阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第23号

地震津浪嘉永録

古文書班 猪井達雄

 徳島県の県南は、紀伊水道に面し、昭和21年の南海地震にいたるまで、過去に数回も大型地震の直撃を受けている。
 阿州海部郡牟岐東浦津田屋喜右衛門自作の安政三辰(1856)年3月吉日の『地震津浪嘉永録』は、地震津浪の記録のみならず風雲急をつげる幕末の筆録で当時の社会情勢にも及んでいる。墨筆たて書きのものであるが、本誌に収録するため横書きにあらためた。なお、漢宇に仮名をふってあるが、必要以外と思われるものは除き句読点を入れ、解読した私が,読みやすく修正したもので、以下原文を紹介する。

(表紙)地震 津浪 嘉永録
    本主  津田 喜
(内容)
地震津浪記
夫(それ)、土地の興廃、一家の禍福、年々の豊凶、皆もって天のしからしむ処、何ぞ人力のおよぶべきにあらず。爰(ここ)に阿波の國海部郡牟岐東浦と言ふ其往古開闢は知れず。
中古、慶長、宝永の津浪も言傅へ継之にして更に是を信しかりといへとも追年にして、いつとなく繁昌し、人家四百余軒其外土蔵納屋数多出来し棟数六百余軒に及び春夏秋冬諸漁事絶る隙なく、元来上方通路自由自在都(すべ)て金銀融通何ひとつとして不足なく諸人安堵のおもひにして、万代不易と諷(うた)ひ楽しミけり。しかるに満れハ欠る世のありさま、有為転変の時来つて又もや津浪の為に浦壱枚流失する事、鳴呼(あゝ)天命とは言ながら誰か是を悲しまざらん。されども世直しの声々天に通じ神佛いまだ捨給わず、年々四百貫目、五百貫目の漁銀高あって殊更ありがたくも御上様御憐愍深く、前年に相替らず漁師ヘハ時々御拝借抑付なれ船網多分に出来し、是に依て土地以前に倍して賑敷繁昌しけり。
  安政三辰年三月吉日
        海部郡牟岐東浦
           津田屋喜右衛門自作
 嘉永録
されは、去る嘉永七寅十一月四日毎例より、いたって暖気にて一天澄渡り漁師は細魚(さより)網に沖出ありける内、昼四ツ時地震動出し暫らく有って濱先壱丈餘の汐満干しけれ共此内、年によってハ汐の狂ひし事も有けるゆへさしておそれもいたさず其中にも怖(おじ)おそれる人々ハ山へ食物着類鍋釜諸道具杯(など)を持運び何れも此処にて夜を明しける。其日暮方に及んで網魚漁少々有けるゆへ魚商人は山より下り家毎に細魚三千五千壱万斗も買取り、干物にしける。漁業に出たる人々は地方の者ども山々へ迯(にげ)行候。騒動をしらず何れも不思儀致し沖合にては、地震潮のくるひ是なきよし其日昼七ツ時西に当り雲大に焼沖の方一面に腰巻したるやう成薄き雲有、何とやら物凄く相見へ其夜は火の用心を恐れ家毎に大体壱両人宛不寝の番を致し、濱先ハ非人に言付篝火(かがりび)を焚、番を致させける処に、夜五ツ時比より夜明迄に三四度も地震動(ゆり)けるゆへ、井戸を度々見に行ども替りたる事少もなく翌五日極晴天にて浪立なく風も無く、殊外暖気なれども漁業には出ず、昨日山へ上(あげ)置し家物諸道具を我家へ持運び、大笑ひにていづれも家の掃除杯(など)を致しける処に、其日は日の光りさへず欝金色(うこんしょく)に相見へ有がたくも、天よりの御告(おつげ)にてあれども、是に心付もの壱人もなく、只毎例のことくに居ける。取にされば昼八ツ時比、沖合震動して諸方鳴渡り天地も砕るばかりの大地震、前代未聞の大変諸人魂も消入るばかり、又ハ珍事そと思ふうち、瓦家根は瓦飛散り、地中一円に響き破(われ)、七ツ時に津浪に相成り、其烈敷(はげしき)事中々言語に延(のべ)がたく、着類諸道具も打捨、命からがら八幡山海蔵寺観音堂背戸山西岡畠或は灘村川長村其手寄々々へ迯(にげ)去り、山にて見物しける処に濱先の家々数百軒土蔵にいたる迄黒煙り立、土石を飛し只ぐわらぐわらと将棋(しょうぎ)の駒を倒すごとく、家壱軒も残らず、流失中にも土蔵四五ケ所計(ばかり)、相残り、風汐の高さ三丈余、又ハ山々の麓へ指込候汐先五六丈とも相見へ元来津浪ハ大海乃高潮とも見へず出羽嶋小張のはな、またハ濱先より相起り地中よりハ水を吹出し流死の人数弐拾余