阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第26号
池田町の葬送について

民俗班 前川富子

はじめに
 池田町では葬送と墓制、追善等について、主に漆川、松尾、佐野、下野呂内の4カ所で面接により調査を実施致しました。
 調査にあたりまして、多くの方々に暖かい御協力を戴き、特に、御繁多のところを再三お時間をお割き下さいました 高井武男様、中村弥五郎様、古本正則様、増原虎雄様には、調査のほかに人生の深さ、尊さを教えられることも多く、心から尊敬と感謝を申し上げます。
 死は、残された者にとって悲しみ限りなく、死者への篤い愛情と慰めの情を表すのに吝かではありませんが、死への恐怖、死者の魂の蘇えりの恐れも深く、葬送の習俗のなかにも、遠い祖先の心の動きの片鱗に触れる思いが致しました。
 調査地域での宗旨は漆川、佐野、松尾ではほとんど真言宗、下野呂内は真言宗50%、真宗50%位ということでした。
 火葬の普及は漆川地区が早く、昭和20年頃よりだんだん火葬になったようです。松尾地区でも戦後次第に火葬に変りましたが、今も一部土葬があるということでした。佐野地区では昭和30年位まではほとんど土葬であり、現在も一部に土葬が残っています。下野呂内の火葬の普及は交通事情から昭和50年位からで、今は80%位が火葬だという事です。
 死
 死亡後身内が到着するまでは病人として扱い、身内が集まれば北枕、枕はずし等を行ない死人となる。
 息を引取った時に呼ぶ習慣があり、全員で敬称をつけずに名を2〜3回呼び、これは西の国への旅立ちの別れの言葉だと言われている。(漆川)息を引取ると3度常の呼称で呼ぶ。(松尾)
 死はトーヨーと言い、(松尾)死亡するとすぐ近所へ知らせる。神棚にはオソレ(白紙)をする。外には忌中札。(佐野)
 家族のうち病人の世話をした者は、枕元を離れずに付添っている。(松尾)
 願かけ
 阿南市の津峰神社では1日に1人づつ、願いにより命を助けられるということで、家人が夜中に屋根の棟に跨って拝み、願をかける。(佐野)
 願モドシ、願モドキ
 戸口端に出、死人の衣類を振る。(佐野)
 お大師さんの分はほどけないので、生きている家人が本人に替って務めを果す。神様の分は人棺の前に戸口で死人の着物を逆さにし、「オンガンをほどきます。」と言って振った。戦前までで、今はしていない。
 神様に願をした時のみ、身内でない者で、始めて訪れた人が死人の着物を逆さにし、握り米を撒いて門口で振る。(下野呂内)
 耳フサギ、耳ツブシ
 同年の人の死亡の知らせを聞いた時に、耳に手を当てる。(佐野)
 同年の人が死ぬと、ナベブタ(木)とカネブタのように、異ったフタを合せて耳の側で叩き「えゝことは聞いても悪いことは聞くな。」と言う。5日間のうちに行なう。戦前までしていた。(松尾)
 霊
 タマシイは49日間ミネ(棟)にいることになっている。(漆川)
 タマシイは49日までは屋根の下にいる。(佐野)
 タマシイはムカワレ(一年忌)まで棟木や梁木にいると言われている。(下野呂内)
 忌ブク、ブク、シニ(死)ブク
 身近い者は大体1年間は神参りをしない。ブクの切れた時点で時期をとらえ、正月神さんを祭り、正月の行事を行なう。(松尾)
 別火
 家人は炊事をしない。
 枕膳、枕ノメシ、枕オトシ、末期ノママ
