阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第23号

牟岐町の民具

民俗学班 中野幸一

I.はじめて
 a.民具とはなにか
 最近民具ということばをよく耳にするようになった。このことばは聞きなれたようで意外と不明瞭であり、ときには書画・骨董と同類に見るむきが多い。ひと頃“民芸”といったことばがもてはやされちょっと形の変ったものがあれば、民芸品と称され好事家の対象とされたものであるが、ちょうど民具もこうしたことばと同じように流行語として使用されているきらいがあり残念でならない。決して民具はこうしたものではない
 では、民具とは一体なにか端的にいえば、それは私達の父祖が直接日常生活の必要から製作し繰り返し使用し悪いところは改良を加えながら伝承されてきた最も身近かなくらしの道具でしかもそれらはまたどこにでもあり、誰もがそれを用いてくらしを支えて来たものである。極論すれば血と汗のにじんだ品々のことである。こういった意味から中には自然と美の備わったものも生まれてきた。
 ところが、民具の一部がマニアの手によってコレクトされ、それらが美術店や書画・骨董店にいかにも美術品であるかのように飾られ、びっくりするような値段を付けられているが、決してこうした美術・骨董のたぐいではないことを銘記しなければならない。
 b.民具はなぜたいせつか
 民具は私達の父祖が直接生活の中で使ってきた最も身近かな存在であるため、庶民の生活や伝承された技術その他あらゆるものがこの民具を分析することによって解明することのできる唯一の資料となるものである。このような考えから民具は「生活文化財」とも呼ばれるものである。ともあれ民具の重要性をはっきり規定したものは昭和25年に制定された文化財保護法であり、次のごとくうたわれている「衣・食・住・生業・信仰・年中行事等に関する風俗習慣および、これに用いられる衣服・器具・家屋その他の物件でわが国民の生活の推移の理解のために欠くことのできないもの」となっており、このうちの物件が主たる対象となるものである。
 c.どうすればよいのか
 民具はわれわれの身辺や周囲にあり身近かで親しみがありくらしに深く結びつき地域の伝統に根ざしているだけに、急激な社会変動をうけやすい。家が新築されると全滅に瀕してしまうし、また、新しい用具が作られると惜しげもなく捨て去られてしまう運命にある。所有者自体がその価値を充分に自覚してその保管に努めな
ければまたたくまに散逸してしまう宿命をもっている。
 しかし、庶民すべてがこれらを保管するためにはぼう大な収蔵庫を必要とする。そこで部落単位として或いは行政地区に分けてセレクトを行ない、保管整理することを結論として提唱したい。いわゆる、「資料館」建設の議である。


II 民具調査の分野と方法
 民具調査の分野を図2のように牟岐町全域を(1)山間部(河内・橘・辺川)、(2)平地部(中村・川長)、(3)漁村部(内妻・牟岐浦・灘)の三地域に大別し、そこにある民具類を集中的に採録した。調査の方法も最も基本的な聞きとり調査と観察に主眼を置いて実施した。しかし、調査の対象とした民具の類形がすくないので、地域の特性をこれによってはっきりつかむことができず、その結論は今後の研究に俟ちたい。


III.民具・種類
 民具の整理については、各種の方法が提唱され実施されているが、今回の調査ではまだ対象とすべき数がすくないために一応民具のもっている古名称やこれにまつわる伝承、逸話や推移、変せんの類について遂次説明しよう。
1.オイゴ(負子)
 背負い運搬具には「背負いかご」と写真のような「背負い梯子」の両種がある。図のものは後者に属し、主として重量のあるものの運搬に使用された。全国的に分布し機能は略々同じであるが、呼び名はさまざまである。たとえば九州地方ではカルイ、神山ではオイダイ、地元の牟岐ではこれをオイゴと呼んでいる。ただし、この付近での分布は極めて稀で使用頻度はすくない。採録したこのオイゴは子ども用として特別に製作された由。
ところで、このオイゴの形態のうちとくに注目すべきところは爪木の有無で、有爪形は中国・四国・九州地方一帯に分布し、これより東北部においては無爪形が多い。そして有爪形オイゴは朝鮮のチゲと呼ばれる運搬具の影響を受けていると考えられている。図3