人其夜は格別寒気強く夜四ツ時比亦(また)々沖間鳴渡り大地震動(ゆり)出し最早山々も崩れ今も命を失ふかと、其おそろしき事中々筆紙にも尽しがたく、いかなる者も気もたましいも飛散、慾も徳も打忘れ人毎に一心に南無阿弥陀佛を唱へ家内は手に手を取替し、数千人の人々今も落入かと思ふうち夜明迄十四五度も地震ゆりながし、又々津浪上(あが)りけれども夜の内故、見へず翌六日強慾非道なる者は、夜の内より松明(たいまつ)を燈(とも)し、人より先に山より下り拾い物数々致し山々には流家の古道具を拾ひ来り、小家をこしらへ候得ども、水一向になく谷々亦は灘村川長村の田地の縁(ふち)にて泥水を汲来り、漸相凌ぎけれども米、酒、味噌、醤油、塩に至るまで、売手なければ、是に難儀いたしける津浪は満干三度宛あり、是を一番汐二番汐三番汐と先年より言傅へあるよし、然(しか)るに二三日経て御上様より粥(かゆ)の御施行并壱人ニ付、黒米三合宛廿日間御救米、被下置、誠にもってありがたき事にて露命を繁ぎける。しかれども、此内手元相応にくらせしものは帳面に赤印を致し、御役人衆より、相渡不申、心なき人之然(しから)ハ、日々着類色々拾(ひろ)ひもの致しける処に、御上様より御吟味つよく、日和佐浦御郡代様より御制道方御役人御配にて、小家々々を御改被仰付、捨主へ御取返し下され候へども、拾ひ人ハ色々隠し皆々出し申さず、大体は引汐に流れ出、夫々(それぞれ)行方知れず、扨(さて)又濱先に登し置候船、或は湊に繋し漁舟売船数百艘并網類またハ溺死の人々給人共弍拾人余田の中谷々沖間へ流れ出、日々是を尋ねけれども茅葺の家根、山の如くへに流れ上り其混雑中々(なかなか)目もあてられず富貴なる方、質屋には着類諸道具に至る迄土蔵に入置、戸仕舞致し迯(にげ)去りけるゆへ猶もって大損、貧なる方には何壱ツ流さず人々の捨たる物を拾ひ取、徳は得たれども年月立にしたがひ矢張もとのごとくに相成何れも以前に変りたる事なく是までの通り家業を致し暮らしける。されども日により絶ず昼夜に大小の地震三五度も動(ゆ)りける。其冬年号改元有て安政元年と成(なり)、八九歩通りは山にて目出度越年致しけれども兎角(とかく)地震の気、相止りがたく折々動りける此時、米相場九拾文金相場七貫文銀札百文土地通用壱匁ハ先年より九拾文遣(つか)イ、扨漁方には流れ残りの海老網に海老おふく漁事有、大魚小鯛なども有けるゆへ、魚商人も船に怪我(けが)なきものは是を買取、商売しけるに上方も入船数なく相応の儲(もうけ)に相成り、其後山々より地盤の我屋敷へ下りて、仮家小家をこしらへ、其道々の家業を仕けり。春は大魚小鯛、夏秋鰹魚、冬は細魚鰯など時々漁事相応に是あり。夏秋鰹節古来稀なる値段(ねだん)にて目方拾貫目ニ付、銀四百目余も致し商人も相応の銭儲(ぜにもうけ)ハ何連(いずれ)ども商売道具すくなきゆへ是に難義いたしける。しかるに御上様よりそれぞれ御見分有て、漁師へは船網の御拝借浦々共に仰付られありがたき事に候へども商人諸職人江は御借付是なく、又壱両年経て建家料としておもたる漁師漁頭へ銀札四百目、中漁頭へ三百目舟子人弐百三拾目、小商人にも弐百三拾目宛是も浦々共御拝借被仰付、其上は分限に応じ足(たし)銀ヲ以家普請致し、これより町内なミよく御上様より御縄張有て、頭立商売人居屋敷七拾五歩より六拾歩五拾歩三拾歩弐拾歩漁師漁頭へ三拾歩舟子一円に拾弐歩半宛、其暮し方相応の割符に相成、津浪以前に相求ありし屋敷は御取上にて買方の損となりけり。且又(かつまた)津浪汐先懸りの田畠にいたる迄、其いたミに応じ五ケ年四ケ年三ケ年と御年貢御免被仰付、百姓も豊かに暮しける。夫(それ)のみならず東西両浦とも濱先に数百間の浪除土手出来しける。まことに未曽有の大変にていづれも手と身には成たれども年経るにしたがい地盤に少しも相替る事なく渡世をたのしミ暮しけるとそ目出度けれ。
