阿波学会研究紀要


このページでは、阿波学会研究紀要論文をご覧いただけます。
 なお、電子化にともない、原文の表記の一部を変更しています。

郷土研究発表会紀要第25号
市場町とその周辺の中央構造線の活断層運動

地学班

   阿子島功・石川啓祐・久米嘉明・

   近藤和雄・東明省三・須鎗和巳

1.間題点の所在
 中央構造線に沿った吉野川北岸の活断層系がどのような動きをしたかについては、調査者によって全く異なった考え方がある(第1図)。その考え方の違いは野外で調査を行う際に、地層の時代区分・断層のつなぎ方・何を指標として断層の運動方向や変位量を推定するかが違うためである。


 文献(一部)をあらかじめ示す。

 中央構造線活断層系は垂直運動成分よりも水平運動成分が大きい。すなわち横ずれ断層であるとする考え。横ずれ運動の指標としては、河川が断層線のところで屈曲する、あるいは侵蝕崖が断層線のところでくいちがうなど
 金子史朗(1968):中央構造線は生きている? 科学朝日、第28巻、89〜93頁
 岡田篤正(1968):阿波池田付近の中央構造線の新期断層運動.第四紀研究、第7巻、15〜26頁
 岡田篤正(1970):吉野川流域の中央構造線の断層変位地形と断層運動速度.地理学評論、第43巻、1〜21頁
 岡田篤正(1973):中央構造線の第四紀断層運動について.「中央構造線」、東海大学出版会、49〜86頁
 岡田篤正(1977):中央構造線中央部における最新の断層運動−沖積世の変位地形・変位量・地震との関係について−MTL(中央構造線の形成過程に関する総合研究 研究連絡誌)、No.2、29〜44頁
 岡田篤正(1978):讃岐山脈南麓域の中央構造線に沿う新期断層地形と断層運動.
  同上、No.3、25〜36頁

 第四紀前期においては北側地塊上昇の逆断層。第四紀後期にはさらに低角度の衝上断層(砂礫層に基盤岩がのし上げる)で北側地塊の隆起。古い逆断層を新しい衝上断層が切っている。
 中川 典・中野光雄(1964):阿波池田町西部の“中央構造線” 地質学雑誌、第70巻、580〜585頁
 ■本五郎・中川 典・中野光雄(1968):徳島県美馬郡内でみられる“中央構造線”。地質学雑誌、第74巻、479〜484頁
 中野光雄・■本五郎・中川 典(1973):徳島県阿波郡市場町切幡・観音付近の
 “中央構造線”. 「中央構造線」東海大学出版会、191〜195頁
 水平移動成分よりも垂直移動成分がはるかに大きく、本質的な運動は急角度の垂直運動であり、おしかぶせ断層は局部的現象である。断層のパターンは南北系・東西系の組み合わさったモザイク状をなし、阿讃山脈から吉野川谷中央にかけて階段状に落ち込んでいる。
 須鎗和巳(1972):吉野川北岸の第四系とその運動.岩井淳一教授記念論文集、  309〜318頁
 須鎗和巳・阿子島功(1973):四国島の中央構造線の新期の活動様式。「中央構造線」東海大学出版、179〜190頁
 須鎗和巳・阿子島功(1978):四国島の中央構造線の諸問題(その3)−吉野川流域のネオテクトニクスの再検討−。徳島大学教養学部紀要(自然科学)、第11巻、51〜69頁
 市場町付近についても3者3様の調査結果が報告されている。新資料を含めて、再検討した結果を記載する。

 

2.地形・地質概況
 地形の起伏に最も良く表われている断層は父尾断層であり、これを境に北側が阿讃山脈、南側が、洪積世扇状地(阿波の土柱付近の2段の台地、市場町西尾開〜上野段の台地、土成町の西原付近)、沖積世扇状地(日開谷川沿い市場町ののる面、宮川内谷沿い上藤原〜下藤原)、または分離丘陵(切幡丘陵:金清谷−金地(こんじん)−浦之池以南)となっている。
 中央構造線(北側の和泉層群と南側の三波川結晶片岩との境界)は切幡丘陵の南端(市場・土成両町の境付近)を通っており、その東西両側では洪積世・沖積世扇状地面におおわれていて、地表には露われていない。
 中央構造線の北側には3列以上の東西性断層が走っており、南より北へ、土柱断層(阿波町大俣付近より東では地形に表われていない)、父尾断層(上喜来−尾開−金地−浦之池にかけて明瞭)、さらに金清谷の上流の二股地点−浦之池北方を通る断層がある。
 土柱断層・父尾断層については:吉野川グループ(1973):脇町とその周辺の地形発達史.阿波学会紀要、第19号、43〜55頁にて紹介した。その後、一部改訂を要する点がある。土柱北側に高位段丘期堆積物があるとしたが、これは土柱層に一連であることが判明した。赤色土化しているようにみえるのは背後から流下した物質によるのであろう。また、阿波の土柱、波涛ケ嶽の土柱層基底より採集した木片のC14年代は29、770±年前であり、土柱断層南側地塊のCl4年代資料と合わせて、土柱断層の新期の活動がさらに明確となった(須鎗・阿子島、1978)。
 西尾開−上野段の台地をつくる礫層の時代については、市場町中山で25,200±年前の木片の資料(高度20m、地表下2m:岡田、1970、p.7)および恰良Tn火山灰層(南九州恰良カルデラ起源、21,000年前降下)が報告されている(岡田、1977、p.33)。洪積世扇状地面と沖積世の氾濫原面は日開谷川沿いのように明瞭な崖で境されることもあるが、九頭宇谷川沿いのようにひきつづき沖積世まで扇状地礫層が洪積世扇状地面をおおったと考えられるところでは境界が引きにくい。この違いは流量(集水面積)よりはむしろ、隆起量や背後の断層活動(岩屑の生産量)の違いによるのであろう。