 死人を北枕にし、逆さ着物を掛け、横に座帚を置き、枕膳を足元以外のどこかへ供える。枕膳には、ジョーヨー茶碗ですり切り一杯の米で飯を炊き、4コの握飯を握って膳の四隅に置き、真中に一本線香、水とハナシバ(樒)を入れた猪口を置く。到着した人は、「えゝとこ行けよ。」子供には「お地蔵さんに世話になれよ。」と言いながら、ハナシバで死人の口を湿し、死水をとる。一本線香は絶やさない。(漆川)
 北枕にし、帚、切れもの(刀、鎌など)を寝具の上に置く、古い膳の四隅に握飯。真中にジョーヨー茶碗に高く飯を盛る。身の濃い者が一本線香の立替えをするのを、座ノモリという。線香は20分位で消える。(佐野)
 ヒトカマメシ(一釜飯)を炊き、丸い握飯を1コ握り、その上に箸を1本立てる(一本箸)。膳に握飯と一本線香、水とハナシバの入った猪口を置き、ほかに四十九のダンゴも供える。(下野呂内)
 ヒキャク
 電話の普及までは死亡の知らせのためにヒキャクが出ていた。必ず2人組でその日のうちに出る。ヒキャクを受けた家では食事を供するが、急いで炊くのでアライタテと言う。菜は有合せでよく、その家の器量によるが、どの家も米一升、ゾーリ、オカズ(イリコ等)を常備していた。ヒキャクが食事をしている間に葬式に出る人は身を潔め、身繕いをして、ヒキャクと一緒に行く。役場、医者等への用も必ず2人で行き、旅費、弁当は葬家で負担する。
 ヨトギ、通夜
 縁者が集って、菓子で茶を飲みながら死人の事を語り合う。(漆川)
 昔は中流以上の家はその日に送らずに、必ず通夜をした。(佐野)
 喪主
 相続人又は家長が喪主になる。普通女子は喪主にならない。
 近所、常会、講中、ソーレン組
 葬式を助け合う集団を、近所(漆川)常会(松尾)講中(佐野)ソーレン組(下野呂内)等と言い、集まって責任者(葬儀委員長、大世話人等)を決め、役割を分担する。近くの家からは男女2名が手伝いに出る。
 葬式の折には米、麦をふんで用に当てたが、米の乏しかった昭和10年〜20年頃には、手伝いの者が米を一升づつ持参し、米の代金を葬家で支払った。(松尾)
 ヨーゴシラエ(葬式に準備するもの)
 1.棺
  一部ハコと呼ぶ座棺を使用。ハコはタテ、ヨコ1尺8寸、高さ2尺8寸位の杉等の板で作り、念仏紙、短冊、絵等を飾る。現在はネカンがほとんどで購入するが、ネカンもつくる場合もある。ネカンの前の土葬時代はハコを使用していたが、その前にはカメも利用したらしい。
 2.野送りの膳、野膳
  20cm×30cm位。中仕切りを入れ、脚をつける。お供え用。(松尾)八寸の膳。(下野呂内)
 3.竹箸
  9寸の青竹を割って箸をつくる。(下野呂内)等、食事用の箸を用意する。
 4.角柱
  六角の棒(埋葬場所の後に立てる)。(漆川、松尾)
 5.ソトバ(卒塔婆)
  1〜7本。(地域により本数が異なる)
 6.イハイ、ユハイ(位牌)
  主に野位牌。下野呂内では4寸位の木を2つに割って作る。
 7.ハタ(幡)
  2本又は4本。
 8.チョク(猪口)
  チョク(仏壇用)、ノヂョク(墓用)の2コを買う。(漆川)
 9.タツガシラ(竜頭)
  1コ(漆川)又は2ヒキ(松尾)をワラで作る。
 10.竹竿
  七本竹(松尾)は幡、竜頭等を吊るすもの。親指位の太さのものを2m位に切り、上の葉と枝を三枝(三節)残して、ほかは払う。
