はじめに 恒例の阿波学会の総合学術調査は阿波郡市場町で、私たち郷土班は阿波郷土会を中心として、7月24日から1週間に亘って、石造文化財を調査した。 石造美術の研究は最近、多くの人の関心を集めているが、研究をすればするほど、なお奥行の深さを感じるものである。いわば、まだまだ研究の余地を残しているといえよう。 石造美術は鎌倉時代より南北朝時代にかけて盛んになり、とくに板碑は庶民の対象物であり、当時の庶民が造立したもので、その生活様式を知る上において貴重な遺物である。 かつて、私たちの先輩一宮松次先生は中世時代の研究をされた方であるが、生前、研究をすればするほど、中世の文献資料の乏しいことを嘆かれておられた。先生にしてさえ、その言葉が出るのであるから私たちが中世の文献資料の空白を嘆くのは当然であろう。 幸いにして、石造美術は地方のいたる所に遺物として残り、ただに美術工芸の対象ではなく、立地条件を考えると歴史考古学、民俗学への対象となり、さらに仏教の文化所産であると思えば、仏教史の対象ともなるであろう。 このように考えてくると、石造美術は中世の生きた良き資料で、文献資料に代わるものといっても過言ではないのである。 さらに幸いなことは、この調査にあたり、本県における石造文化財研究の第一人者である。石川重平氏の参加を得て所期の目的をほぼ達成することができた。(森甚一郎記)
1.阿弥陀三尊画像板碑 市場町伊月御幸北、共同墓地 全長148cm 巾47cm 厚 4cm
(銘 文) 右志者為西阿二親□□□□ 暦応二八月時正願主敬白 県道、鳴門池田線の定松より旧道に入り、伊月郷の村落の北の方に、大きな共同墓地が道路の東の方に見える。その墓地の北側には用水が流れていて、板碑は墓地の北よりの用水の南側に南向きに建っている。碑は土より90cmほどのところで、斜めに折れて二つになり、別々に建ててある。 この板碑には、実に見事な阿弥陀来迎図を線引きで描き、主尊阿弥陀如来は来迎印を結び、脇侍の勢至・観音は対照的に向き合って、三尊は紫雲たなびく蓮華台座の上に立ち、まさに雲とともに来迎して来るように描き、その下に来迎を受ける二人の行者を描いている。 このような阿弥陀来迎図は、天台沙門恵心僧都源信の、厭離穢土欣求浄土の思想をあらわした「往生要集」(985)には浄土宗の興起を促して、阿弥陀来迎図の盛行をもたらした。鎌倉時代の切実な来迎信仰の表現として、阿弥陀三尊を近々とその聖容を大きく正面観的に来現する有様をあらわし、奏楽の聖衆を伴わず、ただ三尊の聖容だけの構図が多く見られるようになった。 この板碑に彫刻された阿弥陀三尊来迎図について説明してみよう。 碑面中央の主尊阿弥陀立像は総高42cm、正面に向き右手は右胸の位置で、左手は左膝先で、それぞれ来迎印を結び、両足を立派な11弁の蓮華台座の上にゆったりとした姿勢で立っている。頭部には一重の月輪光背を刻し、尊顔及び頭部から等間隔に40条の放射線の光背をあらわし、尊像の荘厳さを表現している。 脇侍は向って右に勢至菩薩の立像(高さ24cm)が見事な蓮華台座の上に乗っている。頭部は宝冠をかぶり、頭・身の二重月輪光背を線刻で描き、身体は少し内側に向き、顔は下部に描かれている2人の行者を眺めているように見える。 左側には観音菩薩立像(高さ22cm)がやはり蓮華台座の上に立っていて、右脇侍と向き合っていて、両脇侍の台座の下には紫雲の飛来した様相を表わすためか、ゆるやかに雲の流れ込む様子を描き、その雲の切目には下に水瓶から一茎三花の蓮華が供花として描かれている。