阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第28号
地名「喜来」の考察

方言学会 

     森重幸・川島信夫・金沢浩生

地名「喜来」の考察
 「キライ」という地名は、徳島県内に35地点を数える。板野郡の10地点がもっとも多く、勝浦郡を除く、すべての郡市にわたっている。しかも、その分布は、山地から平地におよぶ広範囲である。(注、資料2参照)
「キライ」の表記は、「喜来」が圧倒的である。県内では、「喜来」が34地点で、「木来」が1地点ある。この「木来」も、登記地名に用いる以外は、「喜来」を通称としている。なお、古文書の表記には、「寄来」・「崎来」も用いている。
 県外をみると、香川に「師来」が3地点あり、愛媛・兵庫(淡路島)に「喜来」が、それぞれ1地点あるほか、他に類を見ない。(注、資料1参照)「キライ」は徳島県に集中する地名であり、徳島を代表する地名と言える。
 徳島県における「キライ」の初見は、『阿波国徴古雑抄』によると、つぎのようになっている。(注、資料3参照)
1  名西郡神山町左右内:「焼山寺文書」―「上山内寄来山」―正中2年(1325)
2  三好郡東祖谷山村菅生:「管生氏文書」―「八田山三分―内下寄来名」―正平12年(1357)
3  麻植郡山川町川田:「良蔵院文書」―「牛嶋の崎来」―貞治3年(1364)古文書資料その他からみて、山分の「キライ」が里分の「キライ」よりも古いのではないかと想像されるが、いずれにせよ、鎌倉時代にさかのぼる古い地名であることはまちがいない。
 「キライ」の地名原義については定説がない。県内各地で聞いてみると、「喜んで来た」とか、「寄り集まった」のように、字義から理解する場合がほとんどであった。そこで、先学の諸説をみると、つぎのようである。
1  吉田茂樹の『日本地名語源事典』:低湿地から山地斜面まで立地する。一種の開拓地名と思われ、村人が寄り合って開発した所とみられる。字義はまだ不明だが、「寄来」が原義か。
2  萩沢明雄の『徳島の地名と民俗』:『麻植郡誌』の貞治3年(1364)記録に「崎来」の字が当てられている。「崎」とは山の突端を意味する。「喜来」の多くが山間渓谷の流域に分布し、地形的にも、岬に類似するところから、もとは、「崎来」であったと思われる。
3  笠井藍水の『徳島県誌』:「キライ」の「キ」は「木」、「イ」は「井」―(用水、または井堰)の意味と考える。「ラ」は、「羅」―(網)の意もあり、接尾語ともなる。木材を以て、井堰を作ったもの。
 吉田説は、古文書の「寄来」が原義であると予想している。巷間に聞かれる「寄り集まった」とする開拓地名説の立場である。一方、萩沢説は、古文書の「崎来」から地形地名説を立論している。笠井説は、開拓にともなう施設が地名化したという発想である。
 吉田の「寄来」説、萩沢の「崎来」説を比較すると、両者の初見年代は、わずかに「寄来」が古いに過ぎない。したがって、「寄来の開拓説」・「崎来の地形説」のいずれにしても、一方をうちくずすだけの説得力を持ち得ない。強いて言えば、崎来を原義とする萩沢説は、「山の突端、ないし岬」を発想することで、山間部の「キライ」を説明するのに好都合である。しかし、吉野川下流のデルタの「キライ」については、説明が困難となる。萩沢の指摘する「貞治3年、牛嶋の崎来」もまた低地帯に立地したものである。
 笠井説は、果たして、どのような木製井堰であろうか、「キライ」の「ラ」の解説については、笠井自身も後考を指摘している。
 地名の命名は、その地区を他と識別することに始源するのはいうまでもない。命名は、住居、農耕、狩猟、地形、交通、開拓部族など多様な起源があるが、これが音変化することで原義を分明できなくなったのである。
