阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第23号

御船歌について

郷土班  森甚一郎

 阿波藩の御船歌は大阪の後藤捷一先生が藩政時代の貴重な資料と折紙をつけ、桧瑛司先生は珍らしい歌謡と推奨し、最近では歌謡学専攻の山形大学の浅野建二先生が来宅して稀覯歌謡集として、同行の株式会社勉誠社の池嶋伸三郎氏が原本を複写して帰えり、近く同社から「日本歌謡研究資料集第5巻」として出版することになった。
 この原本は今から120年のむかし安政6年(1859)の春新らしく改めて、時の藩主蜂須賀斉裕に差上げた写しである。
 さて御船歌がなぜ私の家に伝来しているかについて説明してみると、森の先祖は蜂須賀家政が阿波へ入国した天正13年(l585)よりも古く、足利時代末期から鳴門の土佐泊に住んで、当時倭寇(わこう)として八幡大菩薩の旗じるしを掲げて南支那海方面に活躍し勇名をとどろかせた。また鳴門海峡の要衝の地を扼して、この地を通行する商船から関銭を徴集し、応諾した船舶は護衛して無事目的地に送りとどけ、然からざる船舶は積荷を掠奪した。所謂世間にいう海賊であった。海賊はやがて水軍と名称を変えた。


 天正12年(1584)土佐の梟雄長宗我部元親の四国侵略に抗戦、降伏せずに当時中国征伐のため姫路に駐屯中の羽柴秀吉に援けを求めた。のち羽柴秀長の大軍が阿波で元親の占領地でない唯一の土佐泊に上陸し、その先導となって四国平定の大業を成さしめ、その功労によって秀吉から3千石の朱印状を受けた。
 天正13年(1585)蜂須賀家政が阿波に入国して初代の藩主となったが、家政は土着の豪族を優遇せずに専ら尾張や播磨の出身者を重用した。ただ森一族のみはその例外であった。それは秀吉の朱印状と船舶を所持していたためである。家政が秀吉に阿波を拝領したお礼言上に上阪した時は、森の船を借用したことが阿淡年表秘録に記されている。
 (天正13年)冬 公為御礼大阪江御渡海森志摩守手船御借受御供被仰付
  此時志摩守も秀吉公御目見被仰付誓約之通阿洲表之首尾ヲ合候段感思召旨上意
  且先達被下候御朱印高三千石阿波守より申受候様被仰出御羽織被下
 その後領地替えがあり、長年の仇敵長宗我部の押えとして阿南の椿泊に移った。森一族は時勢の推移を察して新藩主蜂須賀に忠勤を励み、小田原の北条攻めや九州の島津征伐、また朝鮮両度の役には奮戦して数多の戦功を挙げ、さらに大阪冬の陣には徳川方として、抜群の武功をたて家康・秀忠から感状を受けた。阿波の七感状(稲田修理亮示植、稲川九郎兵衛稙次、山田織部佐宗登、樋口内蔵助正長、森甚五兵衛村重、森甚大夫氏純、岩田七左衛門政長)といって武門最高の名誉であった。
 元和偃武となり、藩主の参勤交代に海上護衛がその任務となったが、阿淡二国の一切の海上権を委ねられて海上方として明治に及んだ。
 一筆申遣候吾等帰国之節為迎大阪迄可罷越也
   淡路      (綱 矩)
 四月十五日  (花 押)
    森  甚五兵衛殿
  ×   ×   ×
 海上担任申渡書
  覚
 我等交代上下之節其外於海上船法之儀諸事其方共三人可任了簡、次船作方并船頭水主出入之節人柄善悪相撰糺賞罰其外海上へ相懸る儀者申付置候。奉行共遂詮議其趣安宅目付其方共相談仕可相極候。雖然難能了簡儀於在之は賀島伊織方迄可申出候。以上。
 右の條々相心掛堅可守者也。
   享保十五年戌年九月廿七日
           宗 員(花 押)
                    森 甚五兵衛とのへ
                    森  甚大夫とのへ
                    森  志 摩とのへ
 文久2年(1862)の調べによると、海上方には本家の森甚五兵衛(中老・2413石)と分家の森甚大夫(中老・1016石)があたって軍令軍政を統括した。副役の船手頭には森長左ヱ門、広田加左ヱ門、高木善五郎(いずれも300石)が据わり、その下役には格付御船頭13名、御目見御船頭10名、御船頭17名が最高の地位で、つぎの御目見杖突格3名、杖突格67名とともに苗字帯刀を、許された。つぎに矢倉者(櫓者)42名、袴着御水主136名、御水主80名などあって、その数380名ほどあった。またその下に阿波、淡路の68浦から召集された予備水夫の加子が約2000名近くあった。
 阿波68浦とは「安宅御用扣」の「御両国浦々加子召仕分」につぎのとおり記してある。
 論田浦、大原浦、小松島浦、今津浦、富田浦、北浜浦、南浜浦、津田浦、沖洲浦、大岡浦、別宮浦、長原浦、宮島舗、北中島浦、南中島浦、広島浦、鶴島浦、粟津浦、土佐泊浦、堂浦、北泊浦、林崎浦、中島田浦、南浜浦、斎田浦、黒崎浦、立岩浦、北浜浦、弁財天浦、岡崎浦、大桑島浦、小桑島浦、三ツ石浦、明神浦、高島浦、小島田浦、伊座利浦、安部浦、橘浦、志和岐浦、西由岐浦、東由岐浦、大岐浦、夷浜浦、日和佐浦、牟岐浦、浅川浦、奥浦、鞆浦、宍喰浦、福良浦、阿那賀浦、湊浦、江尻浦、西路浦、志知川浦、都志浦、江井浦、郡家浦、松帆浦、阿万浦、沼島浦、志筑浦、塩尾浦、生穂浦、釜口浦、出田浦、仮屋浦。
 さて御船歌役としては歌裁判があって杖突格があたり、その下の歌頭には矢倉者(櫓者)と袴着御水主があたって御水主に御船歌の歌い方を指導した。
 阿波藩の参勤交代(丑、卯、巳、未、酉、亥の4月に参府、翌年の4月に御暇)の出船入船の光景は徳島市住吉島の蓮花寺の屏風に見るようなまことに壮大で、さすが25万石の大名行列にふさわしい威容を示していた。その時に大鼓を打鳴らし御船歌を歌ってさらに威勢をつけた。
 御船歌は「ヤアラ目出たいナ、嬉し目出たのノイエイソリヤ、わか(枝も栄ゆる葉も茂る)」の「歌出し」に始まり、「くどき」の「津田山」「四海浪」など50番で割合に文句は長いものである。「端歌」は「あげたし」「よし川」「みこぶし」など10番190首短かい交句で、「歌附」の「わか」は「枝も栄ゆる葉も茂る」「しな」は「生きてよしないおれが身は」「いろ」は「ふかき思ひはおれひとり」、などで「早とめ」「下緒どめ」で終り、「雪月花」「宝の海」を巻末に収めている。


