阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第24号

三名士(さんみようし)について

郷土班 森甚一郎・三原武雄・河野幸夫

1.概説
 私たち郷土班は8月上旬から9月にかけて、三好郡山城町三名(さんみよう)の三名士について、その身居(みずわり)・古文書・墓碑・屋敷跡などについて調査をした。
 三原氏が古文書、河野氏が墓碑そして私が概説を受持った。
 三名士は合併前の三名村(現・山城町)の大字下名(しもみよう)村の大黒氏(藩制時代高200石)・上名(かみみよう)村の藤川氏(高200石)及び西宇村の西宇氏(高150石)の3人の世襲武士をいうのである。その任務は境目御押御用(さかいめおんおさえごよう・土佐との境の警備)に当り、村内の治安・政務はもとより、吉野川の流木御用を勤めた家筋である。


 三名士が阿波に来住した歴史は古く、蜂須賀家政の入国の天正13年(1585)以前からの由緒ある名家であり、土豪であって、その活躍振りは3家の成立書に記されている。
 大黒氏は有名な渡辺源五綱の末流で、建武年中(1355頃)に渡辺武俊が三好郡下名村大黒山に来て、大黒源蔵と名乗って、細川讃岐守頼春に仕え、観応2年(1351)没している。その後、武俊・武重・武長・武光・武久とつづいて、武久の子武信が天正5年(1577)折から阿波へ進攻してきた、長宗我部元親の先陣となって、田尾城(現・山城町)攻めに戦死をとげている。
 藤川氏は藤原鎌足の末葉、工藤和泉守祐親が貞和5年(1349)に三好郡深間山に来て、同じく頼春に仕え、貞治6年(1367)没している。その後、祐親・祐家・祐景・祐氏とつづいて、その子の次郎大夫の妻が、勝瑞城主の三好長治の末女であったため、その縁により長の字を賜わって長祐と改め、藤川姓を名乗った。その子の長盛は長治の命令で讃岐の西長尾城を攻略している。
 西宇氏は橘諸兄(もろえ)の後胤井手刑部以氏が建武年中(1535頃)に三好郡西宇山へ来て、同じく頼春に仕え、西宇氏と改めた。その後、以氏・知家・知貞・知明・知本・本重・本家とつづいて、本家は天正10年(1582)中富川の戦で勇名を馳せ、重清城主大西頼武から武の字を賜わって、武元と改名している。
 さて大黒氏は武信の子の蔵之進武久・藤川氏は長盛の子の助兵衛尉長定・西宇氏は武元の子の藤右ヱ門武家の時、即ち天正13年(1582)蜂須賀家政が阿波に入国し藩主となった。家政は3氏を召し、従前よりの土豪の故で、それぞれ持掛名(もちがかりみよう)の所領を安堵させ、高取り武士として所遇した。
 その上境目御押御用の大役を申し渡し、土佐境の警備と各名(みよう)の治安ならびに、吉野川の流木御用を命じた。
 天正14年(1586)三好郡山城谷往来の者共御下知に相隨わざるに付、三名士3名の者へ相鎮め候様仰付られ、罷り起し、方便を以て降参仕らせ、人質等を捕え申し候所、御満足に思召され、山城谷高50石(西宇氏)(黒川名高100石・藤川氏、白川名高50石・大黒氏)御加増下し置かれ、御結構の御意の上、猶以て御境目御押として、御鉄炮の者30人三名士へ御指添、猶又急手の節は近山の者共召寄せ下知仕るべく、御隣国異変の節は油断なく御注進申上ぐべき旨仰付られ候。
 年始御礼の儀は3人の内、打代り1人は御押に居残り、2人渭津へ罷出で候様仰付られ、御礼の儀は御居間に於て1人立ち申上候。其時御境目静謐やと御尋ね遊ばされ、猶以て御境目相寄るべき旨の御意、年々御例に罷成候。
(各家成立書)
 この地の政務の実権は三名士の掌中にあって、その威勢は藩主同然に君臨し、生命与奪の権までも握っていた。藤川家成立書の3代藤川助兵衛長知の項(蜂須賀光隆の寛文元年・1661の頃か)に

