阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第24号

山城町の婚姻習俗

民俗班 岡田一郎

1 調査対象地・山城町の概況
 山城町は、四国の中央部、徳島県の西南隅に位置し、難所として全国に知られている大歩危、小歩危のあるところである。
 昭和31年9月30日、旧山城谷村と三名村が合併して山城町となった。町役場のある川口は、吉野川と伊予川の合流点で、この附近が町の中心地である。このことは、今も昔も変らない。


 交通機関の整備されていなかった明治・大正の頃までは、ここは金比羅詣りの休憩所として賑わい旅籠屋が軒をつらねていた。
 また、徳島から池田を経て、吉野川をさかのぼる平田舟の荷上場であった。清酒「四国一」、「吉野桜」は、この土地の清水が生み出した名酒であったが、今は酒造りも絶え、旅館もない。それに代って、国道32号線沿いに大きなドライブインができ、観光客の足を集めている。
 三名地区は、いわゆる旧上名、下名、西宇の三名士が権勢を振るった地である。大歩危の難所を境にして、山城谷地区は、伊予・池田・佐馬地・三縄に接し、三名地区は、西祖谷山と、高知県長岡郡に接している。そのために、旧山城谷地区は、伊予文化とのかかわりが強く、三名地区は、土佐文化の影響がみられる。
 このような環境にある山城町に、どのような婚姻習俗がみられるか、江戸末期から、明治・大正の頃に焦点を当てて考察してみたい。

 

2 婚姻習俗
 婚姻は婚舎の所在によって、三つに分類される。それは、聟入婚と嫁入婚と嫁聟平等婚である。現在みられるような嫁入婚は、婚舎を聟方に置くものであるが、これに至る以前は、婚舎を嫁方に置く聟入婚が普通であった。
 婚姻成立の式を嫁の家であげ、その後、しばらくの間婚舎を嫁方に置くという聟入婚は、古い婚姻習俗である。また、聟入婚から嫁入婚へ移行する過程に足入婚がある。これは、婚姻成立の祝を聟方で行いながら、嫁は、聟方において主婦権が与えられる日まで、親元に留まり労働に従事するものである。このような、女性の労働力に高い価値をもたせた婚姻方式は、近年まで行われていた。
 以上のような聟入婚・足入婚の時代が長く続いて嫁入婚となった。男子を主体とする封建社会の確立によって嫁入婚は定着したのであるが、まだまだこの地方の嫁入婚の中にも、聟入婚や足入婚の痕跡をみることができる。

 