 したがって、これを解明するためには、「キライ」地区すべてに共通する要素を探る必要がある。この点、「キライ」が徳島県に集中することは、われわれに有利な状況を与えている。
 さて、「キライ」の原義解明について、吉田が「低湿地から山間斜面に立地する」とし、萩沢が「山間渓谷の流域に分布する」との指摘に加え、笠井が「井堰」に関係するとみたことを考え合わせると、「キライ」は水流と関係があると予想することができよう。そこで、「キライ」の立地状況をたしかめると、山間から平地に至る河谷の流域、ないしは、旧河道にあることが特徴である。
 したがって、地形説、開拓説のいずれにせよ、「キライ」が河谷の水流にかかわるとの見とおしは、妥当なものと判断したい。
 「キライ」が河谷に関係するという状況は、板野郡松茂町中喜来の俗謡にもうかがうことができる。(注、資料8参照)

 キライ キライと ヤマジョーが無けりゃ あとは川原の ケケス原
 『ヤマジョー』は、豪族三木与吉郎の家号、『■』であり、「ケケス」は、野鳥「よしきり」の方言である。
 俗謡は、「中喜来」の開拓が三木氏を中心に発展したことを示す一方、流水被害をうけやすかった地形的特徴を、みごとに歌ったものである。
 「キライ」と河谷の関係は、愛媛県北宇和郡広見町谷喜来にもみられる。町役場発行の「25,000分の1」の地図には「喜来」と表示しているが、国土地理院「25,000分の1」の地図および「5,000分の1」の国土基本図は、ともに「谷喜来」と表記している。当地の人は、そのいずれをも用いるが、地籍表示は「谷喜来」であった。(注、資料9参照)
 以上から、本稿は、「キライ」を開拓地名ではなく、地形地名と予想したのである。そこで、「キライ」の立地する河谷の大小に分類し、地形の共通特徴をたしかめることにした。
1 ―谷の「キライ」……1 三好町木来、2 穴吹町古宮喜来、3 神山町下分中喜来、4 その他
2 ―川の「キライ」……1 美馬町喜来、2 山川町喜来、3 市場町上喜来、4 その他
3 ―デルタの「キライ」……1 鳴門市大麻町喜来、2 北島町喜来、3 松茂町中喜来
4 ―県外の「キライ」……1 愛媛県広見町谷喜来、2 香川県白鳥町帰来
 1 −1 :三好町木来は、喜来とも表記する。100m×50m四方の小区画が「木来」である。(注、資料4参照)
 急斜面を流下する木来谷は、谷幅2m以内で、木来地区に対して、いわゆる「天井谷」となっている。これが撫養街道沿いで側溝となり、「昼間(ひるま)農協」の前で南に流れる。当地は標高差15mの複雑な段畠地形である。地形からうかがえることは、往時、豪雨の際に鉄砲水が天井谷を決潰して溢流したと推定されることである。上部にある簡易水道のタンク直下から、農協前の水路に直通するコースである。おそらく、これが旧河道だったとみてよい。
 本県では、水路の決潰を、「谷ガキレル」・「堤防ガキレル」といいならわしている。したがって「キライ」の原義は、「切れ合い」の意であろう。降雨出水の時、流路があふれて、旧河道と新河道のいずれにも分流し、再び本流に合流する地形―これが「切れ合い」であり、変化して「キライ」になったと考えたい。このような解釈で、他の「キライ」をたしかめてみよう。
1 −2 :穴吹町古宮喜来は、穴吹川上支、喜来谷支流、ツエ谷に望む急傾斜部落である。谷から100m〜200mの高所にあるが、昭和56年現在も車道を通じていない。(注、資料5参照)
 地形状況をみると、部落中央部、田中義雄宅の西側「サコ」から、無名の小谷が流下している。これが、標高差80m下、佐藤政儀宅の前で、「シロの尾」という尾根にあたり、その北面に浴って流下し、「ツエ谷」に入る。本稿は、この「シロの尾」が「キライ」の地形にかかわるものとみている。
