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はじめに 徳島県では県内の各学術研究団体を統合して「阿波学会」を組織し、県立図書館のお世話で毎年、夏休み初め頃、県下のある地域を定めて綜合調査をし、その年の暮れに公開の研究成果の発表と報告書を出している。今年は徳島を西から東に流れる吉野川の中流域に位置する貞光町を調べることになった。 貞光町は、剣山より発した貞光川が町の中央を南北に流れ、吉野川に流れ込む扇状地に開けたところが町の中心地で、少し上流に行くと、両岸の山から落ち込む谷川に沿って各村落がある。私達建築班は、日本建築学会徳島支所と郷土建築研究会との共同で、テーマを「貞光町の民家」と決めて、8月4日から7日まで調査した。 この調査に当たり、町役場の方々は勿論、地元の皆様方には、色々と御協力を賜わりましたことに、深く感謝申し上げます。

目次 1.ウダチ(■・卯建・うだつ・火除け)を上げた南町の町並 2.貞光の百間長屋 3.庄屋の家(西浦の永井正敏氏宅・入らずの間・ねずみ入らずの蔵) 4.ドロクラとムシヤのある山間民家(成谷の高田隆市氏宅・大黒と向大黒・ジドコ・カケダナ) 5.山間民家 A.長瀬の民家(西尾キヌ氏宅) B.吉良の民家(岸本赤蔵氏の旧宅・享保19年棟札・二間取の典型・栗本仲雄氏宅) C.猿飼の民家(南福一氏宅) 6.山岳武士の家(吉良の谷庄左衛門長政・寛政6年棟札・長屋門) 7.お堂(木屋堂・吉良堂・長瀬堂) 1.ウダチ(■・卯建・うだつ・火除け)を上げた南町の町並 貞光町の南町の商家では、ウダチを上げて江戸時代の街並の面影を残している。ウダチは2階外部の両端にとりつけた小屋根付の漆喰塗込め造りの袖壁のことで、貞光町ではこれを「ヒヨケ」(火除け)とも呼ばれている。もともと隣家からの類焼を防ぐためにつくられたものであるが、それに加えて次第に装飾化して、ウダチの屋根瓦には家紋とか屋号を型どった鬼瓦がのせられ、漆喰壁には鶴亀をレリーフしたものもあって、町並の美観を呈している。町の人は、「ウダチ」が上がってはじめて一人前の商人になったと言われて、「のれん」と共に商家の誇りとしている。県下でウダチの町並が見られるのは、貞光の他に池田町と脇町とに美しいのがあるが、急速に近代化されつつある今日、これらの町並のウダチも改築によって、次第に無くなってゆくのが惜しまれる。


2.貞光の百間長屋 貞光町の南町の商店街の中心から少しはずれたところに、土地の古老が百間長屋と呼んでいる職人長屋住宅が残っている。屋根は本瓦葺、中2階建の連続住宅で、1戸の間口は2.5間、奥行4.5間で、間取りは戸の口を入ると通り土間で、傍らにオモテ、ナカノマ、オクと並び、ハシリは一番奥にある。昔は40軒ばかりの職人が住んでいたというが、現在は大部分とりこわされて、10軒ばかりつづいた長屋が残っているのは県下で珍しい。

