阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第27号
藍に関する信仰と民俗的行事

民俗班 岡川一郎

1.はじめに
 阿波の藍は、そのさわやかな色あいが好まれて全国的に知られている染料である。かつて、阿波藩は、藩の財政を充実させるために、この藍作に着目し、吉野川流域の広大な平野を中心に、阿波・麻植・板野・名東・名西・美馬・三好に至るまで藍作を奨励したので大いに栄えた。阿波藩は名目25万7千石であったが、実質は45万5千石といわれたのは、藍の富によるものであろう。そして、明治に至ってからも最盛期の明治36年頃の作付面積は15,000町歩に及んでいる。しかし、大正年代以降印度藍の輸入や化学染料の普及によって次第に衰退した。藍作は養蚕にかわり、更に第二次世界大戦前後の食料不足に伴い稲作となり、その後、食料事情が豊かになった昭和40年代から畜産・園芸・ハウス栽培農業へと大きく転換してきた。こうした動きの中で県下の藍作の状況をみると、昭和21年には作付面積がわずか3町歩となり、消滅寸前となった。ところが、昭和40年代頃から古きよきものを見直おそうという動きがみられるようになり、民芸ブームなどの波にのって阿波藍が注目されるようになった。こうして、昭和54年には、20町歩に増加した。このうち、上板町は6.5町歩で23戸(■(すくも)づくりは2戸)で県下では最も多い作付面積となっている。
 藍づくりは、昔も今も変りなく、手づくりのきびしい労働と、長年の経験と高度の技術を要する伝統的産業である。特に■づくりは藍寝床という特殊な施設を必要とするので新人ではとてもできる業ではない。
 このような伝統的民俗文化財を保護し、永久に保存するために、古い藍屋敷(石井町田中家住宅)が国指定の重要文化財となり、藍寝床(石井町 武智家)が、県指定の有形民俗文化財となっている。又、阿波藍栽培用具(一式93点、藍住町公民館保存)が重要有形民俗文化財に指定されており、阿波藍製造の技術を保存するために、佐藤昭人等阿波藍製造技術保存会が国選定保存技術に選定されている。以上が、阿波藍の盛衰と現状である。

 