 往時、この無名谷は、「シロの尾」の基部をえぐって、南斜面に落下していたにちがいない。尾根の背稜に残る、ネック状の凹みは、旧流床を示すものであろう。小谷は、流床が深くなるにつれて、「シロの尾」の北面を流れる現流路に変化した。したがって、流路の変わる渡りの期間は、流水が「シロの尾」の南北両斜面に落下したとみてよい。2つの分流は、いずれも、「ツエ谷」に合流する「キライ」地形である。
1 −3 :神山町下分中喜来は、鮎喰川支流喜来谷の流域にある。鎌倉時代の焼山寺文書に登場する「上山内寄来山」である。(注、資料5参照)
 当地は上流の部落「長野」に対して「下長野」と呼ぶこともある。喜来谷に突出した緩斜地形の尾根があり、その南面に、やや広い耕地が展開するからである。
 「下長野」の用水路は、「コモリの谷」である。この谷は、現在、突出した尾根部落の北面を流下し、喜来谷に接する谷岸の耕地を養っているが、「五輪墓」のある南面にも流床の形跡が見られる。長野茂男所有の「ムカエの田」直下の谷岸を、約1mの大石数個で閉塞しているからである。
 とくに興味深い話題は、渇水時に、「五輪墓」の下方にある井泉が涸渇すると、「コモリの谷」に接する「ムカエの田」に、竹樋で水を入れるだけで解決するという。300m下方の井泉が、まもなく甦るのである。おそらく、地下水が、旧流床をすばやく流下するからであろう。
 鎌倉時代の農民は、谷水を尾根の北面に流すことで下の耕地を養い、一方、五輪墓の耕地を造成したのである。しかも、必要に応じて旧流路に通水するという発想は、自然を利用した傑作である。
1 −4 :阿南市大井町喜来は、那賀川支流喜来谷の奥地部落である。当地は山腹にひらけた小平地で、昭和56年現在も車道を通じていない。(注、資料5参照)
 車道終点は、尾根に囲まれたふところ地形で、急傾斜の狭い「サコ」直下であった。その一隅、三馬常夫所有の畜舎裏に、サコを流下する小谷、というよりも小溝がある。
 この小谷は、標高差50m上にある、細川菊男所有のミカン貯蔵所の付近―通称「サコのタオ」で、本稿の示す「キライ」地形を作った形跡がある。尾根の脊稜を突破したネック状の凹痕が見られるからである。
 往時、出水の折には、溢流水が「サコのタオ」の凹みを流下して、喜来谷支流の東谷に面する断崖、「メクラのタキ」に落下していたことがわかる。現在の流路と合わせて、2つの分水流が東谷で合流する「キライ」地形である。
1 −5 :神山町松尾喜来は、鮎喰川の小支松尾谷の最奥地部落である。(注、資料9参照)
 当地は、「松尾」部落本名と「西谷バヤシ」の谷でへだたっており、上流部は、「岩屋ン谷」が流下している。喜来部落は、県道「二ノ宮―山川」線を上下にはさんで、現在は2戸に過ぎない。
 県道の上、つまり、山手にある藤井宅の裏山は、赤松林の断崖(20m)を含む急斜面である。その上部には、通称「ハリ」と呼ぶ緩斜耕地がある。「岩屋ン谷」は、現在、部落西側の断崖を落下しているが、流床の浅かった往時は、「ハリ」の緩斜面を東南に流下し、「西谷バヤシ」寄りに落下したと推定できる。「ハリ」の緩斜面に残る凹列の方向は、その流跡と思われるからである。
 これを裏付ける傍証は、昭和50年の大豪雨時に、「ハリ」の凹みに地すべりの大亀裂がおこった。これは、流跡に集中する地下水によるものであろう。また、「ハリ」の畑は、凹列の中央部の土質が深いとのことであった。流跡が土砂に埋没したものと考えたい。
 さらに、前記、赤松林の断崖直下から藤井宅の東端部におよぶ別の流跡も予想される。県道に面した岩盤切り取り部が凹型に欠損して、石垣で補填してある。ここから、常時、地下水が流出しているが、豪雨時には、30mの排水管から多量の地下水が噴き出し、県道を飛び越えて、松尾谷に落下するという。
 以上を考え合わせると、当地は、現在の「岩屋ン谷」になる前に、複雑な流跡があって、どちらにでも溢流するような「キライ」地形があったとみてよい。