時に慶長九辰年十二月十六日津浪にて汐の高サ拾丈余それより百三年を経て宝永四年丁亥十月四日海部辺にて八壱丈余といへども当浦にては三丈余とも往古よりハ言傅へ有り。則(すなわち)海部鞆浦町内の石に彫付ありしを爰(ここ)に写し置候。宝永より当嘉永迄百四拾三年に相成慶長よりは弐百五拾年振に三度も有けれども其前々に浦中に書記是なきゆへわかりがたく、右様成大変数度ある事ゆへ中々百年振にかぎり申さず、いつれにも大地震動動(うごきゆり)出し候へば、食物ハ勿論着類、鍋釜、其外雑具心に任せ草履、草鞋などを用意し迯(にげ)退必々四五日ハ山にて見合すべし。横道を構へ油断致し候へば不覚を取後悔すべし。後人決して笑ふ事なく右一条を相守り可申と前文ニも延(のべ)るごとく、御上様より下々御憐ミ有て御手当または御拝借時々被仰付候故、取続申儀ニ候間広大もなき御慈悲の有がたきを忘却すべからず。是は子々孫々心得のため愚筆にて書記し置候。実(げ)に此度の津浪も夜中なれば死人怪我人夥敷(おびただしく)あれども昼中ゆへ死人も数なく怪我(けが)人壱人もなき事を思へば、弥(いよいよ)神佛の御加護ならんと、いづれも天を拝し有がたく喜悦しけり。前文にも申如く大地震なれば、人乃誹傍をかへりミず、兎角(とかく)山へ迯退べしかへすかへすも相心得可申候扨津浪前嘉永六丑年四五月比家毎に毛虫おふく生じ身より蜘(くも)の糸のごときものを出し、日蔭なる家根または庇(ひさし)へ這出、折節は人をさすに其いたミ絶がたし。是をいら虫といふて大毒虫なりといへり。五月入梅のころハ猶もって澤山に生じけるニ付、諸人奇意の思ひをなしける処に六月土用の比(ころ)はいつとなく失(うせ)けり。
同六月二日相州浦賀へ亜墨利駕(あめりか)船着岸のよし当辺にてハ仰山に相聞へ何れも怖恐(おじおそ)れ何事にかきたりけるぞとあやしミける。此船長五拾間余、檣(ほばしら)三本おもかじとり揖(とり)に大筒数拾挺を構へ両挟(はさみ)に車を仕懸ケ船ニて火を焚、此勢ひにて車巡り風汐にかかわらず東西南北を自由自在に■巡(はせまわ)るよし、是を蒸気船といふ。乗組人数千人計同小船長三拾五間余、檣三本此舟は車なし此乗組五百人斗、亦船の名は黒船または褌(いくさ)舟ともいふと也。小舟は毛者の皮にて平生は畳置(たためおき)入用の時は船となし何艘にても操出すやうの仕かけあり。右大船の分四艘、惣大将の名彼理(ぺるり)と申、着岸是あるに付、若(もし)浦賀御関所より内海へ乗込乱妨にてもあらんかと御公儀様より御手当、厳敷(きびしく)御老中久世大和守様御見分仰付られ御大名様方不残浦賀より御江戸并関八州迄御陣取ありける所に異船より願書上り候得共、御取上無之ニ付同十三日浦賀出帆しけれども翌寅三月に右亜墨利駕船軍大将彼理(ぺるり)よりの願書写し御下ケニ相成、先に写シ有之候。其比(ころ)の事成る由加賀の國銭屋五兵衛といふ大富家有、巡船数艘所持致し自國は申におよばず能登、越中、越後の極下米を買積し、異國へ交易致し候義相顕(あらわ)れ、闕処と相成当人五兵衛同伜喜太郎勇蔵番頭八之丞四人礫(はりつけ)二被仰付、其余懸り合御役人笹原主殿(とのも)知行弐千五百石、同主税弐千石、同与右衛門五百石、同儀右衛門千八百石、同帯刀八百石、由井忠左衛門千石、浅野藤兵衛四百弐拾石、奥村切太夫八百石、高木彦右衛門四百石、詰柿吉兵衛五百三拾石、右拾人切腹に相成よし、五兵衛所持之品々大判五拾枚入三拾箱、古金弐万六千六百両、小判弐千六百六拾両、弐朱金拾六万三百弐拾両、正銀弐干百八拾貫目、加州通用銀札目方にて七拾三貫五百弐拾匁、百文銭五千三百弐拾枚、正米六万五千四百石、大豆五千四百石、小豆三千三百石、田地有高八万五千三百石、燈油五千三百樽、大船弐千五百石積四艘、千六百石積六艘、千石積八艘、八百石積弍艘、五百石積拾三艘、焔硝蔵壱ケ所、唐物蔵壱ケ所、右物蔵弍ケ処諸道具、米、大豆蔵共七拾ケ処、其外諸道具類、数不知鳴呼(ああ)おしいかな数代相続の旧家時節到来し形のごとく成行も自作(みずからなせ)る災ひにて長者富にあかずと慾にたけなき人心恐るべし槙むべし。古語にも只足(たる)事をしるべしといわずや。
同年七月八月の比(ころ)西に当って申(さる)此通の星出現有諸人是を槍星、剣星成(なり)といふて何事か出来んと安き心もなく案しける所に是もいつとなく消失けり。一翌寅四月比(ころ)当浦西町森本屋角左衛門ます屋幸右衛門と言ふ両家の雨垂(あまだれ)落に少貝多く生し、其形小豆粒位にして色至て白し、身ハ欝金(うこん)色にて磯辺の貝のことく、雨降度毎に出て壁蔀板(しとみ)を這(はい)廻り天気には地中に隠れて出ず是等も不思議といふべし。