 11.天ガイ
  木と紙で製作、竹に吊るす。短冊を飾るところと、鳳凰を頂きに、黒い鳥を四隅に飾るところ等がある。
 12.ノヂョーチン(野提灯)
  2本。(漆川、松尾)板の台の四隅に竹を曲げて刺し、周囲に紙をはってローソクを立てる。
 13.マゴヅエ(孫杖)
 14.ゾーリ、足中ゾーリ、ソーレンゾーリ、ノゾーリ、トンボゾーリ
  カラワラの反対縄で編む、ヒキソを交叉しない。手間にもよるが、大きなワラの束から人数毎に違う方向ヘワラを取ってなう。靴にひっかけて、まじない程度に使用する。
 15.竹の杓
  2コ(漆川)
 16.六地蔵、六堂
  板で六地蔵を切り、ローソクを6本立てる。葬列の始めての辻に置く。
 17.六地蔵のハタ又は野辺の送りバタ
  半紙4枚を継いだ紙の幡を6本。(下野呂内)
 18.オオイ
  家の形に板で作る。代々墓でない場合に作る。(佐野)
 19.ノドロ(野燈篭)
  木製。ローソクをあげて墓に立てる(佐野)
 20.四花、ハスの花
  金銀等で4本の花(ハス)をつくり、木製の座に刺して、野辺送りの翌日墓へ持って行く。
 21.小花、手花、一本花
 22.棺用の縄
  カラワラで綯う。
 23.タスキ
  カラワラで綯う。
 24.墓穴堀り
  墓を堀る前には身内が場所を指定し、1円〜2円又は六文銭を印刷した紙等で土地を買った上で穴を堀る。
 25.当用買物
 26.死装束
  近所の婦人が一本針を買って白木綿で縫う。ふしは人に止めてもらい、分担して縫いあげる。一反の布でサンヤ、手甲、脚絆、座布団、経帷子をとる。
 27.炊事
  近所の人(女)が炊事一切をする。
 ユカン、ユカワ、ネザアゲ
 入棺の前に湯潅をする。現在はアルコールで拭くが、昔は畳をあげてタライに湯か水を張り、裸にして座らせて洗った。湯や水は床下に捨てるか、家の南側へ穴を堀って捨てた。湯潅に使用したワラや布は焼き捨てるか、道具類は7日間日光に当てない。(松尾)手伝の人はヤド(葬家)の着物を借りて着替え、カラワラのタスキをかける。(松尾)
 入棺
 湯潅の後、普段着の中から良いものを着せ、その上に白木綿の単衣を左前、経帷子、三角頭巾、手甲、脚絆をつける。足袋は破って左右反対にはかせる。手は合掌して数珠を持たせる。ハコの場合には脚は交脚。サンや袋には弁当として握飯4コ(漆川)又はダンゴ(下野呂内)等を入れ、大切にしていた物も入れて、ハナシバ、ワラ等を詰める。ハナシバはあの世で金として使えると言われているが、火葬になって詰めるのが少くなった。
 入棺の時はハシリ(死人に誘われること)除けのために生臭もの(イリコ等)を肴に酒を飲む。(佐野)
 孫杖、夫婦の一方の死の場合はヒマジョウ(暇状)を入れる。(松尾)
 棺又はハコの釘は血の濃い者から順に一本づつ打つ。(佐野)
 入棺すると僧が梅のズバエでブチをいれる。
 焼香
 僧の読経の間に焼香をする。身近い者から右翼へ座り、粉線香で焼香をする。この時に供養銭を包む。お供えと香典はお床に供えられ、棺は床の反対側に安置する。今は焼香は膳でまわる場合が多い。(松尾)
 出棺
 出棺の前に親戚代表の挨拶があり、僧の来ない場合は寺から「オクリ」をもらって出棺する。(佐野)
 棺は甥が担ぐが、小さい場合には正式に名を呼びあげて替りの者が担ぐ。棺を担ぐ者は白木綿を手拭に切って鉢巻にし、ゾーリを靴にひっかける程度に履く。(漆川)