3.庄屋の家(永井正敏氏宅・貞光町西浦37・文政6年)
 (イ)この家は昔、貞光に6軒しかなかったときから建っていたもので、代代庄屋をしていたが、明治4年の廃藩置県のときに、200年以上つとめた庄屋を辞めたと言う。曽祖父が貞光ではじめての蘭方医で、その息子が主屋の南に突出して歯科医としての診察室を、大正初期に増築し、次の息子が学位をとって東京で開業したと言う。現在の御主人は貞光公民館長をしておられるが、増築部分を除いては殆んど手を加えずに、家具、建具、調度品に至るまで当時のままよく保存されている。 (ロ)屋敷は広く、築地塀で四周を廻らしていて、南にある切妻本瓦葺の表門を入ると、両側老樹に覆われた正面に、1間四方の大きな青石の一枚石を敷いた玄関の入口が見える。右手にはオモテ庭へ通ずる中門が木の間に開かれおり、8間取りをもつ主屋を中心にして、北に隠居屋、クラがあり、西には北ネドコ1棟と、もう一つ階下に座敷、物置をもったネドコがある。母屋のカマヤの西側へ出たところに、文政六年十月吉日と青石で造られた井戸枠に彫り込んであるところから、この頃にこの家は出来たのであろう。又、北ネドコの前の庭には、主屋からの排水の溜枡としての1間四方、深さ1間の大きな「溜池」が設けられている。 (ハ)主屋の間取りは、玄関を中心にして右側にある次の間、客間、お部屋、化粧の間の4部屋が接客用の部分であり、左側にあるウチニワ、格子の間、仏間、ダイドコ、女中部屋、カマヤが家族用の部分である。 (ニ)客間は8畳で、棹縁天井、長押には見事な「釘隠し」をつけており、トコの書院の「組子」も凝っており、外側に切目椽を廻らして、部屋からは寂のある表庭の立派な築山を眺めることが出来る。 (ホ)仏間・入らずの間…家族の住居部分の中央の奥に仏間があり、その奥に「入らずの間がある。仏間はトコ付8畳の広さをもち、庄屋の主人としての大切な部屋であった。トコ脇にある戸棚風の3尺巾の襖を開くと、その奥に一見壁かと思われた板戸がある。この板戸を開いてくれると、真暗な部屋があった。御主人の案内で、北側にある小さな明り窓をあけると、光が入って来て薄暗い乍ら中の様子が解ってきた。広さ3畳位の板の間の廻りの壁には、3段の棚があり、刀掛けも見られた。この部屋は何の部屋ですか、と尋ねると、「ここは昔、庄屋をしていたときの「入らずの間」で、飢饉のときに備えて、最後の種米を収納しておくところでありました。又、万一に備えて、刀や武具もこの棚においてあったんですよ」と話してくれた。 (へ)ネズミ入らず…主屋の北にある蔵は、白壁土蔵造りの2階建本瓦葺で、間口は5間、奥行2間の大きなものであるが、この蔵には特に大事なものを入れるために、内部の間仕切は勿論、ネズミさえも入れないような厳重堅固な構造で作られた所謂、「蔵の中の蔵」ともいうべき部屋を設けている。この部屋を「ネズミ入らず」という。