三名の儀(三名士)は以前より、百姓奉公人に相限らず、譜代家来同断に、不埓の事などこれ有り候節は、手錠・追込・追放など勝手次第に取行い、死罪なども御届申上げず候所、家来大吉盗賊仕り、讃州へ立退き候に付、彼地へ付届け仕り召捕り申候。尤も他国騒がせ候儀故、其節相窺い候所、庭生の者に候故、心の侭に仕る可き旨仰付られ候由、坂崎与兵衛より申し来り、大吉討首に仕り候。右与兵衛書面所持仕り罷在り候。其砌より以後死罪などの儀は、相窺い候様仰付られ候

 とあるのをみてもよくわかるのである。
 慶長19年(1614)の大坂冬の陣には、大黒武久の子の清蔵武信・藤川長定の近与大夫重勝の力として活躍した。
子の隼人佐長則・西宇武家及びその助左ヱ門武次はもとに大西城番中村右子の
 また珍らしい記録としては、この地の特産の鷂(はいたか)献上のことである。鷂は鷲鷹科に属する鷹の一種で、雌は中形で「はいたか」と呼び、雄は小形で「このり」と呼ぶ。雌を古来から隼とともに鷹狩りに用いた。雌は翼長240mm以上である。慶長年間に初めて鷂を献上したところ、瑞雲院様(蜂須賀家政)よりおほめの書状を頂戴し、以来毎年秋には網懸鷂を献上して、代々の藩主から礼状をいただいておる。
三名士の身居(みずわり)は元来高取りであるが、無足諸奉行の待遇であった。それが
 明暦2年(1656)には大西城番中村美作近照の失脚によって、長江縫殿助・長坂三郎左ヱ門の支配を受けた。
 明和3年(1766)には格式が池田士と同断に仰付られた。
 天明6年(1786)には御目見席がこれまで区々であったが、以後は「上の焚火の御間」に仰付られた。
 寛政12年(1800)には池田士・三名士とも身居はすべて与士(くみし・平士)同様と仰付られた。
 このように身居は年々格上げされて最終には与士(平士)となり、御仕置の支配を受け明治2年(1869)の藩籍奉還までつづいたのである。
 最後に3氏の家系を記しておく(明治2年まで)
  大黒氏(1)蔵之進武久―(2)清蔵武信―(3)与惣左ヱ門武吉―(4)清蔵武茂―(5)清三郎武永―(6)蔵之亟武教―(7)与惣太武主―(8)蔵之亟武利―(9)長次郎繁
 藤川氏(1)助兵衛尉長定―(2)隼人佐長則―(3)助兵衛(吉蔵)長知―(4)沢之進長景―(5)只之助長恒―(6)半太左ヱ門長祐―(7)隼太辰祐―(8)象五郎祐基―(9)儀蔵祐義
 西宇氏(1)藤右ヱ門武家―(2)助左ヱ門武次―(3)藤兵衛武茂―(4)藤左ヱ門武遠―(5)喜之進武光―(6)栄之進武吉―(7)覚之助武広―(8)武之亟武教―(9)孫吉武信―(10)金五郎武宣
  (森甚一郎・徳島市新蔵町3丁目49−1)

 

2.所蔵文書
  1 概説
 三名士の所蔵文書関係の調査は、量質ともに他の2家(大黒・西宇氏)の群をぬく藤川氏の古文書にとどめた。
 したがってここで一言ことわっておかねばならないことは、将来機会があれば藤川氏以外の2家の古文書の調査を行なわねばならないことと、藤川氏の所蔵古文書について今回の調査対象としなかったものの再調査を実施しなければ完全な調査ができたといえない。
 ともあれ、今回の調査では藤川氏の所蔵古文書について、三名士の身分(知行)を証明する確実な資料・生活の本拠(家宅)の模様を推知できる資料・その日常活動を裏付ける有力な資料の発掘に焦点をしぼり実施した。
  2 知行・家宅の関係
 (1)御判物
 藤川氏成立書並に系図によると初代藤川助兵衛尉長定の記事中に「天正13酉年、瑞雲院様(蜂須賀家政)御入国遊ばされ候折召出され、御目見え仰付けられ有難き御意にて持掛名そのまま下し置かれ拝知取り行うの儀、古来の通り仕るべき旨仰せ出ださる」云々とあり、また、同書その頃の記事に「同14戌年、三好郡山城谷往来の者ども御下知に相隨わざるに付き、三名士3人ども参り人質等捕え指し上げ申し候処、御満足遊ばされ思召により山城谷黒川名に於て高100石確に御加増下し置かれ」云々とあるが、それについての御判物は見当らなかった。しかし2代藤川隼人佐長則の記事に「慶長9辰年7月19日、峻徳院様(蜂須賀至鎮)御加増100石分の御折紙下し置かれ」云々の1節があるが、それを裏付ける資料として豊雄(蜂須賀至鎮)から拝領の慶長9年(1604)の御判物が現存している。