同五月十日比(ころ)より晴天にて、雨一向不降、土地に依てハ稲の植付も出来かね六月に至、益大日(おおひ)てりと成、水数なき方にてハ田畠日焼、草木に至る迄枯渇、山々に茅(かや)生せず、山々に茅生せず日数わづか六拾日斗(ばかり)の旱魃に百姓、殊外難渋におよび諸寺諸山へ雨を祈、厚(あつき)雨乞、御祈祷有ける処に七月十八日比(ころ)、雨と成けり。是等は当年冬津浪と成前表(まえぶれ)にても有らんか。同寅九月大坂安治川口へおろしや船着岸のよし相聞へ珍布事にて我も右異船見物の望(のぞみ)有て、手船に生節干鰭(うるめ)積入同廿三日晩方当浦出帆しけるに戌亥風強く、日和佐浦沖より帆を七八合に直し夜四ツ時比阿部沖馳登りける処に、紀州の方より火の玉飛来り其音雷のごとく、船の上とも思ふ処にて壱丈四五尺計(ばかり)の朱の竜にひとし、船中奇意の思ひにて一心に空を打ながめけるに、次第に黒くなって墨絵の竜の如し。水主の者ども申けるは是は神の卸渡りゆへ大風吹来ると申(もおす)ニ付、巻上たる帆を下檣を取、櫓を押立て、地方へ迯(にげ)退け類(る)。此墨絵、下より見る時は雲へへばり付たるやうにて頭尾と思ふ処は風に吹れて動く如く其後々々ハ次第々々に薄く成って消失けり。夫(それ)より翌夜八ツ時比(ころ)に大坂川口へ参りける処に和泉より尼ケ崎、西宮、兵庫、近辺迄数万の篝火にて安治川口、天保山より壱里程外に右異船碇を卸し相懸り居る。此船長五拾間、幅拾五間、檣三本、乗組人数三百人計、其形阿蘭陀(おらんだ)人に似て船中何とも知れず臭気有、艫(とも)には硝子(ビイドル)の障子を入おもかじ取楫(とりかじ)の桓間に大筒数拾挺をかまへ、浮舟(てんま)五艘を五色小染分、船の上は瓦家根に似て油石灰塗のごとく表乃方、檣に仮名文字にておろしや國と書付有、是によりて大坂町人の咄しには日本人も乗組居申哉と色々と評判しけり。町方にてハ遠目鏡(とうめがね)またハ右異人の噂杯(うわさなど)御停止にて何れも余処に見なして賑わしく商売しけり。異船着岸ハ嘉永寅九月十八日にて其節は、大坂、堺、兵庫近辺またハ川口出入の船人、何れも遠慮なく右船に乗り移り見物しけれども、其後は御公儀様より御指留被仰付候。是によって恐多くも御大名様御旗本様和泉地より大坂、木津、安治川口、弓手馬手に御出陣遊され、幕を張、大筒弓鉄炮槍長刀にて厳重中々言語に延がたし。一番手寄の御陣立左の通り傅、浴川口御固、奥平大膳大夫様御高拾万石、松平遠江守四万石嶋屋新田御固松平越前守様三拾六万石、細川越中守様五拾四万石、松平出羽守様拾八万六千石、天保山御固土屋妥女様九万石千石、田沼玄蕃様壱万石、嶋津淡路守様弐万七千七拾石、内藤紀伊守様五万九千石、脇坂淡路守様五万七干九百石、有間日向守様五万石、松平安芸守様四拾弐万六干石、松平隠岐守様拾五万石、黒川甲斐守様五万石、松平美濃守様五拾弐万石、松平肥前守様三拾五万七干石、森越中守様弍万石、松平越後守様拾万石、松平相模守様三拾弐万五千石、松平内蔵頭様三拾壱万五千弐百石、此外段々御陣取有どもあまり夥敷事故(おびただしきことゆえ)、悉(ことごとく)記さず木津川口御固坂本玄之助様、米倉丹後守様壱万弐千石、南部美濃守様弐拾万石、津軽越中守様拾万石、青木甲斐守様壱万石、酒井雅楽頭様拾五万石、佐竹次郎様弐拾万五千八百石、松平陸奥守様六拾弐万五千弐百石、阿部伊勢守様拾万石、土岐伊賀守様三万石、小笹原左京太夫様拾五万石、薩州宰相様七拾七万八百石、松平市正様三万弐干石、毛利安房守様弐万石、板倉摂津守様拾四万石、其外は略す堺御固稲葉美濃守拾万弐千石、植村出羽守様弐万五千石、北条相模様壱万石、永井遠江守様三万六千石、九鬼長門守様三万六千石、木津川口馬手乃方御一陣ニて紀州様五拾五万五千石、亦尻無シ御固松平土佐守様弐拾四万二千石、松平甲斐守様拾六万二百八拾八石、佐野亀五郎様、是ハ川口御奉行様鍋嶋紀伊守様七万三千弐百石、八幡新田御固宗對馬守様拾万石、米粮御奉行川口金吾助様、増田平右衛門様、其外是を略す。