2 −1 :美馬町喜来は、吉野川中流の美馬橋北詰付近で、「鍋倉谷(なべくらだに)」の扇状台地突端部に立地している。(注、資料6参照)
 喜来の上流部は、讃岐山脈から発源する「河内谷(こうちだに)」・「高瀬谷(こうぜだに)」によって、南岸山地に圧迫された吉野川が北に反転して、「谷口」・「沼田」地区に進入していた形跡がある。一方、喜来の下流部は、「鍋倉谷(なべくらだに)」によって南岸に押された吉野川が、「貞光川」によって逆に北に転じていた形跡がある。
 喜来をはさんで北岸上流部の「谷口」・「沼田」、北岸下流の「宗重(むねしげ)」・「小長谷(おばせ)」の低地帯に吉野川の旧河道があったことは、年配層の話を聞くまでもなく、地図の上でも、はっきりとうかがえる。上記の低地帯は、昭和50年に池田ダムが完成するまで、洪水の遊水地帯として、常に浸水の危険にさらされてきた。
 とくに、「小長谷」の低地帯は、現在も湿田となっており、往時、船着場だったという伝承がある。また、南岸「貞光町太田(おおた)」の飛び地が北岸にある。
吉野川が南に移動したことをものがたる雄大な「キライ」地形である。
2 −2 :山川町喜来も地図の上で判然としている。川田川は、現在、「瀬詰(せずめ)大橋」の方向に北流しているが、これは、大正14年の河川改修工事によるものである。(注、資料7参照)
 改修以前の川田川は、同町北島で東流し、「ほたる川」を本流としていた。これが、出水の折に国道沿線に氾濫するのが常であった。古老によれば、「前川」・「若宮」に近い溢流もあれば、「瀬詰」方向に北流するものもあったという。
 したがって、「前川」の方を「喜来」と呼び、瀬詰大橋南岸を「西喜来」というのは、川田川が分流する「キライ」地形の地名にほかならない。
2 −3 :市場町上喜来は、阿波町下喜来とともに、日開谷川の旧河道に立地している。「上喜来」・「下喜来」の地形は、現地に臨めば一目瞭然である。(注、資料7、9参照)
 「北原」・「窪二俣」・「井ノ坪」を結ぶ方向に、現在の日開谷川と、ほぼ同じ川幅の低地帯が伸びている。
 これについて、中西勇の「阿波郡地誌」は、旧河道の涯が二条あることを指摘している。(注『四国地理学論文集、第一輯』昭9)東側の顕著な涯は、国土地理院の「50,000分の1」地図にも記入されているが、喜来の立地する西側の涯は、段差が1m以内のため、いかなる地図にも記入がない。
 往時、日開谷川の川床が高かった時代には、「北原」北部の曲流部から、扇状台地を南に直通した流れがあったことがわかる。これが、阿波町下喜来を通って、現在の日開谷川下流部に合流していたのである。「井ノ坪」は、この伏流水の溜る湿地名であり、農業用水に利用されたのは言うまでもない。
 日開谷川が「北原」の北部で東に曲流した理由は、西岸山地から、はき出す谷の影響によって、扇状台地を東に移動したものと思われるが、いずれにしても、流路の変わる過渡期には、出水の程度により、新旧河道に氾濫したものとみてよい。扇状台地に見る「キライ」地形の代表である。
3 −1 :鳴門市大麻(おおあさ)町喜来は、高徳本線が旧吉野川北岸を通過する付近である。
 吉野川の下流は、板野(いたの)町川端(かわばた)から、山沿いを流れた時代もあるほどに蛇行し変化している。したがって、現在の流路になっても、洪水時になると、旧河道に浸水することがしばしばであった。大麻町の場合、「川崎」・「喜来」を結び、松茂(まつしげ)町「中喜来」に達する氾濫があったことを古老が伝えている。
 「喜来」地区は、現在も、水はけの悪い低湿地であるが、これを利用した「堀江のレンコン」は全国的にも有名である。当地は人家も少なく往時の河道を示す状況が地図の上にうかがえて興味深い。