2.トビ(鳶)
 主に冬の間に雑木林で伐り倒されたボサ(薪のこと)はカルコやキンマで川の近くの土場へ運ばれ、数ケ月をそこで乾燥させたあと頃を見はからって「川流し」の方法で川尻まで流下さす。このときに使われるトビでナガシトビとも呼んでいる。図Bは図Aに柄を復元したものである。頭は野鍛治によって作らせ、柄はサカ木の硬木を6〜8尺程度の長さに切って自製したそうであった。川流しとはどんなことか聞き取りを述べよう。
 この川流しは雨の多い春から夏に亘って行なわれ、その日は部落総出で20人〜50人が参加し、婦女子は茶炊き弁当運び等行なった。川尻では川に丸太を取りつけ浮かした綱を渡して流れてくるボサをくい止めた。時には水量が多すぎてボサが海へ流失した事もたびた
びあったそうである。一日の流送量は千から二千尋(ひろ)である。現在はもうこうしたことはなく語り草となった。図4


3.クラ(鞍)
 馬の背にとりつけて荷物の運搬をするときに用いるもので、これに荷を負わせる鞍と車などを引かせる鞍の二つがある。図のものは前者の鞍である。前後に鞍骨を二組作り、数本の横木で結合する。材料は古くはタブの木であった。また肌ざわりをよくするために内側に縄で編んだ袋をつけ、この中に藁くずなどを充填してある。横木の中央部から腹帯を延ばし、しっかりと馬体に個定する。鞍の上にヒッカケと呼ぶ木枠をつけそれに荷縄を通して使うこともある。これに肥桶・炭俵などをたて位置に負わせて運搬するものである。
 なお図Bのドーナツ形のものは馬の鈴である。これを数個鞍にぶら下げて置くと動くたびにチリンチリンと心地よい音がして仕事がはかどるそうである。いまのBG・M(バックグランド・ミュージック)の類であろう。また図の左上のものは現在の水筒、仕事のときにはいつも携行した由。もっとも当時はこれをスイヅツと呼び、ゆざまし(煮沸水)か茶を入れて用いた、アカガネの打ち出しである。図5


4.フゴ・モッコ(畚・もっこ)
 フゴ・モッコは共に農作業の運搬用具である。大抵の場合二つで一組となり、これをオコオ(天秤棒のこと)で前後につり下げて担ぐものである。両者共自家製で農閑期を利用して編む。図Aはフゴを編む用具でこれをコマス(アミ台)と呼んでいる。操作は二個の穴のあいた脚に横木(長い棒)を差しこみ、これにコマシ(図の箱に入った石)に細縄を巻きつけたものを等間隔に並べ、ワラを数本置いてはコマシを交互に振り分けてスダレのように編み、そのあと端を袋状にかがって図Cのようなフゴができる。
 モッコもまた同じように枠木にシュロ縄を配置して編み上げる図B。もうこうした細工のできる人も数えるほどしかない。図6


5.クサキリ(草切リ)
 クサキリは図のように長い刃物(鉄打ち)を台に装着し、これに木製の押し切り柄をつけたもので主として藁や草などを適当な長さに切る道具である。刃部を除きすべて自製、なかなか機能的なおもしろい形をした民具の一種である。使用法は片手でワラを握り、他手で柄を押し下げ切るものである。十分注意して行なわないと指を切断する危険がある。なおこの名称はところによってハゴキリと呼んでいる場合もあった。切れ味が悪くなると取りはずしてト石で研磨する。図7


