阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第30号
鴨島町の社寺建築

郷土建築班 野々瀬徹

はじめに
 我々郷土建築班は阿波学会総合学術調査に参加し、鴨島町の社寺建築の調査を行った。班員は、橋本国夫、間健治、富田真二、野々瀬徹の4名の建築家の他に、林業家の和田善行さんが客人として参加された。
 調査にあたり、日本建築の貴重な文化財としての社寺の調査記録をするのと同時に、我々は現代における社寺建築空間のありようの考察を試みた。
 この調査にあたり町役場の方々、地元の皆様方、県立図書館の担当の方々に多大の御協力をいただきましたことに深く感謝申しあげます。


目次
1.日本の神社建築様式の概要
 1  神社建築歴史年表
 2  神殿様式の発展図
2.鴨島町の神社建築様式について
 1  神社建築様式の分類
 2  流れ造り様式の説明
3.西麻植八幡神社
4.鴨島八幡神社
5.鴨島町の神社アラカルト
6.日本の神社建築様式の説明
 1  神明造り
 2  大社造り
 3  住吉造り
 4  春日造り
7.日本の仏寺建築様式の概要
8.玉林寺
9.藤井寺
10.河辺寺跡
11.鴨島の仏寺建築アラカルト
12.まとめ

 

1.日本の神社建築様式の概要
 1  神社建築歴史年表


 2  神殿様式の発展図


2.鴨島町の神社建築様式について
 1  神社建築様式の分類
 鴨島には23の神社があり、16の小社がある。本調査では、12の神社を調査した。結果、流れ造り様式が11、大社造り様式が1の様式分類結果を得た。(徳島県下の神社建築様式の大半は流れ造りである)
 2  流れ造り様式の説明
 鴨島町でもっとも多い流れ造り様式について説明する。

                     側面図


 ○神明造から出た様式。
 ○切り妻屋根、平入りの形式、正面側の屋根の流れを長く延ばして反りを付け、これを向拝にした社殿である。
 ○高欄付きの廻縁、前面には木階高欄。
 ○流れ造の社殿は全国的にみても普及範囲が広く、数の上からいえばその7割。


3.西麻植八幡神社
 ○鎮座地:西麻植壇ノ原157
 ○祭神:誉田別命、応神天皇
 当社は、正保、慶安の頃(1644年〜1651年)の頃、現在地に河辺八幡宮の分霊を受け小祠が建てられ、まもなく立派な社殿が建てられたといわれている。


 山腹に位置する神社であり配置図に見られるように、参道には、御神灯→桜(神木)→カラジシ→モモの木(神木)→鳥居(両部鳥居様式)→太鼓橋→灯ロウ→石柱→備前コマ犬→献水→拝殿という順序で、神のいる本殿に至る。この参道は、神へのすぐれたドラマツルギーをもつ構成がされているといってよい。


 狛犬、両部鳥居、太鼓橋は鴨島町指定有形文化財である。(狛犬昭和56年12月1日。両部鳥居。太鼓橋昭和57年7月15日)
(1)狛犬
 陶製の狛犬は四国に四社あり、徳島には当社だけにある。備前焼の本場伊部の窯元森嘉太郎中節の作品で天保5年(1835年)に焼かれたもの。
(2)両部鳥居


 四脚鳥居、権現鳥居の呼び名もある。神仏習合の様式である。本柱の前後に小柱を設けこれに貫を通している。柱の上端には丸の台輪が付く。明治元年以前のもので、ネズミサシの木で造られている。日本でも数少ないものである。
(3)太鼓橋


 太鼓橋は石造建造物で、橋のそりの大きさは県下でも類のないものといわれ、天明3年(1783年)に造られたが、二百年を経た今日も何のくるいもなく踏むと音がでる。
 社殿は拝殿と祝詞殿が連結され、石段をあがり本殿がある。