 為加増山城谷
 牛田分六名之内
 を以百石遣候条
 全可有所務者也
  慶長9年
   7月19日 豊雄■
  藤川隼人佐殿

 (2)知行の覚書
 藤川氏の高200石の知行地についての記録として、寛永元年(1624)其方当知行覚があり、知行の内容を明確に推知することができる。
  其方当知行覚
 1高 36石1斗8升4合4勺 柿尾名
 1高 36石5斗2升4合6勺 内野名
 1高 26石2斗6升7合4勺 六呂木名
 1高 17石8斗7升3合5勺 坊前生名
 1高 26石1斗4升7合9勺 津屋名
 1高 40石8斗1升5合5勺 平名
 1高 15石6斗6升7合2勺 弦巻名
 1高   5斗1升9合5勺 上日浦名之内
  合200石 但し上毛高外ニ相加也
  右之通令扶助候条名ニ相付山共全可知行者也
  但人数別帳有
  寛永元年5月7日
   忠英 ■
   藤川吉蔵どのへ

 (3)拝知高物成改帳
 藤川氏所蔵古文書のなかに拝知高物成改帳が数点現存している。この古文書は、藩士が代替わり(相続)の節に必ず作成して藩主に報告する慣例でつくられたものである。同家も他家と同様にその覚(控)が保存されているもので、今では貴重な資料である。次にそのうちの最も古い享保3年(1718)のものを掲げる。

  享保3年
 藤川沢之進拝知高物成帳
  戌ノ正月2日

   三好郡三名之内上名村
1高 200石
 此物成56石請夏秋京桝ハ2ツ8歩
 内 麦14石 京桝ニテ入
  但シ高石ニ付7升懸リ
 右之麦去夏所務仕候
此米4石6斗6升2合3ツ折ニテ
残而51石3斗3升8合秋成米
 此秋成米之分去冬所務仕候
1夫銀 301匁 同村 1家数合83軒 同村
1人数合 147人 老若共
 内22人 奉公人 内125人 百姓
右者藤川沢之進拝知高物成并家人数相改帳面指上申所如此ニ御座候 以上
   藤川只之助
    長恒(花押)
 享保3戌年正月2日
  岩田茂左衛門殿
 (4)家屋敷改帳
 藤川氏所蔵古文書のなかに同家の家屋敷改帳が数点現存している。この書類も藩士の家の代替りに必ず作成して藩主に提出する慣わしで、つくるものの覚(控)を置いたのが今に残っているものである。
 藤川象五郎家屋敷改帳
 1屋敷表行50間裏行10間 但拝知土地之内
 13間ニ5間半 萱葺 但惣天井有
 1玄関2間ニ2間 萱葺 但天井有 1間ニ2間板庇 湯殿
 14間ニ7間 萱葺 但惣天井有
 14間ニ10間 萱葺 内4間ニ5間天井有 同1間半ニ3間半天井無 同1間ニ2間半庇土間
 14間半ニ2間半 萱葺 但惣天井之内4間半ニ4間2階有
 14間ニ2間 萱葺 但惣天井有
 1門 2間ニ3間 萱葺 但関貫戸 3枚
 12間ニ10間 裏門長屋 萱葺
 1雨戸惣合76枚 1内戸同32枚 1障子同73枚
 1唐紙同50枚 1関貫戸同3枚
 右者養父象五郎儀去ル10日病死仕候ニ付家屋敷相改指上申候 以上
    藤川儀蔵
  嘉永6丑年7月17日 祐義(花押)
  賀島 出雲殿
  池田 登殿
  3 書状類の関係
 (1)藩主の書状
 藤川氏所蔵の古文書のうち蜂須賀家よりの書状は、藩主蜂須賀家政(蓬庵)に鷂を献上した礼状が保存されている。この書状は神無月6日(年不詳)となっており、慶長9年(1604)〜寛永11年(1634)の間のものと推定される。