6.コキバシ(扱箸)
 稲扱用具(いねこき)である。使用するときは台木に脚をつけ、ひとにぎりの稲を両手で持ってコキバシの上からさしこみ手前に引くと、鉄製の歯にモミだけが引っ掛りしごかれる。コキバシはまたの名を「後家倒し」とも呼ばれ、このコキバシが出現した元禄年間では画期的な新兵器であった。それまでは一つ一つ竹クダを使って稲こきをしていた。
 なお、このコキバシには米用と麦用の両種があり、一般的にみて麦用は鉄歯の間隔が広い。この頃では物置の片隅などにそのさびた歯を横たえている。そこにはかつての栄光の姿はなく、開発の陰に滅びゆく民具の宿命を見る思いがする。図8


7.チャン
 イノシシ・ウサギ・イヌ・イタチ・カモ等の動物類を捕獲する用具で普通一般的には虎挟と呼んでいるものである。この付近ではこれをチャンと呼ぶ。そのわけを聞くとチャンと引っかかってチューと泣くからチャンチューだとのこと。なおこれには餌付けして動物を引き寄せ捕獲するものと、動物の通り道に設けて踏落して捕るものの両種がある。図は前者の餌引虎挟である。使用法はまず杭を地中に打ち込み、これに鎖で虎挟をつなぎそのあとスプリングを押し開け、掛け金を止め鉄板の上に餌を置く。これをたべようと口を沿えると、止め金がはずれスプリングが作用して歯形がかみつく仕掛けとなっている。図9


8.ハコメガネ・モリ(箱眼鏡・銛)
 木箱の一側にガラスを嵌め込んだもので、これを水中に差し込み上からのぞくとはっきり見えるもので、魚獲や海燥類の採取には欠かせない道具の一つである。普通ハコメガネまたはハコガン等と呼んでいる。そう古い民具ではないが、ガラス類が大衆化した明治末か大正初期頃からのものであろう。製作上の要点としては箱を水密に作ることがコツ。若し水が漏るようなものは使いものにならない。
 モリも大体普遍的なもので特異性はない。図10


9.ハリヅツ(針筒)
 漁撈作業の中で網の使用は極めて多い。最近の網類は殆んどが化学繊維のためずいぶん強くなったが、それ以前のものはちょっとした仕事で破れ、補修作業は大きなウエイトを占めていた。このときに使うのがこのハリヅツ。大小さまざまのハリを竹製の筒に収納し、これをちょっと腰にはざけて仕事場へ向かえる。実に形態もユニークでしかもコンパクトにデザインされた用具の一つである。図11


10.ドンザ
 海で働く人々の当時の作業衣であった。木綿の綿入れの着物を丈夫にするために糸で細かくていねいに刺したもので根気のいる手仕事の作品である。図はこの刺しの作業以前のいわゆる綿入れの着物で、その上に刺しのサンプルを重ねたものである。取材中ドンザの製品はすでに姿を消してしまっていた。これらドンザの刺しのパターンについては東北地方のコギン(庄内・津軽地方)を挙げることができる。この地においては早くからこの重要性を認識し収集をはじめ学問的な体系づけが既になされている。遺憾ながら地元においてはこうした識者の不在を残念に思う。今後の努力を期待したい。図12


11.キヌタヅチ(砧槌)
 砧打つ我に聞かせよ坊が妻芭蕉
 キヌタは平安の昔から用いられた民具である。ゴワゴワとした硬い麻や木綿の布はそのままでは縫うにも着るにも不都合であったので、砧で打って柔らかくしたものである。図はキヌタの主役を果たすツチ、カシやケヤキなどの硬木を用い、片手で扱えるように細い取っ手を削り出し、重さも手頃なものとなっている。ウチバンもまたツチと同じように硬木を選び、その木口(こぐち)を使うために輪切りにして用いる。衣類はすべて店でまかない、家庭で織りの仕事などなくなった現在、この砧を打つことはもう過去の語り草となってしまった。図13