2.藍づくりと民俗信仰
 藍作も稲作同様土地利用の農業であるため、農村社会における地神信仰や氏神信仰などにおいては、藍作者独自の信仰形体はみられない。ただしかし、愛染信仰とか、金比羅信仰、五社宮信仰、藍久信仰などが藍関係者の間にみられることや、藍の種まきから■づくり、出荷に至る過程において、一般農家にはみられない特殊な民俗信仰がみられるので、以下、これらのことがらについて記述したい。
1.五社宮信仰
 石井町中塚にある五社宮さん(五社神社)は、県内外の紺屋(染屋)や藍商、藍生産者から崇拝されてきた。このことは、信者が奉納している花崗岩製の大鳥居(明治39年建立)や拝殿の前にある4基の狛犬(明治20年〜21年丹後国紺屋中、播州紺屋中が奉納)などによっても、その信仰の厚かったことを知ることができる。
 五社宮さんのいわれは、今から約220余年前、宝暦6年に藩の藍専売制の実施と、藍製造業者(藍玉師)の暴利に対する藍作農民の一揆があった。いわゆる五社宮騒動である。
 このとき農民一揆の主謀者京右衛門等5人の代表者が鮎喰河原で礫の刑に処せられた。土地の人々は、その後、義民となった5人を五社明神として祀った。しかし、藩は、寛政6年(1794)に罪人を神として祀り社殿を建設することは不届きであると、神社建設を禁止した。しかし、農民たちは、藩の圧政から密かにのがれ融大明神として尊崇した。このことは、別当であった宝光寺より「融大明神御守護」とか「奉祈念融大明神藍作成満家内安全祈修」などと記した御守札が発行され、役人の目をのがれ隠れて融大明神を祈願していたことでもよくわかる。
 このように、五社宮さんは、藍の神様として、時には熱烈な信仰の対象となったが、藍作の衰退と共に参拝者も少なくなり、現在は閑散としたたたずまいをみせている。
2.藍染庵と犬伏久助に対する信仰
 板野郡松谷山の奥1番地に藍染庵がある。那東から4番札所大日寺に至る旧へんろ道の道端に建てられた小庵である。庵守りは宍戸春男(72才)夫妻で、こざっぱりとした静かなたたずまいである。
 この庵には、■の製法を改良した犬伏久助の像が安置されている。もともとこの庵は、愛染明王を本尊とする愛染庵であった。ところが、明治の頃、藍の神様といわれる久助像を本尊をしたので自然に藍染庵の名に変ったものと考えられる。
 犬伏久助は、通称「藍久さん」と呼ばれて藍作関係者から深く尊崇されていたのである。久助は、板野郡下庄村(現在の板野郡板野町)の出身で文化年間(1804〜1817)に活躍した人であるといわれている。(板野郡中富村とか栄村の出身説もある。)久助の功績は、藍製作者にとって一番困難とされていた藍の寝せこみ、(施水、蒸熱、醗酵)の技術を創意工夫して改良し、良質の■をつくることに成功した。この藍久の努力によって阿波藍の品質が高まり、全国に阿波藍の名声をとどろかすに至った。犬伏久助は文政12年(1829)8月に82才で天寿を全うしたが、明治の阿波藍最盛期の時に藍製造者が藍久の偉徳をしのび彼の等身大の木像を愛染庵に安置したのである。しかし、藍の衰退と共に藍染庵を訪ねる人も少なくなり、久助の像も朽ち果てようとしていた。この状態を知った上板町の佐藤昭人氏等紫雲会の人々が昭和54年5月25日に久助の木像の修理を行なうと共に、庵内の襖・のれん・祭壇の敷物に至るまで、すべて藍染で新調にし、藍染庵補修後落慶法会を開催した。
 人形健(多田健)によって修理された久助の木像彫刻は、昭和49年に板野町の有形文化財に指定されている。なお、この庵には珍らしい木食観音像がある。
 近年、藍染庵に対する信仰は、藍作の復興気運と共に、藍関係者の間から再び盛り上り、藍染庵は装を新たにしつつある。

3.金比羅信仰
 金比羅は、航海の安全を守る神である。江戸から明治にかけて、阿波藍の移出はめざましいものがあった。その藍の殆どが船で搬出されていたので、海上運送の無事と、藍商の繁栄を祈願するため金比羅詣りが盛んに行なわれた。このことは、徳島市勢見の金比羅さんをはじめ、香川県琴平の金比羅さんなどに藍関係者が奉納した巨大な石灯篭や狛犬、玉垣などによってもよくわかる。これらによって当時の藍商の威勢が如何に強大であったかを知ることができる。