最下部に2人の人物が表わされ、向って右に比丘形、左に比丘尼形の姿で向き合って合掌している。 この2人が銘文の二親で、この板碑造立者の父母であるかも知れない。 いずれにせよ、阿波板碑の線刻画像碑の中でも、この板碑のように中世に於ける阿弥陀来迎思想をよく表わし、日本仏教絵画で庶民の造立した板碑の標識として描かれていることは中世仏教文化資料として、特に価値ある板碑である。 造立年代も鎌倉末期、南北朝時代初期の暦応2年(1339)8月時正の紀年銘の読めることは、この板碑の資料的価値が一層高くなっている。ただ、残念なことは前述の如く二つに折れていて、最近になって下部の方はコンクリートで埋め、上部の方も下部をコンクリートで堅めてしまったことである。幸い私の取った拓本が残っており、造立当初の姿を偲ぶことができるが、今後この板碑の全容を見ることは、できなくなってしまった。 銘文の文字の中で、厂广二と刻してあるのは暦応2年の略字で、時正とは彼岸のことで、八月時正とは旧暦の秋の彼岸である。
2.切幡寺の正平七年板碑 市場町、切幡寺 全長67cm、巾20cm 厚3cm
(銘 文) 為□□逆修也 □□比丘敬白 正平七年二月 日 この板碑は、現在切幡寺の庫裡に保管されているが、わたくしが昭和13年に調査した時は庭園の後の山にたてかけてあった。銘文の紀年銘が示す如く正平7年(1352)は南北朝時代の南朝の年号である。 阿波板碑の中で、南朝年号の紀年銘のあるのは、徳島市国府町矢野 正平5年・名西郡石井町徳蔵寺 正平7年2月・徳島市入田町海見 正平7年11月・名西郡神山町鬼籠野 正平7年8月(今はなし)と、この切幡寺のものと五基しか存在していなかった。板碑には、その大部分に造立の年月を明記してあり、その紀年号によって、たとえば南北朝時代の複雑な政治的関係を、ある時代は南朝の勢力範囲とか、また或る土地は北朝の勢力圏であったのが南朝に転換したとか、その大体の勢力範囲を推察できるのである。 切幡寺の正平板碑は、その土地が北朝の勢力圏と考えられる。安国寺利生塔の創建された位置だけに、この南朝年号の正平7年の紀年銘の板碑の存在は、その意義が深い。
飯尾文書によると、北朝方が観応2年(正平6年)に板西郡上庄神宅を昼夜警固しており、その後、麻植郡別子山の河村氏を撃ち、また勝浦郡中津峯山に進撃している。この切幡地区は、細川氏としては、阿波はもちろん四国いな、西日本における重要な位置である。それは、秋月城を中心とした地に安国寺利生塔が建立されたことでも明白である。阿波安国寺は、暦応2年(1339)に建立されているが、この正平7年板碑より13年昔である。この安国寺利生塔建立は北朝にとって、政略上その勢力圏の増大と、武力により拡張した足利氏の領域は、実にこの寺塔によってその維持と、さらにその拡張の便宜をえたというからには、他地方に比較して安全たるべきはずであったと考えられる。その重要なる地、北朝の根拠地に南朝方が襲撃したことは、まことに猛烈であったと推察される。それゆえ、安国寺利生塔を建立してよりわずか13年後にもかかわらず、その後方の板西郡神宅方面を昼夜警固した報告が前記の如く足利氏に提出されたのである。 このように、秋月城方面がいかに重要な位置であるかは、四国の督軍である細川和氏も顕氏もここに集合した。ことに切幡寺は秋月城の要塞内であり、ここに南朝方の年号在銘の板碑の建立のあることは、当時、南北朝の混戦の様相を知る貴重な資料ともなる。 飯尾文書の立案は、観応3年5月25日であり、南朝の正平7年に当る。