12.アイロン
 現在アイロンと言えば、電灯線にコードを継いでスイッチ一つで温度の調節もOKというのが常識であるが、それ以前には図のようなアイロンや、火ノシによって衣類のシワを伸ばしたり、折り目をつけたりしたものである。このアイロンは取っ手の下側についている蓋をあけ中へ炭火を入れて機能したものである。当然温度の調節にもさまざまな苦労を重ねたものである。図14


13.サワチ(皿鉢)
 有名な皿鉢料理に使う皿である。この付近では祭・正月その他ハレの日には親類縁者集うて宴を催すことが多い。こんなときこの皿にすし・さしみ(生作り)・ようかん・その他諸々の品を盛り合わせ、これを囲んで酒宴をはる他の地方ではちょっと見られない風情である。唯ここで違うところは普通の皿鉢には花・鳥・風・月の類が多いのであるが、これには地図が描かれているところに注目されたい。
 日木地図をデフォルメして当時の国別名がその中に記されている。しかも伝統的な日本地図いわゆる“行基図”と呼ばれる様式のものが用いられている。それは俵を重ねるように諸国を配列してある。従って全体の格好は現実とは異っていびつな姿を呈しているが、得難いモチーフの皿である。図15


14.ハコゼン(箱膳)
 箱膳には形態的に引き出しのついたものとこれの全然ないものの両種がある。共に薄い漆塗りに仕上げ、がっぷりぶたを裏返し食器を並べると即座にお膳になる一人用のさし物膳である。
 箱膳は明治後期にちゃぶ台が普及するまで町家で膿家でも日常のお膳として全国的に用いられた。ところによってはゼンバコ・オゼンバコ等の名で呼ばれている。箱膳に入れる食器は忙しいときにはたいてい洗わないでしまったので衛生的とはいえないが、各自がすわったままで食器の始末ができる軽便さは重宝がられたようである。民俗学辞典によると食器は1日・15日・28日だけ洗う地方もあるという。このような箱膳の使い方は当時としてはごく普通であったようである。図16


15.テツナベ・ホウロク・アブリコ(鉄鍋・焙烙)
 従来日本人は米を主食にしてきたといわれるが、大多数の常民にはそれは該当しないことで、米のメシを食べるのは一年のうち数えるほどしかなかった。人々はヒエメシや麦メシ・雑炊などの雑穀を常食としたのである。したがって、この鉄鍋図Aはなくてはならない民具の一つであった。重くて扱いにくいが熱の保有性にすぐれ長時間の煮炊きに向いており、ちょうど米に比べ煮えにくい雑穀の煮炊きにもってこいの品物であった。火を絶やすことのないイロリに自在鍋でつるしグツグツと長い間煮続る等、調理に重宝なものであった。
 現在のような白米の粒食に至るには長い歴史の曲折があり、この米穀への推移が鉄鍋からハガマヘの使用を促したと思われる。
 ホウロク図Bは古くは素焼のものであったが図のような鉄製も用いられた。雑穀を炒めるのに使用、鉄鍋同様生活に欠かせないもの。
 アブリコ図Cは餅や魚を焼く時に用いたもので、形態的にこの地方独特のものでなかろうか。


16.ビョウニンヨウグ(病人用具)
 当時病臥中の人の使用した道具類で、治療法についても漢法医学が中心で煎薬が最大の良薬として用いられた時代道具にしても幼稚であった。まず図A排泄物処理用としてのオマル(桶木製)、シピン(焼きもの)洗面・手洗い(カナダライ・アカガネ製)。また図Bのような土製(素焼)の漢法薬の煮沸用としての土びんなどが用いられた。こうした道具を通しても当時の病人の様態が想像される。図18