 棺はクマオジ(その日の干支の方向)へ向いては出さない。(下野呂内)
 松尾では、帚でなぜ出した後、ホテ火(ワラ火)をつけて庭に放る。逆に死んだり、不時の死の場合のみ陶器を石の上に投げて割ったが、この頃は逆でなくてもしている。他の地区では、ホテ火を燃やして茶碗を割るのは一般に行なわれている。
 棺にはゼンの綱を引き婦人が持って従う場合もある。
 棺は左へ3回まわって野へ行く。
 普通夫婦、親が子の野辺送りはしない。
  葬列の例
  漆川
 カネ(鉦) 三点打
 野提灯 2灯
 僧
 位牌持
 一本花 長女その他の娘
 四本幡
 天ガイ
 棺
 漸の綱 婦人
 一般葬送者 (葬列は2列で進む)
  佐野
 ホテ火 消えても先に行く
 六堂
 幡 4本
 孫の小花 数人
 四花 親戚の男
 枕の飯 相続人の妻又は甥
 位牌
 僧 中流以上は2〜3カ寺
 棺
 天ガイ 伯父又は伯母
 ゼンの綱
 身内の者
 一般の者
  松尾
 六地蔵のオヒカリ
 鉦  野提灯 2名
 幡 2名
 竜頭 2匹
 ハコ 2人で担ぐ
 天ガイ
 位牌持ち
 下野呂内
 天ガイ
 僧
 位牌
 棺
 野膳
 六地蔵の幡 6枚
 手花(女性は大正10年位まで白無垢であった)
埋葬の作法
 あらかじめ掘ってある穴に棺を一度入れた後、中引上げで左へ3回まわしてから埋める。道具は十文字にして翌日の墓参りまで置いておく。(佐野)
 ハコを穴の中へ落し込んだ後、引上げてあげ土(底土)を一回、一握り取り、中で3回左へまわし、ハコを落し込み埋葬する。あげ土はハシリ除けになるので、ハシリにかかった時にこの土を水と共に飲む。埋め方は、四方を埋めて真中を残し、鎌を逆手に握ってハコの綱を切り、中心に石を置いて土をきせた後、天へ往生石を置く。六堂、六角棒、トウバ2本を立て、綱を切った鎌を逆に刺して帰る。(松尾)
 ハコを穴に一度入れてから出し、あげ土を鍬でひっかけて取り、天ガイの紙に包んでフタ石の下に置いておく。(ハシリ除け)左へ3回ハコをまわして穴の中へ埋葬する。身近い者から土を入れ、フタ石の上には野膳(八寸)に脚付きの位牌(ノイハイ)を置き、水と米を供える。(下野呂内)
 帰りの作法
 箕の隅に塩をのせて門口に置いておき、帰った者は塩払いをする(佐野)
 塩を少し口に入れてから、左肩、右肩とふりかける。(松尾)
 明治末期までは、野から帰った人(棺を担いだ人)は家の周囲を3回まわった。担いだ人が死人の着物を洗い、北干しにかけた。(松尾)
 逆の死の場合は担いだ人が「西の国のジョーモチが宿借りに来たんじゃ宿貸してくれ。」と言い、家から「大事な人をとられたきに宿貸すことできん。」と答えると、「供養したげるけん。」と言って家に入る。(松尾)
 足中ゾーリを家のそばでぬぎ捨てていたが近頃は最初にちょっと履くだけではき替えているのでしない。(下野呂内)
 オトキ、ヒジ
 野辺から帰るとオトキを会食する。僧が正座、その次に棺を担いだ人が床前につく。昔は精進料理であったが、今は寿しが多い。(松尾)
 帰宅後家族はヒジを会食する。
まな板なおし
 翌日は身の濃い者で普通の食事を会食する。(下野呂内)
 墓ナヲシ、墓ヅミ
 葬式の翌日、墓の充分でないところを鍬で改める。石を洗い、米、線香、菓子、果物等を供える。墓ナヲシと言う。(漆川)
