阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第27号
阿波三盆糖の歴史的研究

地方史班

    立石恵嗣・小笹泰史・佐藤正志

はじめに
 阿波三盆糖(和三盆)は、日本独特の伝統的製法により生産される和式精製糖の最高級品である。
 和三盆は、全国の高級和菓子には欠くことのできない原料であり、一種独特の風味は「味覚の芸術品」とまでいわれている。
 このえがたい三盆糖は、江戸時代より品質において阿波のものが最高とされてきたが、明治以降、機械制精製糖に圧迫されて各地の和式精製糖が壊滅していった中にあって、ただひとつ上板地方を中心とする地域にだけ生きのびている。
 我々は、このユニークな郷土の特産品に焦点をあて、三盆糖が現在にまで上板地方に生きのこった歴史的秘密を解明するとともに、この地域における糖業の起源と発展及び衰退の具体的な実態をあきらかにしていきたいとおもう。

 

1.起 源
 上板地方の存する阿讃山脈南麓地帯は、現在でこそ灌漑用水の普及と土壌改良により水田化も進んで開墾の成果をみせているが、地質学的には、和泉砂岩(和泉層群)上の扇状地形で礫質土壌からなる不毛地帯であった。
 従ってこの地域には甘薯や粟・大豆以外の適作物はなく地域の民衆は、小規模な扇状地形の段々畠に依存する零細農がほとんどで生活は困窮していた。
 ところがこの土壌が、砂糖原料である良質の甘蔗作には最も好適な地であることが証明されてからは、製糖業が絶好の産業としてまたたくまにひろがっていった。
 つまり、砂礫土であることが糖度を高め、扇状地であることが排水によく、谷水・井戸水などにより灌漑にもめぐまれていることなどが良質な甘蔗のための絶好の土地条件をつくっているのである。
 この意味において、この地方に甘蔗作及び砂糖製造の技法をつたえたといわれる丸山徳弥(?〜1827)なる人物の業績は特大筆されなければならない。(注1)
 地域の伝承によると、徳弥は安政5年(1776)日向延岡の鼻ケ島より国禁をおかして三節の砂糖キビを持ちかえり試作に成功。その後寛政4年(1792)再度、日向へ渡り製糖術をひそかに習得するや帰国し、白下糖、後に三盆糖の製造に成功して、板野・阿波両郡へひろめたという。
 この伝承による阿波糖業の起源については、上板地方より山ひとつ隔てたところが、隣国讃岐の糖業の中心地白鳥・三本松・津田地方であり、交通も頻繁で婚姻関係も多いことから、製法等の伝来も当然考えられ、徳弥の伝承も再検討を要する。
 しかし、その後徳弥は藩主より甘蔗弘めの「製法教訓方」を命ぜられ、文化年間に至っては「阿波国南北七郡砂糖製作税金徴収の目付役」、後には製糖用の「■殻灰売弘方」を命ぜられて在勤中は苗字帯刀を許され藩の糖業政策上大きな役割を果している。(注2)

 

2.発展
 その後徳弥の指導奨励も効あって、甘蔗作及び製糖業は板野・阿波両郡を中心とする阿讃南麓の扇状地帯にかっこうの換金作物及び産業として急速にひろがり定着していった。
 寛政4年から約30年後の文政2年(1819)の史料によれば甘蔗作付面積と生産高は表1の通りであった。


 この表でもあきらかなように甘蔗作付総反数は百十町を越え、砂糖生産高は約40万斤に至っている。
 なかでも、板野・阿波両郡は、全生産高の九割以上をしめて一大生産地を形成した。
 当時の経営史料として、甘蔗作及び砂糖製造の収支決算書が「土成町史」上巻に、紹介されており、それをもとに次の表を作成した。(表2・3)