  已上
於其山留候初鷂
壱居到来別而令
祝着候志之程を(越)
大切ニ候猶清右衛門
方より可申候 謹言
 神無月6日 阿波守(花押)
  藤川隼人佐とのへ
 次に三名士から藩主に鷹狩に用いる鷹を献上していたことが3家の成立書並に系図の記事にみえる。三名村史によれば「三名士の鷹の確保は、藤川氏は上名六呂木(本ドヤ・イソドヤ)その新宅は平のネヅキ、西宇氏は粟山と国見山との2箇所、大黒氏は西祖谷の鶏足山であった」云々。また、「タカの捕え方は網懸候鷂(はいたか)と書かれているが、これはおとりを上空から見やすい個所につなぎ、その傍にカスミ網をはるのであって、オトリの鳥が上空を飛ぶタカの目に入ると、タカは急降下し小鳥に襲いかかろうとし、カスミ網にひっかかるのである」云々とある。藤川氏所蔵の古文書のなかにもそのことを裏付ける書状がある。その1は9月18日(年不詳)となっており、慶長9年(1604)〜寛永11年(1634)と推定される隼献上書状(礼状)、いま1は10月3日(年不詳)となっており、同年代のものと推定される鷂(はいたか)献上書状(礼状)がある。

  已上
隼一居到来
令祝着候自愛
不少候尚数川与三
左衛門かたより可申候
   謹言
 9月18日 千松(花押)
  藤川隼人とのへ

  已上
鷂壱居到来 令自愛祝着
不少候猶数川 与三左衛門かたより可申候
 10月3日 千松(花押)
   上名藤川 隼人とのへ
 (2)藩重役の書状
 藩重役の書状としては、賀島出雲・賀島主水・梯与一左衛門・坂崎与兵衛・長江縫殿助・長坂三郎左衛門・長坂四郎左衛門・長谷川主計・伴藤太夫・山田斎之助・山田豊前(五十音順)のものが見受けられた。そして、その特長として殆んどのものが江戸時代前期のものであり、他に斯種のものがあまり現存しないところから貴重なものばかりといえる。ところで、それらの書状をすべてここに掲出する余裕をもたないので、次に10月4日(年不詳で)寛永11年(1634)〜元禄2年(1689)のものと推定される山田豊前・卯月(4月)12日(年不詳)で正保4年(1647)〜元禄2年(1689)のものと推定される長江縫殿助よりの書状を掲出する。
  猶々乍便宜奥州之押懸壱掛令進入候
 家来之者方迄御状 令拝見候弥御無為之由
 珍重存候御網懸鷂 壱居被懸御意御芳志
 不残恭存候慰ニ可仕と 別而大慶申候 恐惶謹言
  10月4日 山田豊前(花押)
   藤川助兵衛様 御侍
 3月晦日御状令拝 見候然者去年と同様
 存而拝知3物成不足 之面々ニハ足米被為
 仰付候ハ為
 御意賀島主水殿 被申渡拝領有難
 被存旨主水殿迄 被申上候ヘバ罷有之
 節弥申上候様ニと被 申候趣尤ニ候存分之通
 達御耳候 恐惶謹言
  卯月12日 長江縫殿助(花押)
  藤川助兵衛様
  大黒与三左衛門様
  西宇権兵衛様
 (3)その他の書状
 藤川氏にその書状が現存するが(その書状が残された理由などが判明しないために説明の迫力を欠ぐが)、とにかく藤川氏となんらかの深いかかわりをもって残されたとみられる書状のうち、正月14日(年不詳)付の松平壱岐守より蜂須賀隼人(蜂須賀氏の御連枝)あての書状(年賀)8月7日(年不詳)付の土佐の家老野中伯耆からの書状(親書)は注目に値するものである。


