阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第23号

青木家の古文書について

郷土班 竹内金二

ア.青木家の身居


 私は青木家の古文書を調査することになり、当主の輝夫氏が長らく牟岐町の公民館長として県連合公民館の理事をして居られたので、お顔なじみのこととて心やすく落着いて古文書を見せていただいた。古文書については大先輩の金沢治先生が調査ずみで、良く整理されていて十二分に研究することができた。
 古文書の内容は青木伝記が24通、身居文書が11通、藩政が5通、太守様への関係が12通、宗門改めが3通、検地棟付が5通、文化関係が11通、事業関係が27通、貢祖の文書が29通、金銭関係が20通、小作関係が39通、地図関係が3通、維新資料が18通、雑記録が28通が保存されている。


イ.青木家の家系
 青木家の家系は平家一門の門脇中納言教盛の子孫が牟岐に流れ来て住みついたという説と、土佐の中村を開いた一条教房の一族であったが長宗我部元親に追われて牟岐に移り住み、居住地を土佐の中村に因んで中村とつけ、姓を青木と名乗ったという説とがある。
 初代六郎兵衛は藩政時代は浪人であったが、海部地方に権威と信望があり、郡内の争いごとは阿波藩主は六兵郎衛に命じて解決させていた。2代藩主蜂須賀至鎮の時に土佐と阿波の国境争いが起り六郎兵衛が現地に赴き難門題を解決した。
 2代七郎兵衛のときその功が認められて、牟岐村庄屋を命ぜられ、正保2年(1645)牟岐大島の「切支丹宗門改め」の御番を命ぜられた。これは海部の沿岸を航行する者のキリシタンを詮議し取締る役であって、その功労として大島・出羽島の伐採権(どんな木でも1坪に1〜2本を残せば伐ることができる)を与えられ、また島の畠地として開墾すればその地を与えるとの覚書を賜っている。この当時は藩が積極的に新田開発を奨励していた時なので、大島や出羽島へ移住する者はすべて税を免除するとの覚書が出され、また青木家先代の功積によって辺川村、橘村(両村喜来口まで)及び東クレ石、上下奥、西地の各山野の開墾を許され、のちその地を賜った。
 3代七郎右衛門は延宝8年12月に死亡
 4代七郎兵衛の時になって牟岐村組頭庄屋を命ぜられ、寛文元年(1661)の記録によると青木家は79石5斗8升7合の石高となっている。
 5代七郎兵衛は宝永4年(1707)に高取の列に加わり御目見えの身分となっている御目見えとは藩主にじきじき謁見を許されれることをいう。
 6代猪助は牟岐村郷高取(士分待遇)となった。
 7代七郎は組頭庄屋となった。当時の那代佐和滝三郎から灘村庄屋相続人の紛争の解決を命ぜられたが、その処置がまずかったので巌しくとがめられ、その罪により3ヶ年間徳島の旅館で謹慎を申し付けられ、知行は半減、大島は没収された。
 8代伊助は寛政12年(1800)に郡代佐和滝三郎から鞆浦の御陣屋(郡代役所)に呼びつけられ、出羽島へ移住者をつくることを命ぜられ、もし移住が成功した場合は以前に取り上げた石高と大島を元通りに与えると申し付けた。当時移住者には船網漁貝を貸し与え、税金を免除するという好条件がついていたが、海上1里の不便な孤島に移り住もうという希望者はいなかったので、伊助は有りのままを郡代に伝えた所、郡代は大へん不機嫌であった。一方牟岐町の庄屋民蔵にも出羽島への移住をすすめることを命じたが、民蔵も出羽島に移り住む者はないと返答をした。郡代は大いに立腹して民蔵を牢に入れ、庄屋役を取り上げた。そして再び伊助に対し、移住者をつくらなければ民蔵と同様の処分にすると巌しく申し付けたので、伊助は止むをえず青木家の分家の者2人に因果をふくめ、家来3人をつけて出羽島に居住させた。それで島番の家と合せて6軒となり、その後魚税の特点につられて移住する者が続き、享和3年(1803)には40軒、嘉永元年(1848)には50軒、となって浦は繁栄した。その功労によって青木家は元の禄高と大島・出羽島が与えられた。伊助は出羽島の殿様として崇められ天保10年(1839)出羽島で没した。その後青木家は9代猪介、10年(1839)出羽島で没した。その後青木家は9代猪介、10代七郎、11代輝吉、12代猪七郎と続き牟岐の旧家として現代輝夫氏に及んでいる。