此度の御国の御大名様御旗本様都合七拾七ケ所の御陣取にて、其外尼ケ崎西宮近辺迄御陣処成ぬ処なし。夜は高張提灯(ちょうちん)にて篝火を焚、木津川、安治川口共御改ならでハ、船の往来出来がたく右の異船何の願ひ有って来りしといふ事、下々にてハしれず、御陣取の厳重成に恐れ、同十月十三日出帆して迯(にげ)帰りけり。誠に津浪前よりハかよふなる希有(けう)成事数々これあり。
跡にてハ津浪の前表(まえぶれ)にても有なんと皆々打寄咄し合致しける。是に依て大変杯(など)には前々に天よりしらせある事ゆへ無疑惑、何れも正直をまもり信心あるべし。此度の津浪後にも信心堅固の家の専、繁栄するを見て知るべし。
一、西浦分、人家弐百余軒、土蔵納家亦ハ漁船商船網類にいたる迄、東浦同断に残らず流失、また中村の内五六拾軒ばかり流失、出羽嶋人家六拾余軒、其外納家漁船網類流失、其内居宅拾五六軒ばかり相残り申候。
一、大島家数弐拾軒余、此処ハ小高き場処ゆへ汐先漂(ただよ)ひしばかりにて壱軒も怪我なし。
  海部鞆浦石文の写し
敬白、右意趣者、人王百拾代御宇慶長九甲辰季拾二月十六日未亥刻、於常月白風寒凝行歩時分、大海三度鳴人々巨驚、拱手処逆浪頻起、其高拾丈、来七度、名大塩也剰男女況千尋底百余人、為後代言傅、奉興之、各々平等利益者必也。
宝永四年丁亥之冬十月四日未時、地大震所、海潮湧出丈餘蕩々襄陵反 三次而上、然我浦無一人之死者、可謂幸矣、後之遭大震者豫慮海潮之変避面焉則可。
右者、海部鞆浦町内の石に切付ありしを爰(ここ)に写し置ものなり。
安政四丁已年七月庚辰朔日、卯辰のかたより西のかたへ雲はしる事矢を射る如く、五ツ時東風辰已風吹出し其はげしき事、古今稀なる暴風にて家々の家根は勿論、戸前まで吹とられ騒動大かたならず、一時のうちに高南風(まぜ)にかわり、ますます大時風(しけ)と成り、前の辰已風(いなさ)よりハ猶もって烈敷、其比(ころ)は津浪後にて浦中七八歩通り新宅と成其餘はいまだ小家に居けるに二時程のうち数百軒ばかり、吹倒し山々の大木打倒れ小木類技葉に至る迄切放れ、まことに前代未聞の大風にて昼八ツ時此(ころ)より吹沚(なぎ)となり、七ツ時に漸静(しずまり)けり、其後、御上様より倒家修覆料として夫々(それぞれ)へ銀札四拾目宛被仰付、有がたき事どもなり。余り珍(めずらしき)布大風故(ゆえ)書記し置く。
附 録
時に安政五戊午八月上旬夜八ツ時東へ当って怪星出現有、人々是を慧星(ほうさぼし)またハ豊年星なりと言り。此星九月上旬に至り宵の中より戌の方へ廻り御光澄渡穂先壱丈四五尺斗も有て北の方へ向ひ、月夜の如し話人是を怪ミ、何事の前表(まえぶれ)やらんと案しける処、上方より諸國一統頓転離(とんころり)といふ異病流行有て、江戸より東海道筋死するもの幾万人とも数しれず。当辺にも専ら是を煩ひける所に夏向の惑乱(わくらん)に等しく腹痛吐逆有またハ暴瀉して病付(やみつき)よりわずか二三日の内に死すもの多有に付、医師も右の手当にて療治色々手を尽すといへとも、極(ごく)難症にて薬力も届きがたく拾人に漸(やが)て一両人ならてハ全快致さす。老生不定の世の習ひ壮年の輩多、是を煩ひ老人小児なと煩ふ事なし。元来移病にて看に打寄咄せし人翌朝頓死するも有て、其危事薄氷を踏如く、実に希有成病也。弥世(いよいよ)上物騒と成夜は町の往来なく何れも怖恐(おじおそれ)、神佛を祈、家毎に門足ハ神社佛閣の御札守を張付、専ら信心致ける然るに誰いふ言(いへ)り赤きは海辺に賊出来するといふ。また青黄色は天下に乱有と古書に見へたり。