 墓ヅミと言って、七日の仕上げの日に石を並べて、後から墓を積み上げられるようにする。53cm〜66cm位の高さ、1m20cm四方位の広さにし、その上にオガミ石を置く。(松尾)
 追善
 オムイカ、オナヌカ、マワリメ、四十九日、ムカワレ、三年(三回忌)、七年、十三年、十七年、二十五年、三十三年、五十年、六十一年、百年等があり、土地や家によって回数や方法は異る。
 七日ガリヤ
 六日の夜、三つの又の竹で小屋をつくり、膳を置く中棚をつける。(飯台(はんだい))病人の箱膳のフタに常時食べていた茶碗一杯の飯を飯台に供え、家から墓地への道の、離れた丘とかサコに置き、七日の朝に足で蹴かえしてそのまゝ墓参りに行く。(松尾)
 お七夜の川念仏
 死後7日目の夜に、竹を三又に組み川へ突き立て上に棚をつくり、膳を置いて赤飯の握飯を供える。竹の先には麦ワラ帽子を被せ蓑(今は合羽等)を掛ける。あじゃらと呼ぶ先頭の人に従って念仏を唱和する。終ると振り向かずに帰り、あじゃらは後に残って竹の脚を切り、突きころばして帰る。(佐野)
 タツミ(辰己)、仏の正月
 死後始めての12月最初の辰の日に血の濃い者が集まり、読経、会食して、翌早朝に一升餅(鏡餅)酒一升、豆腐一丁等を持ち、一同で墓(まだ石のみ)に行く。墓には注縄を張ってあり、ウラジロ(普通の正月用)のかわりにネコシダを使用してある。墓前で元旦の礼を行い、一同で読経した後用意の麦ワラに火をつけ、一升餅(鏡餅)を薄く包丁で削り、包丁の先に刺してワラ火にかざして暖め、後手で一人一人に渡す。同時に一同は酒を飲むが、近頃は代表者だけが餅を食べて終る事が多い。家で雑煮を祝い、昼近くには会食をする。餅、オボロ、砂糖、寿し、赤飯等が膳先につく。(漆川)
 亡くなった年の12月の初めの辰の日、身寄りが泊り込んで読経し、翌朝(巳の日)起きるとすぐに墓へ行く。墓にはハナシバと茎の赤くないワカバをまつり、一・五・三の注縄を張ってある。一臼餅。一丁豆腐、オミキ、米、お供え等を持参、参拝のあと餅と豆腐を切ってワラ火で焼き、針に刺して皆で食べる。残りの餅は持ち帰って里芋と共に雑煮にして祝う。(松尾)
 12月始めての辰の日、新仏の仏壇と墓に注縄を張り、ウラジロとワカバを添える。身内が夜に新仏の家に集まり会食し、朝まで起きている。0時頃に餅をつき、焼いて夜食にする。朝4時頃揃って墓場へ行き鏡餅を切ってワラ火にあぶり、切れものの先に突き刺して、墓のウラジロの間から逆手で一同に餅を配る。同時に新仏が何軒もあって、墓場に他の人が来ていても違うグループとは言葉を交さないことになっている。帰って残りの鏡餅で雑煮を祝い、会食をして帰る。単に宵の日の夕方参って雑煮を食べて帰る場合もこの頃ではある。(佐野)
 盆
 8月13日の夕方までに仏壇と墓の支度を仕上げる。墓には真竹の若竹に、ミズハギ、ハナシバを活け、ヒダナに里芋の葉を敷き、ナスの輪切り、子芋の根、葉、茎のついたものを供える。仏壇は14日〜16日まで飾り、盆の上にコーゾの葉を敷き、ダンゴ、ソーメンの束を左右に供える。(漆川)
 迎火
 8月14日に小麦旱をヒダナの側でもやす。昔はオガラをもやしていた。(漆川)
 盆のヒトボシ・川念仏
 新仏のある家では旧7月13日の盆にヒトボシをする。竹を組んだ棚を水辺につくり、その上にカジガラとコエマツを10cm位に切ったものを組んで2〜3本を1束にしたものを49束つくり火をともして川念仏を唱和する。
