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牟岐町の南方海上4kmの出羽島は、周囲4kmの島で、大池は島の西南部の海岸にある(第1図)。この大池には「シラタマモ」という海藻が自生しており、わが国では残っている唯一の自生地として昭和47年3月16日に国の天然記念物に指定された(牟岐町教育委員会)。この池の形成過程は、まだ作業仮説としてしか述べることができないが、おそらく縄文時代早期〜前期の小海面上昇に関連していると考えられ、約7,000〜6,000年の古さをもつことになる。 すなわち、この池は谷の出口が、大きな海浜礫からなる堤でもってしきられてできており(第2図)、この礫堤のつみあげは現在の海の作用では説明しにくいためである。 海面の高さは、陸地面と海面との相対的位置関係によって決まるものであり、陸地面は地殻変動により、海水面は気候変化に対応して極地の氷が増減することによって、それぞれ独自に変動している。

 地殻変動については、昭和21年12月の南海地震の際に室戸岬付近では約1m余の隆起、牟岐付近では約20cmの沈下が起こり、それ以降はこれとは逆の向きのゆるやかな変動をしていることが水準測量によって明らかにされている。南海道地震クラスの大地震は684年・887年・1096年・1361年・1498年・1605年・1707年・1854年と前4回は約200年間隔、後半は約120年間隔で起きている。四国で水準測量が始まったのは1897年であり、地震を含む最近120年間の総計の地盤変動量はまだ観測し終わっていないわけであるが、これまでのペースで地盤運動がつづくなら地震一周期120年間に室戸岬は平均的に約2mm1年の割合いで隆起、宍喰付近では約0.3mm1年の割合いで沈降することになる(吉川・貝塚・太田,1964;吉川・1968)。 海面変動については、わが国各地で縄文時代早期末−前期初めに現海水準上+2〜3mの高海水準、縄文時代中期−弥生時代にかけての現海水準下(−1〜−2m?)の低海水準が推定されている。徳島市城山・眉山山麓の海食痕の高度は+2.5mである(城山の海食痕と同一水準で形成された洞穴には縄文時代後期に人が住みつき貝塚を残している)。鳴門市大谷には高さ海抜+4mの礫堤があり、徳島平野にある数列の旧浜堤の最奥側のものであるがこれには縄文時代中期になると陸化して人が住みつき貝塚を残している(阿子島、1972)。また室戸市街東方の、かつては浜堤背後の潟湖であったところにある砂泥層中の木片(高度4.5mおよび6m)はC14放射性同位元素による年代測定値がそれぞれ6,810年前・6,400年前であり、これまた縄文期海進に対応するものである。したがって室戸市付近は約6,600年間に5−2.5=2.5mの隆起をしたことになる。この平均の隆起速度は前記の最近120年間に予想される平均の隆起速度とは調和しない(須鎗・阿子島,1975)。先より両者はよく調和し、数万〜十数万年オーダーの古さをもつ海岸段丘面もまた調和して室戸岬で高く、北へ向うに従って低くなるとされていた(吉川・貝塚・太田,1964;吉川,1968;他)。室戸半島西岸で段丘面を追跡したところ、これとは相反する結果となり,(須鎗・阿子島・栗岡,1971)、室戸半島東岸で海食痕を追跡したところ、ほぼ水平に連らなることがわかった(吉野川G,1974:前々回の阿波学会「宍喰」調査)。室戸半島東岸の室戸岬−牟岐間では、海食痕は現海面上+2m前後のものと、+4〜5mのものとがある。
出羽島の地形・地質概況 出羽島の東の海崖でみられるように、島はよく固まった砂岩と泥岩との互層でできている。北半部が砂岩と泥岩とが半々の別合、(第1図のalt),南半部が砂岩がちの互層(SS)である。地層の一般走向はN30°W〜N60°W、傾斜は南落ち80°位が多い。固結度・地殻変動による乱れの程度から古第三紀層とみられる。島の南部は砂岩がち互層からできているためか、山も高く、海崖も切りたっている。これに対して島の北部は山も低く、やや入り組んだ山麓線となっている。 島の南東部(第1図T.D.)の海崖に海面上約10mの位置に厚さ1m以上の礫層がみられる。 島の北部の港をとりまいて沿岸州が発達している。 島の西側には大池のほかにもうひとつ、湾口を塞がれた池がある。西側の家並に沿って井戸があり、数年前まで良い水が出たとのことであるがこの池の水をくんでいたことになる。