この切幡寺板碑が正平7年2月とあるので3カ月前に建立されたということは、南北両朝の軍勢の激戦混闘の際、利生塔に肉薄して南朝方の者がこれを建立したことは、当時の戦線の動静を見る感がする。 土成町の故森本義男氏の言によると、この板碑は昭和13年に切幡寺の先住の墓地修理中に発見したものといわれている。 この碑と一緒に北朝の貞治5年(1366)8月在銘の板碑があることは、むしろ当然であるが、それが同寺内に対立して存在することは、阿波における南北両朝の戦況を物語っている感じが深い。
3.建布都神社の板碑 市場町香美、建布都神社 全長180cm、巾81cm 厚16cm
(銘 文) 謹■刻石塔敬資 慈父三十三回之遠忌 ■応安第二暦配仲春 中幹法眼定金敬白 吉野川右岸の洪積層台地の上に鎮座する、建布都神社は「布都(ふつ)の御霊」を祀る社で、物部氏の祖先を祀る神社であるといわれている。神社境内の東側に円墳の古墳が築造され、板碑はこの古墳の盛土の上に南向きに建っている。石質は極上質の緑色片岩で、彫刻の技術も実に立派である。上部を山形に尖らし、額部の二線の切り込みも深く、幅も広く、さらにその二線が側面にまで廻わり、塔形をなしている。 標識の阿弥陀三尊の種子も太い薬研彫りでみごとである。銘文の文字も一文字が11cmにあまる大文字を刻し、堂々としている。 この板碑の造立の趣意は、慈父の三十三回忌の法要を行い、応安2年(1369)の仲春(2月)の中幹(中旬)に法眼定金なる者がこの石塔を造立したのである。 当時、法眼の位は僧侶に与えるもので、普通人では従五位下に相当する。定金は高僧であったことが知られる。銘文中に見える石塔の文字は板碑の本質のことで、碑ではなく、仏教に於ける卒塔婆の意味を表徴するもので、単なる碑文や銘記を主とするものではなく、卒塔婆は塔・塔婆・浮図などとも称されて、崇拝の対象となし、また死者・生存者の高徳を標識するため、骨・歯・爪・髪などを埋めて金・石・木をもって築造し、人をして脆仰せしめるものである。 この板碑は、その意味をよく表わしている銘文であり、板碑造立の意義を知る貴重な資料である。
4.阿弥陀立像画像板碑 市場町、大野寺 全長96cm、巾23cm、厚3cm
(銘 文) 為尼妙性逆修善根也 応安四年二月時正 大野寺本堂の中に安置してある。応安4年の阿弥陀立像の画像板碑は全長が1mたらずの小形板碑であるが、本尊阿弥陀如来の姿もよく残り、頭部に二重円の月輪光背を付け、向って右向きに来迎印を結び、割蓮華台座の上に立ち、その下、中央に一個の花瓶を彫り一基の開花蓮華の供花を供えている。左右の銘文もよく残り、右に造立の趣意、左に造立の紀年銘を刻している。 この碑は銘文の如く、尼妙性が逆修善根のため、応安4年(1371)2月の彼岸の日に造立したものである。逆修については、後出の春日神社の板碑の項を参照していただきたい。
5.阿弥陀立像画像板碑 市場町山野上、笠井秀男家 全長126cm、巾46cm、厚4cm
(銘 文) □□□霊三干年之明奉燃四十八燈結衆 応安七季甲寅十一月□□願主敬白 山野上の笠井秀男家の応安7年(1374)の板碑は、明治の中期にここの井戸を掘っていたときに出土したもので、初めは笠井家の前の岸に南向きに建っていたものである。この度の調査では、笠井家の軒に東向きに立てかけてあった。 この板碑は、形態も本格的なもので、本尊の阿弥陀如来立像もみごとな出来ばえである。