   
 これによると甘蔗栽培では、千貫の砂糖キビを生産すると銀106拾目の純益があった。甘蔗は反平均7〜800貫の収益があり、この利益は当時の米2石余に相当し、しかも肥料・作手間まで差し引いたものであるから非常に有利であった。(注3)
 また砂糖製造についていえば、甘蔗1万貫につき銀約543匁の純益があり、この地域の有力な豪農たちは進んで糖業にとりくんだ。
 なお、豪農の経営形態として、藍と砂糖を兼ねて製造という多角経営している家も多かったといわれる。藍と砂糖を市場価格の高値をみはからって交互につくるという形態がみられると「阿波三盆糖考」では指摘しているが、藍の販路に砂糖ものせられたともいわれ興味ある今後の課題としてのこされている。
 その後天保期以降になって生産は急上昇し、天保7年(1836)520万斤、弘化5年(1846)835万斤、安政5年(1856)1230万斤と飛躍的にのびている。(注4)
 阿波糖業の最盛期がいつであるのかは明確な史料がないのであきらかではないが、阿波糖業史の古典的名著岡田広一「阿波三盆糖考」には、天保末から弘化・嘉永・安政・文久に至るころをあげており、19世紀中ごろを最盛期と考えてよいだろう。
 ちなみにそのころ車数2500台、甘蔗貫数2000万貫、白下1100万斤(330匁斤)白糖400万斤であった。
 上板地方においては車元一軒にて十挺前後の砂糖車を所有し、製糖していた豪農も数軒あったと伝えられている。(注5)
 表4は天保元〜3年(1830〜2)に大阪へ廻送された白糖の産地別表である。


 この表によってあきらかなように、阿波における生産量は、讃岐に次ぐ大きな位置をしめている。特に品質においては讃岐をまさるものがあり、量の讃岐・質の阿波といわれた。
 明治に至るが、綿糖共進会の報告には次のような文章があり、各地の糖業の特色を指摘している。製法及び製造品に関しては、明治期に至っても基本的特徴を変らぬと考えるので掲載した。
 「愛媛県下讃岐の如きは、精糖に富みたるが故に、一国競ふて同一の品位を出せり、其種類は10が78まで天光以下の品にして23は天光以上のものを製するならん、依て、天光以下一度押までの砂糖に至りては、予讃に第一等の位を与へざるべからずと覚ゆ、又は阿波の如きは、天光以上の製法に妙処あり、是をもって、讃岐産の天光以上を合して全国三盆糖の消費を補ふ故に、三盆糖は阿波を以て第1位に置かざることを得ず」(注6)
 徳島藩の糖業政策に関してはまだ本格的な論考はないが、次の点が確認できる。
 徴税については、文政元年(1818)には甘蔗作付反別一反につき口銀15匁づつ徴収されていたが、弘化4年(1847)幕府の許可をえて砂糖が蔵物=専売品の指定がおこなわれるようになってから、砂糖締めの搾車一挺につき155匁の車税に改められた。
 これは専売制による統制という方向での施策であったが、最盛期には阿波郡だけで2500台をかぞえたといわれるからその収益は莫大なものであった。
 このような生産過程での統制のあと、生産糖品は蔵物として大阪・京都・江戸へ積出された。大阪では蔵物会所を設置して売支配人13人を指定して販売させ、江戸売は五島民之助店がおこない、売買銀高の五厘を「御益」として徴収することになっていた。(注7)
 専売制の実態については、まだまだ不明点が多く、讃岐の砂糖専売制との比較や、藍の統制政策との対比において解明されなければならない重要課題である。
 

3.衰退と対応(明治以降)
 前述したように幕末上板地方を中心に藩内に展開した糖業は、開国により一大転機をむかえることになった。
 藩政期における和式糖業は、藍や綿花など特用畑作物がそうであったように、いずれも鎖国体制下のもとで多肥・多労によるきわめて集約的な栽培といわれる低い生産性の加工業が結びついての興隆であった。
 従って開国により産業革命を経た欧米資本主義列強の大量で良質安価の機械式精製糖が輸入されてくるようになると、価格・品質の上で、まったく太刀打ちできず、明治以降は急速に衰退していくことになった。
 明治期における糖業の動向をみるために表5を用意した。(注8)


 この図でも象徴的にあきらかなように、国内の甘蔗作付面積(徳島県)の急激な激少傾向に交差するように海外からの粗糖の輸入高はうなぎのぼりに上昇している。
 この外糖の輸入攻勢に歯どめがかけられるのは図にもみられるごとく、明治28年(1895)日本に領有された台湾において植民地経営の柱として内地資本によりうちたてられた台湾糖業の本格的成立すなわち明治38〜40年代に至ってのことである。(樋口弘『日本糖業史』参照。)
 一方、国内における機械式精製糖業が本格的に成立するのは、明治30年代であるが、このような糖業の新しい要因が交錯する中にあって、旧来の伝統的な和式糖業は急速にその存立基盤を失い、凋落を余儀なくされたのは無理からぬところであった。(注9)
 この様な伝統的な和式糖業の衰退現象の中にあって各地の糖業はどのような対応をしていったのであろうか。
 まず江戸時代を通じて最も代表的な産地であった讃岐は、その生産の主体であった白糖が輸入外糖によって最も直接的に打撃をうけたため、下級需要をねらって粗糖である「白下糖」に生産の目標をしぼっていった。
 また、島津藩の糖業の中心地であった奄美大島においては、特産品である黒糖の生産に一本化した。
 そして、徳島県においては伝統的な強みを生かして、最高級品である三盆白糖の製造に専念して、特殊需要をねらうことになった。つまり、阿波の三盆糖は、全国の高級和菓子の原料として定評がありその特殊な甘味と風味は、最高級の外糖をもってしても代用することができず、価格を度外視して需要されたのである。

