阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第23号

牟岐町古牟岐における集落の形成過程

地理学班

    岸本豊・市川公雄・前田和宏・

    松山隆博・山西芳人

I.研究の目的と方法
 牟岐町大字灘字下浜辺附近の漁村集落(この集落を古牟岐と通呼しており、以下、古牟岐の用語を使用する)は、今を去る8、90年前、この地から南東海上4700mに浮かぶ大島より帰住した人々を主体として形成された集落である。本稿の目的は、この特異な漁村集落を取り上げ、集落の形成過程を明らかにし、護岸工事、水道施設、港湾改良等、社会的条件の変化が集落の立地、形成にどのような影響を与えたかを考察すると共に、共同生活体としての集落構成の一端を探るものである。


 この集落についての研究は、これまでまったくなされておらず、文書資料として、「海部郡誌」(1927年)に次のように記載されている程度である。「古牟岐は、明治初年、小島貞太郎なる者のみ住まって古牟岐の草切りであったが、21年の頃には、漸く三軒の家があったと言う。大島より来た漁夫は、漁事に鍛錬したる技術を有し、且つ勤勉に働いたので着々成功し、現今は、戸数40戸に遠し、何れも裕福である。」このため、町役場、壇那寺等で得られた統計資料、地図等を基に、全戸に聴き取り調査を行うと供に、古老数人の話を総合し、できる限り詳細に追跡し構成した。なお、現在、この集落に居住していない者については、一部追跡調査を行ない補足した。


II.人口動態にみる牟岐町の地域的特徴
 牟岐町は、旧8ケ村浦の合併により明治22年(1889)、牟岐村となり、大正4年(1915)、町制が実施され今日に至っている。旧8ケ村浦とは、中村、牟岐浦、川長村、河内村、辺川村、橘村、灘村、内妻村である。前6村浦は、牟岐川の流域、後2村は、沿岸小河川の流域で、中村、牟岐浦を中核とした単一経済圏を持ち、藩政期から「牟岐8箇村」と総称されていた。この8地区の中で、地域的、社会的に独立している出羽島、古牟岐を牟岐浦、難より分離させ、牟岐浦を牟岐川によって東西に分割し、11地区(注1)として現在の地域的特徴を考察したのが第1図、第2図である。


 中核的集落である中村、東牟岐、西牟岐は、人口1,000人以上の大集落である。河内、辺川、橘、灘、内妻は、人口に比し水田耕作面積が多く、純農村といえよう。川長、中村には、農村部を含む。旧牟岐浦は、水田をほとんど持たなかったが、現在の東牟岐は、旧灘村のうち宮田、西の山、大牟岐田を含み、大牟岐田に水田がある。西牟岐は、旧中村のうち大谷の一部と大戸を含み、双方に水田がある。商業の比率は、牟岐川右岸の中村、西牟岐に高く、国道55号線、国鉄牟岐駅等、交通要所が右岸にあるためと考えられる。11地区の中で、国道が貫通していないのは、東牟岐、出羽島、灘、古牟岐の4地区である。電話普及率は、河内の29,3%を除いて、81,4〜98,0%のうちにあり、地域的特徴はほとんどない。以上のことから、東牟岐、出羽島、古牟岐は、純漁村、中村、西牟岐は、商漁村、川長は、農商漁村であり、他の5地区は、純農付である。灘、内妻は、沿岸部を持つが、漁業集落を形成していない。
 藩政期よりの人口推移を示したのが第3図であり、3つの型に分かれる。その1は、漁村型(東牟岐、西牟岐、出羽島)で、藩政期後半に急激な人口増加を示し、明治以後の増加は、緩慢となり、最近は、急激な減少に転じている。ただ、東牟岐では、明治以後も後背地である。その2は、中心農漁村型(中村、川長)で、富田での人口増加がみられたため増加が大である。町の中枢機構が集まり商業的機能が強く、特に明治以後、急激な人口増加がみられる。その3は、純農村型(河内、辺川、橘 灘、内妻)で、藩政期、明治以後共に人口増加は緩慢で、最近は、減少に転じている。その他、独自の型として、大島、古牟岐があり、大島の住民を主体として形成された漁村集落古牟岐は、帰住後、順調に発展し、漁村型集落が最近急激な人口減少を被っている中にあって、減少は、目立って少ない。