17.カゴベントウ(籠弁当)
 非常に精巧に作られた外観をもつ弁当箱の一種で図のように竹を細く割り、これで籠を編み両者をちょうつがいでドッキングし自由に開閉できる機構。側面には止め金と把手がつけられている。この寵の中に金属製(アカガネ)の容器を納め、大きいものへは主食を中・小型には菜の類を収納し、これを重ね合わせて籠の中にスッポリ入れ携行するものである。
 ところで弁当箱には形態・用途・使用者の地位などいろんなエレメントによって大きく異なる。例えばメンパやモッソの類は山や畑に出て作業をするときに、このカゴベントウはやはり遠くへ旅をするとき、あるいはハレの日の遊山に携行するもので実用性よりか、むしろ装飾的要素の多分に含まれたものといえよう。図19


18.サゲジュウ(提げ重)
 さげ重つまり手提げの重箱である。極論じみるが、一種の弁当箱と見て差し支えない。ただし、これは祭礼・正月・年中行事などハレの時に使用するものである。図のさげ重は直径15センチ程もある孟宗竹からくり抜いてこしらえた相当高度の技術を駆使した作品である。ちょっと説明するとこの重箱は三つの部分からなり、いちばん下の箱が酒ダル、次の二つにはそれぞれ煮しめ・すし・魚などを入れるようになっている。構造は竹を輪切りにしたあと底板を取りつけ、その上からウルシで塗り固めてある。これを次々に重ね合わせ最後に両側の腕木の穴に把手を差し込むとちょうど一本の竹のようになる。外側は孟宗竹独特の膚が連続しその感触やテクスチュアーは他のものでは得られない雅味を示している。
 むかしの人々は遊山・観劇・野芝居などに好んでこれらを携行し、隣人たちと同座しながら食べかつ飲みうたい踊ったものである。図20


19.チャツボ(茶壼)
 天下様であった秀吉は高麗の井戸の名碗とともに、名物の茶壷を大茶会にはべらせたという。茶壷といえば一般に焼きものでこの茶壷もその一種である。機能性のほかに造形的な魅力をこの壷に感ずる。やはり歴史の重みと茶壷として或は生活文化財として一層その輝きを増すためであろう。図21


20.トクリ(徳利)
 この種の容器は古くからあったが、徳利の呼び名は1,500年代室町時代以降とされている。人気のあったのはやはり備前徳利であろう。各家庭で散見される多くのものがこの種のものである。また地元の大谷焼なども相当数の需要があった。図のように屋号やなまえを入れて使用した。また大きなものには酢徳利・茶徳利・しょうゆ徳利などあるが、大衆化された呼び名はやはり酒徳利が多く、五合から一升用の酒の小買いに用いられたり、酒のカン(燗)に使われた(これを燗徳利という)。江戸時代にはこれと並んで銚子(ちょうし)があった。造形的にユニークで現代デザインによくマッチするのでインテリア・アクセサリーとして関心をもたれている。図22


21.トビツ(斗櫃)
 日本人の主食である米・麦・稗・粟その他雑穀を収納する容器である。図のようにこの斗櫃はスギの3センチ板を三枚に組み、上端を一部妻側に角として延ばし、これに把手の板をつけてある。蓋は半分を箱に固定し、残りをケンドン式に取りはずせる機構としたものである。実に堅牢そのものといった形をしている。
 斗櫃はまた単にヒツと呼ばれるほか、民俗事典にはゲブツ・ゲビツ・コメガラトなど地方によって異なった名称のあることを述べている。古来より家族制度の中では斗櫃の管理は主婦の権利であり、勝手に他の者には自由にさせなかった。いわゆる、斗櫃を預ることは主婦権の象徴でもあった。図23


22.メシフゴ(飯畚)
 藁細工の飯櫃入れで、現在流行のジャーつまり保温器といえるものである。この容器――ふごの中へめしびつを入れておけばぬくもりが逃げないというしくみ、もっとも天然の保温器であるためジャーのように一定温度を保つというわけにはいかないがそれでも効用があったものとみえて、広く使用され全国的に分布しており呼び名も、鳥取ではネコビツ九州地方ではメシヌクメ等と呼んでいるところもある。このふごは大抵の家で自製する。材料として藁・シュロ等を使用、図のようにシュロ縄で藁の小束を締めつけ、蛇がドクロを巻くように円筒形に作り、蓋をがっぷりかぶせるようになっている。図24


