阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第28号
貞光町庚申信仰の変遷について

史学班 青木幾男

 

はじめに
 貞光町に住む人達がまことに敬虔で、地域的な結びつきもかたく、多くの民俗信仰が今だに伝えられていることを知って、民俗信仰の一つ「庚申信仰」についてその変遷をたどることにした。貞光町全域における庚申塔と信仰行事の調査を行うために3日間を貞光町当局の御厚意で公民館で宿泊し、其後も12月までに2回現地を訪れ、民俗班の喜多弘氏と共に広瀬の庚申待にも参加するなどして調査を行った。
 庚申信仰は日本各地に普遍的に行なわれていた行事で、民間信仰の体系を探る一つの柱として注目され大正時代頃からさかんに調査研究がなされていたが、第二次世界大戦以後は生活様式の変遷と近代思想の波に洗われて急速に姿を消し、その行事も途絶え、各村々の路傍に立つ庚申塔はあってもその名称さえも知らない人達が多いと言う状態になりつつある。そうした現状のなかで貞光町が全国でも珍らしく庚申信仰の習俗が比較的に残存している地域であることを知って「無形文化財」を目のあたりに見る思いで胸をわくわくさせながら調査にとりくんだ。
 

 庚申信仰の歴史
 庚申信仰が日本で行なわれはじめたのはさだかではない。平安時代のはじめ、天台宗の僧円仁の「入唐求法巡礼行記」に入唐当時の事として「承和5年(832)11月26日庚辰、夜になっても人々はねむらない。丁度本国(日本)の正月庚申の夜と同じである」これが日本で庚申と言う文字の出てくるはじめで、此の頃正月に庚申の徹夜の行事を行っていたことがわかる。
 平安から鎌倉時代にかけての貴族の日記などによると此の頃宮中の貴族のお遊び行事として61日目毎にかのえ、さるの日をえらんで数人が1ケ所に集り、酒を飲み、和歌を作り、くじ引きなどして時をすごし夜明けの鶏(にわとり)の声を聞いて散会する行事で「庚申のお遊び」と言っていたが、一般の庶民が此の夜をどのように過していたかについては何の記録も、手がかりもない。
 鎌倉時代になると上流武家の間にも伝えられて、宗教的色彩もつよくなり「守庚申」(まもりこうしん)と言う言葉で表現されるようになった、「まもり」とは平安時代に日本に伝えられた中国の道教という民間信仰の中にある教えで、その説によると「人の体内にいつも3匹の虫が居り1つは頭の中に居て彭■(ほうきょ)と言い、首から上の病気をおこす。2つめは彭質(ほうしつ)と言い、腹の中にいて五臓を病気にする。3つめは足にいて彭矯(ほうきょう)と言い、人を淫乱にする。これを三尸(さんし)の虫と言い、庚申の夜に人が眠ると人体から抜け出て天にのぼり、その人の犯した罪過を天帝に報告して、その人の生命を縮める。庚申の夜に身を慎み徹夜すると虫が人体から抜け出すことができない。」そのようにして身を守る、また虫を守ることから「守庚申」と言ったと考えられている。
 室町時代になると下級武士にもひろがりを見せて、建造物としてもはじめて庚申板碑が出現する。最古の庚申板碑は埼玉県川口市にある文明3年(1471)の「奉申待供養結衆」と刻まれた板碑で武蔵を中心に関東方面に此頃から出現するが、阿波板碑の中にはまだ発見されていない。また一方で上流武士の奥方などが庚申堂を建立したと言う記録も残されている。
 然し現在のように一般民衆が庚申塔を建て、庚申講をつくり、庚申待を行う様になるのは江戸時代のはじめ、寛文(1657)頃からであった。徳島県で一番古い庚申塔として市場町上喜来に明暦3年(1657)のものがあるがそのほかでは寛文期に立てられたものが最も古い方で、全国的にも寛文頃から庚申塔が立つ様になった。此の頃の庚申信仰の主尊(本尊)は現代の庚申塔に刻まれている様な青面金剛(しょうめんこんごう)または猿田彦大神とは限って居らず、帝釈天や、山王二十一社、北斗七星が主尊となる場合が多かった。
 