 当年甫之慶事
 家来所迄之芳札令
 披見候其元御無異之由
 珍重候御念入候段
 過分之至候猶期
 後音候 恐惶謹言
   松壱岐守
    仲時(花押)
  正月14日 蜂須賀隼人殿 御宿所
   (三原武雄・徳島市南昭和町4丁目74−1)


3 墓碑調査
 (1)調査の目的と方法
 幕藩体制期において、辺境警備という重要な役割をもって、いわゆる三名士という特殊な三名士という特殊な身居(みずわり)にあった、藤川・大黒・西宇の3家とも、この地方にはまれなほどの規模と構造の墓碑を造立し、今にいたるまでそれを整然と管理している。それはあたかも古代における壮大な古墳の築造が、その首長としての権威の象徴であり、権力の誇示であったこととその軌を一にしている。


 これら3家の墓碑を調査することによって、・家系の確認・家運の消長などについて、現存の史料(例・山城町史)などに見られない、新史料の発掘もできることを期待し、今回の調査の重点の1つとしてとらえた。
 調査の方法としては、あくまで現地において、個々の墓碑について、
 ・撮影 ・計測 ・碑銘(造立年・法名・俗名)の記録
などの作業に、かなりの時間と労力をつかった。
 (2)調査の概要
 ・墓地の位置 今回調査したのは、藤川家旧屋敷裏(1個所に全部集中されている)、大黒家旧屋敷の2個所(上下2段のうち、下段墓地に集中)、西宇家旧屋敷周辺8個所(うち中段墓地に集中)であった。なお大黒家には、初代から4代ごろまで居を構えていた大黒山にも若干の墓碑があるとの事であったが、山の崩壊にあい、且遠隔の地であったので、今回は調査対象からはずした。
 ・主要墓地における墓碑の配置


 ・碑銘 下表のとおり、各墓碑について型式・造立年月日・法名・俗名などを採録した。本稿では紙数のつごうで、大黒家の記録だけにとどめた。なお、表の番号は上掲配置図の番号である。両表を比較対照していただきたい。また、墓地の全容は写真を参照していただきたい。
 ・調査所見 3家の主要墓地にある墓碑のうち、造立年月日の判読できたものを、年代別に分類すると下表のとおりとなる。


 上表をみると、藤川・西宇両家に比して、大黒家の墓は明和以降の造立であることに注目したい。これは大黒家が要害の地大黒山から、吉野川沿岸へ下名(しもみよう)に移つた時期を推定する、有力な手がかりとなる。すなわち、その時期は6代大黒蔵之丞の時代で、その死没した明和2年(1765)以前であったと推定することができた。なお、5代清三郎の妾の墓(No.9寛政3年―1791没)はあるが、清三郎の墓は確認されなかった。家人の談によると、徳島において死没したことになっている。


 墓は1基ごとに、扁平な青石を平に積み重ねて造った、1,5m四方、高さ50〜80cmの台座に五輪塔または石塔を建て、灯籠を配したものもある。ただ、台座だけに止まって上に墓碑のないものも、かなり多くあるが、造立されたものが倒壊などによって亡失された所見はない。管理の状況も良好で、1部のものを除き碑面の剥落もない。
  (河野幸夫・徳島市北矢三町4丁目2―5―2)

4 調査の三名士所見
 調査を終了するに当り1言しておきたいことは、蜂須賀入国以前からの由緒ある旧家の古文書、墓碑群がこのような形姿で現存していることの意義はまことに大きいということである。藩政時代の為政者の毀誉褒貶については色々と説をなすものもあるが、所詮郷土の人々とともに生活して、今日の山城町の基礎を築いたことについては、何人も異論はないと思う。ましてや阿波に於ける特異な存在であった三名士について、その遺構・古文書・墓碑などの文化財的なものを、単に当事者個人によって、散逸せぬよう維持・管理し続けることは至難のことである。
 旧藩主蜂須賀の興源寺墓地が数年前に、徳島市の管理のもとにおかれて以来その面目を一新している。幸い町当局や県が関心を示されて、文化財保存上何等かの対策をたてることを切望するものである。
 最後にこの調査に際し、町当局や町教委のご高配を謝するとともに、当町岩戸出身の中村輝美氏や三名支所の田辺氏が折からの酷暑をものともせずに、山路をかけ入ってのご案内、ご協力に心から感謝を申し上げる。


徳島県立図書館