されは去る安政四已年に亥年迄七ケ年の問御上様より質素険約の御触(おふれ)仰付られ、尚又(なおまた)、隣家五軒組合にて御究書(おきめがき)下置され、有難御示に候得とも是に心も付す、上方の風儀を学び時節がらを弁へず、家宅衣類等まで花美(くわび)を尽し、万事驕奢にして分限に応ぜせる事、争(いかで)か長久永続有んや然るに当午年時節黒白と替り、近年の不漁其上夏秋比(ころ)より米高値(たかね)にて白米百五拾文麦安百文金相場七貫三百文と成、去る天保年中の飢饉にも異ならず、取分、浦辺ハ陰陽の年柄有て譬(たと)へ陽年たりといへとも上地の職がらにして希に諸事貯へる事なく、故(かるがゆえ)に陰年には自ら衰る事早し。況(いわんや)津浪後卯辰已年は相応の年にて有ける処、わづかの年月にも、斯(かく)雲泥の相違有事恐れ慎ずんハあるべからず。是に依て諸國とも、諸色不景気と成、金銀不融通にて地中(世力)、以(もつて)の外に困窮に及びけり。右、年柄にて倒家未た弐拾四五軒も普請成就もせず、有ける所、其冬十二月廿四五日比(ころ)御上様より倒家の者共御役場へ召寄られおもたる漁師舟頭へ銀札百八十目中舟頭へ百六拾目、舟人并に商人へも百五拾目宛是を下し置れ、何れも有難く頂載しけり。誠に以(もつて)御上様御労(おんいたわり)にて当浦にかきらず、津浪後には尚更(なおさら)幾度か御拝借仰付られ廣大もなき御慈恵冥加に余る事とも也と、他國人々是を聞て羨ざる者壱人もなし。諸国に勝れて格別に御憐愍の御國成と心なき下賎(しもく)の者迄御代万々歳と祝し奉けり。
永正九申年八月津浪にて完喰浦残らず流失有。其時、老若男女三千七百余人死亡し尤(もつとも)浦の城主藤原朝臣孫六郎殿、此両主領せし家数下屋舗御家中百三拾軒此問拾五軒ハ御城内分百五軒ハ諸家中町家千八百五軒ハ拝地百姓地。此記完喰浦に是有しを需(もとめ)て写し置もの也。
夫(それ)より九拾三年を経て、慶長九辰年十二月十六日辰の半刻より申の上刻迄、大地震にて大海三度鳴渡り戌の下刻月の出上る比(ころ)、大浪と成、海上以(もつて)の外、すさまじく浦中の井泉より水湧出る事弐丈余も上り、大地さけ泥水を吹出し、言語を絶する大変也。当所は、勿論、家壱軒も無し。人多く損し、其数かぞへかたし。此時完喰千五百人溺死有と筆記残る。誠に目も当られぬ死骸也。久保在の間弐ケ所惣塚を拵へ、此所に埋て石佛の地蔵を建置有之候。是も完喰浦乃筆記の写也。
宝永四年亥十月四日巳の下刻より午の下刻まて大地震にて其日ハ殊更天に雲少もなく四方に風絶、何となく只(ただ)暖気止事なし。しかるに地大に震ひ所々多く地割れ人々歎く事限りなし。否(やや)有て、大汐来る何れも山々へ迯(にげ)行、此時となく右星より毒下て井戸へ入、此水を呑時は忽(たちまち)煩ふなりと評じけるに付、夜分ハ井戸に蓋を致けり。
是に依て当浦八幡宮御神前に於て厄病退散の御祈祷有、寺院にては一般若経を読誦しまたハ、舟を造、一七日の間不動明王の文を唱、昼夜町内を持まハリ、結願には、右舟を海中に浮へ流しける。将に神佛の御加護有て、病気も次第に納、慧星も九月末の比(ころ)は戌(いぬ)より申未(てるひつじ)の方へ廻り薄く成て消失けり。其比(ころ)京都にての御歌、篁(たかむら)の空に出たる慧星はくものもなき君の御代かな。君が代になにゆへ出たる慧星、穂先白し是は難病生す印なりと拾弐三端の廻船並に漁舟拾三艘、大宮の方へ流れ込、山ハ東光寺山愛宕山手倉山山の神観音堂等老苦男女声を斗(ばかり)に子を呼び、親を尋おもひおもひに呼歎事、何に譬ん方もなし。此時汐の高サ壱丈余にして町ハ多善寺の内にて漸く六七才位の事也。善祥寺近所は座上にて壱尺位也依て鞆浦ハ家の損しなく人壱人も怪我なし然れども三度迄火起り、大勢して取消納めしかども終に谷町三軒焼失せり。其後地震ハ幾日という事なく昼夜の差別是なく動り沖の方ハ折々鳴渡り、山ハ大筒の響く如く依て数日山にて住家居致し暮しける。大地震の時ハ出火用心すべし。また火汐と心得べし。只(ただ)山へ迯る事第一也。必(かならず)舟に乗るべからず、諸方にて船に乗て死たるもの多し。此時、多(他)浦の様子を聞合けるに完喰には死人拾壱人にして家壱軒もなし。浅川浦に百七十余人死して家壱軒も無し。牟岐両浦百人余死して是亦家壱軒もなし。其余浦々家并に人損したる箏多しと言ふ是ハ鞆浦に筆記有之後年の心得にもならんかと完喰より鞆浦迄の有様を撰写すもの也。
北亜墨利駕大合衆國伯理 天徳
            書翰弐通
同欽差大臣船軍惣大将彼理
            書札三通
俗解