頭部に一重の月輪光背をつけ、螺髪(らほつ)のところから二線ずつ十八本の放射線光背を彫刻してあり、像身は正面を向き、左手を下げて前に出し、右手は胸のところで親指と人差指で結び、いわゆる上品下生の来迎印を結んでいる。足元には立派な蓮華台座があり、その下に2個の花瓶があり、瓶には一茎の開花の蓮華があって供花としている。 銘文は右に願文、左に造立した紀年がある。惜しいことに銘文の一部の磨滅がひどいので、全文を読むことができないことである。それでも銘文によると、奉燃四十八燈結衆の文字があることは、南北朝時代の庶民の信仰形態がおぼろげながら、うかがい知ることができる。 結衆とは後生の講中のことで、奉燃四十八燈結衆の銘文は「施燈功徳経」にもとずいたもので、仏に対して献燈することは、こよない善根功徳を行うことであり、48という数は阿弥陀如来の本願が48であるからのことであろう。当時、庶民は阿弥陀如来の本願が一つ一つかなえられるように、献燈講を作り、過去・現在・未来の三世に亘り、衆生の罪障消滅・寿命増長を祈願しつつ、この板碑を造立したのであろうと考えられる。この銘文は非常に珍らしいものである。
6.大野寺の宝筐印塔 市場町、大野寺境内 全高112cm、基礎43×29cm、塔身27cm 材質 砂岩
(銘 文) 為法阿聖霊并三十三廻遠忌 廿五菩薩仏果 永和元乙卯十一月十四日 法眼定金敬白 宝筐印塔とは、一切如来心秘密全身舎利宝筐印陀羅尼経を写経し、塔内に納め、その経文の偈句の一節を石塔の塔身に刻し、石造供養塔として造立したのがその起原とされている。 わが国では、平安時代天暦年間、10世紀の中頃に伝来し、鎌倉時代中期以降、五輪塔とともに現われた石造供養塔である。墓塔の形式と造塔とは江戸時代まで及ぶが、祖形から見ると随分変った形となっている。 阿波では、中世の紀年銘のあるものは少なく、いまのところこの大野寺境内の永和元年(1375)のものが、唯一基しか発見されていない。 この塔は、基礎石の四方各面に幅7cmの輪郭をつけ、各面に蓮華の格狭間を入れ、左右とその下部に各1行ずつ計35文字の銘文が陰刻してある。塔身には、月輪の中に金剛界の四方仏を種子で表わし、東ウーン、南タラーク、西キリーク、北アクで、その筆法は南北朝時代をよく表わし、刻法も薬研刻の立派なものである。 笠は下二段、上六段で隅飾りも垂直に立ち上り、二孤の輪郭が付けられ、比較的古式な様式が保たれている。上部相輪の一部が二つに折れ、無雑作にのせてあるが、伏鉢・請花・宝珠の形は全くわからない。この塔は、造立当初の総高はわからないが、俗に言う4尺塔として造立されたものであろうと推定される。 阿波では数少ない南北朝時代の造立銘のある宝筐印塔が、ここに残っていることは貴重な石造美術資料であり、大切に保存したいものである。
7.春日神社の板碑 市場町香美、春日神社 全長212cm、巾43cm、厚15cm
(銘 文) 謹■刻石塔敬資 ■永和二丙辰二月 敬 日 白 成信逆修善根造立之 この板碑は、春日神社の社殿の向って左側に南向きに立っている。全長が地上212cmもある背の高い板碑で、丈の割に幅の狭い碑である。上部の山形は、非常に鋭角で80度と最も強い角度に造られ、その下に二線を刻す額部も広く、碑身まで28cmあり、額部と碑身と区画するため、さらに一線を刻している。碑身上部には阿弥陀三尊の種子を刻り、直径35cmの三尊共通の月輪で囲っている。月輪の下に簡単な蓮華台座を線刻して、その下に3行に27文字の銘文を碑一杯に彫刻してあり、根部は大きく厚く原石のまま残している。 銘文によると、成信なる者が逆修善根のため永和2年(1376)2月にこの石塔を造立したことを記している。 