 牟岐町中心部における最近8年間の人口動態を示したのが第4図である。中村のうち、中の島、本町、上の町に比ベ、周辺部である中村(本村の一部、杉谷等)では8年間に54%(257人)の人口増加を示している。また、川長のうち、天神前が同じく10%(31人)の人口増加を示しており牟岐町中心部においてドーナツ現象が進んでいる。漁村集落である東牟岐、西牟岐で人口減少が著しくみられる中で、古牟岐が独自の動態を示していることは、前述した通りである。以下この古牟岐について論述してみよう。


III.集落の形成過程
1.集落の歴史
 a)明治初年まで
 灘村の沿岸部は、東から順に上浜辺、中浜辺、下浜辺に分かれており、幾筋かの谷が南流し、北較的低平な丘陵を侵食する谷は、水田として利用されていた。前2地域にはそれぞれ数軒の農家があった。下浜辺には、古くから一軒の農家(注2)があり、近くの丘陵上(12m)に墓地を持っていた。
 b)明治30年まで
 下浜辺の農家は、2軒になり、中浜辺西端のコシマ地区に上浜辺より農家が一軒移住して来たため、古牟岐としては、計3軒に増加していたが、下浜辺の農家は、やがて北海道へ屯田兵として移住した。相前後して(注3)大島に居住していた漁家(注4)18戸が明治21年(1888)から明治30年(1897)の間に離島し、古牟岐へ14戸の他、東牟岐へ3戸(注5)、北海道へ1戸(注6)と移住した。ここに古牟岐の歴史が本格的に始まった。この地域は、第5図のように沖合いに岩礁が多く、自然の防波堤を作っていた。B地区に3戸、C地区に2戸、D地区に3戸、G地区4戸居住した(注7)全て漁家で家敷は、灘の農家の所有する水田であった所であり、大正期に登記するまで借地であった。井戸を掘って水を得ていた。塩分はないが、水酸化鉄(Fe (OH) 3)が多く、良質とはいえなかった。この時、大島の観音堂と蛭子神社は移され、前者は、前述の農家の墓地の南隣に、後者は、集落の西端に再建された。大島の墓も移され、集落の北方の丘陵で大島がよく見渡せる所に共同墓地が作られた。交易は、集落の西端から丘陵の中腹を巻き水田を横切り、山裾を通って灘の蔭栗道へ出る「灘道」に依っていた。坂道の連続であり、ここから牟岐中心部へと通じ、通学路でもあった。


c)明治45年まで
 大島から東牟岐へ移住していた1戸が数年後、G地区へ再移住し合流した。E地区は、砂浜の正面に位置し、しばらく無居住区であったが、出羽島からの移住者がG地区に数年居住後、やや高位のここへ移住して後、背後の山腹に移住する者があり、3戸に増えた。I地区は、小丘凌を西へ越えた所に水田があり、低位の所であったが1戸の進出が見られた。前述の中浜辺コシマ地区の農家がC地区に移住し、漁業に転業したが、灘より移住して来た2戸は、移住後もしばらく農林業の生活を続けた。農業か漁業に転業したこの3戸は、漁法のぎこちなさが長く続いた。また、大島帰住者のうち3戸が早くも屋敷を移転した。
 d)大正15年まで
 地形的に災害の危険性の高いE・F地区とI・J地区での戸数の増加が著しくみられた、より危険なI地区では、屋敷の前面に頑丈な石垣を築き災害に備え、J地区の最低位は、2、3mであり、護岸工事がここへの前進を助けた。B地区でも1戸が道路下の低位へ進出した。この間、牟岐町東牟岐、河内及び日和佐西河内、木頭よりの移住者があり、より広範囲の地域からの転入がみられ出した。大島帰住者3戸が屋敷の移転をした。
 e)昭和15年まで
昭和9年(1934)の室戸台風で割石の浜の堤防が破壊され、コンクリートの堤防に改築された。I地区を始め低位への進出がさらに増加した。C地区に漁業協同組合の造船所ができ10年程操業していた。移住者は、牟岐町河内からの1戸のみである。大島帰住者の屋敷移転も1戸あった。
 f)昭和30年まで
 戦時中一旦停止されていた沖の防波堤が完成し、東牟岐から海岸沿いに自動車道路が完成し、西谷の浜の突堤もでき、近代化が実施され出した。H地区を始め、B、E地区の丘陵地への進出が顕著になった。しかし、水道施設の完成に先立つ進出であったため、下位の井戸まで水汲みをしなければならない不便さがあった。転入者は、東牟岐、海南町浅川、鳴門、大阪の4戸であり、さらに広範囲に及ぶが、鳴門、大阪は、婦人が古牟岐の出身である。また、4戸が神奈川県三崎(三浦市)等へ転出している。
 g)昭和45年まで
 灘水落より水道が引かれ、良質の水が大量に得られるようになり、近代的港湾工事が始まったが、県外への転出の現象が続き、6戸の転出をみている。転入は、牟岐町河内からの1戸のみである。