 貞光町の庚申塔
 古い庚申塔には像を刻んだものはなく文字塔であった。貞光町には此の形式の庚申塔が七基あり、そのいづれもが二世安楽と諸願成就を願って供養のために建てられたと刻まれている。二世とは現在の生きている世界と、死後の世界のことで平安末から室町時代にかけて流行した思想で「供養して祈れば現世では救われなくても死後に救われる、そのために供養せよ」と言う仏教の教えから来たもので、現世は苦しくても死後に希望があるという。それほどに現世が苦しい、生き難い社会であったことを示している。七基のうち四基には「庚申待(こうしんまち)」と言う文字が刻まれている。「庚申待」とは「申待(さるまち)」とも言い、室町頃から使われはじめた言葉で、「待(まち)」とは庚申の夜を寝ないで朝を待つ「守庚申」の意味だとする意見と、日本古来から伝わる信仰的徹夜行事で「マチ」とは「マツリ」の意味、「二十三夜待」「月待」「日待」と同様に身を慎しみ神に祈って夜明けを待つ行事だと言う二説がある。七基のうち主尊を明記しているのは江ノ脇の寛文8年(1668)塔一基だけで、ここでは帝釈天を主尊としている。
 青面金剛が図像として刻まれるのは貞享元年(1684)長瀬塔からでこのことは全国的に見てもあまり遅れていない。むしろ他の地方に較べて早い時期に採り入れられている。青面金剛は仏教の「陀羅尼集経・巻十」の中にある明王部の神で「一身四手で、左の上手には三股、下手には棒を、右の上手の掌には宝輪、下手には羂索をもつ。身体は青色で口を大きく開き、目は血のように赤く三眼である。髪はほのおのように聳立しどくろをいただいている。両足の下には二鬼をふんでいる。本尊の左右には香炉をもった青衣の童子が一人づつ待立し、また右側にはほこ、刀、索をもつ赤黄の二薬叉(やしや)が立っている」とされ「伝尸」(でんし)と言う悪い病気を封じ込める神であった。それが「三尸の虫」を封じる神として主尊になり、庚申塔として一般的に建てられるようになったのは全国的に見ても天和年間(1681〜3)からであった。


 青面金剛像にははじめ二猿と二鶏がその下に付いている。猿は申(さる)という発音と山王二十一社の山王権現(滋賀県坂本日吉神社)のお使いとしての猿とが加味して使用されるようになった。鶏は夜明けを告げる鳥で人々が夜明を待つ心から付けられたものと思う。享保5年(1720)浦山塔から三猿が現われる。三猿は見ざる・言わざる・聞かざるを表現している。此のあたりで庚申信仰について、民衆の実状と支配者側の指導についてふれてみたい。庚申塔が全国的に建てられはじめた明暦・寛文年間は徳川幕府も四代家綱の頃であって政治体制も確立し各地方の藩内の情勢も固定した頃にあたるので、貧しいながらにも安定した生活をおくれるようになった民衆は、その地域に住む住人の人人との交流や日々の生活の中に心のうるおいを求めて巾広い民俗信仰の流行を受け入れる素地は充分にあったが、全国的にまたたく間に広まって行った裏には政治的な何等かの指導とその集会を政治的に利用しようとする意図や動きがあったことが推察される。武田浦三郎著「貞光谷見聞録」の庚申塚の項には「阿淡両国に多きは明暦年間以来、庚申石を建て其地の人民参拝す。庚申待と称し、隣祐組合其順番当りの家に集りて祭り夜を明す。蜂須賀藩主の命達に依り之を行いしと言う。」とあり
 群馬県前橋市上泉町古文書「郷例定」によると「各庚申待の講頭を肝煎(きもいり)と名付け、法令を伝達周知せしむるほか、人々の動行、言動を書きしたためて毎月封印して名主に提出、名主は当役立合の上、一村の人々の動行を書きしるして封印して肝煎より差出した封書に添えて毎月29日役所へ差出可申候」と定められている。民衆にとっては庚申待は人々の交流と世間の情報や、生活智識を入手する唯一の場であり、領主側から見ると、細かな取締り方針の伝達の場であり、時には民情を探るための諜報(穏密情報)集収の場にも充分利用された。民衆は保身のために「御政道批判や願い事も、不用意な噂ばなしも、悪い事は一切不見(みず)、不聞(きかず)、不言(いわず)」を守ることが最も大切なことだと考えるようになった。
 享保9年(1724)広谷久保塔から一身六手の青面金剛が表現されている。庚申により強力な武威を願って弓矢を持たせたのは庚申に依存する民衆の心の現われであろう。
 明和5年(1772)三木栃塔には妊婦の裸像に似た「シヨケラ」を持っている。シヨケラは「女の煩悩」だと言われ、庚申に女の煩悩を払ってもらいたいとねがうもので、男尊女卑の中での当時の女性が女であるがための悩み、苦しみがいかに多かったかを思わせるものである。
 貞光町で猿田彦神を主尊とする塔が現われるのは明治以後であってこれは修験者等が庚申信仰の指導的役割りをもっていた地方では明治元年の神仏混淆禁止令によって修験者が神仏のいづれかの一方に届出でをしたために神道系の修験者は以後猿田彦を主尊としたもので全国的にも見られる現像であり民衆の側の信仰の変化ではなかった。民衆は猿田彦も青面金剛も同一神であって呼称の相違だというように考えていた。それが神仏混淆の思想であった。麻植郡鴨島町飯尾の庚申堂は「北向きの庚申さん」として今も一部の熱心な信者があるが、その境内には庚申塔が二基あり、祭壇には各戸に頒布していたらしいお札(ふだ)用の12cm×22cmの三猿とその上に六肱の青面金剛が天邪鬼をふまえて立つ版木がある。江戸時代には掛軸を頒布していたらしく23cm×52cmの古い版木があって、猿田彦の神像とその右上に「猿田彦大神御七名として、幸神・金神・縁結神・塩竈神・寿命神・船玉神・道祖神」の七神徳が記されている。これが当時の民衆が庚申に祈願する願望であったのであろうが、此の二枚の版木が祭壇にならべて置かれていたことからみても当時の神仏混淆の考え方を知ることができる。