逆修とは、生前に死後の菩提を弔わんがため修する法要で、外にあっては寺・塔の建造、内にあっては三七日あるいは七七日の間、一定の法式に従って修するなど、その方法は各派、各人によって異なるが、その根本は 灌頂■願往生十方浄土経第十一の 普広菩薩復白仏言 若四輩男女 能解法戒 知身如幻 精勤修習行菩提道 末終之時 逆修三七燃燈続明 懸絵旛蓋 請召衆僧転誦尊経 修諸福業得福多不 仏言普広其福 無量不可度量 随心祈願獲其果実 によるといわれ、その修法を知ることができよう。また太平記巻11の塩田父子自害の項には、『先立ちぬる子息の菩提をも祈り、我逆修にも備へんとや思はれけん、子息の屍骸に向って年来誦み給ひける持経の紐をとき、要文処々打ち上げ心閑かに読経し給ひけり』と見えている。これらは、南北朝時代の武士が逆修のために読経した一例と見るべきである。 法然上人の作といわれる書冊が世に伝っているが、これによれば浄土宗内で行われた逆修の法がわかり、その第三七日の条には逆修の功徳を説いて、 阿弥陀仏如此願行成就 得此寿命無量徳也 然則今此逆修七七日間供仏施僧之営 即是寿命長遠業也 と記してあり、これらは阿弥陀仏を中心とした逆修の供養の功徳を説いたものである。 古文書に残っている逆修の行われた最古のものは百練抄に見える。正暦5年(994)10月2日関白藤原道隆が東三条において逆修の修法を行ったことが記され、また嘉応2年(1170)10月に入道相国平清盛が福原で逆修を行ったことはよく知られている。 板碑に現われてきたのは、鎌倉時代末期から南北朝時代を経て、室町時代中期よりはやや衰え、桃山時代の天正11年(1583)の徳島市国府町矢野の六地蔵板碑に逆修講中の銘文を残し、その餘韻はなお徳川時代にまで及んでいる。 その中心信仰はその人の好みにより、阿弥陀仏、観音菩薩、地蔵菩薩などであり、とくに逆修板碑の標識に地蔵菩薩の多いのは、その信仰者たる彼等の所願は、あるいは地蔵本願経下にいえる。 貧窮衆生及疾病 家宅凶衰眷属離 睡夢之中悉不安 求者乖違無称遂 至心膽礼地蔵尊 一切悪事皆消滅 (中略) 若能以此廻法界 畢意成仏超生死 の功徳に基づいたものであろう。 この板碑の特徴としては、上部二線と身部の間の額部が非常に広く残していることと、三尊種子が三尊共通の月輪光背で囲まれていることであり、阿波板碑では、他に例を見ない意匠である。
8.六地蔵刻板碑 市場町大野寺前墓地 全長110cm、巾50cm、厚3cm
(銘 文) 右志者為現当(以下破損) 永和三年太歳 本尊の六地蔵は、上下二段に三尊ずつ並べ、像は印相や持物から推して知られ、上段右から護讃地蔵、弁尼地蔵、破勝地蔵と置き、下段右から延命地蔵、不休息地蔵、讃竜地蔵と配置してある。 この板碑は、尊像の背後を舟形に彫りくぼめ、尊像の舟形光背に造っている。それ故に陽刻のように見えるが、実は陽刻ではなく、像は碑面と同一面であり、そこに線刻で像身・衣文・持物を描いている。上部一段の像は、磨滅がひどく衣文の線はなくなり、当初の面影を知るよしもないが、幸い下段の三尊は比較的に磨滅が少くなく、拓本を取れば当初の姿がおぼろげながら知ることができる。 銘文は、右側に右志者為現当の六字があってその下は折れている。その下に続く文字は不明であるが、多分現当二世□□とつづくのであろう。今は残念ながら不詳となっている。 左側は永和三年太歳と紀年銘が刻され、この板碑の造立年代を知ることができる。永和3年は西暦1377に当り、南北朝時代の北朝の年号である。 阿波ではもちろん、全国的にも数少ない六地蔵板碑に南北朝時代の紀年銘が明瞭に読めるのは、六地蔵信仰の資料として価値は高い。