本書いんぎりす、阿蘭陀、唐土の字にて持参通辞御僧等へ和解被仰付、万石以上以下へ写し御下ケて相成候得共、文語和解仕がたく、依之俗解いたし候へは、文言何にもかわる事無之、誰にも読安くわかりよき為に、斯(かく)のごとく和解致し御下ケニ相成何れも写し候ものなり。
北亜墨利駕大合衆國大統領、姓は斐■(ひぼう)、名は美珍(びちん)と申述候。日本國の大君天下安全被成御座珍季存じ、誠によき御友達と存じ、此度、態々(わでわで)舟手の重役人彼理(へるり)と申者に一組の軍舟を引連させ、書状為持(もたせ)、其御国迄差上殿下の御覧に入奉申候。拙者目通にて拙者の存寄を中含候儀、何卒(なにとぞ)、其御國と心安く相交り申度実意を取次、申述候間、疎略に不思召候様、奉願候、今度、其御國と一方ならず御懇意を申合、其上交易の致度を相定申度、彼理(へるり)へ申付指上候。右ニケ条の事申付候。扨当時拙者の領分広く相成事ハ東の果は海辺に至り、西ハ日本指向ひ候故、若(もし)蒸気船にて渡る時は其御國の湊江参ル事日限、時指にても着申候。拙者領國の内かりほる(ママ)へ申候得者、大国にて産物も多ふく、毎年黄金数千両、其外白銀、水銀、宝物多ふく出し申候。其御國も御同様に富貴の御國として宝物澤山に出し候由、当時御隣國同様の儀に候間、御互に住来致し候て、利益多ふく御座有候事、相違有之間敷候。拙者此義を何分共共交易を相始メ申度存候。兼て承りおよぶ処日本にてハ古来の御定にて只唐土阿蘭陀のニケ國計(ばか)り、交易を指赦され、其外諸國の船、湊へ入事御禁制のよしに候得共、近此(ちかごろ)諸国の政事も追々古例を改、新法に取替候。其上其御國に唐土、阿蘭陀二ケ國と御定被成候時分は、亜墨利駕ハいまだ開起不申候。新世間と申て預羅巴(よふろつぱ)國の人共参り、山々入住居致し初メは人も無数貧窮ニ候。其後は土地を切開き田畑耕作植付等も致シ、追々人もおふく相成、唯今にてハ繁昌の地に相成り、交易も諸方へ手広く致シ候。此儀者貴君にも御存と察し入候。只今より古来の定法を御改被成。御互に諸品売買致す事を御赦し被成候ハゝ、双方共徳用も有之候。
しかしながら貴君には是非(ぜひ)とも古例を御守りなされ、異国の船入津御免不被成と有之候ハゝ、御國法を御考のうえ先(さき)数年の間、御ためし交易を被成、五年にても十年にても得と御ためし被成候て、利益多ふく有之哉、無之哉、御見極の上無益とおぼしめし候ハゝ、其時またまた古例に御引戻し被成候ハ、宜敷やう存じ侯。拙者國の仕来(きたり)ハ他国の約束を相定め、数年をためし候上若双方共取存に相叶ひ不申時は、亦々其約束を相定め、数年をためし候上若双方共取存に相叶ひ不申時は、亦々其約束を相止取用ひ不申候。此度も双方暫(しば)らくの間、湊を定め御ためし可被成候。扨亦此使者之者江申付貴君申上候儀者、拙者領國より唐へ罷出、亦(また)は鯨取の船、度々(たびたび)其御國海辺へ参り候節、難風に出逢漂流の躰と御見懸候ハゝ、積物は免(と)も角(かく)、乗組の者共の一命を助け御留置被下、拙者方の船参り候幸便を待受御帰し被下度、拙者國の民とても人間に相違無之間、御憐愍可被下候。此義は貴君にも御存じハ無之事ハ有之間敷と、右訳合(わけあい)迄申述候。且又其御國には石灰(石炭力)多ふく有之、其外食物等も有之趣、夫に付、使者へ申付貴君御目通にて直に言上致させ度々拙者領国より蒸気船にて唐土へ遣候者、右石灰(石炭力)焼し事数万石に及べども船中多ふく積入候事は致しがたく途中にて用ひ切し候節、國元へ立戻る事猶更不都合ニ付、其御國の湊へ乗込、右石灰(炭力)を買求め亦者食物水を汲入候ハゝ都合宜敷候。其品を買求め候には銀銭をもって買候歟(か)、または諸品と取替候ても宜敷と可相成、来る御評儀之間、南の方の湊壱ケ所御定置被下、拙者國之船、暫くの間右石灰(石炭力)食物(米斗)領水を取入候様之御評儀相待候此儀可成丈、早速御承知可被下候。拙者名代として使、彼理(へるり)へ申付一組の軍船を引連させ、其御國江戸と申都へ参り殿下御目見致し、拙者存寄の趣、両國の御懇意を取結び、交易の道をひらきまた石灰(石炭力)食物等を買求め漂流人を御憐愍被下様願上申候。其外には相変候存念無之候。