3 −2 :北島町新喜来は、旧吉野川のデルタ曲流部にできた突出部である。(注、資料8参照)
 当地は、藩政時代の古い堤防の外にあり、「新喜来」の地名にふさわしい立地である。
 地図で理解できるように、上流から運ばれてきた土砂が曲流部に堆積し、「高房(たかぼう)」付近の河道が極端に狭くなっている。これが洪水時には、北岸堤防に近い地区から浸水し、地名「中須(なかす)」の状態となる。そして二つの分流は、下流の「中馬詰(なかうまずめ)」で再び合流する「キライ」地形を作るのである。
 旧吉野川の中洲にある「キライ」を、前記3 −1 の「喜来」に対して、「新喜来」と呼ぶのは、もっともな命名であろう。デルタの「キライ」の代表である。
 なお、「高房」付近の河道狭■化によって「新喜来」ができたのと同じ頃に、別途の氾濫河道が東流して、「南新喜来」・「出来須」・「鍋川」を直通したはずしである。「高房」から、南に反転する「今切川(いまぎれがわ)」ができた事情も、同じく地図の上で理解できよう。「今切川(いまぎれがわ)」は、「新しく決潰してできた川」の意であることは言うまでもない。
3 −3 :松茂町中喜来は、旧吉野川の蛇行が、洪水の際に氾濫して、直流河道となる地区に立地している。海抜0m地帯であるが、それだけにまた水運の便がある。(注、資料8参照)
 豪族三木氏の本拠であることは前記したが、古老によれば、水路を舟で往来して農作業し、カジシ(年貢米)を、ヤマジョー(三木氏の家号・上)に運んだという。
 なお、「中喜来」の対岸が「向喜来(むこうぎらい)」である。旧吉野川が「広島(ひろしま)」の北部で氾濫河道となる状態が、地図の上でも理解できる。
4 −1 :愛媛県広見町谷喜来は、四万十川上流の広見川支流喜来谷の部落である。(注、資料9参照)
 町役場発行の「25,000分の1」地図には「喜来」と表示するが、国土地理院の「25,000分の1」地図、および「5,000分の1」地図は、いずれも「谷喜来」と記されている。
 当地の人は、「谷喜来」・「喜来」のいずれも用いるが、かつての地籍地示は「谷喜来」であったと言う。そこで、「谷喜来」の古老に、なぜ、「タニキライ」、ないし「キライ」というのか、地名原義についてたずねたが、勿論、分明しなかった。
 本稿は「キライ」の原義を、「新旧河道に氾濫する流れが、再び合流する地形」と判断したが、この見解が徳島県から遠く離れた愛媛県南予地方の山中にも成立し得るかどうかを確認したかったのである。
 広見町谷喜来は、「タニキライ」と呼ぶことから、私見が成立するとすれば、1 −谷の「キライ」に属する「小規模のキライ」地形と予想していた。状況は、やはり、期待どおりの結果であった。以下、簡単に解説してみよう。
 喜来谷は、谷喜来部落内で二支流に分かれる。これが、さらに小谷を分枝し、そこに田畑をつくる地形である。
 西の支流には、「石神峠(いしがみとう)」を越えて広見町の中心部に通ずる谷道がある。往時の主線である。せまい谷あいは「姥(うば)づくり」と呼ぶ田地が階段状に形成されている。その最下段部を、「新田のハナ」と呼んでいる。高田明則宅の前にあり、30m×10mの岩塊地形である。突端部の段差3mで、上部は表土をおいて平坦な畑となっている。
 高田氏の話によれば、豪雨時に、「姥づくり」の田にあふれた水流が、「新田のハナ」岩塊の両側に氾濫し、下段の「ヒエ田」の谷に流下して、高田宅の庭まで浸水するという。
 この岩塊は、往時は、もっと大きなもので、裏山の尾根に連接していたと思われる。本稿の指摘する典型的な「谷キライ」の地形である。
4 −2 :香川県白鳥町帰来は、「白鳥神社」に正面する山地―「石鎚山・269m」、「帰来山・241m」を水源とする「大原川」流域に立地している。山麓の台地を「奥晴(おくばれ)」・「法月(ほうずき)」と呼び、標高差25mの低地部を「大原(おおばら)」・「雁田(かりた)」と呼んでいる。(注、資料10参照)