 h)昭和51年まで
 近代的港湾工事により古牟岐漁港の西部が完成し、東部の工事が継続されている。丘陵地であるH地区の西部への進出があり、若い人の分家が目立つ。最近の漁村においてUターン現象が生じているといわれるが、ここ古牟岐においても同様の現象が見られる。漁業専管水域200海里時代に入れば、この現象にさらに拍車がかかろう。昭和42年(1967)から昭和51年(1976)までの9年間において、人口は、牟岐町全体でl2.8%減少しているのに比し、第6図にみられるように、ここでは、7.8%の減少に留まっている。逆に戸数では、町全体で0.6%増加しているのに比し、ここでは、5.8%減少している。このため1戸あたりの平均人口は、町全体で昭和42年当時4.2人が昭和5l年には3.6人となって核家族化が進んでいるが、ここでは、昭和42年当時4.3人が昭和51年には4.2人と大差がない。また、最近の現象として、H地区の西部を始めB地区の東部丘陵地へと東西への集落の面的広がりの現象が生じかけている。
 2.集落の水平的発展
 この集落において、最も古い歴史を持つのがC地区(東の屋敷)であり、藩政期から1戸の農家があった。この農家が北海道へ移住した後、屋敷跡に大島から移住して来た漁家が居を持った。A地区(中浜辺のコシマ)は、一時期1戸の農家が居住していたが、孤立しており永続することはなかった。次に古いのは、B(東の東)、D(東の中町)(注8)G(西谷の西)地区である。ここは、大島から帰住した漁家によって始めて形成された所で、海岸に近いが山蔭等により津波の直接被害の少ない所といえる。次は、出羽島から移住して来た漁家によって始められたE地区(中町の上)と大島帰住漁家の分家によって始められたI地区(亀の甲の中)である、E地区は海岸から少し距離があるが浜の正面に当り、I地区は、低湿な水田で、両地区共災害の危険性が高った。さらに、E地区とI地区の前面のF地区(西谷の下)とJ地区(亀の甲の下)に大正期に漁家が増加し、最も新しい居住区は、H地区(亀の甲の上)で第2次大戦中のことである。前2地区への居住は、譲岸工事、石垣等防災工事がなされることにより可能になり、H地区は、自動車道路に面する交通上便利な所であるが、水道設備が完成するまでの間、水を得るのに不利であった。


 3.集落の垂直的発展
 居住の最初は、3.8m〜5.0mの範囲の所であり、大島から帰住した漁家によってこの集落が成立した時は、全てこの高度に立地した。明治末期に7m、8mの高位に1戸づつ進出し、3.2mの低位にも1戸進出した。2.3mの最低位に本格的進出がみられたのは、大正期からであり、高位への本格的進出は、第2次大戦以後である。低位ヘの進出は、割石の堤防完成を契機としたが、高位への進出は、水道設備の完成に先立って行なわれた。