 普通の場合のヒトボシはコエ松を墓の広庭でたく。小束を30束位使用する。(佐野)
 トーロー
 初盆から3年間は、8月14日〜末日までトーローをあげる。第一年目をともし始め、3年目をともし上げと呼ぶ。トーローは仏壇の前に吊る。提灯(祭用)アンド(正月用)は軒先へ吊って区別する。トーローは岐阜提灯を使用、子供用は丸い小型のものを使用する。(漆川)
 アラボンには仏前にトーローを吊る。今は8月1日〜31日まで岐阜提灯を吊る。(佐野)
 盆のヒトボシといゝ、六角のトーローを作り、1カ月間仏前でともす。三年後八朔にトーロー流せ(又はアガリトーロー)で川に流す。3年間毎年流す家もある。(松尾)
 墓参り
 翌日(トイアゲ、ハカナオシ等) 春秋彼岸
 3日〜1週間毎日(夜) 盆
 7日目(七夜、七日トウバ) 命日
 7日目毎(マワリメ) 正月16日
 四十九日(三十五日)
 ムカワレ
 タツミ 三年〜六十年
 百カ日
  等の墓参りがあり、地域や家により異る。
 墓制
 単独墓の石塔、戎名を切る。骨堂墓に改葬の進んでいる地域もあり、代々墓はその代で締括ると言って嫌うところもある。
 石塔を建てる時期
 三年までに建てるのが望ましい。(漆川)
 ムカワレ、三回忌、七年、十三年のいずれかに建てる。(松尾)
 三年、七年に建てる事が多く、十三年の場合もある。(下野呂内)
 墓の形状
 ハカは石塔で、戎名を切る。ハカを建る前は丸い自然石やフタ石のみで、木製のヒオイで被う場合もある。ハカの頭の角いのは神道、ハスの形や、丸いのは仏教ということになっているが、今は関係なく角が多い。
 ハカは、オガミ石と台(三つ台まで)でなっている。院号づきの墓は2尺以上のものを切る。(松尾)
 始めは自然石(ボテ石)のち石塔を切りハカバになる。最近までは交通の便が悪く、大きな石塔はできなかった。(下野呂内)
 最近は横長の板状の石碑に次々と戎名を切っていく代々墓が流行し始めていいる。(漆川)
 墓の名称
 石塔はハカ、ハカバ。その前の自然石の場合はウワ石(漆川)オガミ石(佐野)ボテ(下野呂内)等と呼ぶ。墓場はノ(野)と呼ぶところもある。(松尾)
 場所
 共同墓地が各地域にあり、山の斜面に石を積んで段にしている。不便なため、一部では墓所を山の低い所へおろし、自然消滅して荒れている共同墓地もある。
 施設
 六地蔵又は地蔵のあるところもあるが、設備らしいものはほとんどない。
 子供の墓
 舟ゴコウ、舟ゴク、お地蔵はん等と呼ぶ。舟型光背の地蔵を切り出したものや、地蔵尊の座像を彫る場合がある。
 墓地に植える木
 ハナシバを植えている場合もある。最近サツキを植えるのが流行。(佐野)
 シャクナゲとアジサイは墓場につくるものだと言って庭には植えない。今はツツジ、アジサイ、シャクナゲ、サルスベリなどを墓場に植えている。(松尾)
 死骸を埋葬した夜にハナシバを垣に植える。仏の小遣いと言われている。(下野呂内)
 異常死の葬法について
 法定伝染病で死亡した場合は、昔も火葬していた。それ以前の明治中期頃までは天然痘に罹った場合は山に小屋を建てて1人で暮し、死亡するとその場所に土葬して、しるし程度のハカをつくった。これをホーソーはん、ホーソー墓と呼んだ。骸はハコに納めて埋葬するが、家には帰らない。葬式は行なう。(漆川)