4.ドロクラ(泥蔵)とムシヤ(蒸屋)のある山の民家(高田隆市氏宅・貞光町端山字成谷・明治2年)
 (イ)村道から谷川に沿って山路を30分ばかり登ったところに、山で囲まれてはいるが少し開けたところに出た。そこに茅葺屋根の1軒家を見つけたが高田氏の家であった。うまい西瓜をいただきながら、讃岐からお嫁に来られたという奥様に色々とお話を聞いた。祖父の柳蔵氏が明治2年に山の桐の木を伐って、筏に組み、大阪へ売りに行き、「ちぎ」で藩札を計ったという程の大金を得て、この家を建てたと言う。成程、この山奥にしては式台のついた玄関構えの立派な家である。又、この家には昔、オオヅツ(大砲)があって、集合の合図をしていたが、戦時中に供出してしまったとも云う。 (ロ)建物の配置は、図のようになっており、小高い山に囲まれてはいるが、主屋の南側を谷川がさらさらと流れ、真夏というのに大変涼しく、別天地のような心地がした。山の中の一軒家であるから総て自給自足で、畑には今いただいた西瓜は勿論、何もかも作っている。家畜もニワトリ、豚を飼っているし、谷川には「あめご」も泳いでいる。蝶々も、とんぼも、蝉も小鳥もみんなとんでくる。飛行機も高くこの上を飛ぴ、家の中にはテレビが徳島、大阪、東京、世界の情報を伝え、寛美の芝居も見えるし、のど自慢の歌も聞こえるという何と素晴らしいところに住んでいるのだろうなあと、配置図をとり終わってから、しばらく周りの山々の木立の間を飛び交う小鳥を見ていた。 (ハ)主屋の間取りは図のようになっているが、大黒柱が2本あって、大黒と向大黒と呼んでおり、何れも栗材を使い8寸角と5寸角の手斧はつりの太い柱である。又、座敷の床の間の構えは、ジドコと呼ばれている踏込床の造りである。床脇の書院の繊細な組子の間からは、谷川音、河鹿の音、蝉の音、小鳥の音が、岸の楓の小枝の触れる影に合わせて聞こえてくる。さながら一幅の動く絵を見るようで、素晴らしい造形美を醸し出している。 (二)カケダナ(架け棚)は、ナヤの前の庭(これをカドという)が狭いので、広くとるために石垣から1間程外に持ち出した部分を言う。構造は石垣から丸太を並べて持ち出し、これを桁で受け、桁は柱で受ける木組になっている。持ち出した丸太の上に竹を直角に敷きつめて、その上に山茅を置き、その上に山土をつき固めて「カド」と同一平面にする所謂、「ヤマト」と通称よんでいる構法である。この家では丁度、石垣からはみ出して棚を掛けたようになっているので、「カケダナ」と呼んでいる。ヤマト・カケダナは、建築敷地の狭く細長い山間部の急傾斜地に住む人々が、カドを広くして外の作業場をとりたいために考え出した生活の知恵であった。しかもその下の空間は、薪や畑仕事の道具等をしまい、又、肥料溜を兼用したオモツボが設けられている。オモツボとは大便所のことで、樋箱の下には大きな木枠のツボが埋め込まれていて、これを便溜として畑の肥料に利用する。 (ホ)ドロクラ(泥蔵)は、主屋の南側に建つ間口3.5間、奥行2間の2階建の山土を塗り込めただけの荒壁の土蔵造りであるので、ドロクラと言っている。泥屋根の上に茅を葺いて保護している。外壁の一部は颱風で破れたので補修して板張りとなっている。1階は作業場で2階は倉庫になっている。ここにもカケダナがある。 (へ)ムシヤ(蒸屋)ほ、山でとれる三又を大釜で蒸して皮を柔かくして剥ぐための小屋である。山村民家では古くからこの三又から和紙を作っている。古くは家の中のカマヤの土間にある大釜で蒸したり、外庭に大釜を持ち出して蒸したりした。この家は、独立して家前の山の畑に1軒のムシヤを建てている。2階建茅葺で、ドロクラと同じ構造で造られ、1階は「蒸し場」、2階は煙草乾燥場になっている。小屋の外にもハデを設けて作物の乾燥をする。



5.山間民家 貞光川を狭んで、両岸の山々に点在する集落の民家は、下流に近い程吉野川流域の民家形式によく似ていて、中流地方は入り交り形式で、上流になるにしたがって、剣山周辺の山の民家形式になっている。今回の調査では、貞光川をのぼったところ、即ち貞光町の奥の山々に点在する集落の中で、今は数少なくなった茅葺屋根の民家を探して次に記録した。

A.長瀬の民家(西尾キヌ氏宅・貞光町端山字長瀬・約200年前)

長瀬は貞光川が大きく右に丸く曲がったところに拓かれた集落である。右岸の山の手に茅葺屋根が見えたので登って行くと、高さ4mの大きな石垣で築かれた敷地の上に建っているのが西尾氏宅であった。茅葺屋根の廻りに瓦葺の下屋を付けて、主屋の間取りも図のように相当増改造されてはいるが、軸組、小屋組等の茅葺部分は当初のまま残されている。 屋敷配置も図示のように、急斜面の山を削りとって高い石垣を築いて敷地を造っている。養蚕のための蚕室と、機織りのためのハタヤが別棟に建っている。現在は息子さんと建設業をしている。


B.吉良の民家(岸本赤蔵氏旧宅・貞光町端山字吉良・享保19年棟札)
吉良は阿波の国をひらいた忌部族の発祥の地と伝えられるところで、小さな忌部神社が建っている。ここからは、貞光川の下流の対岸の山に捨子谷と中山の集落が遠く眺められる。岸本氏宅はこの神社のすぐ近くにあって、現在は6の項で述べる山村武士の家(お土井さんと呼ばれた谷庄左衛門長政)の跡地に新築して住んでおられるが、この家から少し下ったところに享保19年の棟札がある岸本氏の旧家が、空家のまま残っているとのことで案内してもらった。見て驚いたことには、図のように東祖谷、西祖谷にある古い民家と同じ間取り、外観をしている。屋根は茅葺がこわれてトタンに代わっているが、それも一部こわれており、雨漏りがするので、やがてはつぶれる運命にあるのは大変残念に思う。吉良には、この他に3軒位このような山村民家の二間取りの典型的な家があるという。吉良で唯1軒だけ屋根も茅葺で残っているのがあるというので、案内してもらったのが写真のような栗本氏宅であった。この家も屋根はもう寿命もきているので、次に訪れる頃までには是非残っていてほしいと願った。