 4.漁付集落の特徴
 転入者の出身地(注9)は、第3表の通りであり、大島からの転入が48%を占め、牟岐町内(灘、河内、東牟岐、出羽島)が33%を占める。鳴門、大阪からは、婦人が古牟岐出身のためその影響で転入しているのであり、県内のうちでも県南部ばかりからである。大島から帰住した13戸(注10)のうち80余年間において屋敷の変更がなかったのは、6戸であり、残りの6戸は1度、1戸は2度にわたってこの集落内で変更している。時期は、明治末期に3戸、大正期に3戸、昭和10年代と昭和51年(2度目)に各1戸である。その他の転入者や分家については、転人、分家成立の時期がまちまちで判別しにくいが、流動的であることは同様である、転出先(注11)は、半数の7戸が神奈川県へであり、そのうち6戸までが遠洋漁業の根拠地である三崎ヘ転出している。大阪、和歌山、北海道(注12)が各2戸、福岡1戸で県内への転出がない点県内ばかりの転入との間に際立った差をみせている。

 

 

 IV.現在の古牟岐の社会
 昭和51年現在において居住している65戸のうち、出身地別に示すと第7図の通りであり、大島の本家、分家で75.4%を占め、牟岐町内の本家、分家(灘、河内、東牟岐、出羽島)で15.4%、その他(日和佐本家、分家、木頭、海南、鳴門、大阪各1戸)9.2%となっている。職業別は、第8図のように漁業50.8%、船員23.1%と海洋関係が大半を占めている。また、無職が12.3%と多い。出稼ぎが26.2%で一家の主人を県外へ出している家庭が4分の1強である。副業として商業3戸、農業4戸、民宿2戸等があり、某商店(西牟岐)が集落の西外れに水産加工工場を建てており、ここの婦人が労働力の主体となっている。壇那寺は、真言宗満徳寺(西牟岐)27戸、満徳寺末寺東光寺(灘)16戸、同海蔵寺(東牟岐)15戸、曹洞宗普周寺(河内)4戸、未確定2戸である。大島からの帰住者は、上記4寺に跨っており、分家は、本家の壇那寺っ従っている。転入者もいずれかに属している。観音堂は、某氏の祖先が大島で漂流して来た観音像を拾い上げ、満徳寺28代普寂により大島で創建されたものであるが、集落の移転により大島から持ち帰り、丘陵上(13m)に再建された。このため、堂守りが跡絶えた間は、某氏が管理している。初代堂守りは、若林良順といい、山口県萩の出身で大正6年(1917)頃ここに住み着いた。相当の知職人であり、隠人ではなかったかと思われる。大正14年(1925)、80才でこの地で死亡した。現在の堂守りは、7代目であり、東牟岐の出身で大阪へ嫁ぎ老後ここへ来ている。堂の維持費は、各戸月200円を出し合っており、旧3月18日の法会日には、満徳寺、東光寺、海蔵寺と観栄寺(出羽島)の僧により大般若経が転読される。この日は、休漁日である。また、昭和30年(1955)に海南町浅川より移住して来た老婆が大師堂を西谷に作り、海部郡一円からの参拝者がある。ここでは、一部の人が信仰しているに過ぎない。これとは別に、大師講は、以前からあり、隣組常会(東、西谷、亀の甲)ごとに毎月1回(21日か20日)、女性のみで行なわれている。蛭子神社は、西谷の端の海岸縁にあり、観音堂と同様大島から持ち帰ったもので、某氏の管理下にあって某氏が一時高知県へ移住した時、蛭子像を持参したため、大正初期、ここの住民は、西宮から像を受け以前の所に祭ったのが現在の蛭子神社である。以前の像は、某氏の家で祭られている。
 全体の組織として部落会があり、年2、3回集会が持たれている。現在、部落長は、亀の甲の某氏(日和佐町西河内出身)、副会長は、西谷の某氏(牟岐町河内出身)で共に長く務めている。また、隣組常会(漁業常会とも呼ぶ)が東(21戸)、西谷(24戸)、亀の甲(19戸)に分れ、毎月1回集会が持たれている。常会長は、東では毎年変更され、西の谷、亀の甲では適当な時期に変更されている。これらの集会は、東と西の谷の中間にある古牟岐公民館において開催される。冠婚葬祭は、親戚の他、隣組の組織があり、東では大東(7戸)、屋敷(9戸)、中町(5戸)の3つに明確に分かれているが、隣組常会の発展により薄れつつある。西谷では、上(8戸)、下(10戸)西6戸)の3つに分れているが、ほとんどその機能は消滅している。新しい集落である亀の甲には、隣組の組織はなく、できたこともなかった。観音堂のの堂守りは、これらの組織には加わっていない。観音像の鍵は、寺総代(東、西谷、亀の甲より各1人。5年任期で大島帰住者と限らない)が持っている。以上のことからわかるように、大島帰住者とその他の転入者との間に、異質の集団作りはなされていなく、80余年の間にそれぞれ血縁関係が生じ、集落全体で一体の集団となっている。ただ、隣組常会による東、西谷、亀の甲という3つの地縁集団は、明確である。