 疱瘡で死んだ場合は墓地へ埋めないで、山へ埋葬した。ホーソー墓と呼び、いらわれんと言われていた。(松尾)
 癩、疱瘡、犯罪者等は共同墓地へは埋葬せず別のところに埋けたらしいが今は不明。昭和50年頃道路ができてより火葬が始まったが、それ以前も法により伝染病の場合は火葬にしていた。火葬場へ行くために他の部落を通過しようとして土地の人に妨害されることもあった。昔の話である。(下野呂内)
 産婦が死んだ場合、産ミオトシ(産後)子マケ(妊娠中)等と言い、百日さらしをした。妊娠中の死亡には赤ん坊の人形を抱かせて入棺する。(松尾)身二つにして背負わせて葬る。(漆川)など。産後は母子共に死亡した場合は背負わせて葬る。(佐野)
 百日さらし
 産婦の死亡の場合、谷の側の橋のある場所を選び、水際に杓と白木綿を置き、道行く人から白木綿に谷の水をかけてもらう。白木綿には墨で梵字を書いてあり、字が消えるまでかけて置き、2〜3年かゝる。道を通る人は必ず木綿に水をかけてくれる。大正初期に例があったがその後産婦の死亡はないが、あれば百日さらしを行う。(漆川)
 言い伝え
 枕をはずし、逆さ着物を掛けた亡骸の横に座帚を置くのは、死人を猫がまたがないように追い払うためだ。(漆川)帚を死人の布団の上に置くのは、死人を猫がまたぐと生き返るので、それを除けるためだ。(松尾)
 枕元で病人に竹筒の米を振ったら生き返ったと言う。
 枕膳のため、ジョーヨー茶碗にすり切り一杯の米を炊くが、案外大きい握飯ができると仏が死後裕福だと言われ、これを持分と言う。(漆川)
 ヒキャクは2人で出ないと、1人だと魔に誘われる。(下野呂内)
 六地蔵は板に地蔵を切って、ローソクを6本ともしたもので、葬列の通る四つ辻に置くが、ローソクが全部通ってしまったら罪のない人という事になる。(下野呂内)
 ハナシバは、あの世で金になる、と言われている。(漆川、下野呂内)
 四個の握飯は弁当にしない。(松尾)
 真言宗の人は死後身体が硬くなって、ハコに納められないので、北枕の折に膝をまげておくが、真宗の人は硬くならないのでその必要はない。(下野呂内)
 ユカンは友引にしてはいけない。(下野呂内)
 イロリを走って回るのは縁起が悪い。(松尾)
 ハシリ除けには墓穴のあげ土を飲むと利く。(松尾、下野呂内)
 ムユカの晩に、木と竹を病人のいた寝間に置いておくと、魂が帰ってきても、「私の寝間に木竹が生えたのでもう帰られん。」と魂は帰って成仏する。(松尾)
 七日の仕上げには、四十九のダンゴを供え、これを鍋の鉉の間から人の方へ投げて、それを拾って食べると夏痩の薬になると言われていた。(松尾)
 お七日に土間のタライの中へ灰をふるいかけておき、一晩置いて翌日何か跡がついていたら形で想像し、何々に生まれ変わった、と言った。(松尾)
 七日ガリヤの飯は犬も喰わない。(松尾)
 葬式で食べるコンニャクはソーレン巻きと言って2回巻く。(下野呂内)
 死骸に涙をかけると極楽へ行けない。(下野呂内)
 盆の16日と正月の16日は地獄の釜のフタがあく。(佐野)
 仏壇と先祖の墓は、きっかけがないとこしらえない。(松尾)

  


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