ウ.土佐勤王の志士牟岐逃入事件
 文久元年(1861)8月土佐の勤王の志士武市半平太(瑞山)は勤王の同志を募った。清岡道之助、中岡慎太郎等が加わって意気大いにあがった。その後情勢は一変して文久3年(1863)9月21日半平太をはじめ多くの者が捕えられて獄に投ぜられた。この時道之助ら同志23人は半平太を救出すべく活躍したが目的を進することが出来なかった。元治元年(1864)7月26日に野根山中の岩佐の関に集り、藩庁へ解放の嘆願をしたが叫わなかった。土佐藩は清岡ら同志が武器を持ち、野根山中に集結しているとの報に接し、清岡らを無謀人と見做し岩佐より下山し武器を捨てて解散するよう命じた。清岡らは武器を持つのは身の護りで、反抗の意志はなく藩主に嘆願するのだと言い張って下山しなかった。同志らは再三にわたり藩主に嘆願したが容れられなかった。この上は脱藩して後事を計ろうと、空づつを1発放ち合図として岩佐の関をあとに北に向って山中にわけ入った。同志らは峠を越えて阿波へ越境し、海部郡の宍喰の船津村に辿りついた。当時の船津村には阿波藩の関所があって、役人は一同が武器を持っているので通行を許さなかった。そこで武器を役人に渡してやっと尾崎村についた。庄屋の寺尾藤五郎は一同に昼食を与え手厚くもてなし、海岸に出るのは危険だと注意し、安全な山道を教えたが、一行は途中病人ができたので、海岸づたいに宍喰浦に向かった。果せるかな宍喰浦の関所で喰い止められ、願行寺に連れて行かれた。この変事は宍喰からの急報によって日和佐の郡庁に伝えられた。早速大里村の鉄砲組は8月2日に動員され、その警備に当った。当時大里の郷鉄砲は阿波藩の国境警備兵でその数80余人であった。やがて一行は牟岐まで辿りつき、ここで取調べをうけて当分は寺院や民家に2〜3人ずつ分宿して監禁された。
 清岡道之助、新井竹次郎は東牟岐の医師生田亮平家に預けられた。亮平は義侠心強く2人を家族一同で厚くもてなした。道之助は裏の離れ座敷に住み、中秋の明月の訪れに1句を吟じた。
  思いきやかかる恵みに阿波の浦
        きよきなきさの月を見むとは
 かくて1ケ月は間もなく過ぎて、秋風が吹きたつ頃、土佐藩に引渡される運命の日が訪れた。縁もゆかりもない他郷の人とはいえ、1ケ月も馴染んだ人の心のつながりは温かく芽生えていた。牟岐浦の人々から名残りおしく、別れの言葉に志士たちは胸をうたれ、2組に分れて土佐へ護送されていった。駕籠は八坂八浜の険しい道をとぎれとぎれにつづき、山添いの砂浜をつなぐ1本道が遠ざかって行く。別れを惜しむ生田家の家族をはじめ、村人のすすり泣きながら手を振って送ってくれるのにこたえて、新井竹次郎は詩を吟じた。
  一途志を立てて何んぞ功なく
  葉落ち秋すでに半ばとなれり
  危険を経ること幾何かを知る
  またあう八坂八浜のうらかぜ
一行は那佐を廻わり宍喰川を渡った所で土佐藩庁に引き渡された。国境を過ぎ甲浦から生見峠を越えて野根浦で1泊し、翌9月4日は野根山越えにかかった。ここで豊永斧馬は1句吟じた。
  ふる里へ帰る錦は秋深く
  染むるもみちの心なりけり
やがて装束峠を越えて米ケ岡にさしかかった時は、太陽はとっぷり暮れて、田野の獄舎につながれたのは夜半であった。志士たちは獄中で1夜を明かすと、翌元治元年(1864)9月5日奈半利川原の刑場で果なくも露と消え散った。この時の罪状には「徒党をつのり兵器をたずさえて野根山へ屯集強訴の上、阿州表へ遁亡不屈き至極の科をもって全員打首仰付られ侯」とある。
 首領の清岡道之助(32才)をはじめ木下慎之助(16才)まで23人が奈半利川原の露と消えんとした時、家老五島内蔵助は優秀な人材を救わんと、早馬にてかけつけたが時すでに遅く処刑は終り、憤然として馬を返したといわれている。23士の墓は土佐の田野の福田寺にあり、殉節の記念碑は処刑された奈半利川畔に建てられている。


 牟岐浦の生田家には清岡道之助と新井竹次郎が感謝の意をこめた和歌を家宝として保存している。
 生久し田もてことふく梅に鶴
  又訪ふ折の契り可波勢利
        旭梅軒(清岡道之助)
 身をいたす秋の浪風おさまれは
  又そや君に阿波て済まし
        正寛(新井竹次郎)


徳島県立図書館