3 若者組とヨバイの風習
 祖谷の粉ひき唄の中に、「臼よ早まえ・廻ってしまえ・外じゃヨバイどが待ちござる、ヨバイ人が、ヨバイ人が外じゃ、外じゃヨバイ人が待ちござる」と、うたわれているように、ヨバイは自然な男女の交りであった。これは、現代社会がみるような、男女交遊の猥せつさを意味するものでなく、当時の社会から容認されていた。
 村内婚を基本とする聟入婚、足入婚においては、ヨバイは、自然にして必要な行為であり、後の妻問いにつながるものであるといえる。
 このようなヨバイの風習が消滅したのは、明治から大正の中期であるが、一部昭和の初期においても、その名残りがみられる。これは、若者組が若者宿をつくっていた時代とほぼ一致している。
 山城町の若者組は、村のごく気安い家や、寺社のお堂を若者宿としていた。この地方では、娘組と娘宿の存在は確認できなかった。
 若者たちは、男女交際の糸口をつかむための場を、村の祭りや、盆の踊りなどに求めた。
 なかでも、土佐の長岡郡太田口の柴折薬師(豊楽寺薬師堂)のお祭り(旧七月五日〜七日)には、阿土の男女がつめかけ、夜が明けるまで賑ったといわれる。山城谷・三名地区の若い男女は、連れだって国境をこえ、男女交遊の場を柴折薬師さんに求めたのであった。
 村の古老の話によると、薬師堂の境内は若い男女で埋まり、柴を敷いて座りこんだ、そして、群がる人の中で、或若者が立ち上り、「それそれ、そこの娘さん……」と、美字麗句を並べて口上をいう、指示された娘は、それに対して、上手に返しの口上を言うのである。こんなことを繰り返しているうちに、若者たちは、互に知り合い、評価され、それぞれ自分に相応した相手をみつけることができた。なかには、その夜、合意に達した男女は、群衆からこっそりぬけだし、山の茂みの中で柴を折り、それを敷いて夜を明かしたとのことである。
 有名な歌人・吉野秀雄が、「柴折りの薬師み党の屋根の反り・おもへば今もこころ和まし」と、よみ記している。
 この柴折薬師における、若者の行為は、名西郡神山町焼山寺の祭におこなわれていた「ボボイチ」に類似していて面白い。
 また、山城谷村には、「ナナハンイチ」というものがあったと聞くが、これはさだかでない。「ナナハン」とは、女中・下女のことである。
 子供が多く、生活が苦しくなり、早く娘を誰かにもらってもらいたいために「ナナハン市」がおこなわれていたのであろうか、これを裏づける証拠はない。これは、やはり「ボボイチ」に類似した「ナナハンイチ」と考えられる。
 親のなかには、ヨバイを歓迎する者もあった。それは、自分の娘が年頃になって、村の若者に相手にされないと、淋しく、将来が案じられたからであろう。こうしたことを考慮して、親は娘の部屋をヨバイ口の近くにおくなど気を配る者もあった。
 しかし、一般的には、男は女としめしあい、夜中にこっそりとヨバイ口を深し、夜這いするのが実態であった。
 村の若者たちは、村外婚を嫌った。そして、娘が他村へ嫁ぐのを防ごうとした。これは、全県的にみられるが、この地方では、「守り合い」と、いうものがあった。他村へ娘を出さないようにするためには、他村の若者の侵入を防がなければならない。もし他村の若者のヨバイの事実が明らかになると、その男女は、村の若者組からきびしい制裁を加えられたのである。それでも、なかには、その村の若者組に酒を贈ってヨバイを黙認してもらうという者もあったらしい。「守り合い」とは、村外ヨバイを監視し合うということである。
 当時の若者組の力は強く、村の年中行事、治山治水・病人の輸送などに大きな役割を果していた。それだけに、村を守ろうとする仲間意識があり、ヨバイの広域化をくいとめていたのである。
 ヨバイは、個人行為であるが、これに至るまでは、数人の仲間と娘の夜なべ仕事の場に集まることがあった。こんなとき「メオイ」がおこなわれた。これは出席者が互に物を持ちよることである。大根・ゴボウ・ニンジン等を持ちより、ごもく寿司を作って夜食などがおこなわれた。
 また、夜なべ仕事に合わせて、「さのさ節」・「とことっと節」・「草(こえ)刈節」などが歌われた。
 若者組の力によって、「嫁さんかたぎ」とか「嫁ぬすみ」がおこなわれていた。しかしこのような風習は、明治の初期までで、その事例も県南の漁村地帯ほど多くはなく、現在七〇歳代の老人が、先人から聞いたという程度のものであった。話によると、「嫁さんぬすみ」には、親が両人の結婚に反対の場合、若者組が集団の力で、娘を一時かこい、後で親を説得する方法。娘が反対であるが、親が家庭の事情で是非娘をもらってほしい場合。娘も親も反対であるが、男が是非ほしい場合に、若者組に加勢を求める方法などがあった。
 このようにして、強引に結婚をさせても、その後の若者組の協力によって、問題なく円満な家庭をつくることができたといわれる。