 

3.中野ら(1973)の低角度衝上断層について
 a.切幡丘陵南東縁の押し出し量1.5kmにわたる低角度衝上断層について
 中野・■木・中川(1973, p.193〜194)は切幡丘陵南東縁の山麓線に沿って北から南へ水平成分にして1.5km以上にわたる大規模な低角度衝上(むしろ南へ垂れ下がる)断層を引いている。その根拠となった露頭は図2、地点1〜3である(番号は中野ら、1973のFig.1と同じ)。すなわち、地点1では砂礫層に低角度でのし上げる三波川結晶片岩の破砕帯が、地点2では砂礫層に低角度でのり上げる和泉層群破砕帯が、地点3では結晶片岩の破砕帯がみられるとされた。
 筆者等の観察によれば、地点1の砂礫層(あまり風化していない)にのし上げた褐色・黒色のしま模様のある破砕帯(中野ら、1973のFig.2のF直上の3mの部分)は和泉層群の破砕されたものである。その上2mは明らかな和泉層群の層理をのこす破砕帯である(走向N40°〜50°E、傾斜40°N)。
 地点2の中川ら(1973のFig.3)の露頭のうち、破砕された和泉層群におおわれる砂礫層Gとされたものは、和泉層群の破砕帯であって、礫層ではない。この部分の走向はE−W〜N50°E、傾斜はN40°〜80°である。礫層は道路をヘだてた南東斜面に厚さ2m露出しているが直接の接触面はみられない。礫層は風化しており、砂岩礫はクサリ礫となっている。道路の西側斜面には10mにわたって和泉層群がある。
 地点3が結晶片岩の北限であり、中央構造線は地点3を通り、東西に直線状に延長さるべきである。
 b.高西谷の衝上断層露頭について
 中野ら(1973、p.194、Fig.4)によれば、『市場町尾開・北淵の西側の高西谷川にに沿う道路で、標高103mの地点より北へ60m地点(図2−6)にて、北側に分布する和泉層群と南側に発達する砂礫層とが走向N80°E、垂直な断層面で接する関係がみられ、これより北方約50mの間は和泉層群が破砕されている。』しかし、著者らの観察では上記の砂礫層は扇状地礫層ではなく、和泉層群の破砕帯そのものである。角礫状に破砕された和泉層群は、一見崖錐性堆積物・扇状地礫層とまぎらわしいことがある(須鎗・阿子島、1978の阿波町、土柱西方、カントリークラブ東端の土取り場の父尾(低角度おしかぶせ)断層の例など)。
 なお、この地点の断層は父尾断層の延長上にあり、断層面は垂直であるから、阿波の土柱西方でみられるような大規模な低角度衝上断層(押し出し量250mと推定)も父尾断層線の全体にわたって生じている現象ではなく局部的現象であることを意味している。

4.岡田(1970)の右横ずれ断層運動について
 a.阿波町大久保谷の横ずれ断層露頭について (写真)
 岡田(1970・p.12の第7図)によれば、『阿波町大久保谷川東岸(現在の新県道のきぶね橋のすぐ下流)において、和泉層群の断層破砕帯のなかに、湿地堆積物・木片(C14年代測定値30,400±年前)が挟まれていて、多くの木材は走向88°W、傾斜82°Nの断層面に接し、12°東上りの方向にその長軸(幹)を配列しており、断層面に接する木材の面はすり削られて、木片面に3°東上りの条線が認められる。』したがってこの露頭は父尾断層の横ずれ運動を示す地質学的に有力な証拠とされた。
 現在この露頭は失なわれて、断層破砕帯の新しい露頭がみられる(写真)。南北幅15mにわたって和泉層群が破砕されており、粘土になった部分・角礫状の部分・open crack の入った径1〜2mの砂岩のブロックなどがみられる。破砕帯の上に、厚さ4〜5mの未風化の扇状地礫層がのっている。そのうち、やゝ北よりの部分(石の神様?がおまつりしてあるところ)では扇状地礫層直下約50cmの位置に数枚の断層粘土の部分があり、その面は走向N70°E、傾斜35°Sであった。したがって、この断層破砕帯が岡田の記載したような急角度(横ずれ運動に調和的)の部分のみではないこと、すなわち横ずれ運動を支持する証拠として普遍性をもたないことを示している。