 拝殿は6間・3間(11.7×5.85m)で、屋根には千鳥破風(屋根面にのせる小形の入母屋破風。破風の三角形を千鳥とみる)を有し、唐破風のついた2間の向拝が設けてある。屋根は照破風入母屋本瓦葺きであり、降り棟がついている。棟の先端には見事な鬼瓦がついている。内部は1室であり、板間部分と8帖の畳敷の部分がある。向拝の虹梁はケヤキで木鼻は立派な龍の彫刻であり、名大工の作である。
 本殿は、流れ造りの様式であり、一間社である。屋根は銅板一文字葺き。外壁に彫刻はない。


4.鴨島八幡神社
 ○鎮座地:鴨島町鴨島237番の2
 ○祭神:誉田別命、菅原道真鴨島六之進
 ○御神体:公家武士合体の木の彫り物
 ○社宝:幸野梅嶺筆の奉額


 社殿は拝殿と祝詞殿が連結され、本殿がある。事代主神社と稲荷神社の末社がある。屋台格納庫が2庫、忠魂碑がある。
 拝殿は5間・3間(9.95×5.0m)で、唐破風のついた1.5間の向拝が設けてある。屋根は照り破風入母屋本瓦葺きであり、鬼瓦立派、本式の降り棟を有する。木連れ格子、懸魚の彫り立派。軒は疎ら■である。柱などの木材は桧である。内部の天井は棹縁天井、床は畳敷きの1室である。


 向拝の木材はケヤキ。柱は几帳面取り。二重虹梁で、上の虹梁の上には松の彫り、下の虹梁の木鼻は龍の素晴らしい彫刻。本懸魚はホウオウ。左右脇懸魚は鶴である。いずれも見事な彫刻で名工の作とおもわれる。向拝の天井は棹縁塗りの格天井であり、絵天井板がはいっている。絵の美しかったことが、破損いちじるしいが、うかがわれる。


 本殿は流れ造りの様式であり、2間1面。御影石の玉垣に囲まれ、3段の撫養石の基段の上に建ち、撫養石の亀腹をまわしている。鴨島では良質の青石を産出するのに、わざわざ遠方の鳴門から撫養石を運び使用したのはぜいたくな仕事である。屋根は銅板一文字葺き、軒は二重■であり本繁■の■割である。木材はケヤキである。側面には中国風の立派な彫刻がなされている。側壁にはケヤキ1枚板の板壁がある。


 鳥居の形式には明神鳥居。御影石造り。文政元年造。発願主は川真田。額は八幡神社、天満神社となっている。


5.鴨島町の神社アラカルト
 (1)杉尾神社
 社殿は昭和26年改築であり、鎮座地は、喜来乗島である。祭神は大己貴命、市杵島姫命事代主命で社宝に高麗狗がある。本殿は流れ造り、銅板葺きで御影石の玉垣に囲まれている。拝殿の屋根は照り破風入母屋造りで本瓦葺き、本式の下り棟である。向拝は大唐破風になっている。


 (2)若宮神社
 鎮座地は喜来出口で祭神は大雀神、大由祇神である。鳥居は明神鳥居で拝殿の屋根は、照り破風入母屋造りで本瓦葺きの下り棟である向拝は縋破風で本殿は流れ造りの銅板葺き。御影石の玉垣で囲まれている。


 (3)若宮神社(知恵島)
 鎮座地は知恵島十田須賀西であり祭神は、大己貴命、野槌神があり、拝殿は照り破風入母屋造りで銅板一文字葺きである。向拝は大唐破風。本殿は大社造りの変化形で屋根は銅板葺きになっており、徳島では特異である。


 (4)若宮八幡神社
 鎮座地は上下島宮内であり、祭神は、大鷦鷯命、菅原道真である。鳥居は、明神形式、拝殿の屋根は、照り破風入母屋造り本瓦葺で下り棟である。向拝は大唐破風。本殿は流れ造りの屋根は銅板葺きであり、御影石の玉垣に囲まれている。