4 婚姻
  1 昔の仲人
 婚姻の成立が、仲人を中心に見合いによって行われるようになったのは、ヨバイの風習の終末期からである。村の老人の話によると、仲人が男を連れて、Aという娘の家を訪ねたところ、あいにく娘が留守であった。そこで、Aの隣にBという適令の娘がいるので、ついでに寄ってみようということになり、Bを訪ねて見合いをさせたところ、その場で合意に達したので、早速その晩から、男は妻問いをはじめたという。
 また、仲人が、或る男に身体障害者の娘を嫁(めと)らせたという話がある。
 娘は、足が不自由であったので、仲人は、今晩男を連れて見合いをさせにくるから、粉を引いておるように、と話しておいた。仲人は、男を連れて娘の家を訪ね、「あの引いている娘が相手であるが、どうじゃ」と、たずねた。男は、「あの引いている娘ならよい」と、承諾をした。これは、いかにも狂言のようにみられるが、実際にあった話である。そして、この両人は大変幸福な家庭をつくったといわれる。
 このように、いかにも素朴な婚姻が山村において行われていたことは、注目すべきことである。
  2 ノウヘエ
 山城町では、婚約のしるしである結納のことを「ノウヘエ」という。また面白く「ヘエノウ」という人もある。「ノウヘエ」は、明治、大正の頃は、仲人が本人を連れて、酒一升を持参していた。これをカタメの酒という。
 しかし、その後、昭和に至り次第に派手になり、形式化して、帯地と袴地の交換となり、更にそれが現金(結納金)となった。目録は、縁起をいうので、めでたい文字を用いた。
 例えば、男の方から、
 帯地一台、昆布一台、家内喜多留一荷、寿留女一台、末広一台、志良賀一台、松魚節一台。
 女の方から、
 袴地一台、子生婦一台、太類一荷、勝男武士一台、寿留女一台。となっていた。

 3 嫁入
 ノウヘエが終ると、吉日を選んで輿入れをする。輿入道具は、その量や種類によって、何稈とか何通りとかいう。この地方では、何通りという人が多い。一通りは、戸棚。二通りは、戸棚に箪司。三通りは、戸棚に箪笥長持を添える。大きな家では、車長持を持参した。近年は、電気製品など都市と余り変らなくなっている。
 狭峻な山合いで、車道のなかった昭和30年頃までは、近所の株内仲間が総出で道具をかつぎあげていた。荷運び男は、揃いの手拭鉢巻で威勢がよかったが、もうそのような風景はみられない。また、荷物の受け渡しは、必ず宰領人がするものとされていた。
 足入婚の風習の残っていた明治の頃は、婚姻成立後も、しばらく聟が嫁の家に通った。
 そして、嫁が聟の家に移るのは、嫁に主婦権が与えられる時期であった。この時期は、祖谷山地方のように隠居制がはっきりしているところでは、親達が別居する時期であるが、山域町は、昔から隠居制の風習が少ないので、家庭の事情によりまちまちであった。
 嫁入道具なども、明治以前においては、嫁が聟の家に移った後、何年か経て里親から送るのが普通であった。
 嫁入行列は、夜道を弓張りチョウチンを提げて行った。昼間に行くと、あの嫁は、トリメだろうと悪口をいわれた。途中で、「石打ち」といって、石や水をかけて邪魔されることがあった。このような風習は、全国的なものであったらしく、天保年間に発行された『青標紙』に、「婚礼の節、石を打ち、狼籍致候者、頭取百日手鎖、同類五十日手鎖」と書かれている。
 聟は、嫁迎えに行くが、迎えの一行より先に黙って家に帰る。これを「聟の喰い逃げ」という。
 嫁が聟の家に入るときは、その家の姑に手を引かれて勝手口から入る。その際、嫁はタライで足を洗って座敷に上がる風習があった。最近は、足を洗うまねをするように変っている。足洗いの役女には、新しい足袋を一足祝儀としてあげるしきたりになっていたが、近年は若干のお金を包んで差し上げることになっている。
 この足洗いの風習は、愛媛県の神宮村から伊予川づたいに山城谷村の川口に入ったものと推測され、本県では珍らしい婚姻習俗の一つである。
 この地方では、木地師の娘を嫁にもらう例は少ないが、「木地師は位が高いので、木地師の娘と結婚すると、男が夭死する」といわれていた。しかし、木地師の娘には美人が多いので、世間のうわさを振り切って結婚する男もあった。そんなとき、結婚式に、花嫁を縁側に連れ出して、聟が三回足で嫁を蹴るまねをする。こうすることによって身分が平等になったものとされていた。
 その他、三三九度の盃、披露宴等は、他町村と変らない。ただ、披露宴の取りの盃のとき、座持(司会者)が、大盃を客にまわすが、このときタタラを踏むかっこうをしながら歌をうたい、オエベッサンへ神酒をお供えする。これが宴のとりということである。
  4 通婚圏
 この地方では、昔から「川を渡らなくてもよいところから嫁もらえ」と、いわれてきた。
 谷川が深く交通不便であったこの地の地理的環境がそうさせたことであろう。交通の便利な地域集団内での通婚の時代が長く続いたことを知ることができる。しかし、こうした村内婚も、昭和十年に鉄道が開通し、橋が架設され、道路が整備されると共に、村外婚、遠方婚へと発展していった。
 山城谷村史の記録によると、明治、大正、昭和25年までの婚入、婚出の合計は次のようになっている。
 郡内では、三名村 143件、三縄村 128件、佐馬地村 135件、池田町 37件。
 県内では、美馬郡 34件、徳島市 24件、麻植郡 11件、板野郡 10件。
 四国内では、愛媛県 294件、香川県 57件、高知県 43件。
 四国外では、大阪府 64件、福岡県 34件、岡山県 33件。
 以上のように、山城谷村は、隣接地の三名、三縄、佐馬地との通婚が多い、特に県外では、愛媛県が多い。これは愛媛県宇摩郡神宮村と山城谷が伊予川によってつながっているためである。川による文化の交通が古くから盛んであったことを物語るものである。


