阿波学会研究紀要


このページでは、阿波学会研究紀要論文をご覧いただけます。
 なお、電子化にともない、原文の表記の一部を変更しています。

郷土研究発表会紀要第29号

日本最古の「雲首形(うずがた)位牌」

史学班 青木幾男

(はじめに)
 昭和57年度阿波学会総合学術調査史学班として、私は鷲敷町の民俗信仰の変遷について、調査をすすめてきた。前年の貞光町調査では、庚申信仰の変遷を調べて一応の成果を得た。これを基盤として、鷲敷町でもまず手はじめに庚申塔・石塔・石仏の所在を、全町くまなく探査した。庚申塔の所在も確認することができた。
 調査期間は、例年通り夏草の繁茂する7月から8月初旬にかけてである。雑草はたけ高く延びて石仏をおおい、草むらでは蚊柱が立つ。農村の人々からなかば忘れられようとしている信仰の遺物を確認することは、かなり忍耐と因難を伴う。しかし今回は、どこでもきれいに草刈りされ、しきみ・花も供えられ、非常に楽に成果をあげ得た。町当局ならびに町住民の方々の、調査に対するあたたかい心づかいが肌に感じられ、恵まれた環境で作業がすすめられたのは幸いであった。


(雲首形位牌発見)
 庚申塔を求めて、8月5日午前10時頃、鷲敷町中山字生杉の生杉晴夫氏宅を訪れた。生杉家が管理する観音堂に庚申塔が祀られていることを聞いたからであった。現地は、阿南市から阿瀬比トンネルを越えて、国道195号線を西へ約2.3Km程行った右側である。観音堂は生杉家の西裏手の小高いところにあって、阿波秩父第14番札所にもなっている。観音像は古くから人々に知られており、田所眉東氏も調査に来られたとかで、由緒ある寺であったらしい。中世に戦いがあった事を伝える伝説も残されている。


 観音堂は小さいが、正面祭壇の左側には、木像青面金剛が御厨司のなかに祀られていた。木像の青面金剛は非常に珍らしい。私には初見であった。中央には少し大型の厨司の中に観音像、その右側に役小角(役の行者)像・不動尊像・乳の神様像等が祀られていて、さながら民俗信仰の宝庫の観があった。
 常内に強く関心を持ちながら、祭壇の裏をのぞくと、何種類かの木札類にまじって、位牌ようのものがあった。取出してみると、「雲首型位牌」である。位牌は2基あり、1基は笠部のうち最上部の雲首形部分が失われていたが、同形同寸で、筆跡から見ても、同時に造られたものと推測される。1基の正面には「今上皇帝聖寿萬安」と楷書で丁寧に彫刻され、台座裏に墨で縦書きに、
  応永廿七年 庚 子 仲■日 願主 住持 南 珠 住持 梵賀謹
と書かれている。
 他の1基には、正面に「本寺檀那本命元辰」と、同様の書体で刻まれているが、紀年銘はない。この位牌とよく似たものに、県文化財として指定されている。同じ鷲敷町八幡原の、谷二三也が所蔵する文明18年(1486)のものがある。今回発見されたものは、応永27年(1420)で、66年古いことになり、年代の確実なものとしては、この位牌は最も注目すべき文化財である。

表1


(時代考証について)
 生杉家は、江戸時代には徳蔵院といわれた、代々修験道の家柄であった。修験道は血縁で相続され、今も江戸時代初期からの代々の位牌を仏壇に祀っている。それ以前の位牌は、お寺と共に朽ち傷んだので、処分したとのことで惜しまれる。
 お寺はもと荘厳院といい、本宅の北側を約70mほど坂道を上った。広い竹籔の中にあった。傍らに古い宝篋印塔と数基の五輪塔が散乱している。生杉家は、明治になって神仏分離令の時修験道を廃止し、寺の仏像を現在の観音堂に移したとのことである。
 一方、文明位牌を所蔵している八幡原の谷家も、谷の坊といわれる古い修験の家柄であった。日本でも数少ない雲首形位牌が、鷲敷町に2基、しかも、修験道であった家に残されている偶然の一致に驚ろいた。そしてそこに、中世の民間信仰を解く鍵があるのではないかと考えて、調査のため、58年1月に谷家を訪問した。