 この御船歌はいつ頃、誰が作ったか、またどんな調子で歌ったかは理在では全く分からないが、ただ海部郡牟岐町で毎年八幡神社の祭礼に歌っている御船歌は、多分召集された牟岐浦の加子たちが短い期間に「門前の小僧習わぬ経を読む」式に覚えたものを、故郷へ持帰って口から耳へと、語りつぎして現在にまで及んだものであろう。歌詞は歌いつがれていくうちに色々と転訛し、また思いがけない調子に変ったものもあろうが、それは無理からぬことである。しかしどこか元歌を、また元の調子を彷佛させるものがあると信じたい。
 幸い昭和51年7月26日から1週間牟岐町で阿波学会の総合学術調査が行われ、29日の夕方牟岐町東の東公民館に、御船歌を伝承している下記のご老人たちの参集を願って親しく聞くことができた。
  川辺 仁蔵さん(75才)
  真崎 亀一さん(63才)
  大野久太郎さん(73才)
  井本芳太郎さん(67才)
  大田 清一さん(66才)
  名田岩太郎さん(66才)
  大平 鈴江さん(70才)
 櫓を漕ぎながらそれに合わせて御船歌を歌う御水主の姿が目の前に見えるようで感激一入であった。その時歌われたのは(録音テープ使用)「端歌」「よし川」の「天下太平治まる御代もナ鶴はアアエーちとせよか亀まんげまあうねをやア国も豊かに栄えつつうれしわか」(天下太平治まる御代もナ鶴は千歳ヲ亀万年ヤ国も豊かに栄えつつうれしわか)と「みこぶし」の「住吉の松の葉ごしに月様みればアナアしばしくもりてまあまたんかさあゆるやアお月や山端にみはここにそもじいろ」(住吉の松の葉ごしに月見ればしばしくもりてまたさゆるイヤ月はやさしやねやへさすそもじいろ)及び「あげたし」の「松かねのいわほの上に鶴亀がアヨウ千代よろづよと舞遊ぶうれししな」(松かねの巌の上に鶴亀のエイ千代萬代と舞遊ぶ嬉ししな)であった。
 藩制時代からすでに百有余年、御船歌が再び時代の脚光を浴びて「日本歌謡研究資料集成」として上梓される今日、御船歌を現在に伝えている牟岐町の人々に敬意を払うとともに、一層のご精進を願うものである。
 最後に「くどき」の「津田山」をあげておく。
  常磐なる千代のみどりも春くれば今一入の色まさるエイ津田の山風のどかにて枝もならさぬ松原のエイヤヨエイヤコノよるベの浪も静かなり沖の洲
  身辺崎の船もやひ海士の仕業もゆたかなるエイ網ひきとのふるあごとにもエイ万歳楽な御代の春嬉し。


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