 b.阿波町上喜来の段丘崖のオフセットについて(第3図)
 岡田(1970・p.12)は上喜来において、洪積世扇状地面が父尾断層によって、垂直落差5〜6m(図3のCとDの間)、水平移動量60m(A・C間の崖とB・D間の崖が南北に一線にならず、東西に喰い違っている。すなわち右横ずれ)変位していると述べた。しかしこの現象は日開谷川の側刻によっても説明できる。B・D間の崖はC・E間の崖が形成されたときまで側刻をうけていたようにも考えられる。
 c.金清谷川の1.5km以上のオフセットおよび柿ノ木谷川の0,8kmのオフセットについて (第1図−C、第2図)
 岡田(1970、p.13)は金清谷川・柿ノ木谷川が父尾断層を境に大きくのびたS字状をしており、横ずれ断層によって上流と下流とが喰い違ったとすれば、それぞれ1.5km以上(少くとも1km)、0.8km右にずれていると考えた。しかしながら、これは断層線に沿って流れたとも考えられ、必ずしも横ずれ運動を証拠立てるものではない。

5.南北性断層の記載
 a.切幡丘陵の金清谷の上流の南北性断層   (第2図)
 地点4においては、和泉層群の砂岩勝ち互層中に巾5mの断層角礫帯(N15°E、70°E)が見られ、その西側の和泉層群は走向E−Wで北傾斜70°、東側では走向N−S、東傾斜70°となっている。この断層の南方延長の地点5では泥岩勝ち互層中に巾2+mの破砕帯(N20°E、80°)が見られる。この延長は柿ノ木谷へ連続すると推定される。この南北断層により、東西性の断層は南北にくいちがっている。
 b.九頭宇谷川沿いの南北性断層(推定)   (第2図)
 地点7池之浦には扇状地面を横切って南北幅70〜100m、深さ1mの東西性の直線状の凹地がある。一方、地点8西原(熊谷寺西方)にも南北巾50〜100m、深さ9〜1mの東西性の直線状の凹地がある。両者をそれぞれ延長すると一線につながらない。
 c.土成町山分の南北性断層   (第2図)
 地点9山分では宮川内谷川西岸の中位段丘面YF1とYF2とが直線状の南北の崖線でもって接している。その北の延長である地点10にては泥岩がち互層よりなる和泉層群中にN20°E、N30°の幅1.5mの破砕帯がある。
 地点9の東西性の崖線のやや北側の谷中で泥岩がち互層中に幅2mの層面断層があり、走向E−W〜N80°E、傾斜50°S〜90°である。この東西の崖線と前記の西原(地点8)よりのびる東西性南落ち崖線は南北の崖線を境に南北に喰い違っている。
 なお、地点11の泥岩がち互層中にもN30°〜40°W、70°Nの幅1mの破砕帯(泥岩がとくにもめたもの)が数本みられた。岡の段の YF1 の西を限る崖線に一致している。(須鎗・阿子島、1978、p.67、日本地質学会第84年会巡検案内書.No,2、p.29)。

6.むすび
 市場町を中心に、中央構造線とこれに並走する東西断層、南北性断層について記載し、著者らの地塊化運動説を裏づける証拠とした。
さらに従来の諸見解との対立点を明らかにした。
 この地区の狭義の中央構造線露頭は一地点のみであり、東西に直線状に引かれるべきでこれと北東側1.5kmの露頭をむすんで低角度の衝上断層(中野ら、1973)を想定することはできない。
 父尾断層は、西方土柱地区では低角度おしかぶせ断層となっているが、当地区では高角度であり、前者は局部的現象であると予想される。また垂直変位量も当地域では新期扇状地層を切って10m末満(阿波町上喜来)となり前者の1/10のオーダーとなるが、これは土柱地区との間に南北性断層があるためと考えられる。父尾断層が右横ずれ断層である地形・地質的証拠とされたものは普遍性に欠ける。むしろ東西性の父尾断層は浦之池−西原間、西原−宮川内谷川の間でそれぞれ南北に喰い違っている。岡田はこれを、走向が波状に変化するものとし、右横ずれ運動にともなって圧縮場では盛り上りが(山分)、伸張場では落ち込み(西原)が生じたと説明する(岡田、1977の図6;岡田、1978の図)。したがって山分の断層崖に沿っては北傾斜の逆断層が予想されるが、前記のように南傾斜の重力断層であって事実に合わない。


徳島県立図書館