9.阿弥陀画像板碑 市場町伊月大桑北、秋月義雄家 全長165cm、巾60cm、厚10cm
(銘 文) 右為□□逆修七分全得□□ 応永□□年八月十八日 この板碑は、秋月義雄家の東の畑の中に東向きに立っている。阿弥陀一尊の画像碑である。 現在建っている板碑は、昭和50年12月上旬、すぐそばを通る町道の舗装工事に工事用の機械に当り、旧板碑は、破壊されてしまった。そのまま復原することはむつかしいため、工事業者が町教育委員会、文化財関係者及び県文化課と相談の上、新しく板碑を造ることにきまり、幸い旧板碑の拓本をわたくしが取っていたので、原形どおり造ることで、京都市北区紫野柳町在住の川勝政太郎博士に依頼して、原画に近いものを描いてもらい、石工に彫刻をしてもらって、昭和51年に再建した板碑である。
10.開花蓮華文様の宝篋印塔基礎 市場町八幡元旧虚空蔵庵 高さ32cm、横巾32cm
材質 砂岩 この宝篋印塔の基礎は虚空蔵庵の向拝の左右両柱の礎盤として使われている。 石造美術の装飾文として、三茎蓮、開花蓮、散蓮などと、孔雀文が広く行われていることは、石造美術に関心を持つ人々はよく知るところである。そしてこれらの文様が近江で発生し、のちに全国各地へ伝播したことを明らかにしたのは、先日なくなられた川勝政太郎博士であることは改めて言うまでもない。 石塔の基礎の側面を、装飾するために格狭間を入れる手法は、早く奈良時代にはじまっている。鎌倉時代に入ると、石塔の造立が盛んになり、ほとんど、あらゆる形式のものが造りはじめられ、その後期は、石造美術の黄金時代といってよいほど、優秀な作品を残している。このことは、あらゆる形式の石塔がその形式ごと、あるいは地方ごとに多少の遅速はあっても鎌倉後期に入って、それぞれ塔形の整備を完了したことを示している。このような塔形の整備がはじまるのは、およそ中期後半に入ってからであると考えて、ほぼ誤りでないと思う。 石塔の基礎の側面は、すべて切り放しの素面である。この側面に格狭間を入れるようになるのであるが、それは、じかにではなく、まず輪部を巻きその中へ入れるのであり、その後多少の迂余曲折はあったとしても、この手法が定形化し、基礎の側面の普遍的な装飾になったのである。 この手法がはじまるのは、近江であったと考えられる。さらに格狭間の内部を飾るに近江式装飾文として、一茎蓮や三茎蓮および開花蓮をもっていることである。その後近江においてはこの式のものが普遍化している。しかし、他地方では近江式装飾文を施したものは比較的に少なくなく、輪郭付きの格狭間だけ取り入れ、これが基礎の側面の普遍的な形式になっているのである。 ここに残っている宝篋印塔の基礎の装飾文様は、前述の如く、近江式開花蓮華文様であり、阿波における唯一つの、中世の石造美術の文化伝播の資料として、貴重な石造文化財である。
11.八幡八幡宮の梵光寺銘のある古鐘 この古鐘は昭和13年頃、松山市弁天町の善勝寺に安置され、日切地蔵尊の釣鐘として使われていたが、少しヒビが入ったので撞かずにしておいた。当時、戦争のため物資が不足し、各寺院では、国防資材として不用のものを供出する運動が起り、この釣鐘も競売してその代価を献納することになった。競売の結果、同市新玉町の古物商亀井季太郎氏の手に落ちた。ところがその釣鐘の銘文を調べてみると、室町時代初期の鐘銘があり、道後湯之町岩崎一高氏が再調査したところ、準国宝級のものとの噂が高まった。