 (5)神木神社
 鎮座地は牛島桑上であり祭神は伊弉諾命と伊弉冉命である。拝殿の屋根は照り破風入母屋造りで本瓦葺きの下り棟であり向拝は大唐破風である。本殿は流れ造りで屋根は銅板葺き青石の基礎の上に建っている。


 (6)八幡神社(牛島)
 鎮座地は牛島宮間であり祭神は応神天皇、息長足姫神、媛大御神、天日鷲命、道臣命である。本殿は流れ造りで屋根は銅板葺きになっており2重の御影石の玉垣は立派なものである。屋根は照り破風入母屋造り本瓦葺きで下り棟になっている。向拝は大唐破風である。

 門:随身門について
 神社外郭の間で巻櫻(けんえい)の冠を載き闕腋(けってき)の袍を着し、兵杖を帯びた神像を左右に安置したもの。この2神は、■神(まどもりのかみ)また、看督長(かどのおさ)の像、世俗に、矢大神、左大神という。もと仏寺の仁王門の仁王にならって構えたものという。


 (7)天満神社
 鎮座地は牛島であり、鳥居は明神鳥居である。拝殿の屋根は照り破風入母屋造りの本瓦葺きであり向拝は、簡単な縋り屋根となっている。本殿は、流れ造りである。


 (8)諏訪神社
 鎮座地は中島字福井であり祭神は健御名方神である。大正14年4月に上下島の諏訪から現在の地に移転された。


 (9)春日神社
 鎮座地は森藤春日免であり、祭神は天児屋根命である。本殿は切り妻になっており、鳥居は明神鳥居である。


6.日本の神社建築様式の説明
 1  神明造り


 ○代表的遺構:神明宮本殿(長野県)
 ○懸魚その他の絵様繰形などは一切用いないのが、大きな特徴。
 ○神明造りは、一般には禁じられている。
 2  大社造り


 ○古代の住宅形式をそのまま適用したもの。
 ○社殿としては最古の様式(大国主神が祭神)
 ○切り妻屋根、妻入り、方二間の正方形の平面(四つ目建(だて))
 ○屋根の反り、破風板や置千木、回り椽などは後世の手法であり、式年造営の結果次第に変化。
 ○出雲大社本殿、神魂神社本殿。
 3  住吉造り


 ○大社造りから、変化発達した様式。
 ○側面四間(よま)、正面二間(ふたま)。
 ○切り妻屋根、妻入りの形式。
 ○平面は中央に間仕切りを設ける。
 ○住居の平面から脱却して社殿の機能の平面。
 ○妻の懸魚が楯形となっている。
 ○住吉大社本殿。
 4  春日造り


 ○住吉造から出た様式。切り妻屋根の片側の妻に向拝を付加した妻入りの形式。屋根はたるみ曲線。
 ○仏寺建築の影響を受けている。(平安初期)
 ○春日大社本殿を祖型とし、奈良県に多く分布。


7.日本の仏寺建築様式の概要
  仏寺建築の歴史と様式
 神社、仏寺の日本建築はその歴史にみる通り、時代とともに様式の変遷があった。このような歴史を根拠に、はじめて今日の建築の営みがあるので、日本建築の仕事というものは、たとえ小さな造営にかかわることであっても、様式についての基礎知識が大切である。
 仏寺建築を中心に、日頃、仏寺の設計や施工の業務に携わる者にとって、必要と思われる様式についての知識を簡単な図式形式にまとめてみた。