大池の形成過程 大池と海とをしきっている礫堤の高度をハンドレベルで簡易測量すると第2図のようになる。すなわち最高部は海面上約5m(海面の補正をしていないが満潮位より約4m)ある。堤は径50cm〜1mの砂岩の大礫よりできている。頂部まで材木がうちあげられているから、暴風のときにはこの高さまで波が洗うのであろう。しかしこのとき径1mに達する礫を再移動させ、堤を築きなおすのであろうか。 頂部付近の大礫の上面・下面には蜂の巣状風化構造(Honeycomb
structure)がみられる(写真2)。これは俗に風蝕とされているが、木当はそうではなく、しぶきのかかるところで、乾湿風化によって形成されるらしい。風化構造ができるに必要な期間は少くとも数年は要するであろうから暴風のたびに礎が動かされるものなら、このような風化構造は破壊されて残りにくいはずである。
 すなわち、この礫堤がつみあげられ谷口が閉じられたのは現在より高水準である縄文時代早−前期の小海面上昇期と予想される。 なお先に記載した(吉野川G、1974)が、八坂八浜の福良では現在の浜堤は+2mでこれより高い+4mの段丘面(小谷の出口)がある。 出羽島・大島で海食痕をさがしたが、見つかっていない。礫堤を指標とすると本土と出羽島はほぼ同じような地殻変動をしていると予想される。 【付記】日和佐町奥潟川沿い沖積低地面下でみつかつたサンゴ化石 日和佐奥潟 地内の国道北側(南阿波サンライン入口の東方250m)の水田で改良のため−2mまでパワーシャベルを入れたところ、サンゴや多くの貝殻がでてきた。現在でも水田の土壌中に貝が混っているのがみられる。昭和48年に水田中からサンゴの出たという話があることを当時地質調査で日和佐に泊っていた京都大大学院生公文富士夫君が教えてくれた。水田の所有者の杉内知氏にたずねたところ幸い多くの貝化石を保管していて下さった。サンゴ化石は岩井進一郎氏が保管している。
 サンゴ化石:こかめのこきくめいし Goniastrea
pectinata [EHRENDERG] 写真3 大型の貝化石;いたやがい Pecten (Notovola) abhicons
[SCHR■TER] 二枚貝、13×15×3.5cm いせしらがい Anodontia Stearusiana
[OTAMA] 二枚貝、7.5×8cm うらかがみ Posinella penicillata
[REEVE] 6×6.5cm てんぐにし Hemifusus ternatanus
[GMECIN] 巻貝 かぶらがい Papa
rapa[LINNE] 巻貝、7.5×6.5cm 現在の気候に比べて著しく温暖であったことを示す化石はないようである。この地点の地盤高度は0mに近く、化石は−2mまでの間にあったことになる。周辺の山麓に海食痕はない。したがって、積極的に縄文期海進に関連づけることはできずより新しい時代のものかもしれない。
文献 阿子島功(1972):Honeycomb structure と海水準。徳島大学学芸紀要(社会科学)、v.21、p.9−21 中川衷三(1972):徳島県の地質(1/203徳島県地質図説明書);5、p.67−71 須鎗和已・阿子島功(1975):室戸半島の地殻変動について―地殼変動の不等速性について―、徳島大学教養部紀要(自然科学)、v.8、P.43−49 _・_・栗岡紀子(1971):室戸地域海岸段丘の再検討(第1報).徳島大学教養部紀要 (自然科学)、v.4、p.19−33 吉川虎雄(1969):西南日本外帯の地形と地震性地殼変動.第四紀研究、v.7、P.157−170 吉野川研究G(1965):宍喰町およびその周辺の構造地形発達史.阿波学会紀要、No.20、p.55−71 |