 

4.阿波糖業の選択=三盆糖
 次の史料は、現在徳島県立図書館に残されている「明治36年勧業年報」の甘蔗作の部であり、これによると当時の甘蔗作からみた糖業の状況がよくわかる。(表6及び解説)


 つまり、ここでは明治30年代に比して、5年後の35年には甘蔗収穫高がほとんど半減していることを指摘し、その原因として1 肥料代の高騰 2 甘蔗の低価 3 洋糖輸入の影響をあげている。このため、甘蔗作はもはや利のある畑作ではなく、転作がすすんでいる事実を指摘している。
 しかし、県の勧業担当者としては、衰退する糖業をなんとかしてばんか

(解説)三十五年ノ収穫ハ三十年ニ対シテ四割九分ヲ減ジ又累年減少ノ傾アリ。然ルニ該作地ハ砂交質ニシテ気候温暖温度高ク其ノ変化著シカラサルノミナラズ凍害ノ憂ナキヲ以テ素ヨリ栽培ニ適スト雖近来肥価高クシテ蔗価高カラス 旦ツ洋糖輸入ノ為メ其影響ヲ被ムリ尚農業主要節ノ夏期ニ当リ却ッテ他ノ作物ノ利ニ如カサルヲ以テ漸次転作スル者アルノ結果作付反別モ亦著シク減シタリ

いすべく苦心しているのであって将来の展望として次の文章をかかげ勧業の奨励に力をそそいでいる。
(将来)甘蔗ハ本県特有ノ作物ニ係リ製糖ト共ニ県ノ生産ヲ補クルヤ大ナリ。唯タ近時不振ノ故ヲ以テ今遽カニ之レカ栽培ヲ廃止スヘキモノニアラス。由来外糖ハ品質我国人ノ嗜好ニ添ハサルモ価格ノ低兼ト菓子原料に多大ノ費消スル結果ハ其輸入ヲ引キツツアル状勢ナレハ国糖ノ需要ハ将来尚ホ倍々望アルヲ以テ能ク栽培方法ノ研究ヲ要ス。抑モ甘蔗栽培ノ主眼タル概シテ単ニ収穫ノ多量ノミヲ望ムヘカラス。含有糖分ノ多キヲ主トシ之ト共ニ増収ヲ図ルニ在リ而シテ此目的ヲ達センニハ肥料性分ノ如何ニ依リ糖分ノ多少ニ関係アルモノナレハ在来肥料ニ適量ノ燐酸性分ヲ配伍スル等学理ヲ応用シ改良ニ努ムルヲ至要トス。
 なお、参考資料として、当時の反当り収穫高と利益についての同年報所収の史料をあげておくが、この段階ではもはや甘蔗作が、利あるものではなくなっていることも指摘されている。(表7)


 このようにこの時点においても県の農事担当者は、勧業奨励の立場から輸入外糖に対して「国糖」の優秀性をとき糖業振興をはかっている。
 しかしながら、かくのごとき叱咤激励にもかかわらず、在来の伝統的和式糖業は安価で良質な輸入製糖品や、次第に定着して来た国内における近代的機械製糖品の抬頭の前に急速にメリットを失い各地の和式糖業は生産規模を縮少し、衰退していった事情は前述したとうりである。
 徳島県内の糖業の衰退は表7・8によってもあきらかである。


