要望した。
 2  町当局は、「予算と用地売買契約の完了」の理由で、12月23日から建物の取壊しが始まり、12月28日までに姿を消してしまった。
 3  同審議会は、せめて醤油製造の道具類だけでも保存しようとしたが、町内に展示する場所がなく、高松市屋島中町にある四国民家博物館(四国村)に引き取られる結果となった。


 7.遍路宿
 岡田覚三氏宅(鴨島町飯尾藤谷)
 東から西へ撫養街道を、1番から10番まで、遍路してきた巡礼者は、ここで歩みを南へ転じて吉野川を渡り、第11番藤井寺に辿りつく。
 10年程前から、昔のままの遍路宿は段々と改造され、民宿の看板を出してゆくなかに、ここ藤井寺の附近には、昔の姿を残した遍路宿が4軒ある。これらの遍路宿は、街道筋にある宿と違い、巡礼者の染みが溢れていて大変懐かしい。門前の下のところに2軒、門を入って本堂へ上る石段の左の谷川を渡ったところに1軒、石段を上った左側に1軒残っており、「へんろ御宿」と書かれた看板が淋しく見られるのは、時代の移り変わりだろうか。
 岡田氏宅は、「さくらや」の屋号をもつ茅葺屋根の遍路宿で、建築年代は推定120年前のものとみられ、おそらく、茅葺屋根の民家風の遍路宿としては、県下で最も古いものであろう。
 宿泊部屋は、6畳の間が4部屋と、9畳が1部屋もつ大きな宿である。昔は、ここで一泊し、明日は四国遍路最初の難所といわれた「へんろころがし」の急坂な山路を登って、次の札所焼山寺参りのために、お国自慢の話をしながら充分な骨休みをしたところであろう。
 現在でも寺の境内の左側には、昔の遍路の路が夏草に覆われて、わずかに「焼山寺へんろみち」と彫られた石の道しるべをのぞかせている。


8.森藤石
 橋本積美氏石切丁場(鴨島町檀林)
 「大谷通れば石ばかり、笹山通れば笹ばかり……」と、阿波踊りのはやし詞に読み込まれた阿波の青石は、その優雅な色彩と妙なる石組を、春雨煙る柳と藍蔵の白壁と共に織りなした影を新町川の水に映して、橋を渡る阿波人は勿論、この地に足を運ぶ県外人に、動的な阿波踊りと共に静かな阿波の情緒を漂わせてくれたものであった。
 昔から土木、建築、板碑、庭園用材として使用され、人々に親しまれてきた青石は、最近その価値を認められ、その作品が県内の各地にモダン・クラシックの様式として表現されているのを見るのは、私にとって頼もしく感ぜられる。
 県内には青石の他に、鳴門市三石に産する「撫養石」と呼ばれる和泉砂岩と、那賀郡・阿南市附近に産する石灰岩とがあり、共に土木建築用材として有名であるが、青石の持っている独自の色彩と質感に於いてはその比ではない。
 阿波の青石は、その産地によって名称が付けられており、昔は下浦石、大谷石、佐古石、大野石、西山石、籠石、大神子石、森藤石、津田石、片解石(かたげいし)、小島石、半田石の12箇所の丁場があったことが記録されている。中でも「森藤石」は最も良質な青石で、軟質と粘ばりがあり色彩も優れており、石細工が容易であるばかりでなく「長尺物」が採れるので重宝された。藍作地帯の農家に使用されている「オトヰ」(井戸側)は、オトヰとハシリが一つの青石から造られる程、細工が容易である。例として鴨島町の協同病院のオトヰはそれである。又、浦庄の某家には便所腰廻り全部がこの青石で造られている。現在森藤石の丁場では、藩政時代から続いている伝統を受け継いで、橋本氏父子が石を切り出されているのは頼もしい限りである。


徳島県立図書館