23.オケ(桶)
 最近はプラスチック製のものに殆んど変ってしまったが、昔ながらの木の香り、肌ざわりなど他の素材では味わえない特徴をもっている。ところで、桶の系譜をたどると室町末期に刊行された“職人づくし絵”には既に桶職が描かれているので、相当古くから木を加工しての桶技術が発達していたに違いない。何れにしてもこの枝術の開発によって容器としての桶の展望は開け、相当大きなものまで作られるようになった。われわれのくらしの周囲を見ても、たくさん桶のたぐいが使われていた。果たしてこうした技術以前の容器はどうであったか、それは木をクリ抜いて作られたものである(木地鉢のたぐい)。さて、図の桶は採録したものの中の一部であるが、図A飯櫃・図B片手桶、またはミソコダシ、図Cはハンボウ・ハンギリ、図D水桶(墓参りに使用する桶でよこに竹筒のあるのはこれに線香を差す)。このほか桶には多くの種類がある。類別する表1のごとくである。図25


24.トウカヨウグ(灯火用具)
 行灯(図A)は油脂を燃してともす灯火用具である。内部に油皿を置き、灯芯を入れて点火する。風のために火が消えたり、揺れたりするのを防ぐため油皿の周りに火袋(これに和紙を貼る)を設ける。石油ランプの普及するまで室内の重要な灯火具として広く使用された。灯芯はイ草の芯を抜き出して用いた。台の下端には小引き出しを設け付け木や火打石ときには小銭の類をここに入れた。また形態上こうした角型のほかに円筒形のものもある。弓張提灯(図B)は竹の弾力を利用して提灯を上下に張って固定したものである。ぶらづいたり、火が消えたりしないように利用され、御用役人や火消人足、民間でも婚礼などのとき提灯の火が消えることを忌む風習があるため、この提灯を儀式用に使用した。そのため家紋(図のものはたちばな)などを入れ、二個をワン・セットにして使用された。図Cは手提ランプ明治中期以降、提灯に代って使用されるようになった。


25.ダンボウキグ(暖房器具)
 現在一般的に使用されている電気コタツ以前にはすべてこれらのコタツが使用され、冬の寒さをしのいだ。ところで「炬燵」という字はやたらとむずかしい「火燵」とも書く。おそらく五山の禅僧が発明してあてはめたものであろう。こたつが当時普及した最大の要因は、従来の消炭から堅炭使用への変化であった。こたつはいわば木炭文化の落し子である。しかし熱源が炭火であるため火災の危険があった。そこで考えられたのが図Aのコタツで、どちらへヒックリかえっても火桶はいつも水平に保たれるといった当時としてはヱニークなもの。図Cはヤグラコタツ、図Dは焼きもの(川島焼)のコタツである。
 足をのばすと、暖いぬくもりが膚にやさしい湯タンポ(図B)はもっぱら寝床用の保温用具であった。中に熱湯を入れ外側を布切れでくるんで布団の中に入れる。
 湯タンポの語源は唐音の湯婆から出たことばといわれている「和漢三才図会」(正徳二年)は衾中で脚腰を暖めるので「婆」の名があると記してあり暑い夏には「竹夫人」と呼ばれる抱き籠(だきかご)で涼をとったという。おそらく湯タンポはこの竹夫人とともに「寝間の伽をする女」といった発想で命名されたものであろう。現在では湯をわかす手間や注ぐ煩わしさのない電気製品が普及したので、すっかりお払い箱になってしまった。図27