 次に紹介する史料「明治36年第5回勧業博覧会審査報告」(注10)は、なだれ的衰退現象の中にあって必死の挽回につとめた和式糖業に対する死刑判決にもひとしい断罪であった。
 この会で注目すべきことは、砂糖審査の担当者が再製糖に関して従来世間で和式再製糖に及ばぬとして軽視されてきた洋式再製糖に対し、国内で次第に良質で大量に製造されるに至ったことについて「邦家ノ慶事」として大評価していることである。
 逆に和式再製糖に対しては、「製法専ラ人力ヲ用ヒ其器械ハ小規模ニシテ生産ニ多額ノ費用ヲ要シ到底競争スルコト能ワサル」として品質においても両者に差異はなく、むしろ和式製糖は「來雑物」多きため風味あるがごとき感があるのだとして、和式再製糖は「命脈ノ甚タ長カラサルモノ」であると断言し、「農家ハ勉メテ白下糖ノ如キ原料糖ノ産出ニ力ヲ転シ洋式精糖所ヲ増殖スベキ」ことを奨励するに至っている。(注11)
 ここに至って各地の和式糖業は、白糖(再製糖)生産から、白下糖(粗糖)生産を中心とする方向に転換した。しかし衰亡の大勢はいかんともしがたく転作・転業が進んで、他にかわるべき生産物がない地域のみ細々と生産がつづけられるという事態に至ったのである。


 但し、この情勢の中にあって徳島県の出品した白色再生糖(三盆糖)は、次の史料にみるごとく「品質頗ル優等ニシテ今回出席品中抜群ノ良品ヲ出セリ」と激賞され、ここに阿波糖業のすすむべき方向が明確に示されることになった。
 各府県出品砂糖及糖蜜ニ対スル概評(注12)徳島県 本県ノ出品ハ黒砂糖、白下糖、帯色再生糖及ヒ糖蜜ニシテ、黒砂糖ハ汚物多ク味亦宣シカラス 白下糖ハ結晶、色沢不良、蜜分多ク観ル可キモノナシ 帯色及白色再製糖ハ優品ニ乏シカラス 殊ニ和式白色再製糖ハ品質頗ル優等ニシテ今回出品中抜群ノ良品ヲ出セリ 糖蜜ハ概シテ臭味ヲ帯ヒ品質不良ナリ(傍点筆者)
 かくして阿波における糖業は、その生産の目標を三盆糖一本化することによって現在まで生きのびることに成功した。
 量の讃岐といわれ江戸時代市場において絶対的優位性をほこった讃岐の糖業が、現在では完全に壊滅し、超高級品指向した阿波三盆糖が品質を維持して現在にまで生き抜いたという事実は、混迷期をむかえている現在の地域徳島の産業上の一つの示唆を与えてくれるのではなかろうか。

 

おわりに
 論述したように本稿においては、上板地方を中心とした阿波における糖業の起源及びその展開について概観したが、史料の制約もあり粗雑なスケッチにおわってしまった。
 この調査を契機に、共同研究として我々三人は今後阿波糖業史の解明をめざし努力するつもりである。
 なお、明治期上板地方における糖業経営について別稿にまとめている(徳島地方史研究会10周年記念論集「阿波歴史と民衆」)ので御参照いただければ幸いである。(1981.2.1脱稿)

注1.丸山徳弥に関しては上板町史編纂室 児島光一氏が、最近徳弥=山伏説を発表され従来謎であった徳弥の人間像をうかびあがらせた。(昭和55年10月23日付徳島新聞記事参照。)
 2.岡田広一『阿波三盆糖考』3頁。1942年参照。
 3.「土成町史』上巻157頁。1975年。
 4.『徳島県史』第4巻 259頁。
 5.前掲『三盆糖考』17頁。
 6.勧業局・商務局「明治13年綿糖共進会報告」第5号 54頁。
 7.泉康弘「徳島藩における国産品生産と地域市場の形成」(徳島地方史研究会『阿波・歴史と民衆』1981年所収)192〜194頁。
 8.拙稿「明治期上板地方における糖業経営」(前掲『阿波・歴史と民衆』所収)210頁より引用。
 9.讃岐糖業の盛衰の原因を、高松商法会議所答申書は次のように分析している。
 1 外糖輸入及価格の昂低 2 米価の昂低、肥料価格の昂低 3 為換、別段為換、奥印、肥料貸付等(高松藩の保護政策)の制廃止 4 紙幣 5 旱魃 6 西南の変乱 7 国立銀行の設立(1 2 が、最大原因 3 以下補助原因とみなしている。)(井上国雄「畑作物の衰退と興隆」183頁)
 10.政府の主催する殖産興業振興のための第5回内国勧業博覧会は大阪で開催されたが、砂糖部門には沖縄・台湾も含めた全国各地より総計2026点の出品があった。
  徳島からも出品者63人。76点の製品が出品された。
 11.「第5回内国勧業博覧会第一部審査報告68」(「明治前期産業発達史大系』第36巻 所収)8頁。
 12.前掲「審査報告書」15頁。


徳島県立図書館