 位牌の形は別掲拓本写真のように、谷家の方が少し大きい以外は、非常によく似ている。ただ、生杉家の雲形の頂部には日輪があるが、谷家には日輪がなく、頂部が丸くなっているだけの相違点がある。これは時代差の違いではなくて、雲形の構図をも含めて、製作の人物が違うことによるものであろう。なお、続いて資料を拝財するうち、谷の坊の庵堂に祀られている薬師尊像の台座裏にあたる縦36cm・横43cmの杉板に、縦書きで下記のような墨書記録があった。


記録の意味は――
 「徳治2年(1307)に大洪水があって、満宝寺の伽藍も本尊と共に流失してしまった。しばらくは誰も造営する者がなかったが、金剛仏子の阿闍梨性弁が1軒1軒まわり、1枚の紙、半銭の浄財を集めて伽藍を建立し、本尊を造立した。本尊を彫刻したのは、京都三条に住む彫刻師法橋である。台座と光背は性弁が造った。後日これらが破損した時には、どうか信心深い心ある人達が、修理していただきたい。思うにまかせて『元応元年つちのと・ひつじ(1319)の年9月17日』に性弁がこれを書いた。それから130年後の『文安6年つちのと・み(1449)の2月になって、その本尊が傷んだので、藤原俊忠が願主になって修理し、再び彩色した。悦山老梵賀が畏ってこれを書いた。」
というものである。古い記録の前に剥ぎ足している。この再修理の記録を書いた悦山老梵賀こそ、生杉家位牌を書いた住持梵賀であろう。筆跡も似ている。老は老宿の老と思われる。
 応永27年から文安6年まで、29年の年代を経ている。位牌を書いた時に梵賀が40才前後であったとしても、この時には70才近くなる筈である。修業を積み、高僧としての地歩を占めていたことは、充分推察できる。
 再修理の願主藤原俊忠は、延野村の鮎川八幡及び松尾神社両者の什物である、大般若経の第593巻奥書きに、
 「至徳四年(1387)五月書写印日本国阿波国延野郷為大門神八幡宮法楽也右趣者藤原俊忠現世安穏後生善所也」
 と書かれている俊忠と同一人であろう。(注1)この大般若経を書き写した時から、再修理まで62年経っている。信心深い俊忠は、おそらく寄る年波に、自分の死後の供養として薬師如来を彩色し、寺院も修理したものであろう。
 薬師如来台座記録の性弁の書いた部分は、当時の災害を証明する最古の記録として、阿波国徴古雑抄巻3に、また徳島県史第2巻に収録されている。つづいて紀年銘の様式について、少しふれておきたい。生杉家位牌の紀年銘は応永廿七年の下に、子庚と横に平行して干支が書かれている。干支は古いものは平行しているが、江戸時代に入ると、庚子の如く、十二支を1段下げて十干の斜め下に書くことが多い。例外もあるので一概にはいえないが、この書式は室町時代初期のものと考えて、まず間違いのないものと確信する。
(位牌の歴史)
 中国の周の時代(紀元前1200〜紀元前500)の初期、今から約3000年前に、孔子を祖とする儒教が起こった。
 儒教は、「修身・斎家・治国・平天下」といって、まずおのれの身を修め、家をととのえ、これを基盤に、国家社会が平穏に治まることを祈った。その祈願の対象として、天地の神や祖先の神位を書いて崇めた長方形の板を「版位」といった。後世になって死者を祭るために、死者の姓名・尊称・諡号・在世時の位階官等などを書き、死者の霊代とする風習が、神道・仏教など一般にも行なわれるようになった。