 V.結び
 本稿は、古牟岐という比較的新しい漁村集落を取り上げ、集落成立当初からの歴史をほぼ正確に追跡することができた。その結果、この集落の特徴として次のようなことがわかった。
 その1は、大島帰住後、近隣からの転入者を加えつつ順調に発展し、漁場に近い有利性を生かしつつ諸施設の近代化が遅れながらも進み、最近においても人口の流出を最少限に食止めている。その2は、住居が最初、4m内外の比較的自然災害の少ない所を選んで立地していたが、護岸工事がより低位への進出を可能にし、一方、より高位への進出が水道施設の必要性を誘発し、完成が本格的進出の道を開こうとしている。その3は、集落の膨張が主として西方へ向って行なわれ、1つの新しい小集落を形成した。その4は、屋敷の変更が数多くなされており、流動的集落である。その5は、転入者の転入前の職業で農林業が比較的多く、全て漁業に転業し、転出者の多くが漁業出稼を経て県外の遠洋漁業関係へ進出している。その6は、新しい転入者を除いて、それぞれの間に血縁関係が生じ、大島帰住者と外部からの転入者との間に隔たりがなくなっている。その7は、地縁集団としてほぼ同数の3つの集団があり、古い集団には、集団内の分化がみられていたが、消滅の方向にある。
 この集落は、海岸低地に密集する「浜」の集落であり、背後にある灘は、山寄りに農家が点在する「あげ」の集落で、この対比が今後の課題である。また、大島の集落と同じ頃形成され、今日に至る出羽島の集落の形成過程を明らかにしなければならない。本稿は、牟岐沿岸島嶼における集落の形成過程の2稿目である。この調査に当り、牟岐町教育委員会、小島庄吉氏・住吉荘の奥様をはじめ古牟岐の多くの方々のご協力を得た。記してお礼にかえます。
 《注》
1)現在、この区分が一般的で、旧村域とは、中村、西牟岐の間、東牟岐、灘の間で一部変更がある。
2)墓地に寛延3年(1750)銘記の墓がある。
3)東に住む宮内氏(現、伝次郎)は、大島から帰住後、この農家の家敷跡に居を持った。
4)岸本豊「出羽島・大島への強制的移住と集落の形成」城北高等学校研究紀要第6号参照
5)1戸は、数年後、古牟岐へ再移住し合流。1戸は、やがて中村へ移り、昭和41年、由岐町へ移住。分家1戸。1戸は、ずっと東牟岐。分家1戸
6)分家が古牟岐に居住している。
7)残り2戸については、追跡できず不明であるが、D、G地区に各1戸多かった可能性が高い。
8)大島帰住者のうち、大島のコト地区にいた島崎氏(現、新太郎)が明治21年にこの地区に帰住したのが最初である。
9)追跡できた27戸についてであり、これ以外に少数とは思えるが、追跡できなかった可能性を残す。大島から東牟岐へ帰住し、数年後、古牟岐へ再移住した者は、大島を出身地とした。観音堂の歴代の堂守りは、特異な存在であるので除外した。
10)大島から直接古牟岐へ帰住したのは、14戸であり、2戸は未確認である。東牟岐を経て帰住した1戸を加え、確認できた13戸についてである。
11)追跡できた14戸についてである。
12)藩政期から居住していた農家であり、明治20年代に屯田兵として北海道へ移住した。この分家が後に帰り、東牟岐に居住している。

《参考文献》
海部郡(1876)「阿波国海部郡村誌」
海部郡(1927)「海部郡誌」
牟岐町(1976)「牟岐町誌」
高木秀樹(1967)「磐城の村落構成」地理学評論40−5
堤正信(1976)「周防大島における浜の集落の形成過程」地理学評論49−2


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