 

 現在の庚申信仰
 貞光町で現在も庚申待が引続いて行なわれている地区は広瀬、広谷等そう多くはない、然し難病平癒等を祈願しての七庚申めぐりが今も行なわれているらしく、調査中にも「七庚申めぐりか」と問われる事が多かった。
 庚申塔も雑草に埋もれたまま放置されたものもあったが、多くはきれいに清掃され、しきみ、くくり猿、五円貨幣、鳥居など何かが供えられている塔が多かった。
 広瀬の庚申待に参加して、唱え言の中に北斗七星真言「コウシンデ コウシンデ マイトリマイトリソワカ」と般若心経や光明真言が唱えられていた、此の唱え言の中に貞光の庚申信仰の歴史がかくされていると思った。
 

 庚申信仰のおこり
 庚申信仰が日本古来からの信仰にもとずくものか、道経の三尸(さんし)説をうけて渡来したものかについて二説があり、現存する庚申縁起の最古のものは室町中期の大分県宇佐八幡宮所蔵の明応5年(1496)のもので「大宝元年(701)難波天王寺の僧都重善の所に帝釈天の使とする童子が現れ三尸(さんし)の虫と守庚申の方法を教え、信仰すれば諸願もかなうと伝えた」とされている。此の縁起を仏教者とくに天台宗や真言宗・日蓮宗がとりあげて布教の中で広めたために中国唐時代にはじまった道教の三尸説が渡来したものとする説が強力であった。一方日本在来説を唱えたのは神道家であって、鎌倉時代から神道的に行なわれていた形跡はあるが、猿田彦説をとりあげ日本在来説を主張したのは江戸時代初期の神道家山崎闇斉と垂加神道の人々であった。したがって猿田彦庚申も青面金剛庚申も江戸期以後のものであるが、民俗学者柳田国男はその著書「二十三夜塔」の中で「日本にはもともと夜籠(よごも)りをする慣習があり、そこへ中国から三尸の説が及ぶにつれて、それをカノエサルの日に決めて行事を続けた」つまり三尸説が渡来した時それを受け入れて定着させる基盤として日本古来のものが存在していたと説いている。今ではこの説が有力である。
 

 まとめ
 貞光町には各部落に氏堂(うじどう)があって、塔の所在場所も氏堂にある場合が多い。氏堂は部落の聖地であって念仏踊りなど信仰にもとづく民俗芸能なども氏堂を中心に行なわれてきた。氏堂の庚申塔の傍らにはたいていもっと年代の古いと感じられるお顔もさだかではない石地蔵か丸形の石を祀る祠があった。江戸時代以前の民衆は此の祠を中心にして信仰をつづけてきたそれが現在の庚申信仰につづいていると考える。その信仰の中心となり指導的役割りをもっていたのは修験者(山伏)であった。
 阿波山分は山岳武士、修験者が中世に活躍した地域であって貞光町はとくに吉良忌部神社と忌部十八坊寺院があり、十八坊と言う呼名と当時の社会情勢から見てこれらの寺院は修験道と関係が深かったものと考える。忌部神社と修験道、十八坊と修験者の関係についての研究はまだ充分ではないが、無関係であったとは考えられない。
 修験道には天台宗の本山派、真言宗の当山派があって江戸時代の記録によれば貞光町には当山派が多かった。これらの人々が忌部十八坊を中心に信仰的にも団結し、地域をささえてきた。その気風は今も脈々と住民の心の中に伝えられて貞光町の産業を支えている。
 庚申信仰を伝え守ってきたのは中世からの修験者の活躍と住民の素朴な信仰心であった。


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