C.猿飼の民家(南福一氏宅。貞光町端山字猿飼246・約150年前) 成谷からの帰り鳴滝を見て、貞光川が見えるところに出た。川を右下に見て約20分ばかり行くと、山の斜面に寄り付くように建っている猿飼の集落が見えて来た。ここでも茅葺屋根そのままの家は少なく、殆んどトタンで覆ったり、スレート瓦葺になっている。その中の古そうな茅葺の家を訪ねたのが此の家であった。 この家は推定150年位前に建てたもので、間取りは、ウチニワ、ナカノマ、オモテの3間取りで、剣山周辺によく見られる古い山間民家の一般型を、少し改造している。例えば、オモテに相当する部分は、この家では間仕切りをして4畳の間とザシキの2部屋にし、ナカノマも仕切って奥に4畳のオクの部屋を設けている。この家の間取りを見ると、3間取りから4間取りに移る過程がよく解る。ウチニワ、エン、ベンジョは原型を残している。


6.山岳武士の家(谷庄左衛門長政・貞光町端山字吉良・寛政6年棟札) (イ)屋敷は、5のBのところで触れておいたところにあり、西隣りには阿波の忌部氏を祭った奥忌部神社がある。敷地の北側の高さ4mの石垣には、岸本氏の2間取りの旧家があって、ここから北方を眺めると、貞光川を狭んだ左右の山々が望まれ、捨子谷の集落が正面に、又、右上の山の中に中山の集落を見渡すことができる。現在残っているのは、長屋門の建物と敷地だけしかないが、昔時を偲ぶ絵図面と棟札を、貞光町の文化財保護委員をしておられる岸本氏が保管していたので、その写しをもとにして、色々と御教えを願ってここに記録した。棟札には、『寛政六年五月吉良日・谷庄左衛門長政・大工太田又兵衛・太田村』と記してある。 (ロ)お土居さんと呼ばれるこの家は、屋号を土居と言って、「土居」の印鑑が現在も保管されている。阿波の山岳地帯には、お土居さんと村人から呼ばれる「阿波山岳武士」の家がある。(これについては今は亡き一宮松次先生の御研究の成果を参考にされたい)東祖谷落合の喜多花子氏宅や、穴吹町半平の緒方維也氏宅等は代表的なものである。間取りは、この図のように玄関を中心にして、左に家族の部屋があり、右に接客の部屋がある。そして接客部分の奥に入らずの間又は天狗の間がとられ、主人以外の客族は入れない部屋とされている。聞くところによると、昔、切腹の間に使用したとか、武士として非常に大切なものを収納してあったとか言われ、薄暗い奇妙な部屋に感じた。 (ハ)長屋門は、図のように間口11間、奥行2間の外壁白漆喰の門で、大門を中心に左は問屋、木納屋があり、右に番屋、物置を構えたもので、山の長屋門としては、池田町の川人家の長屋門と共に貴重な遺構である。残念乍ら、現在の門は明治9年に修理改造されて、西端山の村役場の事務所として使用されて来たので、原形が大分損なわれており、その役場も新役場に移ってからは、住む人もなく荒れるにまかせてあるのは惜しまれる。





7.お堂 貞光町の各字名には、お堂とか、阿弥陀堂とか、地蔵堂とか呼ばれており、字名の人々の集まる信仰の建物がある。県下に500余りあると言われ、これについては民俗学的な見地から、川島町の喜多弘先生がよく御研究されているので、先生にお委せして、私はその建物について述べてみる。偶々、吉良の民家調査の際、吉良のお堂の御供養の日に出会ったので、これ幸いと、お堂の中で行われる供養の様子を写真に撮って来た。お堂は、村のお寺の出張供養は勿論、新仏のための盆踊り、四国お遍路のご接待とか、孫を連れたお年寄りの話の集りとか、共同作業場とか、等々のことを行った言わば、字名の人々の心の結びを確認する公民館的な役割を果たして来ました。










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