5 出産
 婦人が懐姙してから5か月めの戍の日に着帯をする風習があるが、これは、犬の子のように安易に出産できるように願う気持の現われであろう。
 この地方では、出産は奥の間のヘヤを産室としている場合が多い。産小屋を別に作っていたという話はない。産室の畳をはぐり、わら、むしろを敷いて、その上で出産していた。タンスの引き出しに綱をつけ、それをつかまえて陣痛をこらえたという。後産は、産室の床下に埋めていた。ヘソの緒は、入口の土間に埋めた。足で踏まれるほど丈夫に育つといわれてきた。
 姙婦が死亡した場合、人形をつくり母体と共に埋葬していた。また、「百日さらし」といって、四本の竹にサラシを張り、道端に置き、百日間竹シャクで水をかけて、死者を供養する風習があった。

 

おわりに
本県における婚姻習俗の源流を探りたく思い、山城町を訪ね、旧山城谷村と三名村を散策した。この地方も他郡市の町村と変りなく生活環境の急変によって、古い生活習俗に関する資料の収集は困難になっていた。
 近年、大歩危、小歩危の観光開発がすすみ、大きなドライブインが列をなし、県内外からの人の出入りが激しくなっている。
 古くから、この山狭の土地に住みつき、長い間土地の生活を支えてきた生活習慣、山城谷の民俗は消滅寸前にある。
 ただ、この調査期間中に、私の心を慰めてくれたのは、光明山持性院の境内と、大川持の石立神社のケヤキの大木の下にある「力石」であった。この石は、昔から村の若者たちが、祭りの際に力競べをするために使用されたものである。その昔、たくましい若者が、この力石(約100キロ)をかつぎあげ、村の娘たちを湧かせた素朴な光景が目に浮ぶ。
 また、三名から土佐の太田口の柴折薬師を訪ねて、阿土共通の古い婚姻習俗の原型を知ることができたことは、大きな収獲であった。
 この調査にあたって、山城町教育委員会の園尾正夫教育長、伊藤明夫教育次長の適切な御配慮を得たこと、また、炎暑の中、昼夜にかけて、御協力いただいた話者の西村茂、佐竹キョウ、蔵敷幸逸、今井茂、今田花枝、大西梅野、真田経子の各氏に対し、心からお礼を申し述べて稿を閉じたい。
 (昭和52年8月10日)


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