 この風習が日本に道入されたのは、平安時代といわれる。そして、鎌倉時代頃から仏教とともに流行して、一般の習俗となったものである。名称は神道では神版・神牌、仏教では霊版・霊牌という。儒教では、位版・主版・主牌といったが、通俗にはこれを位牌といった。版も牌も板のことである。
 日本で位牌が記録にはじめて現れるのは「塵添■嚢鈔」に北條時頼が回国の頃には位牌があったことになっている。しかし、判然としているのは、応永15年(1408)に足利義満の位牌がつくられたという記事が、「鹿苑院殿葬記」に、「一つ位牌の事」として記録されているのが最古とされる。
 実在する位牌としては、従来は、足利義政(1436〜1490)の自筆と伝えられる、京都慈照寺(銀閣寺)の義政の逆修位牌が最古といわれた。其後、昭和36年8月に奈良県元興寺極楽坊の東門前遺物包蔵坑発掘のとき、応永年代に遡ると見られる位牌が発見されたという。したがって記録の上でも、実物でも、応永以前のものは見つかっていない。そして、生杉家低牌は、年代の明らかな点で現在のところ日本最古のものであろう。
 位牌の形には、雲首形・櫛形・家形等に大別できるが、雲首形が古いとされている。生杉家位牌は、死者を祭る位牌ではない。位牌は前述のように、元来は神の依代(よりしろ)であり、祈願の対象であった。
 儒教では神そのものであった位牌は、仏教では、礼拝の対象という意義を一歩拡大して、その位記の主が弥陀に救済されるよう、極楽浄土を願う供養的意義が含まれるようになった。従って、祭壇に仏像を背にして安置され、位牌だけを単独で礼拝する場合は、余り見られなくなった。
 逆修位牌とは、鎌倉時代頃から、死者のみでなく、現世の長寿と安楽を願う意味で、生存中に仏の教済を求める逆修供養が行なわれるようになった遺物である。逆修墓や逆修位牌がさかんにつくられた。その風習は近世まで続いたが、鎌倉・室町期が最もさかんであった。逆修の行なわれる基本的理由は、仏教の三世一体の理念「前世・現世・来世が人の一生で、因果関係があり、現世で供養し、功徳を積めば弥陀に救済せられ、現世が幸福になり、死後も極楽往生ができるという考え方」によるものであろう。
 生杉位牌の1基は、称光天皇の長寿と健康を願って、南珠の発願で寺の住職梵賀が書いたものである。1基は寺の檀那の健康と繁栄を願って、梵賀が同時に書いたものであろう。これは逆修牌であり、儒教の国家社会の安穏を祈る位牌の祖形を伝えるものであると推定できる。
 このような例は、室町時代には各地で行われたらしく、谷の坊位牌の県指定文化財に尽力せられた浪花勇次郎氏の研究によれば、岡山県沼隅郡鞆町安国寺釈迦堂に、よく似た2基の雲首形逆修位牌があるという。それには――、
 表.「今上皇帝聖躬萬歳」
 裏.「願主鞆浦関町六屋次郎右衛門尉銀受浄金禅頓證菩提造立之作作者透叔法孫慕恵自連―慶長六年 辛 丑 霜月十五日当住持叔明徴七十有八年三」
 表.「檀那本命元辰星斗」
 裏.「願主関町六屋浄金禅門子息玉仲性禅門為後世即心成立之作者透叔法孫慕恵自連――慶長六年 辛 丑 霜月十五日当住持透叔徴七十有八年記」
とある。何れもが生杉位牌と同じ目的で、住職慕恵によって、同時に作られたことがわかる。