8.玉林寺
 (1)山路107番地
 (2)禅宗:臨済宗妙心寺派
 (3)寺号:慈眼山玉林寺
 (4)本尊:千手観音(11面観音)
 (5)阿波西国第30番観音礼所
 (6)開基及び沿革
 縁起によると文治二年平康頼が源頼朝の命により、阿波の国保司に任ぜられ、この辺一帯を治めた。翌文治三年(1187年)後白河法皇から賜った閻浮檀金の一寸八分の千手観音を本尊として、今の堂床の地に、慈眼山玉林寺を建立せられた。阿波誌には天正年中(1573〜91年)に兵火にあって、一山皆廃絶したとある。延宝年間(1673〜80年)に宗本が現地に中興開山して臨済宗となった。
 (7)十六善神像(県指定重要文化財)がある。


 観音堂は3間・3間(6.3×6.1m)で、縋破風のついた1間の向拝が設けてある。屋根は方形で本瓦葺きであり、頂上には銅製の露盤宝珠がある。洗心堂は、1.7×1.2mであり、屋根は切妻本瓦葺きである。
 本堂は6.5間・6間(13×12m)で、唐破風のついた2間の向拝が設けてある。屋根は大きくて立派な千鳥破風を有した、照り破風入母屋本瓦葺きであり、本式の降り棟がついている。棟の先端には見事な鬼瓦がついている。向拝の虹梁はケヤキで木鼻は立派な龍の彫刻であり、唐破風の棟瓦は雲と龍と鶴であり、本懸魚は松と鶴の彫刻である。


 昭和8年に改築された書院の床間には、平康頼遺物とされる茶臼と、本堂改改築前の享保17年(1732年)のめずらしい瓦がある。この瓦は、森藤村の瓦づくり、伝恵、蔵太郎、佻光等の手による鬼板から鬼瓦に変化した初期の瓦である。(鬼板とは、棟の先端の飾り板であるが、実用的には一種の雨仕舞である。鬼というが鬼面を現わしたものは少なく、あっても後世の造作である。奈良時代からあり、平安時代に盛行した。鬼瓦は棟の先端にあり、鬼板と同意義のものである。瓦製であり、鬼面、獣面を現わし、辟邪的意味を持つ。室町時代に角のある鬼面が造られ、左右両下端に足元や鰭も付けられることになった。)森藤山路は昔からの瓦の産地である。


9.藤井寺
 (1)位置:飯尾1525番地
 (2)宗派:禅宗 臨済宗 妙心寺派
 (3)寺号:金剛山藤井寺
 (4)本尊:薬師如来。久安4年(1148年)の銘。
    H=87cm、1木造り。国指定重要文化財
 (5)開基:弘仁年中(810〜23年)に弘法大師開基。


藤井寺は四国霊場の第11番の礼所である。“色も香も無非中道の藤井寺、真如の波のたたぬ日もなし”と御詠歌に歌われている。
 本堂は4間・4.5間(8.81×10.110m)で唐破風のついた2間の向拝が設けてある。屋根は大きくて立派な千鳥破風を有した、照り破風入母屋本瓦葺きであり、本式の降り棟がついている。千鳥破風の美しさは県下で類の少ないものである。棟の先端には見事な鬼瓦がついている。外壁がシックイ塗りではなく、板張りであることは寺院建築ではめずらしく(神社建築が外壁板張りである)藤井寺の伝統の一端を示すものとおもわれる。本堂全体のプロポーションはよく整いすぐれた寺院建築といえる。内部は板間の1室空間を柱等で外陣と内陣の境をつくっている。


10.河辺寺跡


 徳島県指定史跡である。位置は敷地532番地。昭和30年県立工業高校の藤目正雄、四宮照義等が発掘調査した結果、17個の礎石や瓦が発見された。礎石は自然石で2尺前後、瓦は弘仁(g10〜23)期のもので現在徳島県立博物館に保存されている。時代考証の結果平安中期に創建されたと推定されている。当時は、宇治の平等院鳳凰堂や平泉の中尊寺金色堂の建てられた時代であり、河辺寺も同様の阿弥陀堂建築様式ではなかったか。昭和30年の発掘調査は部分調査であり、今後の、全体の発掘調査による全体解明がまたれる。