そして、これが阿波国八幡の八幡宮の古鐘であることがわかった。この鐘が、どうして善勝寺に入ったかを調べると、昭和13年頃から7・80年前に善勝寺の先々代の稲岡上人が讃岐で買入れたものとわかった。 この鐘は、竜頭二体の鬼面が相対して 総高3尺5分(92.5cm) 口径1尺8寸(54.5cm) 胴径1尺5寸(45.5cm) 重量33貫770匁 乳数64 撞座単弁八葉蓮花文様 銘文は、池の間4区の面にタガネ刻で刻している。 第1区奉鋳造 大阿波国秋月庄八幡宮事 犬檀那 梵光寺 守格 右京大夫 頼元 兵部少輔 義之 第2区右奉為 金輪聖皇天長地久御願 円満天下奉平国土豊饒 殊者大檀那御息災安穏 増長福寿家門繁栄 并 結縁奉加之衆現当二世 第3区願望成就乃至鉄囲沙界 之情非情悉利益平等敬白 応永二暦乙亥八月十二日 勧進沙門金対資頼業敬白 神主 宇佐輔景宗 大工 伴左衛門正光 第4区奉再興 明月山梵光寺住持比丘尼守久 神主 沙弥盛宗 永享七年乙卯六月廿九日 願主 内藤元継敬白 一打鐘声 当願衆生 脱三界苦 得見菩提 この銘文によると、大檀那京太夫頼元は阿波国の主権者である。細川頼春の三子で頼之の弟にあたり、従四位下右京太夫と称し、足利幕府の管領に任ぜられた大人物である。 義之は細川詮春の次子で、応安3年(1370)官軍の菊池武政を長門で破った勇者である。 八幡宮は八幡町の八幡宮であり、同社には寛永17暦(1636)9月吉日の棟礼があり、その中に秋月五カ庄、日開谷、尾開、切幡、秋月、日吉、成当、大野島、山野上、浦池、粟島、伊月とある。 この由緒ある古鐘は、流れ流れて現在は広島県豊田郡瀬戸田町の耕三寺の博物館の所蔵となっており、銘の拓本取りどころか、なかなか細かな調査もできなくなっている。 鐘銘にある梵光寺は、八幡宮の別当であり、現在の山野上の仏殿庵が鐘銘の梵光寺である。この敷地からは、南北朝時代の古瓦が多く出土して、その中に阿波細川系の寺院特有の青梅波文様の軒平瓦があり、敷瓦も多く発見されている。 仏殿庵は、現在敷地が9畝11歩あり、細川頼春の位碑「光勝院殿故四洲総轄宝洲祐繁大居士」の戒名を記したもので、頼春の持仏の如意輪観音菩薩像が祀られていたというが、現在所在不明である。 梵光寺の銘文のある手洗鉢が今なお本堂の前に残っている。この手洗鉢は砂岩製で、 横巾55cm、高32cm、厚36cm。 正面に 寛文四甲辰年 梵光寺 観音御宝前 手洗鉢 願主 山上村八左衛門 六月十八日造立 とあり、寛文4年(1664)は江戸時代で今から314年前に当るので、その頃には梵光寺の寺名が使われていたことが明白である。
おわりに このたびの調査にあたり、隣接の板野郡土成町の秋月城や安国寺利生塔が北朝の足利氏の根拠地であり、その勢力範囲内の市場町が常に南北朝時代の攻防の巷であったことが、これら板碑の分布状態で明白となり、とくに一カ所に南朝、北朝の紀年銘のある石造文化財が入り雑っていることは、それをよく物語っていることがわかった。今や戦乱の苦悩をのりこえて、石造文化財は恩讐を彼方にして、静かに安置されている。 この調査が、中世資料の空白を嘆く研究者にとって少しでもお役にたつことが出来れば、 私の望外のよろこびとするところである。 おわりに大野寺の原田住職をはじめ、色々とお世話になった町教委の方々や、炎天のもと、自動車を運転して道案内された坂本裕二氏や、班長森、河野、北岡の三先生のご協力に対して衷心よりお礼を申し上げて擱筆する。 (石川重平記) |