一、此度船中に國土産の織物数品積入遣候。右者貴君へ進上致し候不珍品に候得共拙者実意に奉存候寸志を御受納被下度候。願くば諸天善神貴君を守護の萬福を御受被成厚天子の御恩を難有可被思召。
此國書ハ、正真の品成事を知らせ申さん為、本國の朱印名前は判を用ひ候。是を証拠に御覧可被下候。
右大合衆國の都はわしんとんニ有、西洋の開きしより千八百五拾弍年目即ち壬子年十月六日對す。
  同添翰
亜墨利駕大合衆國大統領、姓は斐謨(ひぼう)名は美珍(びちん)と申述候。
日本國の大君殿下御安全被成御座候。此度拙者存付の趣、船手の役人彼理(ぺるり)小使の役儀を申付諸事取扱ひ致させ度、其御國へ指上候間、御用御取扱候御家来衆等相請致し両国和睦通商を固く取極め候為に御國湊へ着致させ候。且又(かつまた)右之条約束大切の御用向の義双方取扱の役人熟談相働き候ハゝ早速右之彼理(ぺるり)より本國へ恩せつに及、其節は在國の家来共評儀之上、承知の旨書面をもって可申述候。西國欲羅巴(ようろつぱ)暦年千八百五拾弐年十一月十三日我國にて政事を取候より七拾七年即壬子十月六日ニ御座候。此書無相違印名並判印形相用申候。
  使者彼理(ぺるり)より奉書
亜墨利駕大合衆國欽差大臣兼役船軍の大将天竺、唐土、日本等の惣奉行名は彼理(ぺるり)と申述候。此度欽差役被申候ニ付、我國主の指図にて時々様子を見計ひ諸事取行為可申、一組の軍船を引連、日本國へ参り候者なり。
大皇帝殿下に乞願ひ、両国和睦之条、約束を求め可申迚、主君の直書并奉書を指上候。此弐通はいんぎりす、阿蘭陀、唐土の文字通書直し、持参に御覧に入候。但弐通の本書は印封にて所持仕り候間御目見の節、御直に御覧に入可申候。
且又(かつまた)、我國主、兼て聞及被申候。我国の者共、海上にて難風に逢、御國海辺へ漂流いたし候へ者、誠ニ誠ニ御にくしミ強く仇がたきのごとく御取扱無之候様相願申度候。其御國の船、漂流致し候て我國へ参り候者ハ、夫々(それぞれ)手当致し候上にて留置追て帰國為致候。我國にても人間をいたわり道を弁へ居申候。何分此段御推量被下候。
且又我主君は欲羅巴と一切申合國にて無之候。元より他國の政事杯(など)彼是申妨候事も無之候。唯今より三百余年以前欲羅巴(よふろつぱ)の人、初て我国へ来り候事有之、其比より土地を開き、日本欲羅巴の間に有之候。西は海にて東は欲羅巴なり。我国は当時人多ふく相成、方角は日本と指向ひゆへ蒸気船にて渡る時は十八日歟(か)廿日にて日本湊江着船いたし候。扨亦(さてまた)此節ハ世間一統交易流行にて御國の海辺にも船多く集り候様、相見へ候、我主君も和睦の御約束を御定めのと、今より実意に御取極メ被成候ハゝ御目前に戦軍を起し候、御気遣ひも有之間布候。依而先ツ此度は、小船四艘にて和交の本意を申述候。國元には数艘の大軍船を相催致し居申候。可成丈、御都合宜数日限りをもって被仰聞次第、主君の直書を持参仕、登城の上、御目通にて申述候。
大皇帝至極尊ふき御位にて此上、福寿不可有際限候。此段御直に申述候。
  癸丑六月二日
              浦貿湊ニて書す
大合衆国欽差大臣日本の海上に船懸り致し候舟軍の大将彼理(ぺるり)と申述て、我國主君の申付を請て時節を見計ひ和睦の御相談に及び其御國、江戸表へ参上致、登城御目見之節其主君の直書并奉書とも弐通御覧に入可申候。御役人衆より日限被仰聞可被下候。依而(よつて)御返答相待可申候。
   丑六月七日
致啓上此度持参の書には、色々大切の用事をしたため有之候。尤其御國にも懸り合候事御座候間、能々御分別被成候て、国家長久のともいろ御評儀可被成候。来三月の比(ころ)は軍舟をとりそろひ乗連、江戸の海辺へ参り御返書受取可申。其間弥(いよいよ)御約束を相さだめ永久の御和睦可致候。猶御返書相待可申候。右者嘉永七寅三月大坂にて御下ケニ相成、其写しをもって爰に写し置ものなり。右書愚蒙の著述俗文にして重意多し願わくハ後人其拙きを免し給へと。          爾言
   安政三辰三月吉日  記之
   他見不許 阿洲海部郡牟岐東浦 津田屋喜右衛門 自作


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