4.藍づくりと民俗信仰
(1)藍の苗床づくり
 藍の苗床は、正月までにおこなう。正月7日に苗床にツゲの木を挿し、御幣をたて、山海の品を供えてすこやかに苗が育だつよう祈願する。
(2)藍の種まき
 藍種は、3月上旬の大安のを日を選んでまかれる。この日は、早朝より仏壇に御灯明をあげ、藍種をまつり、家族が揃って般若心経を唱える。又、神棚へは、神酒をまつり、今年の藍の豊作を祈願する。
 室内での神仏へのお祈りが終わると、家族は外に出て苗床に種をまき、神酒をかける。
 その後で、主人を中心に家族、人夫(藍作手伝人)等みんなで神酒を交わし直会を行なう。
(3)藍苗の植付け
 4月下旬、たいていは天皇誕生日(4月29日)の佳日を選んで苗の植付けを行なう。この日は、早朝から家の神仏にお供物をし、神酒をまつる。その神酒を下げて畑にかけ、神仏の加護を祈願する。畑の一隅に神酒、かき餅、青豆などをお供えし、後で近所の人々に振舞う風習があった。
(4)藍の刈取り
 7月〜8月ごろ(天候によって差はある。)藍葉の刈取りを行なう。最初に刈取った一番刈葉を愛染さん(愛染明王)を祀ってある藍寝床の棚へ供える。また、刈り終わると、愛染さんに、御神酒、洗米などを供えて無事刈取りの終ったことを報告する。
(5)■(すくも)づくり
 ■づくりとは、乾燥させた葉藍を藍寝床に入れて適当な水と温度を加えて発酵させることである。この作業は、9月上旬から12月中旬まで約100日間かけて行なわれる。この作業をねせこみといい、藍づくりの中で一番神経を使う。技術を要する作業である。
 藍の品質の良否も、この■づくり如何んにかかかっているといっても過言ではない。「藍は生きている」といわれ、藍師は、この■づくりに命をかけるのである。それだけに、作業場である藍寝床には、神棚をつくり、愛染明王の軸をかけ、神酒を祀る。オミキスズに桧の葉を挿し、神酒をいれて床にさす。オミキスズに御幣をさす家もある。又、丸盆の上にオミキスズをのせ、神酒を入れて笹を挿し、お米とお塩を添えて各床ごとに供える家もある。このように各家によって多少の違いはあるが、いずれも、大切な寝床を清め、神の加護のもと、神と一体となって■づくりに打ち込む藍師の仕事は、他の農事とは異なった真剣さが感じられる。
 寝床に小さく刻んだ葉藍を積み、フトンをかけ、如何に上手に寝かせるか、これは、水師の長年のカン(伝統的技能)によってきまるといわれる。下手をすると、床冷(とこびえ)、床焼(とこやけ)、床黒(とこぐろ)、上焼(うわやけ)、辛焼(からやけ)、水冷(みづびえ)、水腐(みづぐさり)の7悪を招き品質の悪い■ができる。阿波藍の品質が全国的に高く評価されてきたのも、阿波藍師の優れた■づくりの技術と、それを支える厚い信仰心のあったことを知るのである。
(6)藍の出荷
 藍は、■を固形にしカマスに入れて出荷される。■が出来上がると、まず神仏に神酒を供え、今年のできばえを報告する。そして、手板法によって品質検査を行なう。上板町の佐藤平助は手板法の名人として徳島県無形文化財に指定されていた。(昭和51年1月24日死亡)品質の検査が終わると12月中旬頃から出荷がはじまる。出荷先、数量などを記して,愛染さんへお供えし、出荷の無事と藍の繁栄を祈願する。
 出荷が終わると、主人は人夫(作業人)を家に招き慰労会を行なう。

5.むすび
 「藍に関する信仰と民俗的行事」というテーマを上板町から与えられて、これが調査に取り組んでみたが、古い歴史をもつ稲作農業にみられるような殖産的民俗行事はみられなかった。藍作は、近世から現代にかけての比較的新しい農業である。藍商の富と繁栄の陰に藍小作農民の苦悩があった。それが、五社宮一揆であり、融大明神信仰となっている。
 金比羅信仰は、航海の安全と商売繁昌を祈願するもので、藍作農民よりか、むしろ藍商たちの信仰対象となっていた。犬伏久助(藍久さん)に対する崇敬の念が愛染信仰と集合して、愛染庵が藍染庵になっている。この素朴な藍作農民の呼称変更は自然で面白い。愛染明王が藍商の信仰対象となったのは当然と思われるが、藍寝床の仕事場に愛染明王を安置して、■づくりの成功を祈願するのは、他の農作業場ではみられないことである。これは、■づくりは、稲作農業と異なり、商品価値を追求する特殊な農業であるためと思われる。
 藍づくりの生産過程は、苗床づくりから、種まき、植付け、刈取り、■づくり、出荷と6つの節目があるが、その節目は農事信仰によって大切にされている。
 「藍は生きている」とよく言われるが、それだけに藍づくりに従事する者の真剣さを知ることができた。厚い民俗信仰に支えられ、永年の間に培われた阿波藍の優れた生産技術の伝統を大切に保存しなければならない。
 この調査をすすめるにあたり、御協力いただいた上板町教育委員会をはじめ、佐藤昭人、新居修、宍戸春男の各氏と藍関係者の多くの方々に深く感謝を申し上げたい。

   

   

             


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