(鷲敷の中世と文化)
 現地は阿南市に近いとはいえ、中世には交通不便で、僻地であった筈の鷲敷町である。この地に、全国的にも稀少な雲首形位牌が3基も存在することについて考察をすすめた。第一に、生杉家も八幡原の谷家にも共通していえることは、古い五輪塔がみられることであった。もともと鷲敷町は五輪塔が多いところで、名部落に必ずといってよい程に散在している。その中でも、両家は特徴的な存在である。
 当時の五輪塔は庶民のものではない。江戸時代からの棟付帳によって、代々修験者としてこの地に住んできたと記録されいる両家は、室町時代あるいはそれ以前まで家系を遡のぼらせることができるのではあるまいか。それを証明するように、生杉家の裏山には、古い宝俵印塔がある。その実測表は、表2の通りである。

 県内の宝篋印塔としては、阿波郡市場町大野寺にある県文化財の永和4年(1378)塔が知られている。また昭和52年に西宮市在住の、石造美術研究家田岡香逸氏が来県し、徳島市丈六寺の宝篋印塔笠および塔身を、南北朝後期(1390)頃のものであることを発表した。(注2)
 その説によれば、宝篋印塔の形が整うのは1310年頃、この頃のものを整備形式といい、それより古いものは、基礎・塔身・隅飾・笠の幅に比較して、各部が高くなるといわれている。生杉塔は、高さに対する幅の比率が、基礎1.69、笠1.23、隅飾1.00で、何れも整備形式に近い数値を示している。隅飾の上部は若干欠けているので、まだ0.5cm位高かったかも知れない。手法や形式もととのっているので、鎌倉末期(1320)頃に年代を置けるのではないかと考えられる。


 徳島県では僻地といわれる山間部に、古い五輪塔や宝篋印塔が多く残されている。それは、鎌倉・室町期に戦乱を避けて隠れ住んだ人々のものではなかったかと考えられる。それらの人々は、生活の方法として修験道に従ったものである。
 神仏混淆の時代、山伏達は神社にも奉仕し、寺も造営した。阿波の修験道には、金剛密教が多い。谷の坊の薬師如来の台座銘を記録した性弁や梵賀も、修験者であったと考えても無理はない。南北朝時代、修験者が阿波山岳党として南朝に味方し、戦ったことは有名な事実である。生杉の荘厳寺にも、こんな話が伝えられている。
 「生杉の観音像は、昔『どうのもと』といわれた裏山の頂上に祀られていた。
 そこは紀洲灘をも一望できる展望のよいところで、観音の御光りは、紀洲沖まで差し照らしていた。紀洲沖で魚漁をする紀洲の漁師は、まぶしくて漁ができないといって、5人一団となって観音堂を焼き討ちにきた。火をかけられて、観音堂は全焼したが、観音像は自から飛び降りて、現観音堂の約3000m東南方にある川向いの『にごりさこ』というところで、つつじの株の上に鎮座して難をまぬがれた。そのつつじの株は、今も観音に伝えられている。寺を焼いた5人の漁師は、麓まで降りた時、急に腹が痛みだして5人共死んでしまったので、そこに墓を建てて祀った。」
というものである。
 5人の漁師の墓というのは、現在の観音堂から200mばかり西方の、旧街道と思われる道の傍にある。凝灰岩や花崗岩の水輪・火輪・空風輪が並んでいる。私が五輪を調査したのは1月下旬というのに、青々としたしきみが供えられていた。一時墓地の所有者が墓を移転したが、不幸が続くので、また現地に戻したとも伝えられている。
 これら五輪残欠は、漁師や庶民のものとは考えられない。形もかなり大形で、時代も古い。多分南北朝頃とみられるので、この場合、漁師を水軍と置きかえて考えると、伝説の筋が理解できる。
 南北朝時代に仁宇谷郷は南朝か北朝か、何れにしても、どちらかに属して活躍したことが、残存遺物からみても推測することができる。鎌倉・南北朝頃には、戦乱を避けた貴族たちによって、直接に仁宇谷に中央文化が流入していたことは確実であろう。
 注1.鷲敷町史131頁
 注2.阿波郷土会報「ふるさと阿波」98号8頁


徳島県立図書館