 「大原川」は、低地部が極端なまでに曲流し、しかも「天井川」となっている。下流部で「明神川」・「前川」と合流し、「中川」となって「白鳥湾」に注いでいる。
 当地は、昭和52年に堤防工事が完成するまで、豪雨のたびに氾濫するのが常であった。白鳥町建設課の話によれば、谷川の決潰は、「大原橋」付近の曲流水衝部である。
 はげしい土砂流が、白鳥神社参道の御旅所の方向につっ走る。これが町役場付近にまで及んで「前川」に流入すると、再び本流の「中川」に合流したのである。「前バの山」を一周する「キライ」地形である。
 このような氾濫は大原橋下流の水衝部でも、しばしば繰返されている。土砂流が、白鳥病院地区にあふれ出し、「前川」に流入する「キライ」地形である。
 「大原川」の氾濫は、さらに、曲流部の内側でも「キライ」を繰返している。「法月」台地から、「大原」低地に短絡するようにつっ走る土砂流である。「帰来」は、まさに、本稿の定義する「キライ」地形を示している。
 なお、「5,000分の1」の国土基本図をみると、大原川の曲流部から白鳥神社参道方向への高低差は、国鉄高徳本線の湊川鉄橋下流方向に伸びている。したがって、大豪雨時には、白鳥町を孤立させるような氾濫もあったはずである。市街地が土砂流の被害をうけなかったのは、白鳥神社の神威と、「前バの山」の庇護にほかならない。
 以上、「キライ」を地形地名の立場から点検した。その原義は、「切れ合い」、すなわち、「新旧河道に氾濫し、再合流する地形」と判定した。本稿の地形説で、くわしく分明しなかったのは、海部郡牟岐町喜来と、阿南市新野町喜来である。いずれも田地となって地形が変化している。その他の「キライ」地点も地形変化がみられるが、くわしい調査で、状況把握が可能と確信している。
 「キライ」を開拓地名と見た吉田説は、「キライ」地形を利用して開拓に取組んだ、二次的事象に拠った発想ではなかろうか。「キライ」が、必ずしも、開拓に関係しないことは、穴吹町喜来および阿南市大井町喜来で理解できる。当地の場合は、部落周辺の地形的特徴―通行に関係する「キライ」―が地名起源となっている。
 また、萩沢の地形説は、「牛嶋の崎来」そのものが低地にあること、およびデルタの「キライ」に成立しないことなど、既に前記したとおりである。
 「キライ」という地名が徳島県に集中するのは、吉野川水系地方の複雑な地形と関係するのは言うまでもない。しかし、豪雨時に、洪水が新旧河道にあふれるような現象は、本県に限らず、かなり多いはずである。他県では、このような地形をどう呼ぶか注目したい。
 これに関連して、吉田の『日本地名語源事典』は、福井県三方町切追(きりよう)を、「切追(きりおい)の変化で、湖と湖の間で、水路が交わる所をいう」と説明している。この解説から推定すると、「切追」は本県の「キライ」地形に関係するものではなかろうか。とすると、「キライ」の原義も、あるいは、「切り追い」→「キロイ」→「キライ」の変化とみることもできる。
 本稿の場合、「谷がキレル」、「堤防がキレル」、「今切川(いまぎれがわ)」から類推して、「切れ合い」を原義とした。ともあれ「キライ」が「切り追い」・「切れ合い」のいずれに由来するにせよ、地形地名であることに変わりはない。
 今後の課題は、「キライ」の地形を、さらに確証すること、他県における同義地名を探索することであろう。
 先学の指導をうけて、後考を期している。
参考資料
1.阿波国徴古雑抄
2.徳島県誌
3.徳島の地名と民俗
4.日本地名語源事典
5.地図―町役場、国土地理院による

 


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