26.ハサミバコ(挾箱)
 古くは藩主や上級武士の旅に欠かせない道具の一つ。大名行列では槍と挾箱は花形役者であった。さて、この挟箱も時代が下り江戸も終りに近づくと次第に庶民にも必須のものとなり、婚礼はもちろんのこと、ちょっとした町家の主人なら年始回りには麻かみしもで挟箱を持ち1人を供にしたといわれている。吉凶両用、葬式にも挟箱持ちが加わった。
 これは図のように両側に取りつけられたカンヌキに長い担ぎ俸を差し込み、前に大きく突き出してバランスをとる。挟箱の中身は着替え・雨具・ぞうり・弁当といった何のきまりもないものである。町人の年始回りには年玉という名目で白扇一木ずつ入れるといったものである。図28


27.シンゲンブクロ・カバン(信玄袋・鞄)
 図のように小判形の底板(厚紙・板の類)に厚手の布をつけたで口には太手の真田(サナダ)紐を通し引き絞るようになっている。主として旅行用として衣類などを収納、ヒョッコリと肩に担いで持ち運んだ。明治時代手提袋として、書生間に人気があり、一般にも普及した。底が平らなために機能的であった。また、このほか袋の底に籠をつけたものを「籠信玄」と呼んだ。これら信玄袋の起源や呼び名についてははっきりしないが、昔武士が携行した宿直袋を室町時代この名で呼んでいた。なお、辞典“言海”には信玄袋は甲斐の人の案と記されている。いずれにしてもトランク類の出現によってこの信玄袋は姿を消した。図Bもカバンの一種時代はうんと下って明治後期・大正初期頃のもの。図29


28.ソロバン(算盤)
 「金・銀はもうけがたくてへりやすし。朝名十露盤(そろばん)に油断することなき」と西鶴は“日本永代蔵”で言っている。
 そろばんは古くから便利な計算用具として人々の生活に溶けこんでいたが、最近では電子計算器にその席をゆずりつつある。
 ところで最も原始的なそろばんは三、四千年も昔既にメソポタミアで使われていたとい
う。わが国へは室町時代中国から貿易商人によってもたらされたものである。そのご玉の数が次第にへり、現在の四つ玉そろばんへと変せんした。さて、図のそろばんはちょっと現在のものと違って上段に玉が二つある。したがって、値い方も今のそろばんとは趣きが異なっている。(説明したいが紙数がないので割愛する)、所有者の話しではこれを横に二つ並べ年貢の取り立てに用いられたそうである。小作人が多数俵をかついで蔵入れをしている様子がこの民具を通して去来する。図30


29.チカライシ(力石)
 現在ではテレビがあり、映画があり、その他諸々の娯楽機関が完備して遊びには事欠かないが、当時としては至極さびしく余暇をもてあましていた。そこで、祭りや正月その他年中行事などのハレの時には青年達が社や寺に集まって力自慢をする慣習があった。その
ときに使われたのがこの球形の石、名づけて“チカラ石”と呼び大小さまざまなものがあった。これを持ち上げたり、かついで運搬したりしてその力を競いあった。
 普通はこれに奉納者名や重量などを彫りこんであるが、これにはない。現在でも正月に餅の持運び競争などが行なわれるのはこうしたしきたりの伝承であろう。図31


IV おわりに
 阿波学会の民俗学班の一員としてこの地区の民具について調査に当りましたが、浅学非才のため十分なことができず、断片的な報告に終り恐縮しております。
 今後、機会を得てこの期の成果を土台としてよりまとまったものとしたいと念願しております。なお、郷土資料館の建設が進みつつあるやに聞きました。是非実現の程を祈っております。
 最後になりましたが、調査に当っては地元の町役場や教育委員会その他多数の方々の並々ならぬ暖かいご協力やご指導をいただきありがとうございました。わすれることはできません。ここにご芳名を記し謝意を表します。
 ここにご芳名を記し謝意を表します。
(敬称略・順不同)
○山西彦太郎 ○川添賢治郎 ○西沢善吉 ○宮本数一
〇森倉太郎(茂) ○古谷功 ○大西貞治 ○谷典博
○川添梅一 ○川島幸子 ○田中光男 ○平野市蔵
○原田潔 ○小林 滋
《終》


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