11.鴨島町の仏寺建築アラカルト
 (1)宝王院


 ○位置:牛島1005番地
 ○宗派:真言宗、御室派
 ○寺号:延命山、宝王院
 ○本尊:薬師如来
 (2)西覚寺


 ○位置:牛島1030番地
 ○宗派:浄土真宗、西本願寺派
 ○寺号:安養山、西覚寺
 ○本尊:阿弥陀如来
 ○向拝:縋り向拝
 ○鐘楼:四脚鐘楼
 (3)常教寺


 ○位置:鴨島764幡地
 ○宗派:真宗、興正派
 ○寺号:念山、円寂院常教寺
 ○本尊:阿弥陀如来
 ○門:薬医門
 ○本堂:屋根照破風入母屋造り本瓦葺き
 ○向拝:縋破風 
 ○鐘楼:四脚鐘楼
 (4)持福寺


 ○位置:飯尾623番地
 ○宗派:真言宗、御室派
 ○寺号:宝憧山、成就院持福寺
 ○本尊:阿弥陀如来
 ○本堂:屋根は照り破風入母屋造り本瓦葺きに四方下屋を降ろしている
 (5)徳住寺


 ○位置:喜来139の1番地
 ○宗派:浄土真宗、西本願寺派
 ○寺号:専修山、徳住寺
 ○本尊:阿弥陀如来
 ○寛永七年住職円了の時、徳住寺と称え同26年本堂を建立した
 ○本堂:屋根照破風入母屋造り本瓦葺き
 ○向拝:唐破風
 ○前庭:芝生ののびやかな近代的で明るい庭である。石の使い方も良い。


12.まとめ
 調査中に感じたことの一つに、戦争の恐ろしさがある。天正年間(1573〜91年)の長曽我部元親の兵火により鴨島の主だった社寺は焼失している。これは建築の焼失と共に鴨島の古い記録を失なうことであった。文化の伝承がそこでとぎれている。江戸時代となり平和がよみがえり生活が安定した元禄(1688〜1703年)頃から記録が残っている。そのような理由もあって総体として鴨島の社寺建築には文化財的な価値を有するものが少ない。けれど、社寺建築の調査は、文化財保存のためや、地域の建築史の資料づくりのみが目的ではない。何故なら社寺建築は遺跡ではなく、今なお私達の生活と結びついた建築空間だからである。


 したがって社寺建築の調査方法には次の二つが必要だと考える。
 1.文化財保存、建築史の資料づくりのための調査方法
 2.建築空間が人間にどのような意味をもっているかの意味論、認識論に立つ調査方法。
この二つの方法による調査がおこなわれたら、建築文化の伝承と発展に実質的に役立つのだが、非常にむずかしい課題である。
 意味論、認識論による調査方法を簡単に説明すると、「調査対象の建築は空間意識の拡大による空間認識であり、空間意識の拡大による空間認識は調査対象の建築にほかならない」ということであり、調査対象の建築と調査者の意識は、相互に影響しあい、統一される場に立ってはじめて意識は拡大され空間の理解がおこなわれると考える。このような空間認識をおこなう方法として、空間識像法を提唱する(識像とは認識と建築像の結合の意である)。空間識像法の一つである建築の重合化方法を使って、神社建築と現代住宅の重合を試みたのが上図である。これはいわばアートワークであり遊びである。ここに生じた二つの全く時代も用途も異なると云われる空間が重合したところに発生する空間のスパーク、ズレを読みとっていただきたい。この図を参考にして近所の社寺建築の空間を様々な空間と重合させることを楽しんでみていただきたい。そのようなアートワーク的遊びから現代における社寺建築の考察や可能性の発見が多少とも生まれるものとおもいます。
 最後になりましたが、今回の調査では、四宮照義先生の御指導を全面的に受けました。深くお礼申しあげます。 (終)


徳島県立図書館